ジンギスカンは義経であった! | 中杉 弘の徒然日記

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ジンギスカンは義経であった!

 

 田中英道先生は、東北大学の名誉教授です。この先生が「ジンギスカンは義経である」と、ハッキリと言われています。田中先生は文献を研究されているので、いろんなことをよく知っています。

 まず、「ジンギスカンの定まった名前はない」と言っています。「ジンギスカンの幼少の名前は、テムジンだ」という人もいますが、ジンギスカンの幼少のころの名前はわかっていません。両親ともにわかっていません。

 後世の人が「テムジン」だと言っているのです。テムジンは、「天神」と書くのです。「すべて違う」と田中先生がはっきりと言っています。そこで僕は自信をもって、「源義経は、ジンギスカンである」と、はっきりと言いましょう。

 もう一度、ここでジンギスカンについて述べてみたいと思います。まず、伝わっている名前は、「ジンギスカン(成吉思汗)」→「ゲンギケイ(源義経)」です。これは、まずシーボルトが疑問に思ったのです。

 「何故、モンゴルの草原から、あんな偉大な人物が生まれたのか? 考えられない」というのです。モンゴル人は、草原の民ですから字もなかったのです。字もなければ、読み書きもできません。20~30人で暮らしていた遊牧民族です。

 それが突然、モンゴル人を統率して、中国大陸を征服したのです。ジンギスカンは、「お父さんは誰ですか?」と聞かれても答えなかったのです。お母さんもはっきりと答えていないので、よくわかっていません。

わかることは、何かというと、ジンギスカンの軍隊は、九流の白旗です。それは、わかっているのです。九本の白旗とは、源氏の旗なのです。

 だから、ジンギスカンは白旗だったのです。源氏は白旗、平氏は赤旗です。なるほど、ここで臭くなってきました。ジンギスカンの親はわかりません。あとからつくった話です。

 今度は、源義経の生い立ちを見てみると、源義朝の九男として生まれたのです。父の義朝が殺されて、常盤御前は平家の平清盛の妾になったのです。その子供は、死刑を免れて鞍馬寺に預けられたのです。

 そこで、義経は兵法を学びます。鎌倉の兄の呼びかけにより平家打倒の旗揚げをして、大功績をあげます。平家は滅びて、鎌倉に凱旋すると、兄の頼朝が「鎌倉に入るな」と嫌がらせをしたのです。

 それから、義経の逃亡生活が始まります。奥州の平泉に逃げて、藤原氏にかくまわれたのです。いつまでも藤原氏にかくまわれているわけにはいきません。「義経は北海道に逃げた」と言われています。

 北海道では、「判官(ほうがん)さま」と言われたのです。なぜでしょうか? 義経は、九郎判官(くろう ほうがん)です。それが本当の名前です。北海道を回ってアイヌ人を兵隊にしたというのです。

 「北海道のアイヌ人を連れてきて、本土をせめて、兄である頼朝と対決しようとしたのではないか?」という説もあります。

 兄の頼朝は、4年間にわたって、奥州の平泉にいる義経に、「鎌倉に出てこい」と書状を送ったのです。義経は鎌倉には、いかなかったのです。行ったら、殺されるとわかっていたのです。

 すると兄の頼朝は、天皇の名前まで使って、おびき出したのです。天皇からの命令書を送ったのです。それでも、義経はいかなかったのです。あまりにもしつこいので、藤原氏ももめたのです。ところが、父の清衡は「絶対に鎌倉に行ってはいけない」と言ったのです。

 当主の藤原泰衡が「私が戦争をしかけましょう」と言ったのです。義経は戦争で戦死したのです。戦死したのは、身代わりの杉目太郎だったのです。ここで義経が死んだことにして、杉目太郎が切腹して死んだのです。

 それは、見せかけの戦争であり、義経は奥州から太平洋側のルートを渡り、北海道に逃げたというのです。義経は、お世話になった家に品々を置いていったというのです。これは、おかしな話です。

 逃げる人間が「これは私の脇差です」「これは弁慶のつづらです」と言って、置いていくわけがありません。それをたどると、義経が太平洋側を逃げたルートがわかるのです。そんなはずは絶対にありません。

 義経はもう死んだことにしたいのです。「逃げたとしても、北海道だな。北海道までは追ってこないだろう」と思ったのです。北海道では、アイヌ人の兵隊を募っていたという話です。本当の目的は違います。

藤原氏の親戚には、十三湊の安東水軍がいたのです。安東水軍は、200艘の船をもっていて、世界中で貿易をしていたのです。当然、大陸の情報ももっていたのです。

 黒竜江省から川を上っていくと、モンゴル平原があるとわかっていたのです。そこには、モンゴル人が住んでいて、遊牧民族ですから20~30人で住んでいたのです。「そこを制圧するのには、何人くらいの人数が必要なのか?」ということを考えたのでしょう。

 「200人くらいいればよいのだ」と考えたのです。義経は平泉で焼け死んだことにして、大陸に渡ったのです。これが真相だと思います。

 それを裏付けするための笹竜胆のマークが、モンゴルに残っているのです。義経の紋所は、笹竜胆です。神社もあったのです。

 いきなりジンギスカンがモンゴル平原から出てくるのです。「どこから出てきたのか?」というと、「天から出てきたのだ」というのです。それが、天神様です。「お前の部族は何だ?」と聞かれると「そんなものはありません。僕は天から来たのだ」と言ったのです。

 モンゴル人は、クリルタイという会合をモンゴル平原で開いたのです。蒙古は20人くらいで住んでいるのですが、クリルタイの会合の時には、全国から集まるので、何万人も集まった大集会をやったのです。

 それもジンギスカンが初めてやったのかもしれません。そこで相撲を教えたのです。義経ならば、「大陸を征服してやろう」と考えたのでしょう。なぜかというと、義経は、「九郎判官(くろう ほうがん)」ですから、法律家です。政治もわかっています。

 それで、戦の名人です。鵯越の逆落とし、平氏と源氏の海戦でも勝っているのです。義経は連戦連勝の名将です。

 義経は幼少のころ、鞍馬寺に預けられて、本を読んで兵法の研究もしてきたのです。学問もちゃんとあります。そのような人間が大陸へ渡ったら、赤子の手をひねるようなものです。

 31歳のころです。日本の人生は終わったのです。これからは、「大陸を征服する」と決めたのです。ジンギスカンの租税の取り方は、「敵を落としたら、お前に2割やる」と言ったのです。2割8分というのは、源氏のやり方と同じです。

 みんな張り切って、戦をしたのです。だから、ジンギスカンの軍隊は、強かったのです。やたらと人殺しをしたわけではありません。降伏した者は許して、逆らうものは徹底的に皆殺しです。それは、武将の定めです。

ジンギスカンは、すごい戦法を用いて、あっという間にユーラシア大陸の征服をしたのです。それが源義経です。清和源氏です。満州にも清和源氏があります。それが清朝です。

 ジンギスカンは、貨幣をつくり、文字をつくり、様々なよいことをやったのです。貨幣など野蛮人は知りません。それは、文明人でなければできません。源義経がユーラシア大陸を征服したのです。

日本に来たジンギスカンの子孫は六代目です。六代目になると「お前の母国は日本だ」くらいは知っていたのかもしれません。クビライの本当の狙いは、日本の王になることだったのです。そのために蒙古襲来を実行したのです。日本に土着する目的で二度目は、鍋窯までもってきたのです。そのようなことです。

歴史常識論から見れば、義経は戦争の名人です。戦争の名人である義経が、数百名の部下を連れていけば中国大陸など、あっと言う間に征服できます。

 これが、伝説のプレスター・ジョンの伝説になったのです。西洋社会では、「キリスト教徒が助けにきてくれる」という伝説があるのです。

そのうち、義経の墓も発見されるでしょう。発掘されれば、日本の武将のものが出てくるのに違いありません。田中英道先生もよいところに目をつけました。以上です!

 

 

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