宗教とお金と権力 ② | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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佛光寺(ぶっこうじ)は、京都市下京区高倉通仏光寺下ル新開町にある真宗佛光寺派本山寺院山号は渋谷山(汁谷山)。本尊阿弥陀如来。京都渋谷(しぶたに)に寺基があった頃(1300年代後半 - 1400年代前半)は、同じ浄土真宗本願寺を遥かにしのぐ勢力があった。「仏光寺」と新字体で表記されることもあるが、正式表記は「佛光寺」である。

 

 

宗教とお金と権力 ②

 

天皇から認められたお寺は、天皇がお金を出したのです。それで全国に国分寺ができたのです。最澄も、空海も天皇に認められたのです。天皇から、「中国から仏教をもってきてご苦労さん。では、お寺を建ててあげましょう」と言われるのです。天皇に認められると国師になるのです。国師は、天皇よりも偉いのです。

 天皇が認めた国師になると、「国師には、お寺を建ててあげます」と言われるのです。図面を引いて、「これだけお金を出してください」と言うと、天皇がお金を出してくれるので、寺院が建つのです。

 日本の中世に興ってきたのが、念仏宗です。今では天皇のものですが、当時は民衆の宗教だったのです。念仏宗を始めたのは、法然です。法然は、比叡山延暦寺で12年間、山にこもって修行したのです。

 ところが、法然には悩みがあったのです。いくら修行しても、「私から煩悩が消えない」と言ったのです。「煩悩とは何か?」というと、「女が欲しい」ということです。「私は12年間の修行をしたけれども、どうしても女が欲しい。私は汚れた人間である」と思ったのです。

 それで下山したのです。法然は仏道修行を退転したのですから、髪の毛もはやしたのです。そして、妻を娶ったのです。国家が建立した比叡山延暦寺にいればご飯は食べられたのですが、退転してしまったのでお金に困ってしまったのです。「宗教を広めなければいけない」と思い民衆に説いたのです。

法然は、「私は、比叡山延暦寺で12年間の籠山行をやってきましたが、女が欲しいという煩悩が消えません。だから、比叡山を下山しました。どうしたら、私は救われるのかということを経典で探しました。ここに阿弥陀仏の教えがありました。阿弥陀仏は、西方極楽浄土にいて、悪人を救ってくれるというのです。善良な人は、自分で修行できます。私のように女が欲しくて退転した人間でも阿弥陀仏は救いますと言っています。バカで、愚かで、欲望の深い、哀れな人間を阿弥陀仏は救うのです。だから、私は阿弥陀仏を信仰します」と言ったのです。

 すると、民衆の一人が「俺も阿弥陀様にすがるべや。俺は戦争で人を殺してきたからな。」と言うのです。人殺しは仏教では一番やってはいけないことです。「人殺しをして俺は汚れているけれども、俺は救われるのか?」と聞いたのです。

 法然は「大丈夫です。あなたは救われますよ。阿弥陀仏は「悪い人間ほど救う」と言っているのです。悪い人間は誰も救いません。良い人間は自然に救われていくのです。心配はいりません。あなたも極楽へ逝けるのですよ」と言いうと、「俺も極楽へ逝けるのか?」、法然「そうです。煩悩が深い人間ほど極楽へ逝けるのだ」と言ったのです。だから、悪人が集まってきたのです。

 「俺は隣のカカアとやったけれども、極楽へ逝けるのか?」と言うと、法然は「極楽へ逝けるから、阿弥陀様を信じていきましょう」と言ったのです。「それはいい教えだな。何をやってもいいのか? では、酒も飲むぞ、博打もするぞ、女も犯すぞ、人殺しもするぞ!」と言ったのです。

 法然は、「阿弥陀様を信じれば何をやってもいいのだよ」と言ったのです。民衆は、「これは、いい教えだ」と思ったのです。燎原の火の如く広まったのです。こんなよい教えはありません。

 念仏には国家の保護はありません。こんなに大きくなるとは、思わなかったけれども、念仏は広まったのです。

 そこで、念仏の会合では和尚さんが説法をする前に、博打をうったのです。「丁だ!」「半だ!」「酒だ!」とやっていたのです。こちらでは、隣の奥さんと性交渉が始まったのです。

 乱痴気騒ぎ、博打、喧嘩が念仏の会合になってしまったのです。それでも、お金は集まったのです。和尚さんは「私が阿弥陀様に取り次いであげた人は救われるのだ」と言ったのです。「お前は勝手に悪人をやっていても救われないのだぞ。私が阿弥陀様に許可をもらうから救われるのだ」と言ったのです。民衆は「それはありがたいな。お金をもってくるべ」と言ったのです。

 法然の弟子である親鸞も同じようなことをやったのです。親鸞は、もっとすごいことを言ったのです。善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と言ったのです。

 善人は自然に成仏するのです。悪人は救われません。「阿弥陀様は善人を救うのか、悪人を救うのか?」と言うと、悪人ほど救ってくれるのです。親鸞のほうが悪の度合いが進んでいたのです。

 「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」ということは、法然よりも、一歩、深くなったのです。

親鸞が広めた念仏を浄土真宗と言ったのです。法然は、浄土宗と言います。江戸時代になると、念仏も創価学会のように信者の数は増えたのです。

 本願寺第7世存如の長子として生まれたのが蓮如です。留守職とは、法然のお墓を守る人です。長い年月が経つと誰もお参りにくる人はいません。

 蓮如のお寺は、ものすごく貧乏だったので、寒いから床まではがして燃やしたのです。お布施もはいりません。蓮如は妾の子供だったのです。

 蓮如はそのような境涯だったので、親鸞の教えを真剣に勉強したのです。40歳すぎてから、「親鸞聖人の極意はこれだ」とわかったのです。これを広めていこうとして、惣村(そうそん)におふみという手紙を書いたのです。惣村(そうそん)とは、独立して生きていける村です。惣村(そうそん)の有力者3人におふみを送ったのです。

 蓮如は、「あなた方は間違っています。親鸞聖人の教えはこうです」と手紙を書いたのです。「悪人が救われるとは、そのようなことだったのですね」ということがわかったのです。それで蓮如の教えを聞いたのです。

 ところが、蓮如のお寺は貧乏で食べるお米もありません。隣を見ると佛光寺(ぶっこうじ)があります。佛光寺(ぶっこうじ)は、まさに仏国の如しです。善光寺や、浅草観音のようにいつも信者でにぎわっていたのです。

 佛光寺の坊主は、「何が親鸞の教えだ。あんなお寺にお客は誰もいかないぞ」と澄ましていたのです。蓮如は不思議に思ったのです。「どうして、佛光寺はあんなに流行っているのに、どうして自分のお寺には誰も来ないのか?」と悩んだのです。

 当時の農民は字が書けません。佛光寺は、絵系図をつくったのです。「あんたは字がかけないでしょう。ここにあなたの顔を書いてあげます。ここに顔がかかれない人は、極楽にはいけないのだよ」と和尚さんが言うと、「俺の名前を書いてくんろ」と言ったのです。「名前は何というのだ?」「●●村のたろうべえだ」と言うと「わかった、ここにお前の名前を書けば、極楽に逝けるぞ」と言ったのです。

 「あの佛光寺へ行くと、俺の名前を書いてくれるんだ。そうすれば極楽に逝けるのだ」と言うのですから、雲霞の如く人が集まってきたのです。

 知恵のない宗教団体は、だましをするのです。「貴方の先祖が地獄で苦しんでいます。この壺を買うと先祖が供養されます。すると、貴方の不幸もなくなります」と言うのです。それは、だましです。絵系図もだましです。(③に続く)

 

 

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