※うめ吉 "お富さん"
お富さんは死んだ。
小野田寛郎少尉は生きて帰ってきた!
あ~ら、エッサッサ!
デヴィ夫人のいたインドネシアにも、残置諜者はいたのです。残置諜者は「現地人になれ。日本名を名乗ってはいかん。現地人として活躍をしろ」と教育されているから、現地人になったのです。その名残が日本の軍歌です。
ベトナムもそうです。そのように考えると、大東亜戦争は日本の勝ちです。1975年に米軍がベトナム兵に追いかけられて、ホーチミン市から逃げたのです。「助けてくれ~」とヘリコプターにぶら下がって米兵が逃げたのです。
佐藤守さんは、「サイゴン陥落で、大東亜戦争は日本が勝利して、戦争は終結したのだ」と言ったのです。昭和20年に戦争は終わっていません。それから残置諜者が戦って、東南アジア諸国が白人から独立して、サイゴン陥落で大東亜戦争は終わったのです。
大日本帝国の戦争の目的は果たしたのです。そのように言えるのです。残置諜者の一人、小野田寛郎さんは、ルバング島に行くことを命令されたのです。任務は残置諜者です。当時のお金で現金5千万円を持っていたのです。
最初は28名くらいいたのです。お金もかかるので、約5千万円の現金を持っていったのです。目的は、残置諜者です。敵の動きを的確に知って、米軍がどこにいるのか見張っていたのです。小野田寛郎さんは、「隊長」と呼ばれていたのです。兵隊ではありません。将校です。
『わがルバン島の30年戦争』の中でそのように言っています。将校になると下士官とは、着る軍服から全て違います。下士官は軍服の上から軍刀をつるします。将校になると、上着の下に軍刀があります。「もの凄く名誉なことだ」と思ったのです。
小野田寛郎さんは、商業学校出身です。それでも士官学校を卒業すると、見習士官になれたのです。見習い士官は、1年で卒業できたのだと思います。陸軍士官学校は4年生です。
即席士官でも少尉というのは、国の位です。その位をもらい、軍刀をもらうと、本当に晴れ晴れしかったのです。だから軍刀を大事に持っていたのです。ジャングルで雨が降ると軍刀も錆びてしまいます。
ジャングルは雨が一番、怖かったのです。屋根がありませんから、ずぶ濡れです。火を焚けば、「誰かいる」とわかってしまうから、火が焚けません。小野田寛郎さんは、左耳が聞こえません。
何故、聞こえないのかというと、雨が耳の中に入って中耳炎になってしまったのです。中耳炎になると膿んでいる臭いがします。膿の臭いを嗅ぎつけて、耳の中に蟻が入ってきたのです。
その蟻に鼓膜を食い破られてしまったのです。だから、左耳が聞こえません。ものすごく痛かったのです。鼓膜が蟻に食べられてしまうのですから、雷に打たれたような音がしたのです。ジャングルの中では雨と蟻が一番怖いのです。
30年間、ジャングルの中に潜伏していた間、弾薬は無傷で維持してきたのです。弾薬は雨にぬれると火薬が湿って使い物にならなくなってしまいます。弾薬はどんなに雨が降ってもぬらさないようにして、使える状態にして保ってきたのです。
銃はヤシの実の油で手入れしていたのです。そんな苦労があったのです。戦闘では30人以上の人を殺したのです。戦闘ですから、敵からも銃を撃ってくるのです。
それを津田信が生意気なことを言ったのです。「小野田寛郎さんは、52人の人殺しをしたから私は嫌いだ」と言ったのです。余計なことを言うものではありません! 国民の勇士です。
小野田寛郎さんから言わせると、「私は自分の意思でルバング島へ来たのではない。国の命令に基づいて来たのだ」ということです。来たくてきたのではありません。くだらないことを言うものではありません。
それは怒ります。国の命令で守ってきたのに、「人殺しをやった」など、何をバカなことを言っているのでしょうか? 国を守るとは、そのようなことです。小野田寛郎さんは、一人になっても、弾薬を守ってきたのです。
もう一人、小塚金七上等兵が生き残って最後は二人きりになったのです。28名くらいいたのですが、戦死したので、2人きりになって喧嘩をしたのです。「お前の顔は見たくない」と言って別れても、1週間立つとまた会ってしまうのです。島の中をぐるぐると歩いても、またばったりと会ってしまうのです。
「そうか、お前も俺がいないと生きていられないのだな」と気がついたのですが、部下を死なせたことを一番苦しんでいたのです。
小野田寛郎さんは、頭の良かった人です。残置諜者ですから、日本が戦争に負けたことをちゃんとわかっていたのです。でも、今頃、出てきて、「残置諜者でした」と言ったら、どうなるのでしょうか? 「人を殺しているから、戦犯になってしまうのではないか?」と考えたのです。
ちゃんと考えて、「中野学校の上官を呼んでくれ」と言ったのです。上官を呼んで、正式に「小野田寛郎の残置諜者の命令を解除する」と言ったのです。それで、小野田寛郎さんは、敬礼をして、その命令書を受け取ったのです。
それで、小野田寛郎さんは、大義が立ったのです。頭がよいとわかります。命令を解除されたのだから、戦争を止めたのです。
フィリピンのマルコス大統領に軍刀を渡して「只今から、戦闘を止めます」と言って、軍刀を渡して礼儀を正したのです。だから、フィリピンでも、立派な軍人としての待遇をしたのです。
日本に凱旋将軍のようにして帰ってこられたのです。そこまで計算されていたのです。そこまで使命を果たした小野田寛郎さんは、真に立派な人です。これくらい立派な日本男児はいません。
小野田寛郎さんの出発点は商業学校です。商業学校を卒業して商社に入ったのです。中華民国の漢口(現在の武漢市)にいたのです。その後は上海の商事会社で働いていたのです。上海では、毎晩ダンスをやっていたのです。非常に洒落た面があるのです。毎晩、社交ダンスをやって遊んでいたのです。
そのような時に召集令状がかかったのです。中学では、士官学校に入れないはずです。大学を出ていないと入ることはできませんから、成績は優秀だったのだと思います。漢語や英語が堪能であったため選抜されて、陸軍中野学校二俣分校に入学したのです。その後、見習士官(陸軍曹長を経て予備陸軍少尉に任官したのです。士官になって軍刀を吊った時には、本当にうれしかったのです。
小野田寛郎さんを批判する者は、大ばか者です。これくらい日本男児として、世界に誇ることができる人物はいません!
小野田寛郎さんは、30年間のルバング島の経験から、超能力が身に付いていたのです。「絶対に生きて日本に帰る!」と思ったら、敵が撃ってくる弾が暗闇でも見えるようになったのです。暗闇が昼間のように明るく見えるようになったのです。だから、生き残り、日本に帰ってくることができたのです。まさに日本が世界に誇る快男児です!
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