世界に誇る、日本の快男児!(4)舩坂弘(ふなさか ひろし | 中杉 弘の徒然日記

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※士気が上がる日本軍歌12選!

 

   日本の舩坂弘(ふなさか ひろし)軍曹は、不死身だ!

 

 アンガウルの戦いで大暴れをして、「和製ランボー」と言われた、舩坂弘(ふなさか ひろし)さんという軍曹がいました。本当に勇敢な男です。「こんな日本人がいたのか」と、聞いたらビックリする人です。

大日本帝国陸軍の階級は、二等兵が一番下です。その上が一等兵、上等兵、兵長、伍長、軍曹、曹長、准尉、尉官、佐官があります。

自衛隊で言うと、二士、一士、士長、曹長、准尉、尉官という階級があります。

大日本帝国陸軍の階級では、上等兵までは兵隊です。その上の階級が兵長、伍長、軍曹、曹長です。この階級の人が「兵隊の神様」と言われたのです。この階級の人は、実務をやるのです。今の自衛隊でも同じです。士官は作戦を立てる人です。

将校は、将官の候補生です。将官の候補生だから、将校というのです。陸軍士官学校を卒業すると、やがて将官になるのです。

軍曹、伍長、曹長には、優秀な人間が大勢いたのです。曹長になると軍刀を吊ることができたのです。曹長刀と言われる軍刀を吊ったのです。この中で一番有名な人は、舩坂弘(ふなさか ひろし)さんという軍曹です。この人は無敵です。まさに「和製ランボー」です。アンガウルの戦いを見てみましょう。

 

アメリカパラオのアンガウルの戦いでは、第二次世界大戦におけるパラオ、マリアナ戦役最後の戦いであり、この戦いで舩坂は多大な戦果を上げることになる擲弾筒(てきだんとう)および臼砲(きゅうほう)にて米兵を100人以上殺傷したといわれる。

水際作戦により中隊が壊滅する中、舩坂は筒身が真っ赤になるまで擲弾筒を撃ち続け、退却後は大隊残存兵らと島の北西の洞窟に籠城、ゲリラ戦へと移行した。

3日目には、舩坂も米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。米軍の銃火の中に数時間放置され、ようやくやって来た軍医は、傷口を一目見るなり、自決用の手榴弾を手渡して立ち去って行ったという。

瀕死の重傷を負いながらも舩坂は足を包帯代わりの日章旗で縛ることで止血し、夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復した。

その後も瀕死クラスの傷を負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、数日で回復しているのが常であった。 これについて舩坂は「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と、その事由を述べている。

舩坂は絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で米兵を倒したり、米兵から鹵獲した短機関銃で2人を一度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺すなど、奮戦を続けていた。実際、舩坂の姿を見た部隊員たちから、不死身の分隊長と形容する声が聞かれるほどであった。

戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、舩坂は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。また、長い間匍匐(ほふく)していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって、さながら幽鬼か亡霊のようであったという。

舩坂は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。舩坂はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声も出なかったという。

 

アンガウルの戦いで米兵と戦って足を撃たれてしまうのです。はって帰ってきたのです。足を撃たれているので、足が膿んでしまっているのです。ウジ虫がわくような状態になったのです。

鉄砲の弾の中から火薬を取り出して、火薬を傷にすりつけて、火をつけて焼いたのです。普通、自分でそんなことはできません。それから始まるのです。「復讐に行くのだ」と言うのです。

舩坂弘(ふなさか ひろし)さんは、まだ歩けません、4キロもはいずって敵陣に攻撃をかけたのです。銃撃戦を行ってたった一人で米軍の兵士を恐怖に陥れたのです。またそこで頭を撃たれてしまうのです。

またはいずって帰ってくるのです。何回も敵攻撃をやったのです。不自由な体で敵を攻撃するのですから、米軍に捕まってしまうのです。

米軍の基地を奇襲するのですから、捕まってしまったのです。攻撃を受けて死んだと思われて、死体の上に乗せられると、死体の上で目を覚ましたのです。すると、手榴弾を持って、また米軍兵を攻撃したのです。

不死身の舩坂弘(ふなさか ひろし)と呼ばれたのです。死んだと思ったら、また米兵を攻撃するので、「また、あいつだ」と言われて、幽霊が蘇ってくるようにして戦ったのです。全身傷だらけです。舩坂弘(ふなさか ひろし)さんは、「俺は傷に強いのだ」と言ったのです。栃木県の出身です。

最後は米軍に捕まったのです。舩坂弘(ふなさか ひろし)さんは、1部隊の働きを一人でやった男です。米軍の間では有名になり、「絶対に死なない男」と呼ばれたのです。

舩坂弘(ふなさか ひろし)さんは、米軍で傷の手当てを受けて捕虜になったのですが、ペリリュー島に身柄を移されて2日目には、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、収容所から抜け出すことに成功したのです。さらに、船坂は2回にわたって飛行場を炎上させることを計画したのですが、死刑にはならなかったのです。「勇敢な兵士」と米軍でも評判になり、アメリカで治療を受けて傷は完治したのです。

戦後、渋谷の大盛堂書店を開業したのです。この人は三島由紀夫とも親交があって、三島由紀夫に自身の体験を話していたのです。1970年の三島事件の際、介錯に使われた三島自慢の愛刀の関の孫六(後代)は舩坂弘(ふなさか ひろし)が贈ったものだったのです。この経緯を自著『関ノ孫六』に詳しく記しています。軍曹としての本当の勇士です。今までの「快男児シリーズ」は将軍の勇士の紹介でしたが、現実に米兵と戦った日本男児です。

舩坂弘(ふなさか ひろし)さんは、軍曹でした。撃たれても傷が1日で治ってしまうのです。火薬を刷りこんでしまうと、1日で治ってしまうのです。「俺は特別な体をしている。傷がすぐに治ってしまうのだ」と言っていたのです。これは本当の勇士だろうと僕は思います。

 

 

舩坂 弘(ふなさか ひろし、1920年10月30日 - 2006年2月11日)は、日本陸軍軍人。最終階級軍曹アンガウルの戦いで活躍した。戦後は大盛堂書店を開き、代表取締役会長を務めた。全日本銃剣道連盟参与、南太平洋慰霊協会理事、大盛堂道場館主。

特別銃剣術徽章、特別射撃徽章、剣道教士六段居合道錬士銃剣道錬士など、武道射撃の技能に習熟していた。

 

 

 

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