世界に誇る、日本の快男児!(3)東郷元帥 | 中杉 弘の徒然日記

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※軍艦マーチ

 

     軍艦三笠に乗った東郷元帥は、

 

       「俺には弾は当たらない」と何度も言い続けたのだ!

 

 

 ご存知、日本一の快男児、東郷元帥の話です。東郷元帥は薩摩士族であります。

 東郷元帥は昔から、実に運のよい男です。東郷さんの銅像は三笠公園にあります。記念艦「三笠」へ行くと、その当時の東郷元帥の部屋、士官室がそのまま残っています。ビックリしたことは、東郷元帥は小さい人だったのです。

 靴のサイズは女性くらいのサイズです。ベッドも小さいのです。戦艦三笠は、一度見に行くとよいでしょう。ロシアのバルチック艦隊から砲撃された部屋など、そのまま残っています。

 東郷元帥の艦長室もそのまま残っていますが、小さな部屋です。小さな人だったのですが、偉大な人だったのです。どうして偉大なのかというと、司馬遼太郎の説によると、東郷元帥は運のよい人です。誰もがそれを認めています。

 何しろ、「東郷は運がよい」と言われたのです。ロシアのバルチック艦隊との戦いにおいて、「誰を艦長にしたらよいのか?」という問題になったのです。

 そこで、海軍大臣の山本権兵衛は、日高壮之丞(ひだかそうのじょう)に対して、「お前は連合艦隊司令長官を辞めろ」と言うと、「おいどんの他に誰が艦長になるのだ?」と怒ったのです。「司令長官は東郷どんだ!」と言うと、「う~ん、東郷どんでは仕方なかと」と言ったのです。そのくらい運のよい男です。

 乃木大将は反対です。戊辰戦争で軍旗をとられてしまったのです。軍旗は一番大事な旗です。それを敵方に取られてしまったのです。本来ならば、切腹ものです。それを明治天皇が許したのです。

 乃木大将はそれを恩義に感じたのです。明治天皇に許されたので、明治天皇に命を捧げたのです。これが乃木大将です。司馬遼太郎は、「日本一のバカ男だ」と悪口を言ったのです。それは見方が違うのです。

 二百三高地は、日露戦争の激戦地です。旅順攻撃の際に第三軍司令官乃木希典が爾霊山 (にれいさん)と命名しました。国の遼東半島南端、大連市西郊の旅順の北西にそびえる山地で、名称は標高が二〇三メートルであることに由来しています。

二百三高地は、崖続きの山です。崖は湾に面しています。崖の上から船を眺められるので、山から船を攻撃できたのです。その攻防戦をやったのです。

 二百三高地をロシアが占領している限りは、日本の船は沈められてしまいます。二百三高地を日本が占領できれば、ロシアの船を攻撃できるのです。すると形成が逆転するのです。二百三高地を日本の陣地とするために、乃木大将が指揮をとったのです。

 乃木大将は、その戦争で日本兵を10万人殺してしまったのです。ロシア兵は、山の上に要塞を造り、崖を登ってくる日本兵に向かって機関銃で撃ってくるので、日本兵は10万人も死んだのです。その中に乃木大将の息子が2人いたのです。将校だったのですが、2人とも死んでしまったのです。

 戦争が終わった当時、「乃木大将は、日本一の大ばか者だ」と言われたのです。日露戦争で、息子が死んだ親は「息子が亡くなったくらいで、つべこべ言うな。乃木大将の息子は2人も死んでいる」と言ったのです。乃木大将は、明治天皇に許されたのです。

 戦術的に言うと、山の上から撃ってくる敵に対して、歩兵が登っていくというのはあり得ません。大山大将が来て「乃木、何をやっているのだ。上から機関銃で撃ってくる奴に向かって歩兵で進むことはあり得ない。大砲を持って来い!」と言って、戦艦に設置してある大砲を外して、ロシア軍の陣地に向かって大砲で砲撃したのです。

 それから、歩兵を登らせたのです。陣地を破壊していなければ、歩兵の銃も使えません。「乃木は大馬鹿者だ」と言われたのです。

 その話を司馬遼太郎が書いたのです。「乃木はバカだ」と言ったのです。ところが、明治天皇は「乃木はバカかもしれないけれども、一本気なところがある」と言われたのです。

 戦争が終わり、明治天皇は「乃木、お前は2人の息子を亡くして寂しいだろう。学習院長をやりなさい」と言われたので、乃木大将は学習院長になったのです。それは、明治天皇の配慮だったのです。人間として乃木大将の心はよいのです。

 みんなにそれを教えていけばよいのです。司馬遼太郎は「乃木さんはバカだ」と言ったのですが、もう一つ言うならば、運もよくありません。戦争には勝ったけれども、軍旗をとられてしまったのです。乃木さんは、運がよくありません。

 東郷元帥は運がよい人です。東郷元帥が戦う戦争は、必ず勝つのです。東郷元帥は若い頃、清の軍艦が日本にやってきたのです。定遠(ていえん)を日本に見せつけにきたのです。「清の船は怖いで、日本の船とは違うぞ、大きさを見ろ!」と見せつけにきたのです。

 長崎の港について、祝砲を撃ったのです。「ドーーーン」という、もの凄い音で、日本人は震え上がってしまったのです。東郷さんは、その当時は中尉で、定遠(ていえん)を視察にいったのです。するとシナ人は、大威張りで軍艦を案内したのです。

 シナの兵隊は、軍艦の中で阿片を吸って、博打をやって、酒を飲んでいたのです。船室でゴロゴロしていたのです。「なんだ、これは、これでも兵隊か。如何に軍隊を大きくてもシナの海軍は恐れるにたりない」と判断を下したのです。まだ、東郷さんが中尉の頃です。

 東郷元帥は、信念を持っていたのです。これが横須賀にある戦艦三笠に行くとわかります。最上甲板に東郷元帥が立っていた足跡が印されています。東郷元帥はここにいて、指揮をとったのです。

 戦艦三笠は、砲弾が多く当たっているのです。砲弾が戦艦に当たると、灰が落ちてくるのです。東郷元帥が立っていた足元には灰が積もったのです。「艦長、中に入ってください」と言われたのです。すると、東郷元帥は、「俺に弾は当たらない」と言ったのです。その通り当たらなかったのです。

T字戦法とは、真っ直ぐ進み相手に自分の側面を見せて横一列に並ぶのです。普通は、直線に並んで最前列から大砲が飛んできます。そんな戦法はとりません。東郷元帥は、水軍の戦法を学んでいたのです。十字戦法です。

 敵艦隊をやっつけるためには、敵の真ん前を横切るのです。これも度胸がいります。全速で敵の前を横切るのです。横切るということは、自分の腹を見せるということです。敵の弾が当たりやすくなるのです。事実、戦艦三笠の側面にも砲弾が当たったのです。当たっているけれども、これが一番良い戦法です。水軍の連中が昔から使ってきた戦法です。それをT字戦法というのです。

 船は早くなければいけません。全艦隊が敵の前を横切り、一文字に並ぶのです。全艦隊が先頭の軍艦を攻撃するので、バルチック艦隊は全滅です。これも運がよい話です。戦が終わった後、東郷元帥は東郷神社にお祀りされています。東郷元帥は運がよい人です。

 このような話を見ていると、頭が良いとかではなく、基本は運が大事です。大将が運を持っていないと戦は負けるのです。東郷元帥は運のよい男で、寡黙であまりしゃべらなかった人です。黙って任務をこなしたのです。世界一有名な男です。

ロシアのバルチック艦隊を破った東郷元帥は有名です。北欧では、今でも東郷元帥のビールが売られています。当時、バルチック艦隊は世界一の無敵の艦隊と呼ばれたのです。

 その艦隊を東郷元帥が打ち破ったのです。このような素晴らしい英雄が日本には大勢いたのです。東郷元帥は、「運がよい英雄」として取り上げてみました。砲弾が飛んでくる中で甲板から動かない度胸のよい人です。東郷元帥を日本男児の誉れとしてよいでしょう。

世界に冠たる大日本帝国海軍は、ロシア帝国の最強のバルチック艦隊を破ったのです。完膚なきまで日本の勝ちです。戦には大将軍を魂とする、運のよい男になっていかなければならないと思います。

 

 

 

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、1848年1月27日弘化4年12月22日〉 - 1934年昭和9年〉5月30日)は、日本海軍軍人[1]。最終階級元帥海軍大将。各地の東郷神社に名を残す。位階従一位勲位大勲位功級功一級爵位侯爵

山梨勝之進は「世界史的な観点から海軍の名将を列挙するならば」として8名の提督を挙げた上で[注釈 1]ホレーショ・ネルソンデヴィッド・ファラガット東郷平八郎の3名について特記している.

 

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