世界に誇る、日本の快男児!(5)小野田寛郎少尉 ① | 中杉 弘の徒然日記

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Japanese Military March - 日の丸行進曲

 

   東洋を白人の植民地から独立させたのは日本だ!

 

         それを成し遂げたのは、陸軍中野学校の残置諜者だった。

 

         小野田寛郎少尉は、陸軍中野学校の残置諜者の一員だったのだ!

 

 

 小野田寛郎さんの名前は、多くの日本人が知っていると思います。しかし、若い人達は知らないと思います。小野田寛郎さんが日本に帰ってきたのは、今から48年前のことです。その後に生まれた人達は知らないかもしれません。

 小野田寛郎さんを取り上げてみたいと思います。『わがルバン島の30年戦争』という本を書いた人です。30年もジャングルにいて、日本に帰ってきたのです。週刊誌連載の「手記」のゴーストライターである、津田信が書いて、本を出版したのです。小野田寛郎さんが書いたわけではありません。『わがルバン島の30年戦争』という本です。

 小野田寛郎さんは、日本に帰ってきて、1年間日本にいたのですが、その後ブラジルに行ってしまったのです。何故、ブラジルに行ったのでしょうか? 小野田寛郎さんから言うと、「ふざけるな!」ということです。

 津田信が悪辣なことを言ったのです。「小野田さんが私は大嫌いだ」と言ったのです。言わなくてよいことを代筆した記者が言ったのです。「小野田寛郎さんは、52人も人殺しをしている。エゴイストで、自分のことしか考えない人だ。取材してわかったのだが、僕は小野田寛郎さんを尊敬していません」とヒドイことを言ったのです。

 当時、小野田寛郎さんは日本が戦争に負けたのも知っていたのです。知らなかったわけではありません。何故ならば、小野田寛郎さんの使命は、残置諜者です。残置諜者の命令を受けると、現地に残って現地人になることです。

 日本が戦争に負けても関係ありません。任務は続行されるのです。「やがて戦争に負けるであろう」という目的のために、日本は残置諜者を置いたのです。小野田寛郎さんは、残置諜者の教育を受けた人です。スパイになる教育ではありません。

 どのくらいの残置諜者がいたのかというと、東南アジアに約3千人いたのです。陸軍中野学校は、残置諜者の養成を目的としていたのです。スパイを養成していたのではありません。

 陸軍は、「この戦争で日本は多分、負けるであろう。その時にどうするのか?」ということを考えたのです。そこで「皆、現地人になれ、現地へ散れ!」と言われて、陸軍中野学校二俣分校の800人は現地へ散ったのです。

 「現地人のフリをして生きろ。日本人であることは忘れろ。日本が戦いになった時には、日本軍の味方をする」そのような組織をつくることを目的としたのです。陸軍中野学校で行われていたことは、残置諜者の養成だったのです。

 残置諜者は、小野田寛郎さんだけではありません。だいたい、軍隊がなかった東南アジア諸国に軍隊ができるのでしょうか? 戦後、東南アジア諸国は西洋列強から独立したのです。

 東南アジア諸国も、インドも白人の植民地だったのです。独立するためには、軍隊が必要です。軍隊がないと独立してもすぐ他国に侵略されてしまいます。国の体制を支える軍隊がいて、初めて国は独立できるのです。

 独立は、軍人がやるのですが、東南アジア諸国は、軍の教育を受けていません。西欧列強の植民地だったので、軍隊はなかったのです。だから、戦えなかったのです。

 日本の残置諜者の約3千名は、東南アジア諸国に散ったのです。軍の目的は大東亜の解放です。大東亜を白人の支配から解放することが、一番の大義です。残置諜者は、その目的達成のために東南アジア諸国において軍隊をつくったのです。

 航空自衛隊の元空将の佐藤守さんは、「北朝鮮は日本人が造った国家だ」と言っています。残置諜者が造った国が北朝鮮です。日本が原爆を落とされて日本は戦争に負けたのです。当時の北朝鮮は、まだ日本です。「原爆を造ろうじゃないか」と言って、残置諜者が北朝鮮に入ったのです。

 その中で代表的な人が金策(キムテク)です。日本名は、畑中理さんです。この人も陸軍中野学校出身です。北朝鮮には原爆の材料となるウランが豊富にあります。「日本は原爆でやられたのだから、復讐は原爆でなければならない。何が何でも原爆を造れ」と考えたのです。

 残置諜者の優秀な日本人が北朝鮮に入ったので、原爆はできたのです。金日成は偽物です。ソ連兵の朝鮮族の将校が、傀儡で送られてきたのです。それが金日成です。随分若い30歳くらいの奴が来たのです。金日成はかなりの年配者だったので、「これが金日成だ」と言っても、民衆のほうは納得しません。

 それを畑中理さんが上手く指導者に仕立てたのです。「これば金日成だ」と立てていったのです。だから、北朝鮮に金王朝が出来たのです。金策(キムテク)さんは、多大な功績があったのです、金策(キムテク)総合大学から、飛行場、日本と往復する唯一の船が金策(キムテク)号と名づけられていたのです。

 そのような経緯があり、「北朝鮮は日本だ」という意識があったのです。表は共産軍ですが、裏に回ると「日本だ」という自覚があったのです。だから、北朝鮮は発展してきたのです。

 金策(キムテク)は国葬にされたのです。そのようなことに日本のマスコミは目をつぶってしまったのです。金王朝は、日本の皇室の真似です。横田めぐみさんがさらわれたのは、お母さんの早紀江さんが、皇族の血を引く人だったからです。横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されたのは、金王朝を造る目的だったのです。これが、一つの流れです。

 北朝鮮の鴨緑江には、東洋一の水豊ダムがあります。それは、日本人が造ったダムです。理想の北朝鮮が出来たのです。これが残置諜者の仕事です。北朝鮮という名前の日本を造ったのです。

 それから、ベトナムも軍隊はありませんでした。残置諜者がベトナム人のフリをして、ベトナム人を教育して、軍隊を造ったのです。シンガポールも、ミャンマーも、インドネシアも、フィリピンも、日本が軍隊を造ったのです。

 中国共産党の軍隊を造ったのも、日本の残置諜者だと言われています。共産党には、軍隊を訓練する力はありません。「残置諜者が兵隊になって戦った」というのはウソです。教官として軍隊を造ったのです。

 北朝鮮もそうです。北朝鮮の軍歌は、日本の軍歌です。今でも「勝ってくるぞと勇ましく~♪」と歌っているのは、日本の軍歌です。ベトナム人は、意味もわからないで、日本の軍歌を歌っているのです。

 ベトナムがあれだけ強かったのは、残置諜者が軍隊を養成したからです。数百名の残置諜者がベトナムにいたのです。それが徹底的に強かったから、1975年にホーチミン市から米兵を追いだしてしまったのです。あらゆる東南アジアの国で残置諜者が大活躍したのです。(②に続く)

 

 

小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年大正11年〉3月19日 - 2014年平成26年〉1月16日)は、大日本帝国陸軍軍人実業家。最終階級予備陸軍少尉旧制海南中学校久留米第一陸軍予備士官学校陸軍中野学校二俣分校卒。

情報将校として太平洋戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年を経て、フィリピンルバング島から日本へ帰還した。

 

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