靖国問題について思うこと ① | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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松平 永芳(まつだいら ながよし、1915年大正4年)3月21日 - 2005年平成17年)7月10日)は、日本海軍軍人陸上自衛官神官靖国神社第6代宮司1978年 - 1992年)時代には、A級戦犯の合祀を実施した。

 

 靖国問題は今でも決着がついていません。この一番大きな原因は松平宮司です。靖国神社第6代宮司・松平永芳さんの祖父は松平春嶽です。松平宮司は、大日本帝国海軍軍人・陸上自衛官だった人です。

 松平宮司は一日で、12名のA級戦犯を靖国神社の英霊にお祀りしてしまったのです。それまでGHQが引いた図式は、「日本人が悪いのではない。悪いのは戦争をリードした12名の戦犯だ。国民は戦犯を恨まなければいけない。貴方がた国民には何の罪もありません」ということです。

 ドイツのニュルンベルグ裁判もそうです。「ナチ党が悪いのだ。貴方がたドイツ国民は何も悪くないのだ。ナチ党の言われるままに動いただけなのだ」という解釈です。だからドイツ国民は「ナチ党が悪くて、俺たちは悪くない」と思っているのです。それで問題は済んでしまったので、その後にドイツでは軍隊ができて、ドイツ国防軍をもっています。

 日本の場合は、そう簡単にはいきません。他所の国のように戦犯をつくって「この人間達が戦争を起こしたのだから、この人間達が悪いのだ」というわけにはいきません。日本人が裁判をしたならば、わかりますが、日本人の裁判などやっていません。

 根拠になったものは、極東軍事裁判です。他国が「12人が戦犯だ。こいつらは絞首刑だ」と言ったのです。その他、1万名くらいの人間を絞首刑にしたのです。最後に残ったのが、12名です。これをA級戦犯として処刑したのです。

 A級戦犯とは、ABCとあり一番重い罪だというわけではありません。政治にかかわっていた人ということです。こんな裁判は茶番劇です。ただし、まだ難しい問題があります。「この極東軍事裁判の結果を受け入れます」と言ったのが、サンフランシスコ講和条約です。「この裁判の結果を尊重して、受け入れて独立します」と言ったのです。

 「極東軍事裁判はインチキだ!」と日本人がいうと、「日本は極東軍事裁判を受け入れて独立したのではないか?」と言われてしまうのです。だから、「靖国神社には、A級戦犯の12名は祀らないのだ」と言ってきたのです。戦後はそれで済ましてきたのです。

 天皇陛下も松平宮司がA級戦犯を合祀するまでは、参拝に行かれたのです。松平宮司がある夜、一晩にしてA級戦犯を合祀してしまったのです。だから、天皇陛下も靖国神社に参拝に行けなくなってしまったのです。これもおかしな話です。

 だいたいA級戦犯と称する人達は、日本政府の幹部です。誰が悪いということはありません。国家の正式な教育を受けた大幹部です。ならず者がのし上がって、ヒトラー総統になったのとはわけが違います。

 東條英機は陸軍士官学校を一番で卒業して、陸軍大学を卒業したインテリであり、教養人で、立派な人です。ビックリするぐらい頭がよいのです。例えば、東大を一番で卒業するよりも頭がよいのです。

 それを「悪人」とは言えません。東條英機にしても、尊敬するべき対象です。それを戦後は「東條英機は悪人だ」と教えられたのです。「戦争を始めた張本人」として、今でも東條英機のことを憎く思っている人達がいるのです。

 東條由布子というお孫さんが活動されて「お爺さんはそんな人ではなかった」と言っていたのです。東條英機の経歴を見ればわかりますが、日本国家の最高のエリートです。

 「国家のエリートだから、戦争の結末の責任を取り絞首刑にする」と言われたら、日本国民にとっては英雄です。「散々米軍に損害をかけた憎らしい奴らだ」ということで、極東軍事裁判で絞首刑にしたのです。

 日本人から見たら我らの代表で最高に立派な人達ですから、日本人のお仲間です。「お仲間」という意識があれば、「そうだ、我々も一緒に戦ったのだ」と思えば、松平宮司がA級戦犯を靖国神社に合祀しても、何の問題もありません。

 もっと考えなければならない問題があります。一般的には、「靖国神社にお祀りされて可哀想」という意識があるのではないかと思います。神社に鎮魂の気持ちをもって、靖国神社にお参りしているのです。そんな気持ちで大勢の人が参拝しているのです。

 最初は「招魂社」という名前で創られたので、多少はそのような意味があるのかもしれません。日本にとって「お可哀想」という人は一人もいません。みんな天皇の赤子(せきし)であるから、いざことが始まった場合、日本人は一心同体です。

 そのうち、戦死された方もいます。戦死した者も、生き残った者も、日本人から言うと同じ考えです。「生きて国家の再興に尽くす」という考えと、「死して護国の守りにつく」という考えです。死するも生きるも同じことです。

 だから、靖国の御神祭は神なのです。それを忘れているのではないでしょうか? 拝むはずみの お念仏♪という「九段の母」という歌があります。お念仏を唱えるものではありません。

靖国神社に祀られているのは、神様です。生き残った人も神様です。死んだ人も神様です。人間は生と死が一体です。これがわかったときに日本国家の強さが出てくるのです。外国とは全く違う文化だとわかります。

 日本文化には最初から「死」という問題が入っているのです。生きるものは必ず死ぬのです。「何によって自分は死ぬのか?」ということです。永遠に生き続ける生命などありません。靖国神社の英霊は、国のために戦って死んだのです。これはどのような死であるのかというと神様の死なのです。

 生き残った者は死ななかったのです。「同期の桜でみんな死んだけれども、俺は生き残ったのだ。生き残った者は全力を出して復興する」それだけの違いです。いつかやがて自分も神になるのです。

 戦争で死ぬのも、生きて帰るのも関係ありません。戦争で死んだから神になるのではありません。「人間は元々神である」という思想がなければいけません。日本神道はそうです。死んだ者だけが神というのではありません。生きている者も神なのです。死んだ者も神であり、英霊です。

 生死から生命は成り立っているのですから、死んだら英霊になるのです。生きているときは生神様という気持ちで国家の仕事も産業もやらなければいけません。人間は神様です。この考えがわかっていないところがあるのではないかと思います。(②に続く)

 

 

 

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