伊藤博文は朝鮮人か? ① | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

※左ー伊藤博文の若い頃の写真

 右ー朝鮮総督のの伊藤博文(朝鮮服を着てご満悦)

 

 初代内閣総理大臣の伊藤博文。これをめぐって議論が沸き上がっています。彼は朝鮮人の可能性があります。

 「初代総理大臣だから間違いなく日本人だ」と思いたいのだろうけれども、彼の出身の光市は田布施町の隣町です。山口県光市大字束荷(旧・熊毛郡大和町)昔は、周防国熊毛郡束荷村と言いました。

 そこに貧しいドン百姓の十蔵がいたのです。それが伊藤博文のお父さんです。このお父さんが40代の頃に林家に子供を連れて養子で入るのです。林家は四国伊予国、河野家の末裔です。束荷には現在、林姓が80軒くらいあるということでした。

それからもう一度、養子に行くのです。父十蔵が長州藩士・伊藤家の養子となったため伊藤姓を名乗ります。変な家庭です。それが伊藤家です。その伊藤という家は足軽の家です。2回も親子ともども養子に入り、足軽の家に入ったのです。足軽といっても身分は一応、士分です。

 伊藤博文は長州藩士として活躍できる窓口ができたのです。ともかく貧乏で田んぼを持たなかったドン百姓だったのです。伊藤博文は松下村塾に通っていた頃は、立ち聞きしていたのです。貧しくて月謝も納められないから、部屋の中に入れなかったのです。窓の傍に立っていろんな人の講義を聞いていたのです。

 それで、「田布施システムとは何か?」というと、「朝鮮人が日本を支配するシステム」ということです。このルーツは、これは豊臣秀吉の朝鮮出兵に関係してきます。朝鮮出兵によって連れてこられた朝鮮人がいます。長州藩は朝鮮から萩焼の陶工の一団と、役に立たない人夫の一団を連れてきたのです。

 使いものにならない朝鮮人が田布施町に集められて、朝鮮部落を形成していたのです。この朝鮮部落は危ないので誰も近寄らなかったのです。山葡萄原人の悪魔の洞窟門のように「あそこを通るな。通るといなくなってしまうぞ」と言われていたのです。

 幕末に高杉晋作が奇兵隊を募集したのです。奇兵隊は身分を問わずに兵隊になれるので、この辺りの連中が大勢入隊したのです。

 兵隊は体が大きいほうがよいのです。伊藤博文の若い頃の写真の足を見たことがありますが、すごくガッチリしているのです。大地にくいついて離れないような頑丈で筋骨隆々のたくましい足です。だから、やはり朝鮮人の血が入っているのではないかと思います。

 伊藤博文は、名前を何回も変えています。 

・林(伊藤)利助(利介・利輔)幼名
・伊藤俊輔(舜輔)文久2年から同2年ごろまで使用
・越智斧太郎文久2年、彦根藩偵察の際の変名
・伊藤春輔文久2年から慶応元年ごろまで使用
・花山春輔元治元年帰国直後の変名
・デポナー元治元年帰国上陸の際の変名
・花山春太郎慶応元年、岩国へ向かう際の変名
・吉村荘蔵慶応元年、長崎滞在の際の変名
・林宇一慶応2年から3年ごろまで使用
・伊藤俊介明治元年から2年ごろまで使用
・伊藤博文明治元年9月ごろから使用
・春畝雅号

 こんな話も残されています。

韓国統監になった時、息子の眞一さんが医者の小山さんに会った。その医者は「眞ちゃん、いいもの見せてあげよう」というから、眞一は何かと思う。すると差し出された紙には、伊藤統監の筆で「先生、また例の病気にかかってしまいました。洗い薬を早速お届けください」と書かれていた。性病に罹った親父の依頼状を見た息子はたまらない。さぞ恥ずかしかっただろう。伊藤公に揮毫(きごう)を頼みに来る者は多かったというが、こんな肉筆は嫌だ。ラブレターより始末が悪い。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68324213.html

 伊藤博文は、韓国で女遊びをしている最中に安重根に銃撃されたといいます。

田布施辺りの連中は、名前を何回も変えています。同じような村があって、それが鹿児島の苗代川の沈 壽官がいた村です。そこに佐藤総理が尋ねてきたのです。

 沈 壽官が「私は400年前に朝鮮から連れてこられた一族です」と言うと、佐藤総理が「実はうちもそうなのだよ」と愚痴を言うのです。書まで渡したのです。

沈寿官の14代目当主は、佐藤栄作(190175)が死ぬ1年前に沈寿官を訪ねてきて、佐藤は、「沈寿官が400年前に日本に渡ってきたのであれば、佐藤家も壬辰の乱の後、日本に渡ってきて山口に定着した朝鮮系である」ことを直接告白したと明らかにしました。
 沈寿官の家には、佐藤の自筆による「默而識之(言葉で表さずとも解っているの意)」という書が掲げられています。
 韓国の三大紙のひとつ「東亜日報」の論説委員のキム・チュンシク氏が発刊した著書
『悲しい列島-永遠の異邦人400年の記録』(ヒョヒョン出版)の中で、壬辰倭乱直後の1598年、日本に連行された陶工の薩摩焼の沈壽官窯、沈壽官家の14代をインタビューする過程で明らかにされた内容です。

http://m.pressian.com/m/m_article.html?no=49423

 佐藤栄作と岸信介は兄弟なのに苗字が違います。岸が本家らしいのです。岸のことを朝鮮語で「ガンス」といいます。これは長州と朝鮮の一族が喧嘩したときに、朝鮮から長州に寝返って、朝鮮人をやっつけて長州藩に下った連中です。その功績により、ガンスは代官をやっていたのです。代官と言っても田布施村の朝鮮部落の代官をやっていたのです。

 先祖は朝鮮人だとハッキリしているのです。出自をわからなくするために佐藤家などの養子に入り、家を転々とするのです。

 伊藤博文も林と言ったり、伊藤と言ったり、転々としています。伊藤博文は朝鮮人を知りぬいているから日韓併合は反対だったのです。「あんな連中と一緒になったら大変だ」と思ったのです。自分は朝鮮人だから、朝鮮人を知っていたのです。

 朝鮮人は朝鮮人にシンパシーを感じて仲良くなる例と、「俺は朝鮮人は大嫌いだ!」と思って毛嫌いして自分の出自を隠す朝鮮人の二通りあります。伊藤博文は「朝鮮人なんか、とんでもない!」と思っている朝鮮人です。

 それはそうです。300年間も長州にいたら、「自分は朝鮮人だ」などと思っていないかもしれません。きっと思っていなかったのでしょう。ただ、なんとなくいろんなことが伝わっていて、朝鮮人的なものが出てくるのです。(②に続く)

 

 

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