明治維新は長州と共に! | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

 司馬遼太郎が歴史紀行の中で、長州藩のことを書いています。毎年正月元旦になると、お城に登城の音が聞こえる。ドンドンドン・・・すると、長州藩の侍たちは、お城に登っていくのです。

 新年のご挨拶で平伏していると、藩主が出てきて一番家老が「殿、いつですか?」と言うのです。それが毛利の新年の挨拶です。殿さまの文句は決まっていて「まだ早い!」と言うのです。

 このような挨拶を長州藩は何百年もしてきたのです。この挨拶の意味は、「幕府を倒すのはいつでしょうか?」という意味です。殿にお伺いをたてるのです。すると殿は「まだ早い」と言うのです。これが正月の恒例行事だったのです。

 これだけの会話ならば、外部の人間が聞いても討幕の相談だとはわかりません。その儀式を何百年もやってきたのです。

 長州藩の毛利は広島にいて、100万石近い領土をもっていたのです。関ヶ原の戦いで毛利は徳川に負けたのですが、あまりにも大きな藩だったので潰すことができません。結局、領地を36万石にされて、長州に藩替えになってしまったのです。

 すると今まで給料をもらっていた武士たちの給料はありません。「俺は殿様と一緒に長州について行く」と言って、毛利の家臣団がゾロゾロとついていったのです。すごい行列ができたそうです。

 武士たちは先に行って、その後をゾロゾロとついてきたのです。「百姓でも何でもいいから、殿様についていきたい」と言ってついてきたのです。これが長州藩に行ったのです。この連中は「俺たちは昔侍だった。徳川の野郎のおかげで俺は百姓になってしまったのだ」という自覚があったのです。

 戦争に負けた藩は、そのようなことがあったのです。地侍と言って「昔侍だった」というのです。毛利は国替えされたのです。ついてきた家臣団は百姓などやったのですが、恨みがあって「チキショウ、今に見ておれ!」と思っていたのです。

 その底流がずっと続いていたのです。薩摩藩もそうです。関ヶ原の戦いで負けたから、徳川に対して恨みをもっていたのです。何故、徳川が島津藩を潰せなかったのかというと、島津藩を潰したら大変です。徹底的に交戦になってしまい、何十万の軍勢を入れても潰せないとわかっていたから、外様として認めたのです。長州藩も同じです。

 高杉晋作は、恵まれていて上士です。昔も侍、今も侍です。「昔、俺は侍だった」というのが、長州には大勢いたから奇兵隊が成立したのです。

 「お前達は今は百姓でも昔は武士だろう」と言ったのです。高杉晋作は、そのような連中を集めて奇兵隊をつくったのです。実はそこに朝鮮人がいたのです。確かに「俺は昔侍だった」という連中も大勢集まったけれども、伊藤博文は力士隊です。ごつい体をしているのです。田布施村や光市からも大勢騎兵隊に行ったはずです。

 この連中も奇兵隊に入ったのです。この連中は、豊臣秀吉の朝鮮出兵から、今をさること420年前に連れてこられた朝鮮人だったのです。これが田布施村の秘密です。

 奇兵隊に入った伊藤博文も本名は何だかわかりません。「昔は百姓だった」と言うのです。それが林家に養子で入ったのです。またその後、伊藤家の養子になるのです。こんなことがあるのでしょうか? 伊藤博文の本名は何だかわかりません。

 そんな男が総理大臣になってしまったのです。それから朝鮮人がどんどん偉くなり、それが「田布施町の秘密」と言うのです。そこから岸信介、佐藤栄作、安倍総理も田布施町から出ているのです。

 この連中は朝鮮人です。これがどういうわけだかのさばって蔓延してしまったのです。ただし、420年前の朝鮮人ですから、「朝鮮人である」という強烈な意識はありませんが、藩として朝鮮人を囲っていたのは事実です。「あそこは朝鮮部落だから近寄るな」、「部落の人間と結婚してはいけない」と言っていたのです。

 朝鮮人には「お前達は部落の中で結婚相手をみつけて結婚しろ。言葉も朝鮮語をしゃべりなさい」と言ってきたのです。苗字も朝鮮名です。

 明治になってそこから総理大臣が出たので、脚光を浴びてしまったのです。いつまでも朝鮮の風俗というわけにもいかないので日本語をならって、太政官令(1871年)により部落民にも日本の苗字が与えられて、日本人と同じ生活ができるようになったのです。田布施の秘密があったのです。

 岸信介は暗い人です。あれは満州で麻薬を売っていたのです。麻薬が財源だったのです。そのようなことをやっていたのです。巣鴨の拘置所に死刑囚として入れられていたのです。知人が尋ねていくと、「俺は困ったことがあるのだ。チン●が立って立ってしょうがないのだよ」と言ったらしいのです。

 岸信介は死刑囚です。死刑囚がそんなことを言うのでしょうか? いつ死刑に成るかわからない身です。それが「立って立ってしょうがない」と言うのです。いい根性をしています。「それが俺の一番の悩みだ」と言ったらしいのです。

 悩みが朝鮮人的です。それが強く出てくると強姦になってしまいます。伊藤博文の乱暴狼藉を見てください。体は大きいし、手あたり次第、女性に手をつけてしまうのです。芸者だろうと人妻だろうと、人力車に引きずり込んで犯してしまったのです。

 それを聞いた明治天皇が「伊藤、おまえはいい加減にせんかい!」と言ったというのです。冗談半分で言ったのですが、それでも伊藤博文はやりすぎたのです。だから「いい加減にしろ」と言われたのです。それを見ても朝鮮人だとわかります。伊藤博文は体が大きかったのです。二度も養子にで出ているので、出自がわかりません。

 そのような話です。司馬遼太郎はそんなことは一言も触れていません。そのようなことを頭に置いてもう一度長州史をみると面白いと思います。それが、大室寅之助までいくと、いきすぎです。鬼塚英昭さんは死んでしまいましたが、「天皇は大室寅之助だ」と言っても庶民にはわかりません。証拠もありません。あまりそんなことを言わないほうがよいのです。それが歴史家の秦さんが言ったことです。「天皇がすり代わった」というのは、根拠のないことです。

 伊藤博文は足軽以下です。テロをやる以外、認められません。英国大使の焼き討ち事件にも伊藤博文は参加しています。暗殺事件にも結構参加しているのです。結局、身分がないから上に認めてもらおうと思うと、そのようなことをせざるを得ないのです。

 そのようなことも考えてみると、明治はなかなか深くて面白いね。

 

 

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