NHKEテレで『100分 de 名著スペシャル「100分 de 手塚治虫」』についての正月番組がありました。ブルボンヌや映画監督の園子温などが出ていました。結構みんな勉強しています。僕も手塚治虫は読んでいました。最初は西部劇を描いていたのです。手塚作品は面白かったし、絵が抜群に上手いのです。
手塚治虫は晩年になってくると変なマンガを描きだすのです。「ブラックジャック」や「MW(ムウ)」などの同性愛のマンガです。男と男が抱き合ったり、変なマンガを描いています。僕は読んだことがありません。
手塚治虫の本当の謎とは、彼は共産党員です。党員であるかどうか知りませんが、共産党の親派です。何故、そうなのかということを解明したいと思います。
手塚治虫はニヒリスト、及びアナーキストでもあります。何故、彼がニヒリストになったりアナーキストになったりしているのかというと、これには原因があります。手塚治虫は戦時中、大阪大空襲に遭っているのです。ちょうど大阪医学専門学校という、今の大阪大学の医学生の頃に戦災に遭ったらしいのです。彼は焼け野原の風景を見ているのです。
その時に原体験で何を感じたのかというと、「国も社会体制も意味がない」と思ったはずです。これが後の共産党の親派になる所以です。手塚治虫は国家というものを信じていません。「この焼け野原の状態を見て見ろ。何も信じられないだろう」と思ったのです。
人間、信じられなくなるとアナーキストになるのです。アナーキストは「すべての権威を認めない」ということです。会社の社長も、首相も、学校の先生の権威も認めません。これをアナーキストといいます。
早稲田大学に行く連中は、ほとんどアナーキストが多いのです。「インサイダー」編集長の高野孟もアナーキストです。何も認めていません。その原因は戦争によって日本がすべて破壊されてしまったということです。
「どんな物をつくっても、それはインチキなもので、やがて破壊される」ということを知っているのです。アナーキストだから、神も仏も信じません。その割に手塚治虫は「ブッタ」という大作を描いていますが、それもよく読めば、僕の言ったことが当たっているのです。
アナーキストは社会体制を認めません。アナーキストは唯物論になります。何も信じないのですから、神や仏という形而上学の形の無いものなど信じるはずがありません。目に見えるもの、例えば「酒が一杯あって、それが美味しければよいのだ」という考えです。
ストリップのネエちゃんがいれば、アナーキストは飛びつくのです。裸のネエちゃんがそこにいるのです。良いも悪いもないのです。だから、有名な永井荷風(ながいかふう)などの作家もそんなものです。ストリップ劇場に通い詰めて、変なおネエちゃんのケツばかり追いかけているのはアナーキストです。そんなものにしか価値を認めないのです。
アナーキストは目に見えるものしか価値を認めないのです。ということは、唯物論なのです。アナーキストは唯物論になるのです。「何故、人間が生きているのでしょう。何故、社会があるのでしょう。何故、これだけ多くの生命があるのでしょう」と考えます。
手塚治虫は最初、虫に関心を持ったのです。だから自分の名前も「治虫(おさむし)」です。虫が動くのが面白かったのです。彼は虫が動いているところにエロスを感じたのです。エロスとはこの場合、エッチなエロスではなくて、「生命力」という意味です。手塚治虫は動く者に非常に興味を持ったのです。
そこで、進化論が出てくるのです。物事は物理的に進化をして、生命ができて動いているものがあります。このように考えるのです。神はいません。「神に創られた」といえば、形而上学です。「今は本当に動いているのだ」と考えているのです。
それは唯物論的な方法で動いています。「何故、世界が出来たのか?」というと、進化論的にできたのです。進化論に神はいません。唯物論がよく陥る理論です。唯物論者と進化論信奉者は同じことなのです。
これは必ず体制の破壊に向かっていくのです。体制はいりません。人間以上の存在もないし、生命以上の存在もありません。神などというものは存在しないのです。これがアナーキストになる考え方です。これが「絶望」ということです。何の価値はありません。
アナーキストは目に見える自分の奥さんや子供は可愛がりますが、他の物の価値は一切認めません。神社など、とんでもありません。そのような考え方になるのです。この形を変えたものが共産主義になっていくのです。
これが手塚治虫です。作家はみな共産主義者です。「物をつくる」ということは、今出来ている社会に対して意味を認めません。「俺が世界をつくる」というのが文学です。自分が感じて「面白いと思ったものはこのようなものだ。この世界を表現して作品にする」ということですから、自分が価値をつくっていくのです。それが良いか悪いかではありません。エロであっても、オカマであっても、ホモであっても、何でもよいのです。そのようなものを自分がつくっていくのです。
「この世界は無秩序であって、何も決められたものがないから自分が世界をつくろう」というのが、芸術家の根本の思想です。ところがその彼の世界を造り終えてしまうと、もう何もやることがありません。それが三島由紀夫の最後の自決です。
ノーベル賞の川端康成も最後は自決です。文学者はほとんど自決するのです。作品をつくり終えた後は虚無になってしまうのです。ニヒリズムになってしまい、「何もやることがない」という心境に陥ってしまうのです。信仰心もないから、何もやることはありません。
「三島由紀夫の場合は天皇というものがあったではないか」と言いますが、あったことは事実です。しかし、これは国家主義的ニヒリズムというようなものです。普通のアナーキストには国家はありませんが、国家のあるニヒリズムが三島由紀夫です。
三島由紀夫は神というものを認めていますが、観念的な神であり、それは天皇ではありません。天皇が大事なことは、もちろんわかっているけれども、その天皇は「信用できない」と言っているのです。
何故、信用できないのかというと、「終戦の時に天皇は人間宣言をしてしまった」と三島由紀夫は言っています。では、英霊の300万人の人々は何のために死んだのでしょう。天皇を神と思っているからこそ命を賭けて戦ったのであり、死んだのです。
天皇が「私は神ではない。人間である」と宣言したと三島由紀夫は受けとっているのです。だから、それは「信用おけない」と言っているのです。
昭和天皇に対して「昭和天皇はご立派だった」とか言う人がいますが、それに対しても気に食わないのです。「天皇が人によって立派だと言うならば、ダメな天皇もいるのか」となってしまいます。それならば天皇は人間ではありませんか。
「そうではなくて天皇は神としての存在だから価値があるのです」そのように三島由紀夫は言っているのです。だから人間天皇に対して、非常に批判的です。三島由紀夫は「国家主義的ニヒリズム」というようなものです。
文学的ニヒリズムもあります。手塚治虫の場合は、根底に流れているものはニヒリズムです。それを克服しようと思って「ブッタ」や「火の鳥」を描いています。「火の鳥」など素晴らしい作品です。「火の鳥」は華厳経の唯識論の思想を持って、華厳経の思想で世界を捕えているのです。
世界には様々な生命がいます。しかし、この生命はたった一つなのです。それが無間に多様に開いて、何百万という生命があります。これはどうしてなのでしょう。「一にして多」という華厳の思想です。
これに到達していても、その奥にある仏教哲学の根本は掌握できなかったのです。読んでみて面白いのは「一にして多」という華厳経の思想ですが、本当の仏教はそんなことを説いたものではありません。仏教ではそれは付け足しで説いたのですが、手塚治虫は理解できなかったので、仏教を理解した人とは言えません。
三島由紀夫は「私の葬式は仏式で出さないでくれ。無我を説く仏式で葬式を出すと俺はもう生まれなくなってしまう。だから絶対に出してくれるな。葬式は神式で出してくれ。神式でだせば七生報国だから、またこの世に生まれてご奉公できる」と言ったのです。
しかし、根底に流れているものはニヒリズムなのです。これを見抜かなければいけません。手塚作品の根底に流れているものはニヒリズムです。
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