朝鮮半島の前方後円墳 | 中杉 弘の徒然日記

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現在、朝鮮から72基の前方後円墳が見つかっています。韓国の説明はこうです。「韓国の王に使えた日本人が前方後円墳をつくったのだ」このように言っています。

でも、考えてみるがよいのです。韓国の王様の墳墓は円墳です。それに仕えている日本人の前方後円墳の方が大きいのです。前方後円墳の長さは80メートルくらいあります。家来の方が立派な墓に入って、王様の方が2メートルくらいの墓に入っているのはおかしいのです。いくらそんなことを言っても通りません。

最近になって前方後円墳が韓国にあるとわかったのです。造った年代を調べるとだいたい5世紀以降です。日本の前方後円墳はだいたい2世紀から3世紀にかけてあります。日本では1万基ぐらいの数があります。すごい数です。

前方後円墳という独特な墳墓を持つということは、日本の文化にたいしてものすごく自信を持っていたのです。規模が全く違うのです。これは、中国の歴史書にも書いてありますが、「海の中に大国がある。倭という国は大国である」と言っています。小さな国ではないのです。大国が東にあるのです。絹はある、土器はある、刀・槍・鎧兜もあります。米はたっぷりとれます。

日本の稲作は紀元前7千年前から始まっています。驚きです。これには2つ説があります。水田だったという説と、“おかぼ”だったという説です。どちらにしても、7千年前から日本人は米を食べていました。

その時に、朝鮮半島には誰もいません。何故わかるのかというと、発掘すると何も出てきません。出てくるのは2千年前後です。考古学では掘ってみて、何も出てこなければ人はいなかったとされるのです。土器は出てこないので、「人はいなかった」というのが、定説になったのです。

3千年前に朝鮮半島に人はいなかったのです。そこに倭人が住み着いたのです。そう考えないと朝鮮の歴史はわかりません。人は住んでいなかったのです。これは土器が出てこないことから証明されます。

そこに入ってきたのは倭人です。朝鮮とか、半島という言葉もなかったのです。その土地を開墾して畑をつくってきたのは日本人です。百済も新羅も高句麗の一部も倭人だったのです。これは『三国史記』という朝鮮の正史にちゃんと書いてあります。

倭人が百済・新羅を造ったのです。新羅の王様は「朴」と言いますが、朴とは、「ヒョウタン」という意味です。ヒョウタンをぶら下げて、日本から大陸に渡ってきた人がいたのです。それが「朴」と名乗ったのです。家来もすべて倭人です。

『三国史記』の中に「倭の五王」が出てきます。讃、珍、済、興、武という五王が朝鮮半島にいたのです。朝鮮半島の半分は日本人が占めていたのです。上の方から満州族やモンゴル族が来て、押されてきたのですが、半分は倭国の領土だったのです。それが国を造ったのです。

国を造った中で、土着の人間も採用したのです。それが本当の歴史です。今いる朝鮮人と、その当時いた倭人とは、全然民族が違います。エベンキ人がどんどん侵入してきたのです。

まず、エベンキ人は高句麗を侵略します。新羅を侵略して、百済を侵略して、日本人を追い出したり殺したりして、どんどん背乗(はいの)りをしてきたのです。背乗りをして奪ったときに、元の国の名前を名乗ったのです。

高句麗は高麗、新羅はそのまま、百済もそのままです。そこにエベンキ人が入ってきたのです。日本人はエベンキ人が侵略してきたので、日本に引き揚げてきたのです。倭の五王とは倭人のことであり、朝鮮半島の人間ではありません。

中国の史書でも「倭は大国であり、ものすごい文明をもっている」と書いてあるのです。当時絹を真っ赤に染めて中国にもっていったのです。絹を真っ赤に染める技術など中国にもありません。それ一つ見てもすごいのです。

勾玉を作る技術もすごいのです。勾玉は硬度が7~8です。硬度10がダイヤモンドですから、これは最高に固いのです。硬度6が鉄です。鉄ではヒスイは加工できません。勾玉の穴はどのように開けたのでしょう。開けるのは1年半ほどかかったのです。

石英(水晶)を粉にして、穴を開けたのです。勾玉1つ造るのに1年半はかかったのです。世界の大王たちはみな欲しがったのです。中国と貿易するのに勾玉1個を献上したのです。そのくらい貴重なものだったのです。

刀は朝鮮を通って日本にきたというのは大ウソです。日本の刀は玉鋼(たまはがね)で、砂鉄から取るのです。

朝鮮の刀は鉱石から取って型に流し込んで造るのです。今でいう「鋳物」です。日本にきた七支刀を日本鋼管で分析したら、銑鉄だったのです。鉄をドロドロに溶かして型に流したのです。それもわかってしまったのです。

日本でそんなことをやって造った刀はありません。叩いてつくったのです。日本刀の原型は蝦夷だと言われています。蝦夷がよい刀を持っていたのです。「あれが欲しい」と評判になって、蝦夷が刀鍛冶になった例が非常に多いのです。日本の東北にいた蝦夷は、鉄の製鉄の技術を持っていたのです。刀の歴史は、もっと古いのです。

朝鮮半島は倭人が造って、倭人が譲り渡してきた土地です。様々な書物を見ても「倭国の属国」と書いてあります。百済も新羅も倭国の属国だったのです。

属国で同盟関係を結んでいるから「助けてくれ」と言われれば助けなくてはいけません。自分の国だから援軍を送って助けようとしたのです。倭人が朝鮮半島に国を造ったのです。

朝鮮半島には倭人がいたのです。そこにエベンキ人が侵略してきたのです。そのような歴史です。前方後円墳は倭人が造ってきたのです。倭人は日本のしきたりを守って前方後円墳を造ってきたのです。朝鮮半島の東側にあります。

広開土王の碑には、「倭人が平城まで攻め登った」と書いてあるのです。それを「ウソだ」と言うのです。それも調べたたら本物だったのです。朝鮮半島には「朝鮮人」という民族はいなかったのです。倭人、エベンキ人、女真族、漢族がごちゃ混ぜになって造ったのが「朝鮮人」です。

だから、「朝鮮人」を探していくと、消えてなくなってしまうのです。朝鮮半島から逃げてきたのが島津家です。朝鮮半島の経営から手を引いたということです。島津家の先祖を「新羅三郎義光」といいます。朝鮮人ではないのです。新羅にいた倭人が帰ってきたのです。

山口県の大内家もそうです。「百済の聖明王の第三皇子の子孫だ」と言っています。百済の聖明王は日本人だったのです。そのようなことを頭に置いて前方後円墳の問題は見ていかないといけません。


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