公明党は創価の僧兵である | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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※僧兵火祭り


一般には、お寺というものの認識があまりよくわかっていません。京都には大覚寺のような有名なお寺が数多くあります。お寺はどのようにして食べているのかあまり知られていません。そして、経営者は誰なのでしょう。政府からお金が出ているのかと考えます。お寺の勢力は不思議です。

 お寺はどこから生まれたのかというと、大部分は天皇からもらったのです。お寺には田んぼもついています。神社も天皇が建てて、田んぼもついているのです。何万石、十万石のお寺もあります。

 伊勢神宮の場合は、収入は100万石くらいはあるのだと思います。お寺・神社は領地を持っています。その上がりをもって生活していくのです。田んぼもあり、百姓もたくさん抱えているのですから、実際は大名と同じです。

 当時、大名がお寺の土地を狙っているし、他の豪族もお寺を狙っています。貴族もお寺を狙っています。「あそこのお寺を取れば俺の収入は100万石になる」という目で見て、よだれを垂らして狙っていたのです。

 それらに囲まれたから仕方なく、坊主の中で威勢のよい者を選んで「お前はお寺を守れ、お寺を守ることがお前の仕事である」と言われて、僧兵が誕生したのです。当時、僧兵は頭の毛を剃らなくてよかったのです。身分は僧でお寺を守ることです。

そのようにして始まったのが僧兵です。大名がつくった組織でもなく、お寺が自分たちの領地を守るためにつくった兵隊と考えればよいのです。僧の形をした兵隊です。だいたい多いところでは8千人くらい僧兵がいたのです。

比叡山延暦寺は、3千人から4千人です。興福寺でも3千人くらいいたのです。すごい数だとわかります。お寺にいる3千名から4千名の僧兵は、仏法を修行するお坊さんではないのです。坊主の格好をした兵隊です。

勢力がついてくると今度は押し出してくるのです。何かもめ事があると、「よし、行って来い」と坊主に言われて、高下駄をはいて、なぎなたをもって集団で出かけて行ったのです。得意なのは、火付けです。僧兵は、これが得意です。

逆らうとすぐに「火をつけろ!燃してしまえ!」と燃してしまうのです。恐ろしい集団です。これと戦ったのが、浄土真宗の蓮如です。蓮如は比叡山延暦寺の末寺だったので、人選は比叡山延暦寺から坊主が来て「お前を館長にする」と言われてきたのです。

それがずっと続いてきたのです。お寺に念仏の信者が増えてくると、もう比叡山延暦寺はいらないのです。阿弥陀仏だけがあればよいのです。蓮如は、何とかして比叡山を離れようと思っていたのです。

最初は比叡山延暦寺に「お前、俺たちと手切れをして独立したいならば、お金を積め!」と言われたのです。蓮如が「いくら積めばよいのですか」と聞くと「できるだけ多く積め」と言うので、家一杯のお金を信者から集めたのです。

蓮如は「このお金で独立するのを認めてくれ」と言うのです。僧兵はお金をすべてもっていき、また次に来て因縁をふっかけてくるのです。これではたまりません。最後には「火を付けろ!」と僧兵が蓮如のお寺に火をつけて燃したのです。

すると蓮如は大喜びをして、「これで安心だ。延暦寺からもらったのはお寺だから、お寺が燃えてしまうということは何もなくなり、我々は比叡山延暦寺の信徒ではない!」と言い出したのです。それで、浄土真宗をつくったのです。

僧兵はそれくらい怖かったのです。火はつける、かっぱらいはする、その他、市(いち)をつくり、お寺は税金を取り、上納金を9割もはね上げていたのです。

市(いち)は、坊主の大事な収入源だったのです。それに信長は腹を立てたのです。関所をつくり、「ここは通ってはいいけない」と坊主が言い、通るためにはお金がいります。市(いち)をつくって商売するのもお金がいります。坊主は、僧兵を持っているので、何でもかんでも権益を広げていったのです。

こんなことをやったら日本の経済が縮小化して自由に商売ができません。そこで信長が考えたのが「楽市楽座」です。「楽市楽座」により寺社がもっていた権益を信長が「払う必要はない!」と言ったのです。だから、庶民は喜んだのです。

「楽市楽座」では自由に商売できるのです。坊主は当然、自分たちの権力を阻害されたので、「ふざけるな!」と僧兵の方から押しかけてきたのです。

比叡山延暦寺は僧兵を4千人持っているのですから、大名と対抗できるのです。僧兵は信長に対抗して負けたので、坊主の権益をすべて取っ払ったのです。比叡山延暦寺の焼き討ちは、そのような意味があったのです。

織田信長は特別残忍であったのではないのです。そのような旧世代的なものを取っ払ったという意味があったのです。僧兵は戦争に負けるたびに縮小されました。寺の場合は僧兵です。神社の場合は神人(しんじん)と言ったのです。神人は「神社のために戦う人」という意味でいたのです。同じように戦う組織をつくっていたのです。

しかし、戦争は武士のほうが強いので、だんだん武士に押されていき、やがて徳川時代を迎えます。徳川時代は上手い方法を考えて、ローマ時代と同じような方法をとったのです。どんな方法かというと、「私も念仏の信者です」と言っているので、民衆の方も宗教革命はできません。

殿様が「念仏の信者です。仏教を信じています」と言うので、僧兵はその限りにおいては手出しできません。ローマ皇帝と同じです。「私はキリストを信じます」と言ってしまえば、キリスト教徒はローマ皇帝に手出しはできません。

この集団を政治的に利用しようと思ったのが家康です。すごいタヌキジジイです。坊主たちは税金を免除するけれども、僧兵など持つことを許さなかったのです。

そして、区役所の仕事を与えたのです。お寺とは、「社務所」という意味ですから、お寺は一人の人間を生まれて死ぬまで寺に所属させて、少しでも変な奴がいた場合は、お役人にしょっ引かれたのです。

まず、しょっぴいた奴に宗教を聞きます。「どこのお寺だ」とお役人が聞くと「●●のお寺だ」と言います。そのお寺へ行って調べると、山田太郎がいました。すると、実在するとわかります。調べてもいない場合は、「この寺の信徒ではないな。お前はキリシタンだろう!」と言われたのです。非常に上手い制度です。

この制度が江戸時代になると、僧兵の名残としてつくったのが寺侍(てらざむらい)です。寺侍は一応、侍ですが、最低の馬鹿にされた侍です。侍といってもお寺の家来です。お寺を大名として使えていたのです。たいした人数はいなかったのです。大きなお寺でも100人程度です。身分は寺侍です。一応、これも僧兵です。神社にも神人がいて、これが寺侍と同じ役割をしたのです。

それから公家さんは大名ではありませんが、公家に使える侍もいたのです。これは青侍(あおざむらい)と言われたのです。これらが江戸時代にかわっていったのです。要するに、お寺は大名と同じものであり、領地田畑をもった偉大な支配者がお寺であったということを忘れないようにしましょう。現代では公明党は創価学会の僧兵と言えます。


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