“ホラッチョ”と反対の人 | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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「知己(ちき)を100年先に求める」と言った勝海舟


 僕が一番尊敬する人の中に勝海舟がいます。この人は本当に偉い人で、今時の政治家は耳の穴をかっぽじって勉強してもらいたい人です。

 勝海舟は、政治家なのか、哲学者なのか、学者なのか、剣術家なのか、よくわからないところがあります。一筋縄ではいきません。幕府の“海軍奉行並”までやられたのですから、海軍大将でもあります。

 外国語にも堪能でです。英語・オランダ語・漢学もこなし、なにしろ剣術はめっぽう強くて、小柄で157センチです。ずいぶん小さい人です。このような得体のしれない人です。

 反対に体が大きくて、大度量をもった西郷隆盛と勝海舟が初めて会った時に、「肝胆相照らす」仲になったのです。「肝胆」の「肝(かん)」は肝臓です。「胆(たん)」は胆臓です。「自分の体の中の肝臓と、胆臓を見せ合う」という意味です。

 お互いに腹の中をさらすことを「肝胆相照らす」と言うのです。瞬間にしてそれを見抜いてしまったのです。西郷隆盛はどのくらい大きな男かわかりません。とてつもないのです。大きく打てばどこまででも大きく響き、小さく打てば小さく響きます。どうにでもなる人物です。いかなる相手が出てきても、相手の大きさに応じて自分を変えることができるのが西郷隆盛です。西郷隆盛は「有言実行」です。言ったことは必ず実行するのです。

 勝さんに「どのような気持ちを持って生きているのですか?」と聞くと、「知己(ちき)を100年先に求める」と言ったのです。「自分は100年先に目を向けて、すべてのことを行っている。今の人達は俺の悪口を言い、徳川幕府の家臣でありながら、新政府に使えて伯爵までなったずる賢い男という奴もいるが、そんなことはどうでもいいのだ。私の目は100年先の人を見つめているのだ。今の連中に理解されようなど、まったく思っていない」と言っていたのです。

昔、勝海舟を100年先の人が認めてくれて、「こんな偉大な人がいたのだ」と思ってくれればよいのです。勝さんのスケールは大きいのです。言い訳もしないのです。では、勝海舟は明治以降どのような仕事をしていたのかというと、徳川の旗本が事を起こして反乱を起こさないようにしていたのです。

その芽はあったのです。幕臣とは偉大な集団で、跡形もなく戦争もせず消えたのですから、幕臣達は怒っています。くすぶっていたのです。まず、武士という特権階級の身分をなくされました。丁髷(ちょんまげ)も切り落とされ、刀を持つことも禁じられたのです。これではもう武士ではありません。禄(ろく)もなくなってしまったのです。

給料はもらえない、侍の身分はなくなってしまい、武士の身分の象徴である両刀を差すこともできない、すべての物を武士から奪ったのです。奪われた人間は怒り心頭です。長州、薩摩の田舎侍が、ふんぞり返って「お役人様」と呼ばれたり、子爵・伯爵・男爵と呼ばれてふんぞり返っているので、むかつくのです。

明治もくすぶっていたのです。士族全体に及んだくすぶりが続くのですが、明治10年の西南戦争で終わったのです。西郷隆盛がやったわけではないのですが、西郷軍が謀反を起こしたのです。

この謀反の政治目的はないのです。ただ、「こんな世にしやがって、元の武士の世の中にかえせ!」という主張です。こんな状態が全国にくすぶっていたのです。、江藤新平の佐賀の乱(明治7年)、熊本の神風連の乱(明治9年)が続いて、一番大きな乱が西郷隆盛の西南戦争(明治10年)です。これが終止符です。

徳川家の家臣は乱を起こしていません。徳川家の三河以来の家臣は何一つ反乱を起こしていません。大人しく静岡に行って開墾して茶畑を造ったのです。ほとんど、徳川家の武士が開墾したのです。今の茶畑を経営している人の家系を訪ねると幕臣です。しかも、徳川の直参の武士が多いのです。

旗本たちを食べさせなければいけないので、そのような仕事をやったのです。或は北海道に行った人間もいます。普通の開墾をして農民になった者もいます。しかし、くすぶっているのです。「俺たちが治めていた世の中を薩長のキチガイが来て取り上げて威張り散らしている。クソっ! 事あればやってやるぞ!」という意見もあったのに違いないのです。

それを勝海舟は察知していたのです。「俺の一番大きな仕事は、旗本たちに反乱をさせないことだ」と言っていたのです。戦争を起こして、戦争をやめさせたならば、「英雄」と言われます。「俺は戦争を起こさないようにしてきたのだ」だから、功績もないのです。

戦争が起きて、鎮圧したならば「英雄だ」と言われます。そうではないので、そのためにどんなに苦労したかというと、怪しい奴が来て「食えない」と言えばお金をあげたのです。「開墾して畑をつくりたい」と言えば、お金をあげたのです。

勝海舟はそのようにして、面接して一人一人が立ち直るように、お金をあげていったのです。だから、伯爵にもなったのです。お金がなければ何もできません。もらったお金をすべて投資したのです。「事業家になりたい」という人間にはお金を貸し付けて、その利息をもらい、それもまた配ったのです。

それだけ見れば「勝はゼニゲバだ!」と言われても仕方ありません。それを知っているのです。そんなことはどうでもよいのです。今の人間が逆らわないように全力をあげて就職を世話したり、お金をあげたのです。それを氷川でずっとやってきたのです。

だから勝海舟が何をやった人なのか皆知りません。でも、100年も経って「勝が何をやっていたのか」と調べる人が出てきて、「ああ、勝さんはそのようなことをやっていた人なのだ」とわかってくれえればいい、「知己(ちき)を100年先に求める」これは立派な精神です。

僕もこれに感動して「僕もそのような仕事がしたいな」と思ったものです。今、やっている正理会(しょうりかい)も実はそのような仕事です。今の人は僕のやっていることはわからないでしょう。左にかぶれ、右にかぶれ、中道を忘れてヘイトスピーチをやり「日本海に叩きこめ!」などと言っています。

左翼は「日本の全てが悪いのだ」と言い、このような左翼の時代から右翼の時代に変わったのです。そのような時代に何が一番大事なのかというと、中道の精神、皇道の精神です。「皇道」ということが抜けていれば、その運動は意味がないのです。

ヘイトスピーチをやっている人間はいますが、「皇道」という「我が国の歴史はこうである」ということを知らなければいけません。左翼でも右翼でもない、日本人としての当たり前の行動、当たり前の精神を残していかなければいけません。

しかし、今の人間には、まずわかりません。赤にかぶれて、右にかぶれているのです。どっちの人から見ても僕は化け物のように見えるでしょう。そんなことは知っています。だからこそ、やっているのです。100年先の日本人が見て、「こんなことを考えていた人がいたのか」と思ってくれれば、それでよいのです。

これは勝先生から習ったことです。そうでなければいけません。それに比べたら政治家どもは一体何でしょう。ゴミです。“ホラッチョ”ばかりです。もうじき、舛添は泣きます。「うわーーー!」と泣いて、「申し訳ありませんでした!」と言って土下座します。

「あんなに泣いて反省しているのだから、もう一回やらせてみようかな」と思うかもしれませんが、まず思わないでしょう。

野々村元議員と同じだから泣き出します。舛添は今、自分がやったことをひしひしと感じ取っているのです。最後に逃れる方法は泣きわめくしかありません。都知事などという偉い者が、泣きわめいて土下座したり、“クレヨンしんちゃん”の本を経費で買ったとかくだらないことです。何たる小者でしょう。

朝鮮人に大物政治家はいないのです。朝鮮には歴史がないのです。歴史がない人間は「100年先どうなるのか?」などと考えていません。「100年先の立場」など、そんなことは絶対にあり得ません。

日本人には長い伝統があるから、歴史の中に生きているのです。「今わからなくても、100年先にはわかる人が出てくる」というのは、歴史の長さから出てくる発言です。それを説いたのが『氷川清和』です。読んだ人もいるだろうけれども、是非この『氷川清和』をお読みになるといいと思います。

最高の本です。人生の見方、人物の見方、精神のあり方、修行とはこのようなものか、外交とはどのようなものか、ということが真細かく書いてあります。この本は勝海舟が書いたのではありません。多くの人が氷川町に行って勝さんのお話をいろいろと伺って、書いたものを集めて一冊の本にしたのです。

勝海舟が書いた本ではありませんが、よく人柄が出ていて、面白い本です。しかも、非常に参考になる本です。是非お読みになることをお勧めします。すでに読まれた方は、再読されることをお勧めします。


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