僕の3つの夢 | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

 僕はずっと人類の歴史を見ています。人類の歴史と言うと抽象的ですが、日本の歴史、韓国の歴史、中国の歴史、アメリカの歴史、ヨーロッパの歴史をみています。

 歴史を見て行く中で、一番大事なことは思想です。歴史をつくっているのは、意外だと思うかもしれませんが思想です。原始時代はともかく、相手の物を力づくで奪い、ぶっ殺し合うという時代はぬきにして、平和な時代は新しい思想により突き動かされて、次の世界をつくるのです。そのような意味で思想は意味があります。

 戦国時代は相手をぶっ殺して力ある者が奪うので思想に価値がありません。平和な時代に次の時代ができてくるのは思想からです。中国では、孔子・孟子という思想家が現れました。孔子は「聖人」と呼ばれていますが、日本の「聖人」と意味が違います。中国人は政治思想家を「聖人」といいます。韓非子もうそうです。

 中国で一番関心のあることは政治です。「世の中をどのように治めていくのか?」ということに関心があるのです。孔子は「仁義礼智信」といいました。儒教は礼にうるさいのです。皆が「仁義礼智信」を守ったときには、反乱しようがありません。非常に格調の高い社会が生まれます。「仁義礼智信を守ればよい政治が行われえるであろう」というのが孔子の教えです。

 中国は政治思想の歴史です。韓非子も政治思想家です。中国の歴史をのぞいてみれば、世界は西洋の歴史にのっとっているわけです。西洋の歴史観が今の世界史をつくっているともいえます。西洋の歴史観の根本にあるものは、キリスト教です。

 キリスト教以前では、ユダヤ教です。このユダヤ教を信じる者、或はキリスト教を信じる者が西洋史をつくってきたのに違いありません。西洋の価値はキリストに始まり、キリストに終わります。

 これが中世の時代も続いてきているのです。中世が終わり、近代に入ると人々は疑問を持ち始めたのです。キリストの世なのに、戦争・戦争で終わりません。まして、第一次世界大戦では何千万人が殺し合う時代です。

 その時に初めて疑問に感じた人が出てきたのです。何が疑問なのかというと「神は存在するのか?」ということです。今までは神の存在は絶対の事実です。ところが「神が存在するのに何千万人が殺し合っておかしいのではないか。もしかしたら神は存在しないのではないか」と考えて憂鬱になった人々がいるのです。これをニヒリズムといいます。

 神はいないのです。ニヒリズムの代表がニーチェです。ニーチェは、神に裏付けされた西洋社会の価値観をすべてぶっ壊したのです。「神はいない。神は死んだ」と言ったのです。だからこの世に守るべきもの、恐るべきものはないのです。

 すべてがカオスで混沌としていて、どこにも価値観もなければ、普遍的なものもありません。ドロ沼のカオス理論です。ニヒリズムは、「あらゆるものは意味がないのだ」と声高らかに言ったのです。

 政治思想的にいうと、ニーチェは世界をぶっ壊したのです。それまでのキリスト教中心の世界観をブッ壊したのです。何故、そのような世界観が現れてきたのかというと、その原型の考え方は唯物論です。

 唯物論では神は最初からいません。「神が世界をつくり、神の言うままに人生を歩んでいる」ということが安心した生き方ですが、唯物論では神はいないのです。

 唯物論では人間がどのように生きようが、まったく自由です。神はいないのですから、やりたいことをやればよいのです。これをニヒリズムというのです。ニヒリズムを唱えたニーチェは、頭が狂い狂人になって死んだのです。「何も信じるものがない」と言うのですから、当たり前です。

 あらゆるものに疑いをもって「何も価値がない。神は死んでいない」というのです。そんなことを唱えたニーチェは結果的には自殺したのです。ニーチェが世界の価値観を破壊したのです。

 それを見て「ニヒリズムはおかしいな。やはり価値はあるのではないか」と考えたのです。「自分が今、ここに存在しているということは事実である。これだけは疑いようがない」。これはデカルトの「われ思う故に我あり」と同じです。

 「私が思っているということは存在するのだ」『われ思う故にわれあり(コギト・エルゴ・スム)』実存主義はこれと似ているのです。自分が感じ取っていることが人生のすべてです。

 自分が感じ取っていることを「実存」というのです。それを中心にしていくとニーチェの破壊された思想から脱却できる一つの方法だったのです。「今ある自分だけは真実なのですから、その自分の実存に従って生きていこうではないか」ということを実存主義といいます。

 実存主義はどちらかというとエゴイストの思想です。この実存主義を唱えたサルトルは、社会運動をけっこうやっています。「自分だけよければよい」と唱えたサルトルが、社会運動をやっているのですから、社会とは無縁ではないのです。

 実存主義を唱えたのは、サルトルやカミユです。「感じることを大事にしていこう」フィーリングの世界です。

 しかし、まってください。「感じること」と言っても、人間は社会の中に生まれてきています。社会と人間の関係は切っても切り離せません。「人間はどのような構造の中に生きているのか」ということを研究して、そこから生まれてくる人間の生き方があるはずです。これが構造主義です。言葉は非常に難しいのです。

 土人はアフリカの中に生まれてきて、独特の考え方と哲学を持ちます。日本人は日本人の社会に生まれて独特の人生観を持っています。それを単純に比較して「日本社会が優れていて、土人の社会が劣っている」という考え方はまったくないのです。

 その社会に応じて人間が生まれてきたのです。社会そのものが「良い」「悪い」とは言えないのです。アフリカ人に西洋の文明を押し付けても、アフリカ人にとって幸せだかどうかはわかりません。アフリカの中に自然に生まれた文化なのですから、太鼓を叩くのがフリカ人の文化です。

 「アフリカの文化と、西洋の電車があり、電気があり、冷暖房が整った社会と、どちらが優れているのか?」と比較することは無意味です。その構造からみていくべきなのです。それを唱えたのがレヴィ=ストロースです。

 レヴィ=ストロースの場合、構造主義の対象として日本を選んだのです。彼はフランス人ですが、極東にある不思議の国日本に目をやり、何回も来日して「なんとこの国は文化的に優れているのか!」ということに気が付いたのです。

 ここに西洋人がおいつけない、大きな文化の融合と自然と融合した素晴らしい文明があるのです。知性的であり、美的で、豊かなセンスをもった文明が日本です。「今後、世界を救う思想はこのような国の思想でなければならない」と気が付いたのがレヴィ=ストロースです。

 彼はことあるごとに日本の文化に感動したのです。何を見ても感動したのです。日本の文化は西洋にはありません。

 今は構造主義は否定されて、「脱構造主義」が現代の主流になっています。そのように考えるとわかるのです。

 僕がやろうとしていることは、このような歴史をずっと見てきて、「今後人類はどうしたら幸せになれるのか?」ということを考えています。結果的に、人間をつくっていくのは思想です。「その人の根本において、何を考えているのか?」ということです。思想がない人間は獣と同じです。

 「私は思想などありません。気に入らない奴はぶっ殺すだけです。食いたいものはぶっ殺して奪うだけです」これでは話になりませんが、普通は思想があって、その通り行動しているのです。

人類で一番大事な問題は思想です。思想が一番大事です。キリスト教も思想です。ユダヤ教も思想です。唯物論も思想です。みんな思想です。

 「その思想で皆がうまくやっていけるのか?」と言うことが大事なことです。思想は高低浅深があって、みな同じではありません。すべて違います。

 思想を研ぎ澄ませて、「人類にとって最も有益な思想は何か?」ということを探し出して人類に与えていくことが僕の仕事です。そう思ってこのブログを読んでもらえればわかりますが、僕がやろうとしていることはそのようなことです。



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