世界の歴史の流れをみる | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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 戦後、非常に流行った思想がありました。その思想はサルトルに代表される、実存主義です。言葉は非常に難しいですが、よく考えてみるとそんなに難しいことではありません。それまでの価値観は国家、文化であり、その中に人間が生きてきました。

 戦後、負けて滅茶苦茶になった国では「そんな価値観は古い。国家もなければ文化もないのだ」と考えて何を頼りにするのかというと「実存」を頼りにしたのです。

 実存の深い解釈をすると「自分を感じること」なのですが、実存主義とはそんな深い解釈ではないのです。そこまで至らないのです。

 「実存とは何か?」ということも解明していません。「実存主義」と言いますが、「実存」とは何でしょう。僕は高い次元から見ているからよくわかるのですが、実存とは自我のことだと言っています。

 人間は自由を選びます。自由に生きたいのです。自由に生きたいのですが、「自分」という実存があります。その「実存とは変えられる」と言っているのです。どうして変えられるのでしょう。それは努力と勉強により「くだらない自分」と思っていたのが、何か目的を持ち、歴史の研究をしたりすると未来が変えられていきます。

 人間に「本質」というものが存在すると、未来を変えることはできませんが、本質はないのです。人間に本質はなく、自由があるだけです。自由に未来をつかみ取っていくのです。その時に感じ取っていくのを実存というのです。これがサルトルの実存主義です。

 よく考えてみると本当の実存とは、生命のことです。生命を感じ取っていくのです。仏教から見ると社会の枠など最初からないのです。必ず社会の枠があり、「そこからの自由だ」ということを言い、そこで感じ取っている自己のことを実存というのです。責任を持って自由に生きていくことを実存主義と言ったのです。サルトルの実存主義は爆発的に流行ったのです。

 それと同世代のフランス人のクロード・レヴィ=ストロースは、サルトルの反対の意見をいうのです。レヴィ=ストロース構造主義と言ったのです。これも難しい言葉です。何が構造主義なのかというと、実存とは個人から見ることです。自分が根底で思っていることを実現化して、社会に還元するのですが、出発は「自分」です。

 構造主義の場合は、自分はないのです。社会の中の一員です。サルトルも実存主義といますが、社会革命に奔走するのです。要するに自分の枠にこもっているわけではなく、社会活動もするのです。

 もっとそれを理論的に言ったのが構造主義です。人間は社会の中に生まれています。「どのような社会の枠に生まれたのか?」ということを構造的に把握しなければいけないのです。それを構造主義といいます。「お前は未開の土人に生まれたのか。では、未開の土人の社会がお前の構造だな」その構造の中に生まれているのですから、「未開の土人の考え方が見について当たり前だ」という考え方です。

 或は西洋文明に生まれたならば、文明の中に規制されているのです。単独の自由などないのです。「実存主義は単独の自由がある」というのです。構造主義は、「単独の自由はない」というのです。

 土人がもっている文化も構造主義で言うと関係ありません。土人は立派にこなしているのです。アフリカで太鼓を叩いて歩いています。シャーマンが呪術師となり、あれは文化です。構造主義から言うと、そのような文化があってよいのです。

 その文化は環境に適合しているのです。西洋人は背広を脱いでアフリカに行って土人の文化に適合できません。土人は野生のままで適合しているのです。それは、構造主義的にいうと、文化なのです。

 レヴィ=ストロースという人は、日本大好き人間です。日本が好きで何回も来ているのです。「日本の文化くらい優れているものはない」と言うのです。何故、優れているのかというと、まず、日本の版画が大好きで自分の部屋の中に版画を飾っています。「こんなうれしいことはない。私はこの版画を見ていると何と幸せなのだろうかと思う。そして、この版画を書いた日本の社会はどのような構造になっているのか」とものすごく興味をもって、日本のことを研究していったのです。

 レヴィ=ストロースにとって、何もかもが新鮮で、すべて西洋社会とは逆の文化です。日本人はノコギリを手前に引きます。西洋人はノコギリを外に向かって引きます。押すのと引くのと、これだけ文化の違いがあるのです。どちらが良いとか悪いとかの問題ではないのです。すべて違うのです。

 だから、西洋から見て「日本の文化は劣っている」と考えるのは、まったくの間違いであり、実は日本の文化を構造主義的にいうと、もっとも最先端の文化です。だから日本に憧れて日本の研究をしたのです。

 この人は「世界はやがて日本型の文化に変わっていくだろう」と言っています。日本人は差別もしない、人に優しい、西洋人は人に厳しい、競争が激しくギスギスしています。これも社会から生まれてくるのです。日本型の思いやりを持った優しい文化、清潔で素晴らしくセンスの良い文化は日本からしか生まれません。

 レヴィ=ストロースは「やがて世界は日本化していくのに違いない」このようなことを言っています。このように我々日本人は理解すればよいのです。

 日本を知った人間は、「構造的に本当にすごい国だ。全く無駄がない」とわかります。日本はゴミも出ません。江戸時代にはゴミなどないのです。ゴミがない国などありません。フィリピンなどはゴミの山です。日本はそんなことはないのです。すべてリサイクルして肥料にして使ったのです。

 江戸時代は人糞も売れたのです。長屋で糞をすると桶になっていて、それを大八車で百姓が買いにきたのです。大八車に人糞をつんで百姓は帰ったのです。その人糞を畑にまいたのです。人糞は大切な飼料です。人糞でずいぶんお金を儲けたのです。長屋の管理者は人糞を売る権利を持っているのです。

 それを百姓はもって帰ってお米や野菜などつくったのです。何一つ無駄がなく、完璧な社会だったのです。このような文化はすごいものです。世界はそれを見習わなければいけません。どんどん消費してポイポイ捨てて、新しいものを求めていくなど、何も面白いことはないのです。

 「日本の文化が遅れている」という奴がいたら、頭をぶん殴ってやりたいくらいです。日本にこそ世界最高の世界が見習うべき文化があるのです。




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