共産主義者の正体 | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
ユニークな視点で書いています。

 共産主義に対していろいろなことが言われていますが、どこがどのように間違っているのかということについては、最近あまり議論がありません。

 「日本共産党」、「ソ連共産党」、「中国共産党」などありますが、共産党とは何なのでしょう。そのことの議論があまりないのです。共産主義は唯物論です。それを認識しなければいけません。「唯物論とは神はいない」という思想です。これが唯物論の特徴です。

 一番の特徴は「神はいない」ということです。「神が人間や、世界を創ったのではないのだ。自然法則が働いて、動物が淘汰に基づいて人類ができてきたのであり、どこにも神はいないのだ」という無神論です。

 信仰を持つ者は共産主義を徹底的に恐れなければいけません。僕の高校時代はそのような論争が盛んで、「唯神論か」、「唯物論か」という論争を行っていました。唯物論は科学的唯物論というのです。彼らは科学だというのです。

 科学的唯物論が社会を生んできたので、社会主義は唯物論の延長線上に咲いた花なのです。まず、アメーバは神が創ったものではなく、地球に海底ができたときに生命ができてきたのですが、単純な生物だったのです。それがたくさん集まって、集合して新しい生命ができたのです。その生命が集合して新しい生命ができてきたのです。

そのようにして、生命は海から生まれて陸に上がり、木や草や動物になったのです。その過程には神は全く関与していないのです。後は、進化論の法則により適者生存です。環境に適合するものだけが生き残り、他の生物は死滅するのです。「人間が一番適合しやすいので生き残ってきたのであり、神が創ったものではない。自然法則で出来上がったのが人間だ」これが進化論です。

共産主義は、この人間が団体にとって役に立つ場合はよいのですが、役に立たなくなると抹殺しても「人殺し」という概念がないのです。自然界の物として発生したのですから、生命の尊厳などどこにもないのです。自然に生命は出てきたのです。自然にわくようにして出てきたのですから、生命の尊厳はないのです。

 「神が人間を創った」というから、生命の尊厳が出てくるのです。神が人間をお創りになったのです。「神はいないのだ。自然にできてきたのだから、今の人間を半分殺してもどうってことはない。単なる数が半分になっただけですから、尊厳はどこにもない。」これが共産主義者の考え方です。神様が人間を創ったのに、人間が人間を殺したら人間は大悪人です。

結論を言うと、「唯物論なのか」、「唯神論なのか」という論争を続けてきてまだ決着がつかないのです。すべての神を信じる者は共産主義を憎まなければいけません。唯物論などあってはならない破壊の思想です。唯物論だと何も神秘性がなくなってしまうのです。「生命は自然にできたのです。だから殺してやる」というのです。それは自然に帰ることなので、「人を殺す」ということに関して共産主義者はどこにも善悪はないのです。「邪魔な者は殺せ。いらない者は捨てろ」これが社会主義の思想になってくるのです。人を殺しておいて社会主義者は「平等だ」と言うのです。

 我々の本当の敵は日本共産党が隠している、唯物論の思想です。「神はいない」という思想に気を付けなければいけません。

「神がいる」と主張する神とは何かというと、実に様々な神がいるのです。神を信じる側には問題があるのです。様々な無数に近い神がいるのです。キリストの神、ユダヤ教の神、イスラム教の神、インドの神、部族ごとに神が大勢いるのですが、人間以上の存在として神を置いていることは間違いありません。

この神が統一されれば、唯神論のほうが勝つのです。人数は圧倒的に多いのです。バラバラに「キリスト教」、「イスラム教」と言っているのです。唯物論者は一つの思想です。一つ対バラバラの神ですから、神が統一されれば唯物論者など問題ではありません。

 共産党の本心は唯物論です。唯物論とは、人間ではありません。共産党の本心は人間ではないのです。日本共産党は柔らかい態度をとっていますが、すべてウソです。だましのための罠です。共産党を見たら、「こいつらの正体は唯物論だ」と見抜かなければいけません。神を信じていないのです。普通で言えば、神を信じている者の方が強いのです。それを忘れてはいけません。

神が世界を創ったのです。人間が創ったのではないことは事実です。それは言えるのです。人間が人間を創ったのではありません。人間を創った者は神なのです。神によってあらゆるものが創られているのは事実だから、「神はいない」という考え方は全く間違っています。

早く神の側で論争をして、「何の神がよいのか」と決着をつけて1本の神にまとまっていくことが今後の人類の問題として非常に大事なことなのです。これが比較思想論というものの考え方です。違いに目をつぶれば道は開けてくるのです。何故、世界にいろいろな神がいるのでしょうか。違いを述べるからまとまりません。

例えば、仏教では慈悲を説きます。キリスト教では愛を説きます。「愛と慈悲がどう違うのか」と論争しても新しく生まれるものは何もないのです。「キリスト教では愛といい、仏教で説く慈悲と同じようなものなのだ」と理解していくと、世界の思想はたった一つのものにまとまっていくのです。

母が子供を愛する気持ち、これは愛なのです。人が人を愛する気持ちも愛です。慈悲とはさらに慈しみの心をもっていかなる人にも愛を与えていくことを慈悲というのです。そのように考えていけば、愛と慈悲は合体できるのです。

他のこともそうです。「万物を創った神の名前はない」とユダヤ教はいいます。これは素晴らしいのです。神に名前があると争いが起こるのです。だから神の名はないのです。「みだりに神の名を呼んではならない」よいことを言っています。「神様、ヤハウエィ、と呼ぶな」と言うのです。

神の名を言わなければ神は抽象概念です。どのような神が世界を創ったのでしょう。そのような理解でよいのです。世界を創ったのは「精霊」と言ってもよいのです。世界を創ったのは精霊である。それを神という人もいます。「精霊がいない」というのは共産主義です。我々はこの人間にも至らない馬鹿、亜人どもをやっつけていく必要があります。




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