唯物論の誤り | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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 「唯物論とは一切が物質である」という論です。物質以外のものは存在しないというのです。従って人間の心・霊・精霊・神は一切認めないのです。世の中は物理法則で動いているという考えです。

 しかし、唯物論は徹底的に間違えていることがあります。「物とは何か?」という定義がないのです。物とは何でしょう。量子力学というものがあり、「物」というものを定義しづらくなっているのです。

 物とは何でしょう。物質を追っていくと最終的には原子になってしまいます。原子は何からできているのかというと、原子と原子核という二つのものからできています。物質の究極はこの二つの物が組み合わされて、様々な物質に変わっていくのです。

 電子が1個、陽子が1個だと水素です。これが1個、2個と増えていくごとにヘリウムになったり、様々な物質になるのです。結論は原子核の周りを電子が何個周っているのかということです。

 物質の究極は原子核と電子になってしまい、物はなくなってしまうのです。金という元素、鉄という元素は、電子が増えるかどうかで原子核を取ってしまえば物質が変わってしまうのです。物質の根本は電子核と電子と陽子からできています。

 20世紀になって量子力学が登場して、従来の物理学が通用しなくなったのです。物質は物とも言えません。ボヤとしているのです。電子核の周りを電子がグルグル回っているように想像していますが、実際はそうではないのです。「確率として存在する」と言っているのです。

 電子は回っているものではなくて、電子雲というのです。雲のようになっていて、「何時何分にどこにいる確率がある」という話です。確率でしか論じることができないのです。確率論ですから見ているときには月はあり、見ていないときには月はないのです。

 例えば天気予報では「明日の雨は30%」、「明日の雨は50%」と確率で言っています。「雨が降るのか降らないのか、どちっなんだよ!」という人にはまどろっこしくて「確率30%」などという話は聞いていられません。

 ところが今は天気予報も量子力学を取り入れているので、そのような言い方をするのです。「雨の降る確率は30%」と言い、「降る」とも「降らない」とも言いません。確率で論じるのです。それは量子力学からきているのです。

 「原子はここにある確率が何%です」という話です。物質の根本を追っていくと電子も原子核も素粒子ですから決して究極の物質ではないのです。素粒子が物理の法則を受けて集まっているだけなのです。

 素粒子の性質は確率ですから、「ここにある」とは言えないのです。確率何%で「見る時はあるらしい」ということです。「物質の根本はこれだ!」と言いたいのですが、ボヤけてしまうのです。

 本当に「物」というものを考えた時に、そのようなことがわかってきているから、唯物論のように「物しかない」とは言えないのです。

 素粒子は粒の性質をもっているけれども、波の性質ももっているのです。例えば電気を照らして壁に1個の穴があると電子は穴を突き抜けていきます。電子は粒子ですから玉のようなものだと思うのです。

 ところが100個の穴をあけておくと1個の電子が100個の穴を通ってしまうのです。不思議でしょう。粒は1個ではないのでしょうか。100個の穴をあけると100個の穴を通ってしまうので、どうにも理解できないのです。

 100個の穴を通るのは、電子が波の場合しかないのです。粒の性質と波の性質と両方もっているのです。人間の頭では確率とかでしかとらえられないわけでイメージができないのです。

 それが物質の根本です。もっと言ってみると精神です。物質はそこまでいくと、素粒子は精神なのか物質なのかということです。見るときにはあって、見ていないときにはないというのです。根源にいくと非常にあやふやです。

 アインシュタインは、「そんなことは認められない。私は神様がどのように世界をつくったのか知りたいのだ」と反対したのです。曖昧模糊として「雨の降る確率は30%」という話は嫌なのです。「1+1=2」でないと嫌なのです。アインシュタインは量子力学を認めなかったのです。

 今は量子力学がないと何もできない社会になっていて、様々なところで利用しているのです。だから量子力学は正しいのです。正しいということは、物質を追っていくと消えてしまい、あやふやなものになってしまい、その集合体が世界です。

 あやふやな部分を唯物論者は見ないのです。唯物論は「世界には物しかない」という考え方です。だから唯物論者は物の定義をしないのです。物と言う以上、「物とはこのようなものだ」と、定義しなければいけません。

 ところが量子力学を知ってしまった人は、物の定義などできないとわかってくるのです。物から精神がでてきてしまうので、唯物論者は「物」といういい加減な言い方をして、「物が宇宙の本質なのだ」このように言うのです。「精神や、あやふやな神というものは存在しないのだ」という考えです。

 ある日、偶然に海からアミノ酸がつくられてアメーバになり、適者生存の法則によりどんどん変化して適応出来るものが生き残り、適応できないものが死んでしまい進化をしていくのです。これが進化論です。

 唯物論が進化論を生んだのです。進化論は完全に神の世界の否定です。「物は自然にできてくる」というのですから、神はいらないのです。「神様が世界をつくった」というのがキリスト教の教えです。神はいらないのです。物は物の法則で発展していくと考えているのです。

 だから、人間の生命も何も尊重する必要はないのです。「物」なのですから、物の価値しかないのです。北朝鮮にしても中国にしても、すぐに人間を粛清します。消してしまえば終わりです。物をなくすだけですから、一人でも、何千人でも、何万人でも同じなのです。

 人間を銃殺刑にしても、人間を数でとらえているのですから何の良心の痛みもないのです。唯物論者は神不存在なのです。

 「人間を殺してはいけない」と思うのは神様のことを思うからです。神を信じている人は「こんなことをしたら罰が当たるのではないか」と考えます。[Who knows.]です。「誰かが見ているぞ」ということです。その「誰か」とは、神なのです。だから人間は良心があるのですが、共産主義思想には良心はないのです。

 そんなくだらない哲学から成り立っているのが、日本共産党の哲学です。共産主義思想は「物しか存在しない」という宗教なのです。

 唯物論の反対は唯神論です。「この世界は神しかない」というのです。キリスト教徒は「神しか実在はない」というのです。言われてみるとそうかもしれません。物はすべて幻影になってしまうのです。目に見えない神様だけが本当の存在であり、本当の存在の神様が世界をつくるのです。唯物論を否定すれば唯神論になるのです。

 結論は両方とも間違っているのです。神様が無理矢理に登場するというのが間違っているのです。神様はこのような形では存在しないのです。神様を「唯一の実在」と考えるのです。統一教会もそのように考えます。「神様は唯一の実在であり、精霊である」と言うのです。

 その次に飛躍して「神様は韓国に生まれる」と言うのです。馬鹿を言うものではありません。「キリストは人類の救済に失敗した。だからメシアは再臨して二度目の救済を行う。それが韓国だ。神様は韓国にお生まれになる。」というのが統一教会の教義です。馬鹿な考えです。メシアが豚ゴジラの文鮮明だというのです。そんな話はお笑いです。物事というものは、本質をよく考えていかなければいけません。

このように物理学の論理で考えていくと、日本の霊魂という考え方は非常に優れた考え方だとわかるのです。世界の根本は霊魂です。霊魂というからわからないのですが、霊とは目に見えないものです。魂(こん)とはかたまりですから目に見えるのです。

この世界は目に見えるものと、目にみえない部分があり、この世界を構成しているのです。粒子の性質をもった物質、これは目に見えるものです。波の性質をもった素粒子は目に見えないのです。霊魂という言い方がぴったりです。世界は霊魂からできています。

 日本の神様は霊としての神なのです。この世に現れたものが魂(こん)なのです。霊と魂(こん)は一体です。これを仏法では、目に見える世界を法と言い、目に見えない世界、精霊の世界を妙と言います。「宇宙の本質は妙法です」と言っているのです。この世界はすべて妙法からつくられているのです。

仏教が問題にしたのは、物の法ではなく心の法です。「どのように世界をつくったのか」ということは、あまり関心がないのです。「どのようにして自分の心はできているのか」というところに関心があるのです。

その心というものを妙法ととらえたのです。その心の出方のこと蓮華の法といいます。この世界に存在するあらゆる心というものは南無妙法蓮華経と言えるのです。これが日蓮大聖人様の教えです。仏法の心の側からいうと、このような理論になるのです。

「世界はどのようにしてできたのか?」というと、物の世界に入ってしまいます。これは日本神道の考え方が正しいのです。神道の世界に心の法を打ち立てられたのが南無妙法蓮華経です。これが新しい見解です。


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