三島由紀夫の悪いウワサ ④ | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

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これはいろいろあります。まず、「三島由紀夫はホモである」とまことしやかに言われています。「一緒に死んだ森田必勝(もりたまさかつ)の肛門には、三島由紀夫の精液が入っていた」とまことしやかに言う奴がいるのです。「その前の日は猛烈なSEXを森田必勝としたのに違いない」これは、自分がホモだから相手をホモだと思うのです。ホモの奴から出てくる話です。

 三島由紀夫が若いころ追いかけたのが、丸山明宏(三輪明宏)です。これに恋をして「相手にされなかったのだ」という話もまことしやかに伝わっています。三輪明宏に聞くと「あの人は私を追いかけてきて、私が逃げても・逃げても追いかけてくるので、相手にしませんでした」と言っています。

 一体、これは何でしょう。三島由紀夫はホモだったのか、変態セクシャルなのかと思ったら、そうではないのです。ここで間違えてしまうのです。三島由紀夫が追い求めたのは、この世にない美なのです。

 「女が美しい」というのは、当たり前です。これについて三島由紀夫は心を動かされることはなかったのです。では、何に心が動かされるのでしょう。前回の能の話と同じで、この世にないものを求めたのです。ホモもそうです。丸山明宏は若い頃、ものすごくキレイです。びっくりするくらいキレイです。だからそこに幽玄の美を求めたのです。

 決して成就することがない、得ることができない、「そこにこそ真の愛があるのではないか?」という、そのようなものの考え方なのです。三島由紀夫の物の見方は変わっているのです。

小説『金閣寺』もそうです。金閣寺に火を放って坊主が死ぬのです。その時に名文句があるのです。「この金閣寺には鳳凰が飛んでいます。この金閣寺の鳳凰の方が本当の鳥であり、現実に空を飛んでいる鳥は偽物ではないのか」そのようなことを言うのです。なぜか、「金閣寺にそびえたっている鳳凰の鳥は時を飛んでいるのだ。永遠の時を飛んでいるのだ。外の生きている鳥は永遠の空を飛べないのです。だから、私はこの鳳凰こそが本当の鳥だと思う」という逆説的なものの言い方をするのです。それと同じなのです。

女がそこにいて、その女は美しい。得ることもできます。しかし、ホモは得ることはできないのです。淀川長治のように男の手を握ったりする、そのようなホモではないのです。この世にない美を見ると、三島由紀夫は憧れて近寄っただけなのです。

美にも二つあり、物質的な美精神的な美があるのです。森田必勝はホモではないのです。森田必勝の「いつでも先生と一緒に死ねます! 国家のために死ねます」という非常に純粋なその心に対して「精神的に美しい」と思うのです。そのような違いがあるのです。

僕はわかっています。ホモ行為はあったかどうか知りませんが、三島由紀夫の本質は美を求めたのです。これが大事なことです。

まだあります。「三島由紀夫はマゾである」とも言われています。マゾとは、自分の肉体を傷つけて快感を感じることです。普通は痛くていやなことですが、「もっといじめてくれ!」と、マゾは言うのです。

マゾはいじめられると喜ぶのです。ヤクザは、ほとんどがマゾです。人生めちゃくちゃになっても殺し合い、それが好きでしょうがないのです。いじめられている陰惨な雰囲気が大好きなのです。

ヤクザはマゾだといわれています。ヤクザの親分と子分の関係は、ヤクザの親分が若い衆を犯すのではなく、犯されるのを好むのです。親分はマゾです。普通の人間ではないので隠花植物のような関係です。

「三島由紀夫はマゾなのか?」と言ったらマゾです。肉体をガンガン鍛えていくのも一種のマゾ根性です。肉体をどんどん苦しめていくと、そのうちに快感に変わってくるのです。ランイングハイと同じです。ランイングするとエンドロフィンが出てきてだんだん気持ちよくなってくるのです。

山登りもそうです。自分の体をいじめるとそこに快感がわいてくるのです。苦行、滝に打たれる修行、拷問など、マゾが生まれてしまうのです。自分の肉体をいじめられていくと、最初は痛いのを耐えているのですが、そのうち快感に変わってしまうのです。最初は痛いのですが、耐えられなくなると脳からエンドロフィンがでてくるのです。エンドロフィンが出てくると快感に変わってしまうのです。

1回それを覚えてしまうと、「もう1回やってくれ!」「もっといじめてくれ!」というように変わってしまうのです。「この馬鹿男!」と、バシッとムチで打つとエンドロフィンが条件反射ででてきて「もっといじめてもらいたい!」となるのです。これがマゾです。

三島由紀夫のマゾはそのようなマゾではないのです。マゾと言われているのは、若い頃に書いた『聖セバスチャン』という小説に原因があります。小説の中に出てくるセバスチャンに何本も矢が突き刺さって死ぬ場面があるのです。「その時のセバスチャンが苦悶に満ちた顔の中に快感の表情を見た」ということを書いたのです。「苦しいに違いない。でも、その絵をよくみたら快感に満ちた顔をしている」と書いたのです。

三島由紀夫は逆説の作家ですから、もっとも苦しい中で、そのようなエロスを見て言っただけの話です。実際にサドマソをやったわけではないのです。人のウワサというものはいい加減です。

人のウワサというものは、よく本質を見て評価しないと、とんでもない勘違いをしてしまいます。必ず変なウワサはたてられるのです。しかし、三島由紀夫の生き方は健全な生き方です。健全な生き方とは何かというと、精神がビシッとしているということです。

一貫して少しの陰りもないのです。だから、三島先生は清潔な感じがするのです。だから豪傑な笑いが出るのです。少しの影りもありません。それは生き方自体、陰りがないので、ホモ・サド・マゾをやっていれば、あのような清潔感はでません。

あの清潔感は、生死を超越しているところから出てくる清潔感です。これがわからないのです。これを朝鮮系の人に話すと全然わからないのです。朝鮮系の人間は三島由紀夫の生き方はわからないのです。自分には到底考えられない行動ですから、「なぜこんなことができるのだろうか?」ということがわからないのです。

したがって三島由紀夫のつくったものは健全なる日本精神です。日本人としての自覚、「日本人はこのように生きるのだ!」という素晴らしさがあるのです。ただし、切腹ということについて誤解があったようです。切腹はしたことがないので、聞くしかないのです。教えてくれる人もいないのです。

一つの失敗は、切腹で深く腹を斬りすぎてしまったのです。その瞬間に首が伸びてしまうのです。すると首を斬る人間は首を狙うのですが、首が伸びきっているので頭に斬りこんでんしまったのです。もう一撃斬っても、それもはずして頭に斬りこんでしまったのです。やっと三回目で首を斬りおとしたのです。

三島由紀夫は、切腹の仕方を間違えたのです。切腹は日本文化であり、本当はそんなに深く腹を斬るものではないのです。これはよくできた文化です。武士が切腹を賜り、武士が切腹をします。すると未届け人が椅子に座って、切腹する人が庭に座ります。介錯人が後ろに座り切腹が始まると、腹に短刀があたった瞬間に首を斬り落とすのです。

斬られる方は切腹に気がいっています。その時に首を斬り落とされるということを忘れてしまうのです。気が付くともう首が斬りおとされて死んでいるのです。非常に文化的なやり方です。これが本当の切腹です。

腹わたが飛び出したり、のたうち回って死ぬのが切腹ではありません。人間が自害するときには切腹では自害はできません。神風特攻隊の生みの親である大西 瀧治郎(おおにし たきじろう)は、切腹して12時間苦しんで死ねなかったのです。「閣下、介錯しましょうか」と言われて「介錯などいらん! 苦しんで死ぬのだ」と言って、12時間苦しんだのです。

死ぬ時は首を斬るのです。首には頸動脈がありますから、頸動脈を斬れば一発で死ねるのです。即死ではないですが血がでるので、そのまま意識不明になって死んでしまうのです。腹を斬っても死ねません。



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