戦後70年・三島由紀夫 ② | 中杉 弘の徒然日記

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三島由紀夫は、こうも言っています。「西郷隆盛は50歳にして死んだ。50歳とは、人間が若さを失って老人に入っていく時期で、ギリギリの年齢だ。自分はそこまで生きたくない」45歳という年齢を決めて、まだ老人でもない、若い絶頂期であると決めて、体を鍛えたのです。体を鍛える意味は、自分で自分をつくるのです。ちょうどおもちゃの積木を積み重ねていくような気持ちで自分の肉体をつくって、この絶頂期になった肉体を45歳と決めて、その時に「決行して死ぬ」と決めたのです。このような意味があったのです。

三島由紀夫は死ぬということについて、「死神にたずなをとらせない!」という意思があったのです。「いつ死ぬかわからない」というのは、人にたずなをとられたことなのです。「お前は死刑だ! しかし、判決まで待て」などと言われたら、死をおびえて待っていなければいけません。「怖いからこそ死というものは、自分で握るのだ。俺の意思で死ぬのだ」という死に方では、一番かっこいい死に方は切腹しかないのです。

 首を吊って死ぬのは、かっこ悪いのです。これはダメ、服毒自殺もなんとも言えません。太宰治は川に入って死にましたが、川に入って死ぬのもあまりいいとは思いません。三島由紀夫は、武士道からきて、死ぬ絶頂期において自分が作り上げてきた肉体と名声をすべて捨てて、サッと違う次元に入ったのです。

 これは、普通の人にはわからないことです。彼の文学の原点もここからきているのです。普通の人が現代人の感覚で読めば『豊饒の海』四部作を読んでも何が書いてあるかさっぱりわかりません。現代人の感覚だから三島由紀夫が切腹した時には大騒ぎになるのです。

 当時の中曽根首相は「狂気の沙汰である」といったのです。キチガイということです。この太平の世にアプアプしている連中は怒涛のように激怒したのです。三島由紀夫が自衛隊に乱入してバルコニーから演説すると「ひっこめ文士!」「かっこつけんじゃねえよ!」と、罵倒したのです。次に切腹して首が切り落とされるなどというシナリオは誰もわからなかったのです。

 その時に一人だけ、司馬遼太郎という作家が夕刊の一面に書いたのです。「諸君に告ぐ」というタイトルだったと思います。「私は言う。殉死はいけない。後追いする青年のためにこの文を書く。」と言って、夕刊の一面に司馬遼太郎が書いたのです。「死んではいけなのだ」ということをとくとくと書いて出したのです。それだけ本人のショックが大きかったのです。

 革命の元基、革命の元になるものがあって、革命は行われるのです。明治維新の革命の元基になったものは吉田松陰です。吉田松陰が死なないと明治維新はなかったのです。三島由紀夫は革命の元基になりたかったのです。

 三島由紀夫の切腹をまねて多くの青少年たちは死んではならないのです。何故ならば、元基は一人でいいからです。10人も100人も元基がいたらおかしいので、元になる人間はただ一人でいいのです。

 そして、村松さんが言っていましたが、三島由紀夫はお母さんに対して「僕の死は100年から200年経たないと理解されない」と言っていたのです。当時の常識の問題をあぶりだして、大衆が全く理解できないことをやるのですから、それを見た人は「キチガイだ!」というのです。実はキチガイではないのです。三島由紀夫は最も正気です。大衆の気が違っているから、正気の人を見て「気が狂っている」と逆に言うのです。たしかにそうでしょう。この問題一つとってみても、生き甲斐もあるけれども、死に甲斐もあるのです。

 文明というものは、死に甲斐を与える文明でなければならないのです。吉田松陰は「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という辞世の句を残して死んだのです。首切り役人は「こんな立派な人はいない」と言われたのです。吉田松陰は、首を斬られるときもびくともしません。普通、首を斬るときには目隠しをするのですが、一切いりません。「こんな見事な人は見たことがない」と言われたのです。

 吉田松陰はなんのために死んだのかというと、死に甲斐をもっているのです。「たとえ、身はここで朽ちて死んでしまうけれども、私がふった魂は永遠に残るであろう」ということです。肉体をもった吉田松陰が魂に変わったのです。その儀式のことを日本では「玉ふり」というのです。

 吉田松陰の「玉ふり」が弟子たちに伝わって、革命が起きたのです。三島由紀夫もそうなのです。吉田松陰の死んだ同じ11月25日を選んで「玉ふり」をしたのです。当時は欲にボケた頭で、死に方を考えない、ただ豚のようにブクブク太って「生きればいい」という世情です。

それに対して三島由紀夫は「私が死んだら日本はなくなる」と言っていたのです。しかし、「玉ふり」をしたから、日本はなくならないのです。三島由紀夫は魂に変わったということです。肉体は1回しか生きられませんが、魂は「七生報国」と考えたのです。

三島由紀夫は神道家でもあるのです。「葬式は仏教でやってくれるな。神道でやってくれ。仏教でやられて成仏して生まれなくなったらどうするのだよ。」と言ったのです。

「仏教で成仏して涅槃したら生まれなくなるから、仏教の葬式はださなくていい。神道の葬式だけでいいのだ。私は七回生まれ変わってこの国に尽くすのだ」ということです。

これも生命観です。「魂が生まれ変わる」ということをテーマにして書いたのが、『豊饒の海』四部作です。主人公は四人とも違うのですが、すべて生まれ変わりなのです。

日本神道の霊魂観がわからないと三島由紀夫はわかりません。「霊魂観とは、何か?」というと、人間をつくっているものは、霊(れい)魂(こん)なのです。魂(こん)とは肉体のことです。霊(れい)とは、肉体をつくっている魂のことです。魂と肉体があって人間が生まれるのです。これが霊魂観です。死後も霊魂です。靖国神社に入る英霊は霊となって、神となって、靖国神社に入るのです。「おかわいそうに」で入るのではありません。

三島由紀夫を理解するためには、このようなこと理解しなければわかりません。さらに仏教を勉強しなければわかりません。彼は仏教も探求したのです。「仏教は不思議な宗教だ。霊魂はないという。無我だという。だけど、ほかの教えでは輪廻転生する。矛盾したことを仏教はいっている。霊魂はない、生まれ変わりはないと言いながら、輪廻転生するのだ。」このことについて「死をあきらかにする」という意味で徹底的に仏教を研究したのです。これが『豊饒の海』四部作の「暁の寺」という作品に書かれています。それはどのようなことかと説いて、どのような結論になったのかとうことは読めばわかります。

しかし、仏教の素養がないと読んでもチンプンカンプンでわかりません。一貫しているのです。人間には生き甲斐もあるけれども、死に甲斐もあるはずです。「死に甲斐とは何か?」一番の死に甲斐とは、『葉隠』の武士たちの精神です。死に甲斐とは、主人のために死ぬことであり、それをもって武士道と云ふは死ぬ事と見付けたりと言ったのです。

では、日本人が命をかけて守らなければいけないものは何でしょう。日本は天皇と天皇に伝わる文化と伝統こそが基本です。これのために命を捨てることがあれば、最高に幸せだと思わなければならないのです。

太平洋戦争で死んだ人も、今の価値観で見れば「おかわいそうに」というけれども、当時の人々は喜び勇んで「これで自分も靖国の神になれる」と思って死んだはずです。このような考え方なのです。だから現代人にはわからないのです。

三島由紀夫は非常に複雑です。複雑な流れを大きくわけて「文学の川」「肉体の川」「行動の川」「芸術の川」この4つにわけられるのです。この4つのものをもって現れた何百年に一人の逸材だったのです。

(③に続く)



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