元駐在ウクライナ大使の馬渕睦夫さんの考え方 | 中杉 弘の徒然日記

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元駐在ウクライナ大使の馬渕睦夫さんの話を聞いていくと分かることが色々あります。この人の考え方は僕の考え方とほとんど一致しています。

 まず、第一番「私は世界人です」という人は、相手にされません。国際の社交会に出て「貴方は何人ですか?」と聞かれて「私は、世界人です。国際人です」と言ったら相手にされません。「私は日本人です」と言うと相手にされるのです。

 世界人などいないのです。「日本人です」と言うから世界人として扱われるのです。日本人を飛ばして「世界人だ」などと言ったら通用しないのです。それぞれの個性を主張して、それぞれの歴史と文化を担って、国際の社交場に出て行って、初めて国際人です。国際人をつくっているものは、日本人です。このようなことになるのですが、このような教育が日本では行われていないのです。

 英語をしゃべるのが、国際人ではないのです。日本文化を知って歴史と伝統を学び、アメリカ人と日本人は違います。日本人と朝鮮人と中国人は違います。「どのように違うのか」「どのような物の考え方が違うのか」ということが、説明できないと日本人にはなれないのです。

 馬淵さんがウクライナの駐在大使をやっている時に、小学校の5年生の教科書を見せてもらったのです。日本のことがびっちり書いてあったので、馬渕さんがびっくりしたのです。

 日本ではウクライナなどあまり知られていない国ですが、日本について非常に懇切丁寧に書いてあるのです。一番印象に残ったのは、日本は物質文明と精神文明を融合させている国です。松尾芭蕉の句を、小学校5年生に徹底的に教えるのです。馬渕さんも知らなかった句を小学校5年生で習うのです。

 「自分が知らないではずかしい思いをしました」と言っていました。16ページくらい使って日本のことを紹介してあるのです。

 そのような点から「日本文化とは何だろう」と考えてみると、日本文化とは、精神文明と物質文明の折り合いをつけた文化なのです。唯物論であるソ連の共産主義は、精神など全くありません。精神がないのです。あるものは、プロレタリアート文学です。これ以外の文学は認めないのです。芸術は精神ですが、そのようなものは認めないのです。

 労働者が「苦しい」と言って書いた、「蟹工船」だとか、労働者の生活の実体を書いたものは認めるのです。それをプロレタリアート文学と言うのです。高い香りのする王朝風の文学などはないのです。精神が一切なく、“物”しかないのです。それが共産主義の考え方です。

 アメリカの場合は、大量生産です。資本の論理で、物をつくるのが文化であり、しかも大量につくるのです。大量につくるなら、安い方がいいのです。アメリカ・中国・アフリカで物を作った場合、安い方へ向かってしまいます。

 アメリカは、商品の質に重きを置いた文化ではないのです。「物を如何に大量に生産するのか」という文化ですから、質はおのずから低下していくのです。アフリカの土人ができる物と、アメリカ人でなければできない物は違います。レベルが違うのです。均一にするためには、質を落とすということです。そのようにすると、どんどん質が落ちていくのです。

 日本はそうではなく、「物を大事にするけれども、精神が大事だ」という考え方が日本人にはあるのです。「物とは、何ですか?」というと、精神が現れたものが物だというのです。「物には霊が宿る」と考えるのです。これは、日本人だけではなく、アイヌもそう考えています。同じ文化圏です。

 木にも霊が宿る、石にも霊が宿る、山にも霊が宿る、人形にも霊が宿るのです。このような考え方が日本人の考え方なのです。日本人は、あらゆる全ての物は、霊が発動したものだと考えているのです。

 ですから日本人は、物をつくる時に違うのです。日本刀をつくっても神髄を極めるのです。神髄を極める中に神がいるのです。刀もいい加減につくったものは、何の精神性もなく薪割になってしまいます。自分の全身をなげうって極限まで良い物をつくろうと物に魂が入るのです。

 「物に魂が入る」という物は、日本人でなければできないのです。そのような考えを持っているから、何をつくらせても日本人は世界最高の物ができてしまうのです。もうすでに、「メイドイン・ジャパン」でなければダメなのです。

 最初は西洋人が洋服や機関車や自動車をつくります。そのような物は、日本には無かったのです。そのうちに物づくりの精神が入ってしまうのです。如何なる国よりもよいものをつくってしまうのです。

 朝鮮人にはそのような思想がないのです。「全力を打ち込んで物をつくる」という思想がないので、車をつくればぶっ壊れて、橋もビルもぶっ壊れてしまうのです。船をつくれば沈んでしまうのです。全てがいい加減なのです。

 朝鮮人は、刀もその辺に放り投げているのです。朝鮮人にとって、刀は不浄なもので、ケガレタ物なですから大事にするなどという風習はないのです。ポンと台所に放り投げてあるのです。「戦争だ!」というと、刀を担ぐのです。ところがすでに赤さびているのです。朝鮮人は、刀も差すという習慣がないのです。だから肩に担いでいくのです。そんな感じですから、刀などどうでもいいのです。戦争が終われば、ポイです。刀は動物を殺す道具で、それしか考えがないのです。

日本人は、「動物の命を取るものは、神につながっているのに違いない」と考えます。そこに魂が入るのです。武道・剣道・柔道もそうです。世界に並ぶものがないのです。魂が入るのです。全てのものには魂があり、日本人は魂を取り出すのです。踊りも神と一体になるのです。剣禅一如といい、剣と禅を修行しても神の領域に達するのです。

 日本文化はそのような合理性を持った、物をつくる文化と、精神(合理性)を超えた、精神文化の考えが日本文化の独特のものなのです。それで、世界はだんだんそうなっているのです。世界全体で均一の物をつくろうなど、あきあきしてきているのです。

 その国がなければできない物、そのような物をつくればいいのです。世界一の物をつくればいいのです。世界一の物は売れるのです。これからは、中途半端な物は売れません。

良い物をつくれる日本は、そこにこそ価値を見出していけばよいのです。グローバリズムに日本がハマることは全くありません。良い物をつくっていこうではありませんか。そのように思います。



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朝堂院大覚 剣道と神道 2014 ・6・5


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