ニューヨークのハーレムにも当然の事としてパッショネイトなソウルの躍動があったことを目撃した。
当たり前さ、ブルース(悲しみ)や恋の歓び、太陽が焦がす肉体の実在感が野生的なBLACK People達にないわけがないからね。まさに人生はリズムアンドブルース。
文化史は広告力の強いものに圧倒されてしまうという現実を自分としては考えざるえなかった。どういう事かというとレジェンドはメディアによる再生的な刷り込みによってポピュラリティーを得るという事だ。
ウッドストックのように愛と平和の三日間などと鳴り物入りで全世界で映画放映されれば一般大衆はそのようなものだって思い込んじまうからね、例えばウッドストックにコソ泥や痴漢やのぞき魔や変態が跋扈していたとしても、スクリーンにはお偉いディレクターにうまくカットされて映らなければ美しいって信じ込んでしまうものさ、概ねは。
それからすればこの黒人達主導のフェスティバルはデッドストックともいえるようなかたちでフィルムが埋もれていた。想い出が想い出として影の中で佇んでいたとさえいえる。
アメリカ社会の主人公達に安っぽく見窄らしいものとして陽の目を見る事を禁じられていた。まるで『いちご白書をもう一度』の歌詞にミミックして謳えば『BLACKPeople達のメモリーどこかでもう一度』とか歌えそうな感傷のつきまとう扱いだった気がする、、、。
人類がはじめて月に着いた事を賛美することは容易いと思う、魂の仕事として。ただ、虐げられた弱い立場の黒人が『私を認めてくれ』と叫ぶことの方がよりナイーブで勇気のいることだと思う。
魂の躍動や輝きは目に見えない、容易にはかたちにならない、あえていうならエビデンスとしては示せない。だから君自身がその魂と共振してソウルメイトになるしかないんだよ。
女性を愛し愛される事にも似ている。
昔、バブル景気の終わり頃に新聞広告で宮沢りえさんのヌード写真が広告として掲載された。それは誰もが驚くような象徴的な若い娘さんの健康美だった。だから『百聞は一見に如かず』のように目から入って僕達の最もソフトで軽薄な心の上っ面を掠っていった。
それはあるイメージだった。大衆心理の捏造された時代の証言者としての私は『彼女』と同じベッドに居たという。
ただ、どうかな、そういう視覚から入ってくるハイイメージは男達に感触を、匂いを、ぬめりを、肉の味を、喘ぎ声を、そしてなによりも魂を与えてくれるだろうか、、、、、。
誰にでもわかるところに貼られたひとつのサンプルとしての閲覧自由の見るだけのお触り禁止の劣情のパンフレット、それが、だから、悪魔の『プロパガンダ』だっていってるのさ、プロのパンダさんよ、悪意と詐欺の。
自由を希求するBLACKミュージシャン達の汗やアクション、夏の光、溢れかえる原色、熱意、誠実さ、技術よりも情熱。ショパン国際ピアノコンクールにはない、『音楽って魂だよね』という真実をこの映画は伝えてくれる。VIVA BLACK!。