1179)わか・さざ50年史(16)民営化控え 誘客への種まき始まる (YEAR13~15) | 千葉の鉄道、そして Now & Then

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 1178)

 

 

の続きです。

 

 (後部にS60.3改正の内房・外房時刻表を追加掲載しました)

 

 S58年夏ダイヤ中。

 1983(S58)年8月16日 11:30 5Mさざなみ7号 

 東京9:30→11:32館山

 Tc-33 MM'-47 MM'-48 MM'-49 Ts-17 Tc-34(マリ17)←東京方

 那古船形~館山

 

 同日11:30 5Mさざなみ7号(後追い)

 

 183系の組成は、1000番台の転入があっても、このころまでは0番台は新製当初のままの組成でした。1000番台は まとまって、9連口はマリ21~を名乗っていました。

 一方 すいごう用に出来た新規の6連口の先頭にもクハの1500番台は組まれましたが、こちらは後に(1〜2年のうちに)0番台に差し替えられてゆきます。

 

 バックに写る生コン工場。へえ~、こんな所にもあったんだ!!

 鴨川でも、当時は第一新田踏切から鴨川駅の方を撮ると、バックに生コン工場が入りましたね。 

 

 では閑話休題ーー。

 S58年当時の北総の旅のひとコマ。友人と北総の駅のスタンプを集めながら、銚子電鉄で外川をめざした旅です。

 駅スタンプは、国鉄の「Discover Japan(美しい日本と私)」~「一枚のキップから」~「いい日旅立ち」~いい旅チャレンジ20,000km」~「いい日旅立ち2」~と後に 続くキャンペーンで、国鉄のイメージが地に落ちていたこの時代でも実施されていて、それなりに集客にも貢献していたように思われます。

 

 1983.3.26 佐原11:19 

 1033Mあやめ3号 が発車 マリ10の9連 クハ183-19。

 0番線に止まっている始発531Mは11:34発 マリ70、クハ111-1037。

 右端3番線の113系は 乗ってきた431Mで、千葉9:41→11:10佐原11:23→12:19銚子

 (ジュラルミンケースは私のではありません、笑)

 

 同日、鹿島神宮12:35発の 1036Mあやめ6号 マリ10 クハ183-19。 

 Tc-19 MM'-28 MM'-29 MM'-30 Ts-10 Tc-20→東京方 

 1033Mあやめ3号の折返しです。この9号車の表示が9連の証拠。

 

 鹿島神宮12:04 534M→12:26香取12:31 433M→13:17銚子と移動して、目指すは銚子電鉄。

 銚子①には12:45着の1003Mしおさい3号→折り返し13:25発の1008Mしおさい8号 が9連で待機中。

 (この左側には自分たちのスナップが写っているのでトリミングしています)

 

 

 そしてS60(1985)年、臨調の答申により、国鉄を分割民営化する方針が大きな流れとなってきました。

 民間への移行に際して、国鉄の施策が変わりつつあるあることが感じられ、それまで無かったユニークな集客策がぼちぼち登場。好景気もあいまって期待が高まりました。

 

 そんな中、S60.3.14には全国白紙ダイヤ改正が行われました。

 最も大きな出来事は 東北・上越新幹線の上野開業ですが、他の線区のスピードアップも積極的に行われました。ダイヤ改正のキャッチフレーズは、「より早く」「より便利で身近に」「より効率的に」とのこと。

 

 「わかしお」「さざなみ」の変化といえば、「さざなみ」の君津停車が始まったことが一大事です。

 それまで不思議なくらい かたくなに守ってきた「さざなみ」の君津全通過ですが、S60.3改正でおよそ3本に1本の「さざなみ」が停車することになり、地元では歓迎されました。新日鉄の町 君津はぐんと乗客が増え、快速・普通の君津発着の増加もありました。

 

 以下、S60年3月14日白紙改正の内房線・外房線部分の全ページです。

 順に、

 内房線-1、-2、-3、外房線-1、-2、-3。

 特急の時刻で赤丸で囲んだ時刻は、上下特急の交換駅。

 大貫(48~50分)と、岩井(18~20分)が基準で、一部に安房勝山交換があります。富浦交換はありません。

 

 「さざなみ」は全12往復。うち休日運転が1往復(5・10号)、土休運転が1往復(13・18号)、休日+&の運転が1往復(17・22号)で、定期は9往復です。

 注目の君津停車ですが、1・7・11・19・23、4・8・14・20・22で12往復中の5往復。定期・季節列車問わず全体的にばらけていて、朝の上り、夜の下りに多いというわけではありません。

 

 データイムの近郊区間に「α(アルファ)」のマークが付いた普電が初登場。

 これは君津・木更津・姉ヶ崎と千葉の間を頻繁に行き来する 日中の頻度アップを試行するテストで、まだ4往復8本ですがそれなりに利用実績があったのでしょう、のちに定期化され さらに増発されてゆきました。これで木更津以北で データイムに1時間も普通列車が無い!ということはなくなりました。

 

 木更津発着の総武快速も君津へ延長されるものが増えました。だたし日中に木更津発着はまだ残っています。

 木更津~千葉間の快速停車駅は、まだ市原市内3駅と蘇我のみです。

 このあと、長浦、袖ヶ浦、浜野の順で徐々に停車駅は増えてゆきます。

 

 「わかしお」の時刻に付いた赤丸は特急同士の交換駅。うち、中に点が入った方が運転停車して交換します。東浪見(18~19分)と勝浦または鵜原(47~49分)交換が基準。

 

 外房線のα電車はまだまだ少なく、3往復6本(大網2往復、上総一ノ宮1往復)のみです。これではまだまだ利用しずらいと思われますが、鎌取が大きく乗車人員を伸ばすのはもっとあとです。

 総武快速の付属編成が勝浦まで来る、というのもまだです。ですが快速の大原発着は意外に多いです。

 

 「わかしお」12往復のうち 通年モノクラスは季節2往復を含めて4往復。これらは通常6連ですが、シーズンには6+3連になります。

 同、G車付き9連は季節1往復を含めて8往復。これらのうち、3往復は閑散期にモノクラス6連に短縮されます。原則そうなのですが、春の期間(6月30日まで)は閑散期ではなくずっとG車付き9連だったことがわかります。

 

 では、このS60年の夏ダイヤから紹介します。

 S60(1985)年8月17日 竹岡~浜金谷にて 

 幕張の165系は、急行廃止のあと新潟などに転出してしまい、残りはわずかになっていました。のちに初代「なのはな」への改造車(6両)を捻出した後には不足し、まさかの169系が3連X1本長野から転入したりしました。続くパノラマEXPアルプス の一部のクロ165にも1両、幕張のクハ165 が種車として使われました。

 

 幕張の165系だけでは、外房・内房両方へは快速を運転できないので、東京西局三鷹電車区から、通常期は中央線方面に臨時運用されている165系の予備車を使って、臨時快速「なぎさ」が運転されました。113’系は横須賀~総武快速線の運用に忙しく、あまり臨快には捻出できないようでした。

 

 八王子発館山行き 9424M~9123M 165系「なぎさ」・・・・文字の字体は賛否両論ありそう。

 

 シールドビームに改造され、スリット式タイフォンの165系は、明らかに千葉の車両ではないことを主張しているようです。

 西ミツには165系3連が何本かあって、のちに調べると、先頭車はクモハ165-58 またはクモハ165-64 またはクモハ165-70のいずれかのようです。

 海のトップシーズン(8月第1週くらい)までの毎日運転で、中央東線が帰省客で忙しくなる8月10日ごろには、中央東線の運用に帰っていってしまいました。

 ↑ すいません、これ間違っていました。8月5日までで さっさと中央東線に戻ってしまったのは S62年8月の快速「鴨川ビーチ号」の時のミツ165系でして、この年S60年の快速「なぎさ」に使われたミツ165系は、夏ダイヤの最後までこちらに従事してくれました。

 

 同日、9123M 165系「なぎさ」後追い

 ちらりと見える東京湾、そして夏空。

 

 S60年8月18日(たしか夏季ダイヤ最終日の雨の日) 

 165系幕張車9連による 9221M「白い砂」両国発勝浦行き。

 

 最後までデカ目だった幕張生え抜きの165系。 

 このころは、3連ユニットにそれぞれの編成番号がふられました。

 安房鴨川方から 54+?+51 の9連を組んで、勝浦終着。

 

 

 勝浦到着後の、側線への転線の様子です。

 この少しあとには R1からR3 の編成番号になり、頭の上にツノ(アンテナ)が整備されてゆきます。

 この年の幕張の165系は、3連x4 か 5本 になっていたと思います。そのうちの2本(6両)がクモロ165系「なのはな」になり、不足分を補うために、169系が3両転入するのはこの翌年です。

 

 1986(S61).3.23 安房鴨川駅側線6番で。

 雨でしたが、行川アイランドへの団臨(両国→行川アイランド)が運転されていました。回送で安房鴨川へきて復路出発まで留置です。

 HMはささっていたかもしれませんが、回送になって撤去されていました。雨でなかったら営業区間で撮るつもりでしたが、さぼってしまったのを後悔しました。

 

 向う太海方から クモハ165-129 モハ164-852 クハ165-194(R1、もと51の下り寄り)+クモハ165-136 モハ164-859 クハ165-201(R2、もと54の下り寄り)

 

 1986.8.17 左⑥番 1000番台による「わかしお51号」 マリ13 

 クハ183-1505 MM'-1013 MM'-1010 MM'-1018 サロ183-1004 クハ183-1506→東京方

 このころは、夏季ダイヤによる臨時特急は1往復のみになっていました。

 民営化を翌年にひかえて、各地にお座敷列車や洋風客車が登場し始め、南局のサロンEXP東京、千葉局の「なのはな」が関東では嚆矢となりました。(高崎局や北局、水戸局などにも 旧来のお座敷客車は配置されていました。そちらものちに置きかえられてゆきます)

 

 1987(S62).4.8 12:25 237M(千葉10:20→12:40安房鴨川) 

 マリ308 の6連にHM発見。

 Tc1061 MM'1080 MM'1081 Tc1356←千葉方 

 元快速用だった113'系ATC車6連の一部は 普通列車運用に移ってきていました。

 行川アイランド~安房小湊で。

 

 「わかしお」「さざなみ」の誕生15年目で、国鉄はJRへと 分割民営化されました。

 

 4月1日のJR化で、一晩のうちに全国の運転室付き先頭車には、いっせいに「JR」の白いロゴが貼り付けられました。よくこんなにスピーディーにできたもんです。

 そして、一部の列車の先頭は ご覧のようなヘッドマークが掲出されました。10日間くらいで撤去されたと思います。

 その前の「さようなら国鉄」はもっと掲出期間がわずかで、撮れませんでした。

  

 民営化移管時のマリ113,113’系は次のような状況でした。

マリ101~118 は横須賀~総武快速線の基本編成11連(G車2両付き)

マリ201~228 は横須賀~総武快速線 付属編成の4連

マリ51~76 は房総ローカル用113系地上型6連(1000番台の非ATC車含む)

マリ301~308 は房総ローカル用113’系の6連(冷房車と冷房準備車の両方あり)

マリ231~247 は房総ローカル用113,113’系ミックスの4連

 

 習志野電車区(千ラシ)と名を変えた、元津田沼電車区(千ツヌ)の地上用113系は、すべて幕張区(千マリ)に移動が済んでいました。

 (次号以降に続きます)