1178)わか・さざ50年史(15)183系多様化へ -0,1000、6連(YEAR10~15) | 千葉の鉄道、そして Now & Then

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 1177) 

 

 

の続きです。

 

 S57.11月改正から S62.4月の民営化までの幕張183系は、多種類化が進みました。

 「わかしお」「さざなみ」を撮影していて、おなじグリーン車付き9連であっても、0番台が来るか、フル1000(Tcは1500)番台が来るか、はたまたクハのみ1500番台、中間車は0番台のが来るのか、という楽しみが加わりました。

 

 1983(S58)年3月6日 16:24 安房鴨川~安房天津(浜荻)にて 

 36Mわかしお20号 クハ183-3  マリ2編成(0番台)

 まだ道路わきのマンションは無く、線路向こう側の家並みが低いです。おかげでこんなに浜荻海岸が広く見渡せました。もともとここはこうだったのです。

 

 1983.3.6 17:16 31Mわかしお17号 マリ16編成(0番台) 

 東京15:00→17:19安房鴨川

 Tc31・MM'44・MM'45・MM'46・Ts16・Tc32←東京方

 夕陽がぎらり!

 浦の脇のカーブの鴨川駅寄り、県道の踏切に近いあたりです。今ではここはカーブ外側に雑木が高くなってしまい、低い位置に構えて こうは撮れません。

 

 

 1983.3.15 15:45 34Mわかしお16号(後追い)

 安房鴨川14:20→16:39東京

 マリ1編成(0番台) クハ183-1

 大網~土気にて

 土気トンネルに吸いこまれてゆく34M。

 陸橋わきの道路側斜面のちょっとした踊り場に張り付いて撮った記憶があります。

 

 同日 15:55 31Mわかしお17号 

 東京15:00→17:19安房鴨川

 マリ16(0番台) クハ183-31  

 

 ここに見える跨線橋、左のほうから細い林道(軽自動車なら通れる幅)を登ってきて この橋の右側から下の方へバックして戻ったと思います。この道は、この頃までこの先 山の方に存在した日本航空の研修所の裏手へ続いていました。

 この時は通れましたが、この10年後くらいに再訪してみたら、道は荒れて雨の流路でジープでないと通れないレベルに。しかたなく車は下に置いて徒歩で橋まで到達してみましたが、見通しが悪く撮影は出来なくなっていました。

 

 31M後追い マリ16 クハ183-32ほか

 上りは252M 113'系冷房準備車  

 ここの大きな鉄橋をゆく183系を 後追いながら順光できれいに撮れるか、と思っていましたが、252Mに被られてしまいました。

 

 S47年7月から総武快速線に投入された、同線の最初の運行車である冷房準備車ですが、この頃には総武快速~横須賀線の冷房化をよりいっそう早く進めるために 新製冷房車が続々と幕張電車区と大船電車区に投入されてゆきました。快速線の冷房準備車は千葉ローカル(各停)のうちの幕張持ち運用に押し出されてきていました。

 後に思うに、冷房準備車のクーラー搭載前の状態を 屋根上がわかりやすいこういう角度で撮った写真はあまり無く、これはこれで良かったのかも。

 

 

 1983.8.16 12:08 7002Mさざなみ10号 

 千倉11:54→14:11東京 

 マリ22 クハ183-1504 

 

 S58年夏ダイヤです。マリ22には新製車のクハ183-1504・1503。

 中間車のパンタは 2号車グリーン車の隣り、つまりモハ182形に搭載されています。すなわち中間車も1000番台であることがわかります(モハが0番台なら モハ183形に搭載のはず)

 松林の間からちらりと見えるのは北条海岸?いや たまたま青い屋根?

 

 7002M後追い

 8号車モハ183形にはパンタが無く 隣りのモハ182形に W搭載(上げ)。

 ここは、S48年にクハ183-17 が踏切事故に遭って転落してしまった沢で、この頃はこういう状態になっていました。

  ➡ cf. 1159)の記事

 

 

 

 

 同日12:33 7Mさざなみ9号 (後追い)

 東京10:30→12:35館山  北条橋梁  

 1000番台にまざって0番台9連もまだまだ活躍。

 

 1985.8.17 マリ10

 S60年夏ダイヤ期間です。なぜかこの日はメモがありません。多分メモ帳を忘れて出かけたようです。

 列車は館山を朝に発車する さざなみ4号(タテ8:03発)か 6号(同9:03発)と思われます。

 

 バックに東京湾が入り、しかも早い時間の上りが順光となる貴重な地点。ただ5~6両が限度。

 

 マリ10の組成は組み換えられて、1500番台クハが先頭に立つようになっていました。

 パンタ搭載は4・6・8号車のようで、したがって中間車は0番台。(手前が1号車)

 Wパンタのうち、上り方の1台は「下げ」になりました。

 1986(S61).11.1時点の「JRR編 国鉄電車編成表」によると、新マリ10は中間車が旧マリ6で、

クハ183-1504 サロ183-6 M'M-18 M'M-17 M'M-16 クハ183-1503←館山方

 新製配置当初マリ22 だったTc-1503、Tc-1504は旧マリ6の両端に組み込まれて新マリ10になりました。そうして貫通形のクハは6両編成の方へ集められてゆきました。

 

 1985.8.17 浜金谷~竹岡

 たぶん、1枚前の「さざなみ」の次の上りです。

 拡大すると、マリ13 とわかります。

 1986(S61).11.1時点の「JRR編 国鉄電車編成表」によると、マリ13は、中間車1000番台で、

クハ183-1506 サロ183-1004 M'M-1018 M'M-1010 M'M-1013 クハ183-1505←館山方

 

 そもそもなにゆえこの日、これらを撮っていたのだろうか?、と振り返えると、そうそう、この日は休みで、開催期間が終わりに近づいた「筑波科学博」にまつわる臨時列車(一往復しか設定のない20系もあった!)を早朝から撮りに行くつもりが寝過ごしてしまい、綿密に組んだ計画が瓦解してしまってしょげていたのでした。

 

 では、前号 1177)のクイズの答えです。

 房総急行廃止のS57.11改正の前、S50.3改正で登場した165・153系急行「外房」の下り5号(下りが1.2.3号の順だったS53.10改正前では3号)→折り返し翌日の2号(同上り1号)への折返しは、和田浦駅の海側にあった側線で停泊していました。

 この急行はS57.11改正まで存続しましたが、その期間の途中、たぶんS55年ごろに この和田浦駅側線は廃止されてしまい、停泊は安房鴨川駅の側線に変更になりました。

 すると、夜間の安房鴨川駅の留置編成が6本(183系2本、165または153系1本。外房線普通2本--安房小湊③への回送や勝浦への回送で2本逃がしても残り2本が停泊、内房線普通1本となってしまい、満線となってしまいます。夜間の保守のために1本の線路は空けておく必要があり、(安房鴨川駅では2番線)どうしたかというと、1線に2本の113系6連を夜間停泊させる、というものでした。でも11両対応のホームにどうやって6連2本を縦列駐車させるか??

 

 具体的には、内房線最終の下り113系6連(千葉19:50→22:34安房鴨川 の189M)が安房鴨川1番線に到着したあと、この編成を太海方にゆっくり移動させ、2両ぶんくらいを1番線からはみ出させます。(ホームの太海方の先には、分岐ポイントまで余裕があった)。

 すると1番線の安房天津寄りには7両ぶんほどのスペースが出来、ここに外房線下り最終(千葉21:33→23:37安房鴨川 の267M)の113系6連を停留させる、というものでした。

 したがって、267Mは前方に113系6連が停車しているホームに23:34ごろに進入することになり、何度も停車~ゆるゆる~停車~やわやわ~、と繰り返し、目標の位置に停車となります。したがって安房天津→安房鴨川間の所要時間が6分から9~10分へと伸びたわけです。

 このダイヤ修正(訂補)の紙面を追うと、いつから安房鴨川駅1番の縦列停車(つまり165・153系の和田浦停泊の廃止)が始まったか、がわかります。S53.10改正までは6~7分、S53.10改正でも7分、S55.10改正で10分、S58.7訂補では9分、などとなっています。

 なお、翌朝は、外房線初発の4:40発226M が出発したあと、太海寄りに移動させてあった内房線初発(5:13発の136M用編成)をもとの位置に戻してから乗客を待ち受けた、と思われます。

 

  (以下、次号へ続きます)