本の虫凪子の徘徊記録 -19ページ目

本の虫凪子の徘徊記録

新しく読んだ本、読み返した本の感想などを中心に、好きなものや好きなことについて気ままに書いていくブログです。

【再読】  桂望実『ボーイズ・ビー』 幻冬舎文庫

 

心の温まるお話が読みたい気分でしたので、本日はこちらの作品を。

何度読み返しても飽きない、好きな作品の一つです。

写真が上手く撮れませんでした。実際の表紙の色は、もう少し緑色が強めです。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

頑固で偏屈な老人と素直な少年が出会い、だんだんと心を通わせていく物語。こうやって文字にすると若干陳腐に見えてしまうのですが、やはり何度読んでも感動します。

主人公の隼人は、母を亡くしたばかりの十二歳の少年です。
性格はやや内気で真面目、そして非常に聡明。人の感情の機微に敏感で、とても子供とは思えないほど周囲に対して気を遣って生活しています。
自分だってまだ母の死から立ち直ることができていないのに、六歳の弟・直也の手前、泣きたくても泣くことができず、兄として気丈に振る舞い続けています。
母の死を理解できず、母のいた病室に毎日のように入り浸る弟。星になったママは昼間どこにいるの?と無邪気に聞いてくる弟。そんな弟の不安定な姿を見て、なんとかしなくてはと奮闘する隼人は本当に良いお兄ちゃんなのですが、本人もまだ小学生ということもあって、やはり若干無理をしているように見えてしまいます。僕はお兄ちゃんなんだから、お兄ちゃんなんだから、と何度も自身に言い聞かせている姿はあまりにも痛々しいものです。両親が悪いわけではないのですが、死ぬ前の母から直也をお願いねと何度も言われたこと、父からも直也を頼むと期待されていることが重圧となっているようです。

二人の父・正和は消防士です。命懸けで人を助ける仕事をしていて、今までに十回も表彰されています。物静かで滅多に声を荒げず、家の中でもだらしない姿を見せない、という、傍から見ると少しとっつきにくそうな、隼人にとっては尊敬すべき、偉大な父親です。
この正和ですが、どうしても、父親らしさよりも仕事人間としての側面の方が目につきます。息子との談笑中にも時計を見て時間を気にしていたり。まあ、職業柄仕方のないことではあるのですが。

消防士として家を空けることが多い以上、父親として幼い弟の面倒を見てくれ、と兄の方に頼むのは別段おかしいことではありません。ですが、「頼むよ。パパの期待に応えてくれ。いいな」という言葉は、さすがに母を失ったばかりの小六の息子にかけるものとしてはちょっと無神経でした。
良い父親ではあるんですけどね。彼だって妻の死は悲しいでしょうし、仕事よりも子供達の傍にいてやりたいという気持ちもあるはずです。
ですが、何というか隼人が「良い息子」すぎるせいで、相対的に父親の株が下がっていきます。ひどい言い方をすると、隼人が我慢強くて聞き分けの良い性格なのをいいことに、それに頼り切っている、というように見えてしまうのです。確かに愛情深い人ではあります。息子たちのために、意識して父親らしく明るく振る舞ってみたり。ただ、それを隼人に見抜かれて、ああ無理してるな、と思われてしまうあたりが何とも言えませんが。まあ、そういう不器用さも含めて、愛すべき人だと思います。

父親にも直也にも気を遣って生活している隼人は息苦しそうです。本人が父のことも弟のことも心の底から愛しているのが分かるだけに、余計に、見ている方が辛くなります。栄造に会っていなければ、このまま自分一人で抱え込んで、いずれ潰れてしまっていたのではないでしょうか。

もう一人の主人公である栄造は、隼人が直也の絵画教室の付き添いで行ったアトリエで出会った、七十歳の靴職人です。
この作品は、隼人と栄造それぞれの視点が交互に描かれています。
よりエンタメ性が高いのは栄造視点のパートの方でしょうか。本人が前向きな性格なので、ポンポンと小気味よく物語が進んでいきます。

すすけた真っ赤なアルファロメオを乗りこなすお洒落なおじいさん、カッコいいですね。
ただ、中身は不良で口も態度も悪いです。掃除婦のおばさんをババア呼ばわりする口の悪さです。隼人に対しても、初期は仕事場にあるもん触ったら殺すぞと凄んだり、非常に大人気ない対応を取っていました。ちなみに、隼人への第一印象は「暗そうなガキだな。友達いないんじゃないか。」です。
容赦なく暴言を吐くため、アトリエの同居人たちからも「イタリアかぶれの偏屈ジジイ」と呼ばれて遠巻きにされています。本人の方も彼らと仲良くなろうという気は一切ありません。

性格には難があるものの、彼の靴造りの腕は超一流です。一足で四、五十万円もする靴なんて庶民の私には想像もつきません。見た目も良く、丈夫で、五年十年履き続けることができる、そんな靴を造ることが彼の仕事なのです。
靴を作れないのなら生きていく価値がない、と言うほどの根っからの靴職人ですから、当然、こだわりも強いです。気に入らない客、靴を大切にしない客は容赦なく追い出します。自分が造った革の靴底をゴムに張り替えた客には、二度と来るなとブチ切れました。
態度は悪いですが、自分の仕事に強い誇りを持っている姿は非常に素敵だと思います。
十五で靴工場に勤め、その後独立、それから何十年もの間靴を造りつづけながらも、今でも日々精進を怠らず、自分の造るものには決して妥協しないというその姿勢は、プロと呼ぶに相応しいものでしょう。というよりも、もはや芸術家です。「その客のための靴」という作品を「自分のため」に造っているように見えます。

そんな栄造ですが、物語開始時はスランプの真っ最中です。思うような靴が造れず、何が原因なのかも分からず、苛立っているところで隼人と出会います。

この二人の交流の見どころは、なんと言っても隼人に対する栄造のツンデレっぷりでしょう。
乱暴に接していたものの、母親を失ったと聞かされた時は動揺して言葉に詰まったり、恋愛相談をされて渋々アドバイスをしたり、そのアドバイスが役に立たなかったと言われて焦ったり、隼人によってペースを乱される栄造の姿は見ていて本当に微笑ましいです。
隼人の家庭の悩みにまで真剣に相談に乗ってくれるあたり、この人本当はかなり世話好きで子供好きなのでは?と思います。
口ではあんなガキ、と言いつつも隼人が来る前に部屋を掃除する姿にはほっこりしました。
そのうち作業場の冷蔵庫に隼人のおやつが常備されるようになり、最終的に、休みの日には隼人が栄造の自宅へ遊びに行くようになります。完全に祖父と孫ですね。

二人で直也のためにプリンを作る場面は、作中でも特に好きな部分です。これがきっかけとなって、アトリエの住民たちが栄造の靴造りに協力してくれるようになるわけですから、物語としても重要な場面ですね。徳永さんや料理人のワルターも良いキャラしています。そしてワルターの話に出てきた、手縫いで靴を造る八十歳の女性の先生、すごいですね。八十歳で手仕事ですか。

ワルターの話からヒントを得た栄造がスランプを克服し、イギリスのコンテストに送るための一足をついに完成させた、というところが物語の終わりの部分です。
アトリエ住民たちが開いてくれた完成記念パーティーで、なんだよこれは、別に祝うことじゃねえだろと思いつつ隼人と直也に挟まれてフライドポテトを摘んでいる栄造。内心とは裏腹に結構楽しそうです。
そしてその後、特別賞を受賞した際にもまたパーティーが開かれたようです。直接の描写はありませんが、その時の、アトリエ住民たちに囲まれて栄造が隼人や直也と一緒に映っている写真が、栄造の自宅に飾られている、というところで物語が終わります。良い終わり方です。

以上。
読み終わった後は、なんだか優しい気持ちになります。

望んでいた通り、良い感じに心が温かくなりました。栄造さんはやっぱり魅力的ですね。大好きです。

靴の製造に関しても、専門用語を使わず分かりやすい言葉で説明されているので、想像しやすく、靴の知識がなくても十分に楽しむことができます。

本日も良い読書時間を過ごすことができました。

それでは今日はこの辺で。
 

 

 

【再読】  カフカ『変身』他一篇 山下肇訳 岩波文庫

 

今朝、ジャングルで大ムカデに襲われる夢を見ました。

トラの背に乗って逃げる私を、全長4,5メートルはありそうな巨大なムカデがぞぞぞぞとすごい勢いで這って追いかけてきました。変な夢ですよね。滅茶苦茶怖かったです。

そしてそんな夢からふと連想して、本日はこちらの作品を再読することにしました。

ムカデかどうかは分かりませんが、多足の毒虫のお話です。その他にもう一つ『断食芸人』というお話も収録されています。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

『変身』

仕事熱心なグレゴール・ザムザ青年が、目が覚めたら一匹の毒虫になっていた、というところから始まります。
最初は寝惚けて、どうしたのかな、おれは。などとぼんやり考えています。
意識がはっきりしだしてからも、仕事のことしか頭にないこのグレゴール青年。突然毒虫に変わった自分の体よりも、時間通りに仕事に出ることの方が重要なようです。
毒虫の体で何としても出勤しようと奮闘する姿は少し微笑ましいですが、傍から見れば巨大な虫がわさわさ動いているだけですから、相当不気味な様子でしょう。

この、虫になった主人公の体の描写ですが、はっきり言ってかなり気持ち悪いです。
たくさん生えている細い足や、腹部にある謎の白い斑点など、やけに丁寧に描かれているため読んでいて一々ぞわっとします。私は虫はあまり好きではありません。

人間だった頃の彼はごく真面目な良い青年だったと思うのですが、どうして突然こんな目に遭ってしまったのでしょう。
老いた父と喘息病みの母、まだ十七歳の妹を養うために毎日頑張って働いていた立派な長男で、給料も、自分の手元にはほんの少しだけ残し、あとは毎月欠かさず家に入れていました。それから妹をどうにか音楽学校へ入れてやろうと密かに計画していたり、兄としても尊敬に値する人物です。それが最後には家族から「こいつ」「これ」呼ばわりされて、毒虫のまま死んでしまうなんてあんまりです。

変身したグレゴールに対する家族の反応としては、やはり何度読んでも父親の非情さが目につきます。
変身した直後の場面、部屋から出てきた彼を、ステッキと新聞紙をばさばさ振って、しっしっと自室に追い戻す父親。この時点でもう、目の前の虫けらを息子と思う気は一切ないのでしょう。気を抜くとこんがらがってしまう足を必死に動かし、のろのろと部屋に戻っていくグレゴール。ステッキで無理矢理部屋に押し込められ、傷ついて血まみれになってしまうのがあまりに痛々しくて哀れです。血というよりは体液でしょうけれど。
林檎を投げつける場面にしろ、彼の体に林檎がめり込んで取れなくなるくらいですから、相当思いっきり投げつけたのだと思います。それこそ本当に殺す気で。いくら気味の悪い見た目なのだとしても、息子と分かっているものに対してここまで残酷な仕打ちができるものなのでしょうか。

怯えるだけの母親や妹はまだ良い方です。
特に、妹は兄の世話を積極的にしてくれたわけですから、根は善良で優しい子です。
自分の姿を少しでも妹の目に触れさせないように、と考えて亜麻布をすっぽり被ったグレゴールに対して思わず安堵してしまったりと、兄の姿を気味悪がっていることは事実なのですが、それでも彼女の毒虫になったグレゴールへの当初の気遣いには確かに思いやりがあり、彼女が兄を愛していたことが十分に窺えます。
それだけに、終盤の彼女の叫びは聞いていて本当に辛いものがありますね。愛する妹から「このけだもの」と呼ばれ憎しみをぶつけられるグレゴールの心を思うと、絶望的な気持ちになります。
まあ彼女にしろ、それまで家事の手伝いくらいしかしたことのなかったのがいきなり働くことになり、生活の苦しさと現状のままならさの中でつい感情的になってしまったのでしょう。あの場面は考えなしに下宿人たちに姿を見せてしまったグレゴールの方にも問題がありましたし。
父親はともかく、母と妹に関しては、もし一家がもう少し裕福で心にもゆとりがあったなら、グレゴールに対してももっと違った接し方をしていたのでは、と思います。貧乏で、暮らしていくことに精一杯で、その上毒虫の長男という厄介者の面倒を見なくてはいけない、という現実が、本来は心優しい妹にあんな言葉を言わせてしまったのではないでしょうか。

グレゴールという稼ぎ頭を失ったことで、父親は小使として、母親は服飾店の下請けで下着を縫い、妹は女店員になってそれぞれが働くことになりました。装身具類を売り払ったり、住居を間貸ししたりと、家族が一丸となって必死に生活しています。その様子を、隣室から見守ることしかできないグレゴール。やるせない思いでしょうね。この一家は、今まで家を支えてくれていた長男にもう少し感謝するべきです。

ですが、結果的に彼がいなくなったことで、家族はお互いに協力し合いながら生きることになったわけです。これが本来、家族というもののあるべき姿なのかもしれません。グレゴールへの依存から脱出し、それぞれが自分の足で歩き始める、視点を変えればこれは父と母、妹それぞれの成長物語というようにも受け取れます。
三人で陽射しを浴びながら散歩に出ていくラストシーン、彼らが、グレゴールが見つけてくれた今の家を出て、もっと小さくて安い、実用的な家に住もうなどと生き生きと話している場面は何度読んでも悲しい気持ちになります。これでは、自分が頑張らなくてはと一人でがむしゃらに働いていたグレゴールが馬鹿みたいです。

昔、この「変身」を読む前の私は、「これは目が覚めたら毒虫になっていた青年が主人公の暗い話だ」というどこかから聞いた知識しかなかったため、最後は気味悪がられ迫害されて死んでしまうものと思っていました。今考えると、そちらの方がまだ救いがありますね。
実際は、彼は「自分が消えていなくならねばならない」ということを理解して、安らぎと虚しさの中で死んでいくのですから、どうにも救いようがありません。

人間であった頃から彼には、自分は邪魔者である、という無意識化での思いがあったのでしょう。それが彼を毒虫へと変えてしまったのだと、私はこの「変身」についてそう解釈しています。

余談ですが、グレゴールを見ても一切動じない、「筋骨たくましい手伝いの婆さん」は良いキャラをしていると思います。
襲いかかるような素振りを見せた彼に対して、飛びすさったり逃げ出すのではなく手近にあった椅子を振り上げるあたり、相当肝が座っています。そしてグレゴールが飛びかかってこないと分かると「そうかい、それっきりかね」と言って静かに椅子を元の位置に戻します。この冷静さは見習いたいものですね。私だったら恐怖で失神していると思います。


『断食芸人』
文字通り、断食中の痛々しく痩せさらばえた姿を見世物とする芸人のことです。
主人公である彼は、檻の中で座り続ける四十日もの間、一切食物を口にしません。
その姿はもはや芸人というよりも行者です。
断食を名誉と考えており、見世物としてというよりは自分を満足させるために断食をしているようにも見えます。

人気が低迷して落ちぶれた後もサーカスの片隅で断食を続け、最後にはそのまま餓死します。
誰も立ち止まらない檻の中で一人虚しく断食を続けていた彼は、最期にこう言い残しています。
「わしはな、美味いと思う食物がみつからんかったからだよ。美味いものがありさえすりゃあ、なにも、人気集めなどせんで、おまえやみなの衆みたいに、たらふく食ってくらしとったと思うよ」

彼の言うことが本当であるなら、不幸なことだと思います。
一般的に人が美味と感じるであろうものを食べても、彼はそうは思えない。その差異、一般との「ずれ」、疎外感を埋めるために彼は断食を始めたのでしょうか。だとするなら、行者のように見せてはいても彼の断食とは何ら崇高なものではなく、本人がそう思いたいだけで、実際は食べることを楽しめない人間の強がりにしか過ぎなかったわけです。それは虚しい行いです。
だんだんと誰からも顧みられなくなっていく中、彼はどう思って檻の中で過ごしていたのでしょうか。

芸人が餓死した後、彼がいた檻の中に新たに入れられた、若い豹の生命力あふれる姿が印象的でした。残酷な対比です。
 

 

以上。

どちらも短いお話なので、所謂「文学作品」と呼ばれるものの中でも比較的読みやすいのではないかと思います。

それでは今日はこの辺で。

 

 

 

【再読】  P.L.トラヴァース『風にのってきたメアリー・ポピンズ』林容吉訳 岩波少年文庫

 

ふと目に留まったものですから、本日はこちらの作品を再読することにしました。

何度読んでもわくわくする、子供の頃から大好きな一冊です。

ちなみに映画版は一作も見たことがありません。機会があれば、とは思っているのですが。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

舞台は桜町通り十七番地の小さな家、住んでいるのはご主人のバンクスさんとその奥さん、ジェインとマイケル、双子のジョンとバーバラの六人家族に、料理番のブリルばあや、女中のエレン、雑用係のロバートソン・アイの合わせて九名です。ここに新たな子供の世話役としてメアリー・ポピンズが加わります。

風に運ばれるようにして突然やって来たメアリー。
子供たちを尊大に眺めやり、まあ良いでしょうというように鼻を鳴らして、世話係の仕事を「おひきうけしました。」と言うのです。この場面だけで、彼女がどんな性格なのかが分かります。

原作を読んだことのない私の知人は、メアリー・ポピンズのことを「明るくて優しい、ちょっと不思議なお姉さん」だと思っていました。とんでもないです。もしかして映画版ではそういうふうに描かれているんでしょうか。
こちらのメアリーは、非常にうぬぼれやできつい性格の女性です。上品ぶって、気取っていて、はっきり言うと嫌な女です。子供好きとも思えませんし、なぜ彼女が世話係を自ら買って出たのか、未だに分かりません。世話係としての能力自体は申し分のないものなのですが。
他人への態度は、挨拶をしたら返してはくれる、という程度で、愛想がないというより最低限の礼儀しかありません。
ちなみに美人でもありません。つやつやした黒髪とキラキラ光る青い目は印象的ですが、痩せていて手足が大きく、目は小さく、木のオランダ人形に例えられる部分から肌は色黒だと思われます。あまり女性らしい風貌とは言えませんね。少なくとも、スタイル抜群の美女ではなさそうです。が、こういった特徴的な容姿も含めて彼女の魅力であり、美しいだけの女性よりもずっと想像しやすく、印象に残る気がします。

メアリーの態度としてよく使われる言葉は、「ふきげんそうに」「ばかにしたように」「見さげはてたというように」「けいべつしたように」「あざ笑うように」このあたりでしょうか。かなり問題のある性格です。そして不機嫌なときは、子供たちへの態度もより刺々しくなります。褒められたり気遣われたりするとちょっと態度が和らぐあたり、可愛らしいところもあるのですが。

そして、おしゃれが大好きで、ショウ・ウィンドウに映る自分の姿を見て悦に浸るのが趣味。どれくらいおしゃれ好きなのかというと、お気に入りのこうもり傘、柄がオウムの頭になっているデザインの傘を、雨も降っていないのに持って出ては、それを「だれの目にもつくように」注意しながら歩くほどです。見せびらかしたいのです。
お若い盛りとも見えませんが、と言われたら当然気を悪くするくせに、見え透いたお世辞を言われるのもそれはそれで嫌なようです。というか、気安く話しかけてくる相手が嫌なのかもしれません。

こんなメアリーですが、ただ冷たいばかりの女性ではありません。
お休みの日にマッチ売りのバートと一緒にいるときは、優しく気遣いのできる完璧なレディへと早変わりします。愛想も良く常ににこやかで、二人でお茶をする回だけはメアリーが別人のように見えます。こっちが素なんでしょうか。
それから、お気に入りの上等な手袋を星の子マイアに惜しげもなくあげてしまったり。あそこは身なりに気を使うメアリーだからこそ映えるシーンです。クリスマスプレゼントを貰えない子供なんてあってはならない、ということでしょうか。なんだかんだ子供には甘いんですよね。

そして、バートは一体何者なんでしょう。彼もメアリーと同種の、不思議の世界の住人なのか、そもそもメアリーとはどういう経緯で出会ったのか、彼に関しては多くが謎に包まれています。お茶の回以降ほとんど出てきませんし。

また、メアリーにはバートの他にも不思議な友人がたくさんいます。
北極のエスキモー、南国の部族、中国の大官、インディアン、そしていかにも魔女といった容貌のコリーおばさん。動物たちの間でもメアリー・ポピンズは有名人なようで、「あの人」と呼ばれてそれなりの敬意を払われています。
いえ、ハトたちからはそうでもありませんでしたね。お気に入りの帽子についているバラの花をハトに啄まれ、「肉パイにして焼いてやる!」とメアリーが傘を振り上げて怒るシーンがありました、そういえば。
動物園の王である賢く恐ろしいキング・コブラはメアリーの母のいとこだそうです。どういうことなのかよく分かりませんが、おそらくメアリーの不思議な能力は母親からの遺伝なのでしょう。牝牛のお話にも少しだけ登場していました。

主人公のメアリー・ポピンズの次に多く登場するのはジェインとマイケルの姉弟です。この二人の、賢いお姉ちゃんとわんぱくな弟の組み合わせというのはもちろん好きなのですが、私がお話として好きなのは、二人の登場しない「ジョンとバーバラの物語」ですね。
ジョンとバーバラ、ムクドリ、メアリー・ポピンズの会話がメインのお話です。

双子の赤ちゃんのジョンとバーバラは、今はムクドリや日の光の言葉が分かりますが、いつかはジェインやマイケルのように大きくなって、そういう不思議な力も失われることになります。
それを聞いて、「大すきなものを、みんな忘れなきゃならないんなら、歯なんて、ぼく、いらないや。」と泣き出すジョン。大きくなんてなりたくない、と泣く双子に対して、「だからって、どうにもしょうがないんですよ。そういうものなんだから。」と、彼女にしては珍しく思いやり深い様子で声をかけるメアリー・ポピンズ。彼女はなぜ、不思議な力を持ったまま大人になることができたのか、それは誰にも分かりません。蛇のいとこだという母親の素性にすらほとんど触れられず、作中ではただ、彼女は特別だ、ということしか明かされないのです。
他の人たちのようにはならない、動物や風や木の言葉も、絶対に忘れたりなんかしない、と言っていたジョンとバーバラも、結局は不思議の力を失ってしまい、最後にはただの無邪気な赤ん坊になってしまいました。もう、自分たちがそんな素晴らしい力を持っていたのだということすら忘れています。寂しいですね。いつも騒々しいムクドリが、友人を失ったことに傷ついている姿にも心が痛みます。

おとぎの国に行けるのは子供だけ、というのはピーターパンなどにも見られる、世の中の共通認識のようです。この作品内では、満一歳になるまでは誰もが風や鳥と話すことができた、というふうに語られています。
ムクドリやメアリーと当たり前のように会話をするジョンとバーバラは、大人たちよりもずっと強く、世界というものを全身で感じ取っていたのではないかと思います。私も、忘れてしまっただけで、昔はお日さまや風と会話することができていたのかもしれません。

そして物語の終わり、西風に乗って、来たときと同じように突然帰ってしまったメアリー・ポピンズ。
窓から行かないでと叫ぶジェインとマイケルの声に振り向きもせず、そのまま飛び去ってしまいました。
その後、大泣きする二人。マイケルが泣きながら母親に言い放った、「世界じゅうで、メアリー・ポピンズだけいれば、いいんだ!」という言葉が印象的です。
不思議ですよね、確かに優しいところもありましたが、マイケルにとってメアリー・ポピンズは一貫して「こわい人」という印象だったはずです。それでも、最後にはここまで言わせるのですから、それだけメアリーには不思議な魅力があったということでしょう。私も、初めて読んだ子供の頃はメアリーとの別れが辛くて二人と一緒に泣き、マイケルと同じように、メアリー・ポピンズさえいれば良いのに、と思いました。今読んでも、このメアリーが行ってしまう場面では少し悲しくなります。続きがあることは分かっていても、です。

彼女は本当に何者なんでしょう。魔法使い、というのも何だか違うような気がしますし、やはり「メアリー・ポピンズ」としか言いようがないのかもしれません。見た目も中身も、その不思議な力も全て含めて、形容し難い魅力を持った女性です。

 

懐かしい気持ちで読み返しました。やはり面白いですね。

このまま『帰ってきたメアリー・ポピンズ』へと続きたいところではありますが、生憎と今は手元にありません。

残念ですが、続編の再読はまた次の機会にします。

それでは今日はこの辺で。
 

 

 

 

【初読】  穂高明『むすびや』 双葉文庫

 

本日はこちらの作品を。

ひらがな四文字のタイトルの可愛らしさに惹かれました。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

主人公の結(ゆい)は就職に失敗した男の子です。「おむすび屋の息子」ということにコンプレックスを抱いている彼が、実家に戻り、家業を手伝い始めるところから物語が始まります。だんだんと寂れてきた商店街の中で、生き残っている小さなおむすび屋さん、何とも風情があります。

元サラリーマンだった父親が、祖父の寿司屋を改装し、新たに始めたのがこの「むすびや」です。主人公の結が生まれる前に開店しているので、結は物心ついたときから「おむすびやの息子」でした。
店名をおにぎりではなく「おむすび」の「むすびや」としたのは、父・修一の、俺は親父と違って『握れない』から、という一言があったからです。

それにしてもこの修一、寿司職人の息子なだけあって本人もかなりの職人気質です。この「むすびや」は、元サラリーマンが成り行きで始めた店とは思えない程、「おむすび」に対しては一切の妥協がありません。
お米の炊き加減に気を使うのはもちろんのこと、「おかか」の鰹節は毎朝、その日に使う分だけ削り、梅干しも付け合せの漬物も自家製。鮭は切り身を焼くところから。味噌汁に使っただしがら昆布は刻んで佃煮に。
きゅっきゅっ、きゅっきゅっ、と四回握って綺麗な三角形を作り、口に入れるとほろっと米粒が崩れるように仕上げます。これはもはや「匠の技」と言って差し支えないでしょう。
そして、お米の目利きの方は米屋に一任しています。おむすびに合う米を売ってくれ、と言って。そういうところはその道のプロに任せ、自分はその米をいかに美味しく炊き上げるかを考える、修一はそういう男です。

取り扱っている商品の種類は、おかか、梅、鮭、昆布、焼きたらこ、生たらこ、鶏そぼろ、かやく、赤飯。それから塩むすび。たらこが生と焼いたのと二種類あるのが素敵です。ときどきイクラやうなぎの蒲焼きなどの特別な商品が出ることも。
店内でのイートインも出来て、好きなおむすび2つと味噌汁、漬物で五百円。良心的です。しかもイートインの場合には出来たてのものから提供してもらえるのです。「あつあつ」ではなく「ほかほか」のおむすび、良いですね。空腹時に読んだので余計にお腹が減りました。

傍から見れば、美味しいおむすびが食べ放題な羨ましい家庭環境なのですが、息子の結はそんな「おむすび屋の息子」であることを恥ずかしく思っています。
結だけでなく、この商店街の子たちの多くは、小さい頃にやれ魚屋の息子だの八百屋の息子だのとからかわれていたため、それぞれ実家の家業に対して複雑な思いを抱いています。魚屋の息子・誠一が好きな女の子からなんか生臭そうと陰口を叩かれ、ドラッグストアで制汗剤を二本も買う場面はさすがに可哀想でした。
結が可哀想だったのは、小学生の頃、給食で余ったご飯を前に、ほらおむすび握れよと男子たちからからかわれる場面ですね。思わずしゃがみこんで泣いてしまう結を見て、転がったぞー、おむすびころりん、おむすびころりん、とさらにはやし立てる男子たち。これは残酷すぎるでしょう。こんなことをされたら家業を嫌いになるのも当然です。
それから、隣の部屋で、夜な夜な売り上げの話をする両親。これも結構嫌ですね。今日は三万しか……とか、今週はさっぱりダメだな……とかいった話を夜毎聞かされたら、私なら商売そのものを嫌いになりそうです。

この物語の内容としては、そんなこんなで実家を恥じていた結が店で働いていくうちにだんだんと心情を変化させていき、最終的にここが自分の居場所なんだ、と自覚する、というのがおおまかな流れになります。
主人公は結ですが、章ごとにメインとなる人物は違い、それぞれの視点から「むすびや」の様子が描かれていきます。各人物への掘り下げもあり、どちらかというと「むすびや」を中心として周りの人々を描いた短編集のような雰囲気です。
結の幼なじみ・俊次や米屋の清、両親などの商店街の人々の生き方が描かれるほか、それぞれに悩みや不安を抱えた人々が、地元にある「むすびや」を訪れ、少しだけ安らぎを得る姿も描かれています。

私が好きなのは留学生のキム・チョルスですね。結の良き友人の一人です。韓国人ですが母方の祖母が日本人で、「憂鬱」と漢字で書くことができたり、話に歌麿の浮世絵を引き合いに出したりするくらい、日本文化への造詣が深い男の子です。非常に真面目で勉強熱心な性格で、さらに自身の博学さをひけらかさない謙虚なところに好感が持てます。
結や俊次たちが彼のためにキムパブを作るエピソードは特に好きです。
今は「キンパ」の名称の方が主流かもしれません。ソーセージ、玉子焼き、にんじん、カニカマ、チーズ、炒めた薄切り肉、ナムル、沢庵。それにごま油と白ごまをたっぷり。結たちが作ったのは知識頼りのなんちゃってキムパブですが、非常に美味しそうです。祖母が亡くなって落ち込んでいるチョルスを元気づけるために、皆で協力して作ったキムパブ、チョルスも泣く程美味しかったようです。

もう一人、印象的だったのは、結もお世話になった富田先生です。別視点では、小柄で童顔で、フェミニンな服装をしていて、男子生徒に絡まれてはぷりぷり怒ってみせるあざとい女教師として描かれていますが、本人はそんな自分にうんざりしています。仕事も男関係もうまくいかず、電車に揺られながら「こんちくしょー」とぼそっと呟く姿が悲しいです。美味しいおむすびでも食べて癒やされてください。

その他の人物もそれぞれに印象的でした。俊次にしろ米屋の清にしろ、それから結と同世代の佳子や誠一にしろ、富田の教え子の春菜にしろ、一人一人が非常に丁寧に描かれています。
それから、結の両親も。
特に母親の澄子が、就活中の結をそっと見守る様子が印象的でした。元気をなくしていく息子に対して何もしてあげることができず、靴を磨いたり、シャツにアイロンをかけたりしながら、自分は無能な母親だと落ち込む場面は見ていて胸が痛くなりました。そんなことないですよ。

父・修一に関しては、終盤で彼が誠一にかけた言葉が特に心に残りました。
「むすびや」のおむすびの味と、勤め先の回転寿司の味を比べてしまい、自分の仕事はインチキ寿司を提供するだけの虚しいものなんだ、とこぼした誠一。それに対して、それは違う、人様の腹の中に入る物を作っている点ではうちも回転寿司も同じだ、大切なのは真心だと返した修一。
当たり前のことですが、やはり一番大切なのはそこですよね。
回転寿司自体は、決して悪いものではないと思います。安くて手軽で、私も好きです。こだわりのおむすび屋さんと回転寿司、そもそも比べるものでもないでしょう。誠一が虚しさを感じたのは、そのシステム化された運営には真心がないと知ってしまったからです。誠一は選ぶ職場を間違えました。

店を通して多くを学び、主人公の結もだんだんと成長していきます。
最初のつまらなそうに海苔を巻く姿から一変、具材の仕込みについて自分から母親に教わったり、新メニューを真剣に考えたり、「おむすび屋の息子」らしくなっていきます。玄米にきゃらぶきを合わせるのは良いセンスだと思いました。蕗は若干万人受けしづらいかもしれませんが、私は好きです。絶対に美味しい。
最後にはようやく米を握るお許しも出ました。
定休日、一人厨房で塩むすびを作る結の姿で物語は幕を閉じます。
まだ父のようにはいかず、不格好です。歪んだおむすびを前に
「よし、もう一回挑戦だ!」
と言う結。一歩、踏み出したという感じがします。


どこかゆったりとした、心温まる優しいお話でした。
「むすびや」という店名と「結」という名前の繋がりも素敵でした。東北生まれの祖母がつけた、「助け合い」を意味する言葉だそうです。
この作品でも、人と人との繋がりを強く感じることができます。

自分の名前に込められたいくつもの意味に思いを馳せ、結が一人でおむすびを作るラストシーンは、ようやく地に足がついたような、前を向いてしっかりと歩き始めることができたような、そんな印象を受けました。

働くうえ、生きていくうえで大切なことを教えてくれるような作品です。良いお話でした。

それでは今日はこの辺で。

 

 

 

 

【再読】  大和和紀『あさきゆめみし』 講談社漫画文庫

 

昨日に引き続き、『あさきゆめみし』を。

6,7巻は「宇治十帖」の内容です。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

『第六巻』

主な登場人物は四名です。
薫と匂の宮、そして姉妹である宇治の姫君・大君と中の君。

主人公は光源氏の息子・薫。実際は女三の宮と柏木との間に生まれた、あの不義の子です。
根暗に見えるほど生真面目でお堅い性格でしたが、自身の生まれの秘密を知ってからは何かに吹っ切れたようで、少し明るくなります。物静かで控えめ、恋に対しても慎重で、大君とは本当にお似合いの二人でした。大君が死んでからは若干暴走気味になりますが、まあそれだけ彼女を想っていたということでしょう。でなければ真面目な彼が、人妻となった後の中の君に対してあんな思い切った行動をとるはずがありません。
体から放つ芳香のせいで、よく残り香から存在がバレます。昔から気になっているのですが、これ、一体どんな香りなんでしょうね。梅の花に例えられることが多いですが、生きた花のような甘やかな香りなのか、香の煙るような香りなのか。

そして親友の匂の宮。
明石の中宮の息子で、祖父である光源氏をリスペクトしているだけあって、恋多き男性です。性格は非常に明るい、というか、わんぱく坊主がそのまま大きくなったような、親王とも思えぬ軽薄さです。
色好みではありますが女であれば誰でもいいわけではなく、全てはただ一人の「理想の女性」を見つけるため、そのために多くの恋を重ねています。源氏と同じですね。遊び人というより恋に全力な人です。

この匂の宮と中の君の方は良いとして、薫と大君の恋は悲恋に終わりました。
大君は穏やかで心優しい側面が強調されていますが、特筆すべきは薫の求愛を頑なに拒み続ける、その意志の強さの方だと思います。男からしたら無情に思えるであろうほどの頑なさです。実際は、彼女も薫を憎からず思っていたわけですが。
印象深いのは、寝所に忍んできた薫に対して、咄嗟に妹を身代わりにする場面。あれはさすがに、ちょっとひどかったと思います。彼女なりに考えあっての行動なのだとしても、薫と妹の双方の気持ちを踏みにじる行いであったことには変わりありません。結局、薫が中の君とふしどを共にすることはありませんでしたが、二人の心は傷つき、大君自身も傷つきました。なんだか彼女の優しさは周囲を傷つけてばかりです。彼女の献身は終始美しいものですが、若干空回っていたように思えてなりません。
妹の幸せや先の長くない自分の命を考えて薫を拒み続けているのだと分かっていても、やはり見ている側からするともどかしいものです。そして結局、薫と添うことなく死んでしまいます。もっと自分の幸せについて考えても良かったのではないか、と思ってしまいます。優しい人だからこそ、彼女にも幸せになって欲しかったです。

中の君の方は、紆余曲折ありつつも匂の宮と結ばれ、最終的には京で不自由なく生活しています。中宮からも認められ、男児を出産した際には多くの人からの祝福を受け、まあ幸せなのではないでしょうか。
見た目は大君よりも彼女の方が好みですね。特に匂の宮と一夜を共にして以降の彼女は、表情に艶っぽさが出ていてより美人。
シーンとしては、彼女が住み慣れた宇治を離れて京へと移るときに、道のけわしさに目を留め、匂の宮たちはこんな中を自分の元まで通っていたのだ、とはっとするところが好きです。山奥ですからね。こんな風に人の苦労というか、努力というか、そういったものをごく自然に察することのできる人は素敵だと思います。

終盤では大君に瓜二つの異母妹・浮舟が登場し、彼女の存在を薫が知ったところで巻が終わりました。浮舟に失った恋人の姿を重ね、驚喜する薫。さあここから浮舟の不幸が始まります。

前作の登場人物の中で、今作でも比較的多く描写されるのは夕霧と明石の中宮、冷泉院くらいでしょうか。光源氏の予言の子三人です。夕霧は落ち着いた大人の男性になり、中宮も威厳ある国母の風格です。冷泉院は感情の起伏が少なく、美貌も相まって人間味がほとんど感じられません。同じ顔の夕霧はまだ表情豊かな方です。それから主人公の実父である柏木も、主に夕霧の回想でたびたび登場します。

夕霧は落ち葉の宮とも雲居の雁とも上手くいっているようで何よりです。娘の結婚に頭を悩ませている姿が印象的でした。嫁入りを打診した匂の宮や薫は、二人して宇治の姫君たちに夢中。それに機嫌を損ねて、うちの娘の何が不満だ、とぼやいている姿が父親らしくて微笑ましかったです。最終的には匂の宮と結婚させましたが。

それから、真木柱の君も綺麗な女性になりましたね。玉鬘が嫁いだひげ黒と前妻の娘です。今は亡き柏木の弟、紅梅の大納言と結婚して幸せに暮らしています。この子も実は結構好きなキャラクターです。

 

 

『第七巻』

この巻の主人公は浮舟でしょう。
おっとりとした可憐な女性です。

母親の常陸殿は良いキャラクターですね。若干ギャグキャラ寄りの造形なので、作者も動かしやすそうです。娘思いの良い母親です。

また、中の君は姉の存命時はまだ子供っぽさを残した明るい姫君でしたが、今はしっとりとした色香があり、物腰も経産婦らしく落ち着いています。結局、彼女も匂の宮が探し求めていた理想の女性ではなかったようで、彼の浮気に悩まされているようです。
 
浮舟は薫に見初められますが、その後匂の宮と出会ってしまったことで彼とも関係を持つことに。
重々しく気品のある薫と、明るく打ちとけやすい匂の宮との間で揺れる浮舟。浮舟から見た二人の印象が面白いですね。親王である匂の宮より家臣である薫の方が高貴に見えるとは。中宮が産んだどの子たちよりも気品で勝っている、とは幼い頃の薫を見た夕霧の言ですが、やはり母である女三の宮の血なのでしょうか。

浮舟は意志の弱い、流されやすい女ではあるのですが、この作品では彼女が罪悪感に苦しみ二人の間で悩む姿が丁寧に描かれているため、原作の「宇治十帖」よりもずっと魅力的に見えます。川に身を投げるまでに思いつめる様子は、あまりにも痛々しい。結局死ぬことはできませんでしたが、その後、出家して尼となります。
自分を探す薫に対して、会わないという選択をとったのは正しかったと思います。彼女の性質上、会えばきっとまた流されてしまうでしょう。
最後の、法衣を纏い宇治川を見据える立ち姿は美しかったです。

浮舟が死んだと聞いたときの、男二人の涙も印象的でした。その後、心にぽっかりと穴の空いたような二人の様子から、真実浮舟を愛していたのだということが窺えます。
薫がはっきりと、大君の身代わりとしてではなく浮舟自身を愛していたのだと気がつく場面、ここは重要なポイントですね。私はこの作品を知るまで浮舟は形代にすぎないと思っていたので、こういう形で彼女が救われたのは良かったと思います。
 

 

以上。宇治十帖の方が登場人物が少ない分、より読みやすいのではないでしょうか。

個人的に、物語として複雑で面白いのは源氏物語の方で、こちらは洗練されて小奇麗に纏まっている、といった印象を受けます。どちらもそれぞれに良いものですが、やはり私としては朧月夜のいる本編の方が捨てがたいです。情熱的な彼女なら仮に浮舟の立場になっても楽しんでいそうですね。

最後に光源氏が神の如く現れて浮舟に語りかけるシーンは、良いシーンなのですがちょっと面白くもあります。あまりにも神々しい姿でした。

 

本編と合わせて全七巻。画も、使われる言葉も美しく、平安時代の雅やかな雰囲気の中に浸ることができます。

さすが傑作と言われるだけのことはあり、何度も読み返したくなる作品です。

それでは今日はこの辺で。