本の虫凪子の徘徊記録 -17ページ目

本の虫凪子の徘徊記録

新しく読んだ本、読み返した本の感想などを中心に、好きなものや好きなことについて気ままに書いていくブログです。

【再読】  山本一力『あかね空』 文春文庫

 

江戸時代を描いた作品、特に町人の暮らしをテーマとしたものが好きです。

と、いうわけで、本日はこちらの作品を再読しました。

豆腐屋の家族を中心に、江戸の町に生きる人々が生き生きと描かれています。

最近知りましたが、内野聖陽さん主演で映画化もされていたそうです。暇があれば鑑賞してみようと思います。

それでは、内容と感想を書いていきます。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

「第一章」
主人公の永吉は二十五歳の豆腐職人です。自分の店を持つため、十二の頃から奉公していた京の店を出て、頼る者もいない江戸にたった一人でやって来ました。
身長179センチとこの時代ではかなりの巨漢なのですが、性格はおっとりと優しく、上方訛りの丁寧な話し方もあって人からは舐められやすいという厄介な特徴の持ち主です。
彼は貧しい農家の三男坊として生まれ、大飯食らいのため親に疎まれて育ちました。娘を売春婦として売り飛ばす程の貧しい家庭で、永吉もひどい扱いを受けていましたが、間引きしないだけ立派、という時代です。
奉公先の豆腐屋では水運びから始め、きつい仕事に何年も耐え続けることでようやく一人前の職人になりました。

そんな彼がやって来たのは町人の町・深川。貧乏人たちが助け合って暮らす、これぞ江戸、といった雰囲気の場所です。
金だけ持ってほとんど身一つでやって来たにも関わらず、永吉が慣れない土地でスムーズに店を持つことができたのは、隣家の桶屋職人・源治の手助けあってこそ。桶などの道具を拵えてくれたり、店の普請にも協力してくれたり、頑固ですが人情味溢れる、良いオヤジさんです。
そしてその娘である、働き者で、ちょっと生意気ですが愛嬌のあるおふみ。この作品のヒロインです。永吉と出会った初日から運命のようなものを感じ、そわそわする様子が可愛らしい。買い物に付き合ったりと、江戸に慣れない永吉の世話を焼きます。

店構えは良いとして、肝心なのは永吉の作るお豆腐の方です。
京風と江戸前では豆腐の大きさも固さも違います。京豆腐は江戸豆腐の4分の1の大きさで、手で掴めないほど柔らかく崩れやすいのが特徴です。絹豆腐ですね。対して江戸のものは非常に固いのが特徴。固い豆腐に慣れた人々は、なかなか永吉の豆腐を買ってくれません。

江戸の豆腐は使う豆の量が少ないぶん豆乳が薄くなり、固めるときに重しで水を絞り出す必要がありますが、京風は豆を大量に使うので無理に絞る必要がなく、水分の残った状態で固まるため柔らかくなるそうです。
良い豆を惜しみなく使うため当然コストは掛かりますが、永吉は京前にこだわります。こういうところはやはり職人さんです。
が、全然売れません。買ってくれるのはおふみの他にはお婆さんが一人きりで、長屋の人たちはみんな担ぎ売りの嘉次郎から江戸前の豆腐を買っています。

この嘉次郎がまた、良いキャラクターをしています。男っぷりが良くて粋な若人で、商売敵である永吉にはトゲのある態度を取るものの、永吉の作った豆腐を食べて「……うめえ……」と唸るように呟くなど、職人としての技量には一目置いています。そして仲の良いおふみを通して、ものすごく親身になってアドバイスをしてくれる、滅茶苦茶良い人です。お寺相手の商売を勧めてくれたのも彼ですから、間違いなく「京や」の恩人の一人です。

それから、永代寺の「相州屋」。
潰れる寸前の豆腐屋を営む老夫婦で、毎日豆腐を買ってくれるお婆さんはこの店のおかみさんです。幼い頃に行方知れずとなった息子と永吉の姿を重ね合わせ、陰ながら手助けをしてくれます。永代寺に注文の口利きをしてくれたり、老舗料亭・江戸屋との縁を繋いでくれたり、最終的には店と井戸付きの土地まで譲ってくれました。このおかみさんがいなければ、「京や」がここまで大きくなることもなかったでしょう。

だんだんと注文が入って来るようになり、そのたびに大はしゃぎする永吉とおふみ。見ていてほっこりとした気持ちになります。
この二人が祝言を挙げるまでの甘酸っぱい空気も素敵です。
手伝いに来たおふみが転んで豆乳をぶちまけてしまったときにも、怒ることなく、怪我はないかと優しく彼女の身を気遣う永吉。荒っぽい江戸の男を見て育ったおふみがキュンとするのも無理はありません。しかもガタイの良い男がこれをやるのですから破壊力倍増です。即結婚です。
まあ嫁ぐとは言っても隣家ですから、持ち物はお箸とお茶碗くらいなのですが、そこで、残していった持ち物は全部捨てると言った母・おみつのセリフが印象的でした。
「いつでも取りに帰れるみたいな気持ちで嫁いだら、おまえは死ぬまで永吉さんの女房にはなれないよ」
職人の妻として、職人に嫁ぐ娘へと向けた、重い言葉です。そしてそれをしっかりと受け止めたおふみもまた、本当に良い娘さんです。
妊娠中も豆腐作りと外回りに精を出し、全力で永吉をサポートする最高の妻になります。

正直なところ、読んでいて一番わくわくするのはここまでです。これ以降も面白いのですが、ちょっと面白さの方向性が変わってきます。

二人の子供は、長男の栄太郎、次男の悟郎、末っ子のおきみの二男一女なのですが、おふみは長男の栄太郎ばかり可愛がります。
色白で母親似の栄太郎。赤ん坊の頃に怪我と火傷で死にかけたことや、その時におふみが「栄太郎を命がけで育てる」と神仏に誓ったこと、下の子供たちが生まれるたびに両親が事故で死んでいったことなど、信心のあるおふみを動揺させるだけの出来事があったことを考えると、栄太郎を過剰に気に掛けてしまう気持ちも分からなくはありません。が、それにしても栄太郎ばかりを贔屓にしすぎです。賭場通いを黙認するのは母親としても如何なものかと思います。しかも店のお金を使い込んでいるのに。
栄太郎の育て方については、永吉の優しい性格が悪い方に作用してしまいました。彼がもう少し強気な人物であれば、栄太郎とおふみがここまで調子に乗ってしまうこともなかったでしょう。我慢強い性格が逆に仇となりました。
二人を信じて蓄えの金をそっくり渡したにも関わらず、それをこっそり使ってしまった跡取り息子とそれを庇う母親。永吉の失望はどれほどのものだったのか、想像するだけでこちらの気分まで沈んでいきます。

そして、栄太郎を追い出したその晩に、永吉は脳溢血で死んでしまいます。
おふみは部屋に引きこもっていたため、その死に目に居合わせることすらありませんでした。
子供が生まれる前は、そして子供が生まれてからも時々は仲の良い時期もあったのですが、結局、夫婦関係は冷め切った状態で終わってしまいました。商売が軌道に乗るまでの、二人で試行錯誤していた時期を見ていたからこそ、この終わり方は余計に辛いものがあります。
永吉の死後、抜け殻のようになったおふみが、悟郎が豆を挽く音を聞いて思わず泣き崩れる場面が印象的です。
立ち直ってからは、栄太郎贔屓を続けつつ悟郎の嫁をいびる、嫌な女に逆戻りしますが。

まあおふみも決して悪い人ではありません。何というか、少し感情にむらっ気があるだけで。


「第二章」
悟郎の妻・すみのお話から始まります。
すみは「京や」の豆の仕入先、雑穀問屋広弐屋のお嬢さんです。一度他家に嫁ぎましたが、ひどい扱いを受け、やつれ果てて実家に帰って来ました。再婚は考えていなかったものの、父から悟郎の名を聞いたときに、小さい頃、狂犬から身を呈して自分を守ってくれた、大柄で色黒の男の子がいたことを思い出します。何だかこの辺りは少女漫画チックですね。
最終的に想いが叶って悟郎と結ばれるのですが、嫁いでからは意地悪な姑と打ち解けない義妹との間で神経をすり減らす日々が続きます。忍耐強く健気な良いお嫁さんです。

すみの後には悟郎、おきみ、栄太郎それぞれの、家族に対する心情が描かれていきます。
邪険にされても母親を慕う悟郎と、母を恨みつつも憎むことはできないおきみ。そして父親を強く尊敬し、自分を溺愛する母親に怯える栄太郎。

おふみが心臓の病で亡くなった後、四人が集まって話をする場面は非常に読み応えがあります。
お互いが胸の内を吐き出し、不満や溜め込んできた感情をぶつけ合います。仲裁役として途中参加した、鳶の親方・政五郎が格好良いです。

栄太郎は素直で騙されやすいですが、根は悪い人物ではありません。賭場通いも商売敵の平田屋による策略だったわけですし。その策略にまんまとはまった挙げ句、親に心労を与えて死なせたのは栄太郎の罪ですが、そのことは本人も心の底から後悔しているようです。そもそも、彼は小さい頃から家族思いの優しい子でした。そしてそれは今も変わっていません。我儘で自分勝手な部分はありますが、商売人ではなく鳶としてなら、本人も言うように十分上手くやっていけると思います。

おふみの死をきっかけに、というのが少し切ないですが、家族間のわだかまりが解け、お互いに分かり合うことができたのは良かったと思います。
商売敵・平田屋の卑怯な主人は傳蔵がきっちりとシメてくれたことですし。
第一章から登場する渡世人の親分・傳蔵は、何かと「京や」に肩入れしてくれる不思議な立ち位置の人物でした。眉と髪を剃り落とし、手首に数珠を巻いた凄味のある風貌の人物です。その正体は昔さらわれた相州屋の一人息子だったわけですが、彼は一体何を考えて「京や」を助けてくれたのでしょう。彼自身は「京や」に何の義理もないでしょうに。

それから、少しだけ触れられた、傳蔵の育て親「般若のおあき」が気になります。豊かな胸を木綿で締め上げ、背中に般若を彫った女壺振りで、傳蔵を守るために賭場の親分の女になった母性溢れる人物です。
相州屋の老夫婦の悲しみを思うと彼らから一人息子を奪った彼女の行いは許せるものではありませんが、恋人を殺されて動転した女が、寂しさのあまり迷子を連れ去ってしまったのだと思うと少し同情的な気持ちになります。

以上です。
個人的には、豆腐作りがメインの前半部分の方が好きです。
醤油に鰹節とダイダイを混ぜて食べる京風湯豆腐や、塩漬けの紫蘇の実、しいたけ、人参とおからの京風煮付け。小茄子の辛子漬けなどを入れてお茶碗で固めた茶碗豆腐など、美味しそうな豆腐料理の描写がたくさんあります。私はがちがちに固い木綿豆腐の方が好みですが、読んでいたら柔らかい豆腐も食べたくなりました。
豆腐と油揚げと椎茸、それに砂糖を加えた精進味噌汁も気になります。試しに作ってみるのも良いかもしれません。

それでは今日はこの辺で。

 

 

 

 

【再読】 辻村深月『盲目的な恋と友情』 新潮文庫

 

本日はこちらの作品を再読しました。

辻村さんの作品ですがファンタジー要素はなく、少し暗めというか、大人向けのお話です。

主人公は大学生の女の子二人。同じ時系列の出来事を、二つの視点から追っていく展開となっています。

それでは内容について書いていきたいと思います。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

第一章は盲目的な「恋」を描いたお話です。
主人公の蘭花は、私立大学の管弦楽団で第一バイオリンを務める女の子です。宝塚の元娘役だった母を持つ非常な美少女で、賢く、芸術的なセンスもある、誰もが羨むような人物です。一瀬蘭花(いちのせらんか)という華やかな名前がピッタリ似合ってしまう程の完璧な美貌。ただし、本人はそのことには若干無自覚です。

オケの指揮者である美青年の茂実星近に惹かれ、彼女は初めての「恋」を経験します。身体の相性が良かったこともあり、そこから物凄い勢いで茂実にのめり込んでいきます。
茂実と交際を始め、美しく才能ある恋人を手に入れたことに有頂天になる蘭花。茂実の元恋人の稲葉先輩や、茂実の友人・平野を見下しては哀れんだりと、勝ち組の余裕から来る感じの悪さが目に付きます。
この先の展開を知っている身からすると、今、幸福の絶頂にいる彼女が可哀想に思えてきます。所詮は道化だったわけですから。

彼女が真の意味で「盲目的」になるのは、この後、茂実が師の妻・菜々子と関係を持っていたということが判明してからです。
菜々子は茂実より二十も年上、もう五十歳にもなろうかという美しいマダムです。彼女の登場で蘭花の生活は狂い始めました。

菜々子との関係を否定する茂実。そして、彼の稚拙な嘘に呆れ、彼を信用できないと思いつつも、別れることなどは一切考えていない蘭花。
理解し難いのは蘭花のその精神です。どう見たって別れたほうが良いのにその後もずるずると関係を続け、茂実との乱暴なセックスに溺れていきます。茂実と菜々子のことで頭がいっぱいで、ストレスからどんどん痩せていってもまだ、彼のことが好きで好きでどうしようもなくて、一緒にいたい、一緒にどこまでも墜ちて行きたいとすら思うようになります。彼女の世界には茂実しかいません。あまりにも盲目的な恋です。

最終的に、師匠に菜々子との関係が露見したため、茂実は仕事を干されます。その後の彼の転落ぶりは絵に描いたようです。性格は荒み、蘭花に金をせびるようになり、手を上げたり、脅したり。とことん卑劣な人間に成り下がります。
最後には泥酔状態で陸橋から転落して死亡、状況から自殺と判断されました。
蘭花は別の男性と婚約し、彼女の結婚式のシーンでお話が終わります。穏やかな愛情を胸に、茂実との激しい恋愛を思い返す蘭花の姿が印象的でした。もう完全に茂実は「過去の男」のようです。

もしかすると茂実も、遊びで蘭花と付き合っていたのではなく、きちんと結婚まで考えていたのかもしれません。けれど真剣な愛ではなかったのだと思います。蘭花が茂実に依存していたように、彼もまた、菜々子の支配から逃げ出すことはできませんでした。
彼の死について同情はしません。悪人というほどではありませんが、セックスを隠し撮りしてそれをタネに蘭花を脅すというのは控えめに言っても下衆な行いでした。心の弱い人です。そういう部分が菜々子に付け込まれる原因になったのでしょう。

若い恋人たちを苦しめて遊んでいた菜々子は性悪に違いありませんが、彼女の、若さを妬み、憎悪するその苛烈な精神は魅力的です。あくまで個人的な感想ですが。
やっていること自体は最低です。茂実や蘭花の人生が狂った原因はほとんど彼女にあります。
この人はその後どうなったのでしょうか。


第二章は盲目的な「友情」の方を描いたお話です。
主人公の傘沼留利絵は、蘭花の女友達です。オケでは蘭花と同じ第一バイオリンを担当しています。
「恋」の方でも主要人物として登場し、蘭花が破綻した茂実との関係について相談する相手、蘭花の話を黙って聞き、その恋を見守ってくれる存在として描かれます。後半で一緒に暮らすようになります。
この章では、そんな留利絵から見た蘭花の恋の様子、そして蘭花への異常な執着心が描かれています。

この留利絵は蘭花とは対照的な人物です。
痩せぎすで目が細くニキビ跡の目立つ、あまり良いとは言えない容姿の持ち主で、オシャレに興味がなく、化粧もせず、着飾る女の子たちのことを「男に媚びている」と馬鹿にして見下しています。冗談の通じない性格で、卑屈で神経質。蘭花との共通点は、二人とも賢く、美術への造詣が深いということくらいです。

幼い頃から美しい姉と比べられ、男子にはからかわれ、女の子たちからはくすくす笑われる、そんな扱いを受けていたため、内心で周囲を憎む陰気な性格になりました。自分を馬鹿にする男子より、その後ろで「やだーやめなよー」と言うタイプの女子の方が憎い、というのが特徴的ですね。可愛い子がいるから、自分が比べられて差別されるんだ、という思考です。女性作家さんならではのリアルな心情描写だと思います。
そういった経験から、派手な子、明るい子、可愛い子を無条件に苦手とするという気持ちもよく分かります。留利絵の性格から考えると、第二バイオリンの美波、オシャレで明るく、合コンを繰り返す彼女を特に苦手に思うのも当然だと思います。

ずば抜けて綺麗で知的な蘭花に対しては嫉妬よりも羨望が勝り、留利絵は彼女にのめり込んでいくようになります。
周囲の人間を低能と見下している留利絵は、優れた人間から認められることで自身の承認欲求を満たしています。酷い言い方になりますが、高尚な人物から認められれば、自身も高尚になれるのだと思い込んでいるようです。
容姿にコンプレックスのある留利絵が、美しい蘭花に親友として選ばれたい、と思う気持ちは、複雑ですが理解できます。彼女は周囲の人間、特に美波に対して「私は不細工だけど、この誰もが羨むような美人で頭の良い蘭花が選んだのは、あなたたちではなく私の方なの」とアピールしたいのでしょう。

正直、留利絵はもう少し別の方向で努力をするべきだったと思います。自分の外見をそこまで気に病むのなら、それこそ整形なり、そうでなくともメイクやファッションを勉強するなり、色々とできることはあるはずです。そういう必死の努力をせず、逆にオシャレをする女子をみっともないと軽蔑する彼女のプライドの高さ、それが彼女をよりみじめな存在にしています。

そして恋愛に失敗し、プライドを傷つけられたことでより一層蘭花に依存するようになります。蘭花に一番に頼られること、蘭花の親友であることが留利絵にとっては最も重要なことのようです。
【できることなら、学内で、私と蘭花が一緒に歩いているところを、その子たちにも見せたい。見てもらいたい。
私をこれまでバカにして、私を傷つけてきたすべての人に、蘭花を見せたい。】
このモノローグに、留利絵の精神性が凝縮されています。大きなダイヤの指輪を見せびらかして、私はこんな高価なものが似合う女なのよ、と言うのとあまり変わりありません。

蘭花のことが好きなのは本当でしょう。蘭花を大切に思い、茂実のせいで傷つく彼女のために、本気で怒っています。一緒に暮らし、情緒不安定な蘭花の世話を焼いてあげるのも友情あってこそです。が、留利絵の場合は見返りを望んでいるため、無償の献身ではありません。別に友情が無償の愛である必要はないのですが、彼女の場合、蘭花からも同じくらい愛して欲しい、自分に依存して欲しい、という欲が強すぎるのです。
自分よりも茂実を優先する蘭花のことを内心では恩知らずとなじり、憔悴しながらも彼と別れることのできない様子を、なんて愚かな子なんだろうと蔑みの目で見ている留利絵。
【いつか、反省してくれるだろうか。
自分がひどい行いをした親友が、それでも隣に居続けたのだということを、彼女が自覚する日は来るのだろうか。】
誰にも愛されたことがない留利絵は、大勢の人ではなく、ただ一人の親友である蘭花に愛されたかったのかもしれません。

ただ、蘭花にとって留利絵は「仲の良い友人」の一人でしかありませんでした。第一章の蘭花視点で見るとそのことがよく分かります。蘭花にとっても留利絵は大切な友人ですが、たった一人の親友というほどの熱量はなく、美波と同程度です。
蘭花がはっきりと留利絵を特別だと認識するのは、「恋」の本当に終盤です。

実は茂実の死は自殺でも事故でもありませんでした。
確固たる意思で茂実を陸橋から突き落とした蘭花と、その隠蔽を手伝って殺人の共犯者になった留利絵。茂実の支配から逃れ、新しい人と新しい暮らしを始めようとする蘭花は、確かに留利絵に感謝していました。現金ですが、そこでようやく留利絵を「私の親友」だと認識します。
ですが、留利絵にはそれでは足りませんでした。もっと感謝して、拝んで欲しかった、そうされることが当然だと思っていました。けれど蘭花はその後あっさりと結婚し、留利絵と離れて暮らすことを躊躇いもしません。留利絵からすればそれはやはり、恩知らずな行いだったのでしょう。

殺人の証拠になり得る、茂実のスマホ。ずっと持っていたそれを警察に送り付けることで、留利絵は蘭花が自分から離れることを阻止しました。
結婚式の途中で刑事に連行されていく、白いウェディングドレス姿の蘭花と黒いワンピースの留利絵。
【私がそうであるように、恋人も未来も、何もかも失った蘭花の横から、それでも、私だけは、これからも離れない】
留利絵の微笑みで、物語は幕を閉じます。

はたして、これは友情と呼んで良いものなのでしょうか。愛であることは確かなのですが。

私は第二章「友情」の方が好きです。キャラクターとしても、蘭花より留利絵の方が魅力的に感じます。割と感情の淡白な蘭花に対して、留利絵の方が人間臭いからかもしれません。辻村さんは、キャラクターが自分のコンプレックスと向き合うような文章が本当にお上手だと思います。繊細かつ鋭い心情描写が胸に突き刺さるようです。残酷なまでにリアルです。

そして意外と気に入っているキャラクターなのが美波です。
留利絵いわく「俗っぽくて、普通な女」。気安い態度と視野の広さですいすいと世の中を渡っていく姿は、傍から見るととても気楽そうで羨ましいです。留利絵も、素直に美波のような「オシャレで明るい大多数の女の子」になりたいのだと認めることができれば、もう少し違った人生を歩んでいたかもしれません。

美波が留利絵のことを「ルリエール」とあだ名で呼ぶ場面がありますが、フランス語で「蔦」という意味の単語に定冠詞を付けると「Lelierre」ルリエルになります。偶然でないとしたら「蘭」と「蔦」。なかなか象徴的な対比だと思います。
 

以上です。

そのまま映画化出来そうな物語構成です。

叙述的なトリックもあり、初めて読んだときは、茂実の死の真相が明かされる場面に衝撃を受けました。こういうのに引っ掛かってしまうと少し悔しくなります。辻村さん、流石です。

それでは、今日はこの辺で。

 

 

 

 

【再読】  湊かなえ『告白』 双葉文庫

 

本日はこちらの作品を再読しました。

幼い娘を殺された中学校教師・森口が、犯人である生徒二人に復讐するお話です。第一章は森口による「告白」の内容、第二章以降はその後の犯人たちの様子について、複数の視点から描かれています。

映画版も視聴済みです。というか、そちらから入りました。森口役の松たか子さんの怪演が素晴らしいです。あと美月役の橋本愛さんが滅茶苦茶可愛い。垢抜けていない、陰のある美少女です。

 

それでは、読んだ感想について。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

第一章「聖職者」の完成度は非常に高く、何度読んでも圧倒されます。森口の淡々とした語りが印象的です。冷静ではあるものの、娘を殺された母親としての少年A・Bに対する憎悪が隠しきれていません。

彼女がとった行動は教師としても人としてもアウトな行いではありますが、復讐としては妥当なものだったと思います。そもそも、実際には牛乳に血液は入っていなかったようですし。

殺人犯二人の性格分析はお見事でした。「熱血ではないけれど、生徒一人一人をきちんと評価してくれる」と言われていただけあって、教え子のことをよく見ています。良い先生だったのでしょう。
生徒を名字で呼び、一定の距離感を保っているところには好感が持てます。


第二章「殉教者」。委員長の美月の視点です。
森口の後任としてやって来た空気を読めない新担任、熱血教師のウェルテルが輝いています。悪意なく周囲の人間を傷つけるタイプの、教師としてはかなり厄介な人物です。そういえば私の中学校時代にもこういう教師がいました。やはり若い男性でしたね。

この章の語り手である美月は一見まともですが、実は殺人犯「ルナシー」にかぶれる危険人物です。第五章であっさりと殺されました。


第三章「慈愛者」。少年Bの母親の日記、という形式で書かれています。

この母親、所謂モンスターペアレントというやつです。子供思いなのは良いことですが、あまりに盲目的です。自分の息子が殺人に関わっているという事実から目を背け、出来事を都合の良いように解釈し、罪は全て他人に押し付ける、はっきり言って異常者です。全部少年Aが悪い、うちの子は騙されただけ、いやそもそも学校に娘を連れて来た森口が悪い、と責任転嫁ばかり。果てには事件そのものが森口の作り話なのではと疑い始め、全部森口が悪いのだと思うようになります。あの女のせいで直樹が傷付いている、あの女が憎い、と日記の中ではそればかり繰り返しています。
育ちの良い女性のはずですが、どこか歪んでいます。

それでも、息子からの告白を受けた後には、息子を殺して自分も死のう、と決意するあたり、倫理観と母親としての責任感は人一倍あるようです。殺人者として開き直った直樹はもう私の愛した息子ではない、だから責任をとって一緒に死ぬ、という考えはある意味真っ当なものでしょう。人殺しの息子ですら全肯定するような、救い難い愚かな母親ではありませんでした。
返り討ちにあって殺されましたが。

この母親、若干暴走気味ではありますが、人の親としてはそう悪い人物でもないと思います。心を痛めながらも、そっと息子を見守り続ける様子はなかなかに健気でした。
思い込みが強く、人としては面倒臭いタイプではあるものの、根底に家族への強い愛情があるため、私はあまり嫌いではありません。


第四章「求道者」。少年Bの視点です。
故意に殺人を犯したというのに、それがバレるまでは罪悪感を感じることもなく、むしろ自分の大それた行いに得意になっていた、というのがすごいですね。ちょっと理解できない神経です。

森口の「告白」後、家に引きこもるようになってからだんだんと狂い始め、最終的に母親を刺し殺してしまいました。現在は精神喪失状態で病院にいるようです。
母親の「失敗した」という言葉は、育て方を間違えてしまった、という意味だったのでしょうが、直樹は自分が「失敗作」だと言われたように感じてしまったようです。あの一言がなければ、母親と一緒に死ぬことができたのでしょう。その方が本人にとっては幸せだったように思います。


第五章「信奉者」。少年Aの視点です。
彼は賢い少年ですが、自分を捨てた優秀な母親に囚われ続けています。
何となく、居場所の無い、孤独な、可哀想な子という印象を受けました。
自己愛が強く、傲慢で、倫理観の欠如した最低な性格をしていますが、決して心無いサイコパスではありません。寂しい子です。

察するに、昔はここまで邪悪ではなく、単なるひねくれ者だっただけなのでしょう。回想では、馬鹿な人間に生きる価値はない、と頭の悪い父や継母を見下していたものの、一緒に過ごすうちに絆されていき、馬鹿な家族の一員になるのも悪くないなと思うようになったりと、可愛いところもあります。
継母の出産を機に邪魔者扱いされるようになったのが、彼が歪む大きな原因になってしまったのでしょう。家族から二度も見捨てられた、という思いがあるのかもしれません。

馬鹿だ馬鹿だと周囲の人間を見下してはいるものの、結局のところは同年代の他の子よりも少し賢いだけの、大人ぶった馬鹿な子供でした。


第六章「伝道者」。電話越しに少年Aに語りかける森口。私の脳内では松たか子さんの声で再生されました。
文章を追っているだけで、森口の淡々とした口調の奥の、復讐者の仄暗い愉悦をはっきりと感じ取ることができます。

森口の復讐の方法は、陰湿の一言に尽きます。
手口があまりにエグいので一周回って爽快さすら感じます。最高の復讐ですね。

 

★ ★ ★

 

せっかくなので、映画の方も再鑑賞してみました。

映画は人物よりも、雰囲気を重視した作りになっているように感じます。

薄暗い画面と小洒落た音楽の組み合わせが独特の味を出しています。

 

ウェルテルは動きがつくと道化っぷりが増します。岡田将生さんの演技が良い感じに暑苦しいです。

それから、こちらは少年Bである直樹の内面の掘り下げが少ないので、これだけ見るとただの馬鹿でメンタルの弱いクズです。子役の方の鬼気迫る演技も相まって、情緒の不安定さが前面に出てきています。一応、気弱で心優しい側面もあるはずなのですが。もう少し母親との描写が欲しかったところです。

 

そしてこのクラス、本当に嫌な感じですね。女子も男子も、ろくな子がいません。

 

松たか子さんは相変わらず格好良かったです。ラストの表情と「なーんてね」の言い方が最高でした。

 

以上です。

それでは、今日はこの辺で。

 

 

 

 

 

 

 

【再読】  諸星大二郎『暗黒神話』 集英社文庫

 

本日は漫画を読みたいと思います。

私の大好きな漫画家さんの一人、諸星先生のダークファンタジーです。

単行本版の方が好きなのですが、生憎と手元にあるのは文庫本のみです。単行本版も買おうとは思っているのですが、お値段がネックなんですよね。かさばる分、場所も取りますし。

それでは、内容について書いていきたいと思います。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

 

『暗黒神話』
「八つの聖痕を持つ者が現れたとき、暗黒神スサノオが降臨し、地上に死と破壊をもたらす」
という言い伝えがありました。

この「聖痕を持つ者」というのが、この作品の主人公・武です。
絶対者ブラフマンによって選ばれ、暗黒神スサノオを操り世界を支配することのできる「アートマン」という特別な存在になります。
この作品は武が転輪聖王(世界の支配者)として覚醒していく過程を描いたものです。

「全ての空間と時間を支配する、唯一にして最高の真理ブラフマンと、その体現者であるアートマン」。この説明ではインド哲学の知識がない人にとっては何のことか分かり辛いでしょう。ブラフマンというのは宇宙の根源であり、これが仏教で神格化されて梵天になりました。
アートマンには武の前任がおり、それは、全世界を支配する転輪聖王になるか、人々を救う仏陀になるか、という選択肢の中で後者を選んだ、つまりはお釈迦さまのことです。
そして第二のアートマンとして選ばれた武の進む道は、仏陀ではなく転輪聖王の方です。要は悟りを得て、強大な力を手に入れるということです。
ちなみに、転輪聖王となることで武が得られるメリットは全くのゼロです。人間をやめて宇宙の歯車の一つになるわけですから、残るのは永遠の孤独だけです。
普通に生きていただけで、望んでもいないのに突然死と破壊の力を与えられ、さあ、その力でどこへでも行けるし何でも壊せるぞ、と言われても、常人なら戸惑うだけでしょう。武には本当に同情します。ブラフマンの方に悪意はありませんし、武がアートマンとして選ばれたのは不運だったとしか言いようがありません。

ブラフマンとアートマンという概念はインド由来のものですが、ストーリーにはその他にも神道や魏志倭人伝、仏教、占星術など、異なる地域や時代の伝承・逸話が複雑に入り混じっています。
主人公の武がヤマトタケルの生まれ変わりなので、要素としては、どちらかというと古代日本の伝承の方がやや多めでしょうか。縄文文化やクマソの一族、邪馬台国の伝説などの部分は、何度読んでもわくわくします。大陸の文化が浸透するまでの「古代日本」の神秘的な雰囲気には、何とも言えない味があります。

各地の古墳や遺跡を巡りながら隠された謎を読み解いていく、という筋は、どことなくアドベンチャー映画を彷彿とさせます。
例えるならば『ダ・ヴィンチ・コード』や『ナショナル・トレジャー』からエンタメ性を引き算した感じでしょうか。この作品は明るい場面、コミカルな場面がほぼ皆無なので。

遺跡を巡りながら聖痕を受け、最終的に武が覚醒し、暗黒の力を手に入れたところで物語は終わりへと向かっていきます。
終盤の畳み掛けるような解説シーンには、すごい、の一言しか出てきません。古事記に登場する三貴神の末弟・スサノオと仏教の馬頭観音、神馬に跨った転輪聖王、世界の馬の伝説、そして馬頭星雲。これらが全て一つに繋がる、という説明にはただただ圧倒されます。初めて読んだときには興奮のあまり、その夜はほとんど寝付けなかった記憶があります。
馬頭星雲、宇宙の果ての、人類が決して辿り着けない場所に存在する、暗黒の神。確かに死と破壊そのものです。「暗黒神スサノオの降臨」とは、馬頭星雲が地球に接近した際に起きる異常気象のことだったわけです。そして、神馬に乗る転輪聖王の如く、この馬頭星雲を好きなように操ることができる、というのが武に与えられた権能になります。本人にとっては迷惑以外の何物でもありませんが。

宇宙の果てで、武は地球に帰りたいと望みました。けれど、馬と共に移動すれば地球を滅ぼしてしまいます。悩んだ彼ですが、最後には地球に戻って来ました。

武が帰ってきたのは、終わる寸前の地球です。
星雲の移動には時間がかかりますから、地球に着くまでは何億年もかかり、その間に地球上の生物は滅んでしまったものと考えられます。彼の地球に帰りたい、でも滅ぼしたくはない、という望みはどちらも叶えられたわけですが、この結末は少し可哀想です。武だってこんな地球に帰って来たかったわけではないでしょうに。
生物の死に絶えた、荒れ果てた大地。膨張しきった真っ赤な太陽。全てが終わった後の地球に一人取り残された武のことを思うと、絶望的な気持ちになります。

最後のページに書かれた言葉と弥勒のイラストが印象的でした。美しくも不気味な、宇宙の深淵を見事に表現していると思います。芸術的です。

登場人物の中で個人的に好きなのは、事あるごとにマントラを唱える慈空阿闍梨ですね。餓鬼共を封印する場面の強キャラ感がすごいです。

それから、ヤマトタケルとの再会を夢見て、石の中で千六百年もの間眠り続けていた弟橘姫。健気で一途な女性です。すぐに死んでしまいましたが。
彼女の体がどろどろに溶けていく場面は、アニメ版『風の谷のナウシカ』の終盤で巨神兵が腐り落ちていくシーンを思い出しました。

大神美弥も好きです。女性キャラの髪は長い方が好みですが、この人はショートが似合っています。見るからにお化粧が濃い、派手目の顔立ちです。
神代文字が読めたり、考古学に関する知識はあるのですが、判断力の方はあまり良いとは言えません。プライドが高く野心家で、最終的に不老不死の泉に浸かって醜い餓鬼に変じてしまいました。
私はこういう、欲深さから身を滅ぼすタイプの女性キャラクターが大好きです。
悪趣味だという自覚はあります。

それから、人物ではないものの、最初の方に出てきたタケミナカタの恐ろしい姿も印象深いです。両腕が無く、首の長い怪物。諸星先生の描く怪物は本当に気味が悪くて素敵です。
「古代、神とはありがたいものではなく、死と破壊をもたらす恐ろしい存在だった」と竹内さんも言っていましたが、これを見れば納得です。どう見ても人間の敵です。


『徐福伝説』
こちらは古代中国がモチーフのお話です。
不老不死を求め、秦の道士と九十二人の子供たちが船で日本にやって来ます。
ストーリーというよりは雰囲気を楽しむ作品です。

こちらに登場する縄文人たちは、何だか密林の部族っぽい見た目をしています。オセアニア辺りに住んでいそうな。首飾りや腕輪をじゃらじゃら付けているせいかもしれません。

ヒロインである美少女の精衛も好きなのですが、それ以上に宛若という女の子が良いキャラをしています。
好きな男の子のために、彼が他の女の子と逃げるのを手助けするなんて、なかなかの女っぷりだと思います。

個人的には、こういう大陸風のお話の方が好きです。古代中国のふわっとした広袖、裾のひらひらした衣装が、諸星さんの画風とよくマッチしていると思います。諸星さんの作品の中では、私は『西遊妖猿伝』が一番好きですね。
 

 

以上、二編でした。

諸星さんの作品は、画風、特に人物の描き方が独特なのと、不気味な場面が多いので、結構好き嫌いが別れると思います。

私は大好きです。特に怪物や妖怪が。子供の頃は『マッドメン』のン・バギが特にお気に入りでした。

この『暗黒神話』も、万人に対しておすすめできるものではありませんが、まあ、興味のある方は、ぜひ読んでみてください。娯楽性は低いですが、名作です。

それでは今日はこの辺で。

 

 

 

 

【再読】  角田光代『空中庭園』 文春文庫

 

角田さんのドギツくて生々しい文章はたまに無性に読みたくなります。

本日はこちらの作品を再読しました。六つのお話からなる連作小説です。

 

以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。

中心となるのは田舎町の「ダンチ」で暮らす四人家族、タカシ(パパ)と絵里子(ママ)と高校生の姉・マナと中学生の弟・コウです。ここに絵里子の母と家庭教師のミーナが加わった六名のそれぞれの視点から物語が展開されます。

傍から見れば明るい家庭なのですが、この家族、実際は非常に歪です。問題を抱えた人間同士がそれを隠しつつ表面上は仲良し家族を演じています。母親が祖母を殺したいほど憎んでいること、父親に浮気相手が二人いること、そのうち一人が息子の家庭教師だということ、息子がすでに童貞を捨てていること、娘が見知らぬ男とホテルに行ったこと。
何事も包み隠さない、というのがこの家族の方針ですが、その通りでないことは皆薄々勘づいているようです。それでも家庭が崩壊しないのは、お互いがこの「明るい家庭」を維持するために不審な点から目を背け続けているからなのでしょう。ミーナの言う通り、まったく大した学芸会です。

私は、こういう家庭は嫌ですね。
元々が絵里子の自己満足のために作られた家庭なわけで当然と言えば当然なのですが、お互いへの関心が非常に薄く、夫婦間、親子間、姉弟間に当然あるべき親愛の情がほとんど見られません。それらしく振る舞うことで最低限の義務を果たしているだけ、といった様子です。愛が全く無い、とまでは言いませんが、温かみには欠けた家庭だと思います。
まあ、世の中に「正しい家族」の在り方が決められているわけではありませんし、当人たちが居心地良く感じているのであれば、これはこれで一つの家族の形としては「あり」なのかもしれません。私は嫌ですが。

この家族の何が気持ち悪いか、それは、これだけの隠し事がありながら、表向きは「隠し事なんて何一つない」という風を装っていることでしょう。
本当に重大なことは隠しているくせに、夕飯時に両親のセックスを話題にしたりと、無理にオープンな家風を作り上げている、その必死さが見ていて痛々しいのです。
誰だって、それこそ家族にも言えないような秘密があるのは当たり前のことです。家族だから何もかもを共有しなければいけない、というのは間違っていると思います。
ただお互いに隠し事をしているだけの家族であれば、ここまで気持ち悪くはなりません。隠し事があるのに、そんなものはうちでは存在しないと言い張っていることが気持ち悪いのです。
ありふれた題材で、ここまで特異な空気を作り出すことのできる角田さんは流石だと思います。

六つの章の中で一番読み応えがあったのは、絵里子の「空中庭園」でしたが、キャラクターとして好きなのはミーナです。
赤茶色の髪の毛をして、若くて、可愛くて、頭も股も弛い、扱いやすいお馬鹿な女の子。タカシのパートだけ見れば、そんな印象を受けます。
しかし、彼女のパート「鍵つきドア」を見るに、その内面はからからに乾いています。賢くはありませんが、見た目ほど馬鹿でもありません。人を見る目が非常に鋭く、大抵の人間を見下しています。というより、世の中自体にうんざりしているといった様子です。
彼女がタカシの頭の悪さを哀れむシーンは、何度読んでも笑いそうになります。よく言ってくれました。下半身の欲望に忠実で、何も考えていない、彼は本当に救いようのない小さな人間です。女性の多くが不快に感じるであろうキャラクター造形だと思います。私も哀れみしか湧きませんでした。

ミーナはこの家族にとって唯一の完全な「部外者」なので、彼女の視点は最も読み手の目と重なる部分が多いのではないでしょうか。傍から見ることで、この四人家族の歪さを一番強く認識しているのがミーナです。作られた「明るい家族」の団欒に彼女が慄くシーンでは、私も全く同じ気持ちになりました。内実を知った上で外から見ると、本当に不気味なんですよね、この一家。

ただでさえ、ミーナは家族というものに対して嫌悪感を抱いています。
そして、その根底にあるのは、浮気を完璧に隠したまま死んだ実父への恐怖と嫌悪です。
浮気した父に対しての
「同じ屋根の下で談笑している人間が、じつは連続殺人犯であるということと、それはまったくおなじじゃないか」
というモノローグは、「信頼し合うべき家族に隠し事をしていたなんて信じられない」という風に解釈をすることもできます。
家族なんて絶対に作らない、と決心しているミーナですが、もしかすると父親に「裏切られた」という思いがあり、それが傷になっているのかもしれません。
そんなミーナからすると、全員が秘密を抱えつつ、それを隠し通しているこの家族の異様な雰囲気は余計に気味悪く感じられたのでしょう。

読んだ後にいつも思うのですが、角田さんの作品の多くに漂っている、この疲れたような空気は一体何なんでしょうね。
まだ十代のマナやコウですら、覇気が無いというか、既に生活に疲れたようなオーラを醸し出しています。圧倒的にフレッシュさが足りません。読んでいるこちらの気力まで奪われていきそうです。
まあ、そこが角田さんの作品の味でもあるわけですが。

作中では重要な場所として「ホテル野猿」というラブホテルが何度も出てきます。当然、「そういった」描写も頻発します。
角田さんのエロは生々しいぶん、いやらしく、言い方は悪いですが汚らしくも感じられます。美しく官能的に表現しようという気が一切見られず、セックスはセックス、と淡々と文章にしているのが非常に潔いと思います。こんなに色気のない濡れ場を書くのも逆に難しいのでは?
 

以上です。

角田さんらしさを全力で味わうことができ、満足です。

短編集も色々と読み返したくなりました。『おやすみ、こわい夢を見ないように』とか。

それでは、今日はこの辺で。