【再読】 山本一力『あかね空』 文春文庫
江戸時代を描いた作品、特に町人の暮らしをテーマとしたものが好きです。
と、いうわけで、本日はこちらの作品を再読しました。
豆腐屋の家族を中心に、江戸の町に生きる人々が生き生きと描かれています。
最近知りましたが、内野聖陽さん主演で映画化もされていたそうです。暇があれば鑑賞してみようと思います。
それでは、内容と感想を書いていきます。
以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。
「第一章」
主人公の永吉は二十五歳の豆腐職人です。自分の店を持つため、十二の頃から奉公していた京の店を出て、頼る者もいない江戸にたった一人でやって来ました。
身長179センチとこの時代ではかなりの巨漢なのですが、性格はおっとりと優しく、上方訛りの丁寧な話し方もあって人からは舐められやすいという厄介な特徴の持ち主です。
彼は貧しい農家の三男坊として生まれ、大飯食らいのため親に疎まれて育ちました。娘を売春婦として売り飛ばす程の貧しい家庭で、永吉もひどい扱いを受けていましたが、間引きしないだけ立派、という時代です。
奉公先の豆腐屋では水運びから始め、きつい仕事に何年も耐え続けることでようやく一人前の職人になりました。
そんな彼がやって来たのは町人の町・深川。貧乏人たちが助け合って暮らす、これぞ江戸、といった雰囲気の場所です。
金だけ持ってほとんど身一つでやって来たにも関わらず、永吉が慣れない土地でスムーズに店を持つことができたのは、隣家の桶屋職人・源治の手助けあってこそ。桶などの道具を拵えてくれたり、店の普請にも協力してくれたり、頑固ですが人情味溢れる、良いオヤジさんです。
そしてその娘である、働き者で、ちょっと生意気ですが愛嬌のあるおふみ。この作品のヒロインです。永吉と出会った初日から運命のようなものを感じ、そわそわする様子が可愛らしい。買い物に付き合ったりと、江戸に慣れない永吉の世話を焼きます。
店構えは良いとして、肝心なのは永吉の作るお豆腐の方です。
京風と江戸前では豆腐の大きさも固さも違います。京豆腐は江戸豆腐の4分の1の大きさで、手で掴めないほど柔らかく崩れやすいのが特徴です。絹豆腐ですね。対して江戸のものは非常に固いのが特徴。固い豆腐に慣れた人々は、なかなか永吉の豆腐を買ってくれません。
江戸の豆腐は使う豆の量が少ないぶん豆乳が薄くなり、固めるときに重しで水を絞り出す必要がありますが、京風は豆を大量に使うので無理に絞る必要がなく、水分の残った状態で固まるため柔らかくなるそうです。
良い豆を惜しみなく使うため当然コストは掛かりますが、永吉は京前にこだわります。こういうところはやはり職人さんです。
が、全然売れません。買ってくれるのはおふみの他にはお婆さんが一人きりで、長屋の人たちはみんな担ぎ売りの嘉次郎から江戸前の豆腐を買っています。
この嘉次郎がまた、良いキャラクターをしています。男っぷりが良くて粋な若人で、商売敵である永吉にはトゲのある態度を取るものの、永吉の作った豆腐を食べて「……うめえ……」と唸るように呟くなど、職人としての技量には一目置いています。そして仲の良いおふみを通して、ものすごく親身になってアドバイスをしてくれる、滅茶苦茶良い人です。お寺相手の商売を勧めてくれたのも彼ですから、間違いなく「京や」の恩人の一人です。
それから、永代寺の「相州屋」。
潰れる寸前の豆腐屋を営む老夫婦で、毎日豆腐を買ってくれるお婆さんはこの店のおかみさんです。幼い頃に行方知れずとなった息子と永吉の姿を重ね合わせ、陰ながら手助けをしてくれます。永代寺に注文の口利きをしてくれたり、老舗料亭・江戸屋との縁を繋いでくれたり、最終的には店と井戸付きの土地まで譲ってくれました。このおかみさんがいなければ、「京や」がここまで大きくなることもなかったでしょう。
だんだんと注文が入って来るようになり、そのたびに大はしゃぎする永吉とおふみ。見ていてほっこりとした気持ちになります。
この二人が祝言を挙げるまでの甘酸っぱい空気も素敵です。
手伝いに来たおふみが転んで豆乳をぶちまけてしまったときにも、怒ることなく、怪我はないかと優しく彼女の身を気遣う永吉。荒っぽい江戸の男を見て育ったおふみがキュンとするのも無理はありません。しかもガタイの良い男がこれをやるのですから破壊力倍増です。即結婚です。
まあ嫁ぐとは言っても隣家ですから、持ち物はお箸とお茶碗くらいなのですが、そこで、残していった持ち物は全部捨てると言った母・おみつのセリフが印象的でした。
「いつでも取りに帰れるみたいな気持ちで嫁いだら、おまえは死ぬまで永吉さんの女房にはなれないよ」
職人の妻として、職人に嫁ぐ娘へと向けた、重い言葉です。そしてそれをしっかりと受け止めたおふみもまた、本当に良い娘さんです。
妊娠中も豆腐作りと外回りに精を出し、全力で永吉をサポートする最高の妻になります。
正直なところ、読んでいて一番わくわくするのはここまでです。これ以降も面白いのですが、ちょっと面白さの方向性が変わってきます。
二人の子供は、長男の栄太郎、次男の悟郎、末っ子のおきみの二男一女なのですが、おふみは長男の栄太郎ばかり可愛がります。
色白で母親似の栄太郎。赤ん坊の頃に怪我と火傷で死にかけたことや、その時におふみが「栄太郎を命がけで育てる」と神仏に誓ったこと、下の子供たちが生まれるたびに両親が事故で死んでいったことなど、信心のあるおふみを動揺させるだけの出来事があったことを考えると、栄太郎を過剰に気に掛けてしまう気持ちも分からなくはありません。が、それにしても栄太郎ばかりを贔屓にしすぎです。賭場通いを黙認するのは母親としても如何なものかと思います。しかも店のお金を使い込んでいるのに。
栄太郎の育て方については、永吉の優しい性格が悪い方に作用してしまいました。彼がもう少し強気な人物であれば、栄太郎とおふみがここまで調子に乗ってしまうこともなかったでしょう。我慢強い性格が逆に仇となりました。
二人を信じて蓄えの金をそっくり渡したにも関わらず、それをこっそり使ってしまった跡取り息子とそれを庇う母親。永吉の失望はどれほどのものだったのか、想像するだけでこちらの気分まで沈んでいきます。
そして、栄太郎を追い出したその晩に、永吉は脳溢血で死んでしまいます。
おふみは部屋に引きこもっていたため、その死に目に居合わせることすらありませんでした。
子供が生まれる前は、そして子供が生まれてからも時々は仲の良い時期もあったのですが、結局、夫婦関係は冷め切った状態で終わってしまいました。商売が軌道に乗るまでの、二人で試行錯誤していた時期を見ていたからこそ、この終わり方は余計に辛いものがあります。
永吉の死後、抜け殻のようになったおふみが、悟郎が豆を挽く音を聞いて思わず泣き崩れる場面が印象的です。
立ち直ってからは、栄太郎贔屓を続けつつ悟郎の嫁をいびる、嫌な女に逆戻りしますが。
まあおふみも決して悪い人ではありません。何というか、少し感情にむらっ気があるだけで。
「第二章」
悟郎の妻・すみのお話から始まります。
すみは「京や」の豆の仕入先、雑穀問屋広弐屋のお嬢さんです。一度他家に嫁ぎましたが、ひどい扱いを受け、やつれ果てて実家に帰って来ました。再婚は考えていなかったものの、父から悟郎の名を聞いたときに、小さい頃、狂犬から身を呈して自分を守ってくれた、大柄で色黒の男の子がいたことを思い出します。何だかこの辺りは少女漫画チックですね。
最終的に想いが叶って悟郎と結ばれるのですが、嫁いでからは意地悪な姑と打ち解けない義妹との間で神経をすり減らす日々が続きます。忍耐強く健気な良いお嫁さんです。
すみの後には悟郎、おきみ、栄太郎それぞれの、家族に対する心情が描かれていきます。
邪険にされても母親を慕う悟郎と、母を恨みつつも憎むことはできないおきみ。そして父親を強く尊敬し、自分を溺愛する母親に怯える栄太郎。
おふみが心臓の病で亡くなった後、四人が集まって話をする場面は非常に読み応えがあります。
お互いが胸の内を吐き出し、不満や溜め込んできた感情をぶつけ合います。仲裁役として途中参加した、鳶の親方・政五郎が格好良いです。
栄太郎は素直で騙されやすいですが、根は悪い人物ではありません。賭場通いも商売敵の平田屋による策略だったわけですし。その策略にまんまとはまった挙げ句、親に心労を与えて死なせたのは栄太郎の罪ですが、そのことは本人も心の底から後悔しているようです。そもそも、彼は小さい頃から家族思いの優しい子でした。そしてそれは今も変わっていません。我儘で自分勝手な部分はありますが、商売人ではなく鳶としてなら、本人も言うように十分上手くやっていけると思います。
おふみの死をきっかけに、というのが少し切ないですが、家族間のわだかまりが解け、お互いに分かり合うことができたのは良かったと思います。
商売敵・平田屋の卑怯な主人は傳蔵がきっちりとシメてくれたことですし。
第一章から登場する渡世人の親分・傳蔵は、何かと「京や」に肩入れしてくれる不思議な立ち位置の人物でした。眉と髪を剃り落とし、手首に数珠を巻いた凄味のある風貌の人物です。その正体は昔さらわれた相州屋の一人息子だったわけですが、彼は一体何を考えて「京や」を助けてくれたのでしょう。彼自身は「京や」に何の義理もないでしょうに。
それから、少しだけ触れられた、傳蔵の育て親「般若のおあき」が気になります。豊かな胸を木綿で締め上げ、背中に般若を彫った女壺振りで、傳蔵を守るために賭場の親分の女になった母性溢れる人物です。
相州屋の老夫婦の悲しみを思うと彼らから一人息子を奪った彼女の行いは許せるものではありませんが、恋人を殺されて動転した女が、寂しさのあまり迷子を連れ去ってしまったのだと思うと少し同情的な気持ちになります。
以上です。
個人的には、豆腐作りがメインの前半部分の方が好きです。
醤油に鰹節とダイダイを混ぜて食べる京風湯豆腐や、塩漬けの紫蘇の実、しいたけ、人参とおからの京風煮付け。小茄子の辛子漬けなどを入れてお茶碗で固めた茶碗豆腐など、美味しそうな豆腐料理の描写がたくさんあります。私はがちがちに固い木綿豆腐の方が好みですが、読んでいたら柔らかい豆腐も食べたくなりました。
豆腐と油揚げと椎茸、それに砂糖を加えた精進味噌汁も気になります。試しに作ってみるのも良いかもしれません。
それでは今日はこの辺で。