クリーチャーガレージキット人間のブログ -33ページ目

フィギュア 今思うリアルなフィギュア職人の技術とは

確かタミヤだったと思うが、
実物の車から寸法まで計算し、寸部違わない
プラモデルの車を1/35に縮尺して作った際
ものすごく違和感があり、迫力の無いものに見えた。
その後、寸法を測らず、感性に頼り作った時
自分の思っていた車ができたという。



見上げるサイズの仏像を
寸部違わず60cmサイズに落とし込んで作ったとき
頭でっかちの変なものが出来上がった。
見上げたときの印象そのままに、
寸法を無視して作った時、初めて納得できたという。


役者をコンピューターでスキャニングし
縮尺してフィギュアにした。
似ている人にしか見えなかった。
特徴を誇張して作ったディフォルメのフィギュアの方が
似ていたという。



なぜこのようなことが起こるか。



今から10年前の話だが、
気になったので
脳を研究している教授に質問してみた。


人間の脳は補正がかかっており、
目に見えるものは大体 殆ど同じでも、
厳密には個人個人見えているものは違っているそうだ。



人差し指を眼球のやや後ろまで
持ってきたとき、指が見えるだろうか。


見えるはずだ。

しかし、そこに視力は存在しない。


何故見えるのか。


見えている指は、脳が補正して
見えているようにしているのである。

実際には見えていない。
見えるはずが無い。

なぜなら人間の視力は
眼球の届く範囲にしか存在しないからである。
視覚にたよる人間の性質。マジックである。



思い込みの性質もしかり。
コーラだと思って飲んだ飲み物が
お茶だったりすると、
不思議な感覚にならないだろうか。

大好きな食べ物でも
何の情報も聞かされず目をつぶって食べると
たいした味はしない。

人間の脳が思い込みで起こす現象である。


そこで、自分なりの答えが出た。


フィギュアもしかり。



完全に同じものを作るのは
この先、近い未来に
コンピューター技術が出来る技術だ。


とするなら職人はいらなくなるのか。


否。


感性という技術で
脳に若干の嘘を脳につくことは
意識が無い今のコンピューターにはできない。



役者のフィギュアの場合、
普段動いているものが完全に止まって見ることになる。
ということは静止画を手にしていることになる。

しかし役者は、
動きにプラスして演技までしている。

その演技の部分や、心情まで立体にするのは
人間の感性がなくてはできない。
その表情は、微妙な口の上がり具合だったり、
細めた目だったり、眉間の皺だったりする。


大きな仏像で言うと、
下から見上げることがあっても
正面から見ることは無い。

なので、下から見上げたときに想像した
正面からの画を立体化すると
より説得力がある。


どう表現するのか。
フィギュア職人のこだわりだと思う。


ただ、誇張し過ぎると
個人の差が開いてしまうので
そこのおとしどころが難しいのだろう。

成立の仕方が
キャラクターによってだったり、
その場面だったりで違ってくる。

また人間の感性の個体差は
そこまで大きくないので
最低限の基本的な骨格、肉付き等、
デッサン力を要すのは必然だ。



ここに書いたことは自分の中のフィギュアに求めているもの。
この事柄自体、人それぞれの見方が存在するので
なにか新しい見方を見つけるのもまた楽しいと思う。

今後もコレクションしていく上で、
そんなフィギュアに出会えたらと思う。

カラテの完成形

先生とかなり久しぶりにスパーリングをした。

先生はここ1年、体を痛めていたらしく
ずーっとスパーリングをやっていなかった。


先生は今からおよそ20年前 
強豪達がひしめく極真カラテ全盛時代に
軽量級や全日本大会で名をはせた人。


得意技は後ろ回し蹴り。


先生自身もこだわっている技の美しさは、
日本でも1、2を争うだろう。


今は40歳前半。


あまりに身体能力が高いので
自分のようなパワータイプでは参考にならないのだが、
動きはあこがれてしまう。



そんな先生と行うスパーでは恐怖で縮み上がってしまっていたが、
今はスパーリングを殆どしていなかった先生と
まあ、ぼちぼちだが後輩に体をかしていた自分。


ほんの少しだが恐怖心は薄れていた。


そして始まった。


1分間攻撃をする。突き、蹴り。色々。
全部カウンターを合わされる。


あっという間に体力を削られ、
もはやなす術全く無し。


先生はアバラに怪我をしている自分に手加減をしているが、
少なくとも5回は失神させるチャンスがあった。


こちらの攻撃が全く当たらないと
戦意が全てそぎ落とされる。
そして動きが早すぎて目で終えないレベル。


毎回感じる、あまりに大きい先生との差。


これはもう一生埋まらない。


しかし、
やられていうのも情けないが、
こういう技量を見せ付けられると、
やはりこの人についてきて良かったと思う。


まだまだやる事が沢山あるが、
とりあえずカラテは来月卒業予定。


出会いから 先生についても少し書いていこうかと思う。

ぼくのエリ

いじめられっこのオスカーは、
ある日、エリという同年代の少女に出会う。

純粋な恋に落ちていくオスカーだったが、
エリには秘密があった・・。


邦題が露骨過ぎて既にネタバレになっていたり、
肝心な部分にモザイクがかかっていて
変な疑問が残ったりする国内仕様が残念。

その所為で作品の質が
落ちてしまっているとしか言いようが無いが
それでもなお名作だ。
(見終わった用に下の方でネタバレしときます。)


お涙頂戴ではないつくりと、
多くを語らず観客に委ねる部分もあり、
(すぐわかると思うけど)
非常に好感が持てるのだ。

キックアスでヒットガールを演じた
クロエモレッツ主演でリメイクが決定されている。

ぼくのエリ 200歳の少女 [DVD]/カーレ・ヘーデブラント,リーナ・レアンデション

¥3,990
Amazon.co.jp



小説版では、全ての謎が解き明かされている。

MORSE〈上〉―モールス (ハヤカワ文庫NV)/ヨン・アイヴィデ リンドクヴィスト

¥819
Amazon.co.jp

MORSE〈下〉―モールス (ハヤカワ文庫NV)/ヨン・アイヴィデ リンドクヴィスト

¥819
Amazon.co.jp











ネタバレ 
ぼくのエリ モザイクのした


エリは実は男性で、
虚勢手術のあとがある。

なんだビリーこのやろう!

ディロン、なになってんだばかやろう!


ホッパーこのやろう!

醜いんだよこのやろう!


びんぼうくじばっかだよ

カラテとガレキとホラーと俺と
カラテとガレキとホラーと俺と

HOTTOYSのダッチを買ってきたが、
顔が思ったより似てない。

オデコが異様に前に出てて、
シュワの大事な特徴である
鼻から下のゴリラ的な出方が無い。

確かにTOYのMAXクオリティだけど、
ちょっと残念だった。

そしてなにより飽きるのが・・。

しょうがないので、
ヘッド最強の出来である
菊次郎と付け替えた。

少しは良くなった。

ガレキにいる意味

ガレージキットを褒める時、

よく聞く言葉だし自分も使う言葉に



「美術品のようだね!」



がある。



この言い方、取り方によっては

「ガレージキットが美術に追いついてきた」

上下でいうと美術が上に聞こえる。



その逆が分かりやすい。



美術品として認知してるものを

「ガレージキットみたいだね」

と言われると、さげすんでいるように聞こえたら

コンプレックスがあるんだろう。



「美術に近いガレージキット」

「ガレージキットに近い美術」

またその中間に存在するどちらにもならない物はあるにせよ、

どちらによってもコンプレックスを抱く必要は全く無いと思う。



今、この現代 

サブカルチャーに位置づけされているガレージキットは、

上質の文化として確立された彫刻等に比べると

雑多なものに見えるのかもしれない。



しかし

ルーツを辿れば彫刻等も、

最初は石工職人から始まった

趣味の芸当だったりと、

ガレージキットの発想と同じだ。



まず、物がなければ

評価という文化は成立しない。



「いかに金を生むか」

「金を生むには説得力のあるもののほうがより良い」

「よいものであれば、金を出してもらいやすい」





何の価値も無い石ころや、

分かりやすいところで言えば、

旬な芸能人の描いた絵が 仲介者の話術次第 

売り方次第で

数百万にも跳ね上がるのだ。



それだけを抜粋して言葉にすると

非常に下劣なものに聞こえるが

これはこれでひとつの価値だし

それにお金を出し、満足する人間がいるということは

下劣でもなんでもない。大事な評価である。

(物が主役と思っている自分には

こういう売り方は自分はできないので、

商売人としては失格なのかもしれないが・・)





今の芸術 美術の地位は、長い歴史の中で確立された。





そう考えるとガレージキットも

100年後にはれっきとした上質の文化になっているかもしれない。

ほんの数十年で、あんなデカいイベントになったりしているんだから。











結局 自分は本当はこんなこと、どうでも良かったりする。





まず 地位や名誉に執着できる器ではないし、

重過ぎる、面倒くさい。





好きな事をやる上では邪念。





この事に捕らわれると見据えている目標が

定まらなくなる。





若い頃は多少なりとも野心があったのか

この邪念で悩みもしたが、

我慢していたら年齢と経験が緩和してくれた。







「評価」は、

自分がやってきたことに対しての



「お釣り」



自分が尊敬する人間に教えてもらった

一番大事な言葉。





自分が一番納得してこの世界にいれる部分である。







話は変わるが、

ガレージキットをやりながら、

「美術になってない」「アートじゃない!」

「所詮ガレージキット」と

ガレージキットに本気で美術を求める人がいる。







そんなに美術が好きなら、

小学校の美術の教科書を読んでればいいし、

近所の公園にあるブロンズ象でも満足できるのではないだろうかと

思ってしまう。



世の中には凄いものがいっぱいあるのである。