劇団1980 『夕食の前に』
@HTSスタジオ
こちら、シリアの劇作家の脚本です。
シリア……なんていうかもうこういうイメージ↓
まず「紛争地域にも演劇は存在しているのか」と思いました。
一種傲慢とも言える認識ですね。
俳優の身体ひとつあればどこでだって演劇は存在しうるのに。
しかしそうは言っても平和な日本にいる私たちがやる演劇とは違った意味があるんじゃないだろうか。
そしてそこで書かれた戯曲というものに失礼ながら野次馬的な興味を抱かずにはいられない。
「戦争の悲惨さや命の大切さやそういうなにか壮大なものを語るのかな?」
そんな予想をたてていたわけですが、物凄く的外れでした。
やっぱり演劇は純粋たる演劇だと。
変な色眼鏡で見てて申し訳ありませんでしたという気持ちになりました。
というのも背景に紛争の匂いは色濃く出ているものの、
話の本筋は母と子の物語なんですよ。
舞台設定を現代の日本にしたとしても通じるくらい。
世話を焼きたがる母とそれを煙たがる子というありふれた展開から物語は始まる。
舞台横の音響卓(というよりDJブース)ではノリノリのDJが音響を担当。
親子の会話のなかで「夕食の支度をするわ」という台詞が発せられ
皿が運ばれてくるとDJがアップテンポの音楽をかけスクラッチをしだす。
するときゅるきゅるきゅると場面が巻き戻り、
役者は逆再生のように体を動かし
「夕食の支度をするわ」のちょっと前に戻る。
そこから少しずつ展開を変えたストーリーが進む。
そしてまた「夕食の支度」の台詞、その少し前まで巻き戻り、また話が進み…
ということが繰り返される。
面白い演出だな~!
どこまで脚本で指示されていることなんだろう??
途中までは単に仲の悪い親子かと思っていたけど、なんかどうもうまくかみ合わない。
母親はどうやら虚言癖のある妄想家。
「私は貞淑な妻よ」
「嘘よ、本当はたくさんの男たちから求められていた」
「それも嘘よ、ええ全部妄想なの」
と言ってることが二転三転する。
息子のことも、立派に一人暮らしをしている学生だと思い込んでいる。
いや、思い込んでいるというか見て見ぬふりをしている。
息子が酒を飲むことに今はじめて気づいてヒステリックな叫びをあげる。
「あんた酒なんか飲んでるの!?」
が、母親は今さっき大量の空き缶を片付けていたのだ。
酒を飲んでいたことは知ってるんだ。
なにその仮面。
嘘を吐く理由がよくわからん。
息子の冷たい態度におおげさに嘆き悲しみ、死にたいとまで口にする。
かと思えば息子を胸に優しく抱きしめる。
情緒不安定…。
ここでシリアの情勢を思い出す。
権力者に逆らわず、何も起きていない振りを決め込みながら生きていくことしかこの母親にはできないのだろう。
そんな思考回路が息子にまでむいているのだ。
歪んだ親子の図。
ここまでならただ単に「いかれた母親の妄執に付き合いきれなくなった息子の仕返し」で終わるのだが、
ある時点で息子が舞台の法則性を壊しにかかる。
例のDJの音楽により時間経過をいじられるというルールだ。
息子はDJを殴り飛ばし、舞台へ引きずりおろす。
自ら音響卓でスクラッチをして
舞台を巻き戻したり、母親の動きをストップさせたり、やりたい放題。
えええこの演出なに???
息子は今現在どこにいて、DJの人はなぜ舞台上で死んでるのww
暴走した息子は自慰行為(後ろ向いてたから物は見えなかったけど)により
精液みたいな液体を鏡に塗りたくる。
それを5億人の殺人と呼ぶ。
前線で戦う者たちより、
自分のほうが殺してると言いたいのかな?
ちょっと理解が追い付かなくて……
どこに帰結するのかなーと思っていたけど、最後まで結局よくわかんなかったな。
精液の印象が強力すぎてw
でもそのよくわかんなさが、昨今の演劇っぽいなと思えた。
起承転結やわかりやすいオチのない、それでも衝撃的な、王子小劇場あたりでやってる演劇。
まぁむこうの固有名詞が難しいのと、
外国特有のまわりくどい言い回しが気になるというのはあるけども。
日本でもシリアでも演劇というものの本質は変わらないんだなー。
この脚本の存在をどのように知って、
そして日本で上演しようと思った理由はなんなんだろうな。
作 ヤーセル・アブー=シャクラ
演出 小林七緒
母親 上野裕子
ナーセル 神原弘之
DJ 大田怜治