ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』人物事典32(19人目)
~イワン・カラマーゾフ(公判前日3)~
【イワン一覧】
悪魔
悪魔:「ぼくは不定方程式のなかのXなんです」
家に帰ったイワンは幻覚を見る。向かいの壁際に見知らぬ紳士が座っている。五十くらいのロシア紳士だが、流行おくれの最高級のスーツを着ている。農奴制が廃止されて落ちぶれ、気のいい友人の間を転々としているようなタイプに見える。社交性を持っているが、押し付けられたことなら、どんな頼みごとでもうんと言わず、たいてい一人暮らしである。右手の中指に、安っぽいオパールの入った大きな指輪をしている(ネリュードフのオパールからの連想)。
悪魔との対話が始まる。「ぼくらがすぐに親しく呼び合える仲になれてうれしいですよ」「おまえは、おれの幻覚なんだ。おまえは、おれの生き写しだ。といってもおれの半面にすぎんがな」「ひとつきみの嘘をあばかせていただきますよ。さっき、きみはアリョーシャに『おまえあいつから聞いたな!』とか、どなってましたよね。あれはぼくのことを思い出して言った言葉なんですよ。ということは、ほんの一瞬、ぼくが実在しているってことを信じたんです」。悪魔は、イワンの機嫌がいいのは、兄の弁護に出かけて、自分を犠牲にする決心がついたからだろうと言う。「人間に化けるからには、その結果も、また甘んじて引き受けるわけです。ぼくは悪魔ですから、人間にかかわることで無縁のものなんて何ひとつないんですよ」「おれの頭にいちども浮かんだことはないセリフだもんな、こいつは変だぞ……」「ぼくはきみの悪夢にすぎないし、それ以上の何ものでもないんですよ」「嘘つけ。おまえの目的は、まさしく自分が別もので、おれの悪夢じゃないってことを信じ込ませることにあるんだ」。
イワンは自分のうわごとを信じまい、狂気に完全にはまりこむまいと、必死になって抵抗した。悪魔は、「ぼくはものすごく善良ですし、否定することなんて全然柄じゃないわけです。いや、だめなんです。否定しなくちゃいけない、否定がなけりゃ、批判はない。批評がなかったら、残るは『ホザナ』だけになってしまう」「苦しみのない人生に、どんな満足があるっていうんです。何もかもが、果てしないひとつの祈りと化してしまいますよ。そりゃあ神聖だろうけど、ちょっと退屈でしょうね」と続ける。
――で、ご当人のぼくはどうなのかって? ぼくも苦しんでいるのに、やっぱり生きてはいないんです。ぼくは不定方程式のなかのxなんです。ぼくは、あらゆる終わりと始まりをなくした人生のまぼろしみたいなもので、とうとう自分の名前まで忘れてしまったくらいです。
悪魔:「きみはやっぱり、ぼくを信じているんだって思いますね」
イワンは、「神はいるのか、いないのか?」そう叫んで、はげしく食い下がる。「ねえきみ、じつは、ぼくには、わからないんですよ」「つまりこの世界も、神も、悪魔自身さえ、僕に言わせるとすべて証明されていないってことになる。」と悪魔は言い、イワンが中学のころにつくった「千兆キロ歩いた男」の小話を披露する。そして、「きみがそこまで躍起になって、ぼくを否定しようとするところからして、きみはやっぱり、ぼくを信じているんだって思いますね」「ぜんぜん! 一パーセントも信じちゃいないさ!」「でも、〇・一パーセントは信じてるでしょう。そのごく少量が、いちばん強烈かもしれませんよ」「一瞬だってあるもんか! もっとも、おまえを信じたい気持ちも、ないではないがな!」「ほらほら! 白状したじゃないですか! ぼくはわざと、きみがもう忘れていた小話を聞かせたんです。きみが完全にぼくのことを信じなくなるためにね」「嘘つけ!」「このぼくに『すべての偉大なもの、美しいもの』なんて要求しないでください。なあに、ぼくたち、仲良く暮らしていけますとも」。
イワンは、自分の中にある悪魔的なものが、自分の内面に由来するものではない、悪魔が自分のところへやって来てささやいているのだと信じたいが、それを信じる力もない。悪魔は『大審問官』の話を始める。「だまらんか、さもないとぶっ殺すぞ!」と言うイワンにかまわず、今年の春、この町に来る支度をしていた時、「あそこには、新しい人間がいる」と言っていた。「おれに聞きゃいいものを! おれの考えじゃ、破壊すべきものなんて何ひとつないんだ、せいぜい、人間が抱いている神の観念を破壊するだけでいいのさ」「人間が一人残らず神を否定すれば、おのずから今までの世界観や、肝心かなめの過去の道徳はすべて崩壊し、何もかも新しいものが訪れるのさ」「生命がもたらしうるすべてのものを手に入れるため、人々はひとつになる。が、それはぜひとも、現世での幸せと喜びのためでなければならない」。
――こういう時代がいつか訪れることが可能なのかどうか、っていう点ですよ。もしも訪れてくるなら、すべては解決するし、人類は最終的に形が整う。だが、人間のぬきがたい愚かさを考えれば、おそらく今後一千年は整わないだろうから、すでにもう真理を認識している人間はだれも、新しい原則にしたがって、完全に自分の好きなように身の振り方を決めることが許される。この意味で彼には「すべてが許されている」ってわけ。
アリョーシャ:「一時間前に、スメルジャコフが首を吊りました」
イワンが、テーブルの上のコップを投げつけると、悪魔は「耳をふさいでいるふりをして、ちゃんと話を聞いているとにらんでましたが、やっぱり……」と言う。とつぜん激しいノックが聞こえる。「弟のアリョーシャが、すごく意外な、面白い知らせをもってやって来たんですよ」と言う。イワンは窓に駆け寄ろうとするが、金縛りにあったように動くことができない。ふと鎖がはずれ、ソファから飛び上がると、客に投げかけたはずのコップも目の前にあり、ソファーにはだれもいなかった。「アリョーシャ、ここには来るなと言ったろう! 用事は何だ、ひとことで言え。ひとことでだ、いいな?」「一時間前に、スメルジャコフが首を吊りました」。【⇒第11編:イワン9:悪魔、イワンの悪夢】
アリョーシャ
イワン:「おれはな、ぜったいに自分から命を絶つなんて真似はできない!」
部屋に入って来たアリョーシャが、スメルジャコフの死について告げると、「あいつが首を吊ったことは、おれにもわかっていたんだ」と言って、「悪魔」が自分のところにやって来たことを伝える。
イワンは、「さっき、リーザのことでなんと言った?」と話しかけ、「おれはリーザが好きだ。あの子のことでおれは何かきたない口のきき方をしたな。あれ嘘だよ、じつはあの子が気に入ってるんだ……明日おれが恐れているのは、カーチャだ、いちばん恐れている。将来のことさ。明日、彼女おれを捨てて、足で踏みにじるだろうな。カーチャ(=カテリーナ)はな、おれがやきもちから、ミーチャ(=ドミートリー)を破滅させると思ってるんだ」と言って、「おれは首なんか吊らないさ。知ってるか、アリョーシャ、おれはな、ぜったいに自分から命を絶つなんて真似はできない!卑怯だからね? おれは臆病者じゃないぞ。生きたいっていう願望のせいさ」。
イワン:「おれは心から願ってるんだ、やつがほんとうにやつで、おれじゃなけりゃいいってな!」
イワンは、「やつ(悪魔)はな、アリョーシャ、おれなのさ、おれ自身なんだ。おれがもっている全部の下劣な部分、いやらしい部分、軽蔑すべき部分なんだよ!」「おれは心から願っているんだ、やつがほんとうにやつで、おれじゃなけりゃいいってな!」「良心ねえ、良心ってなんですか、単なる習慣ですよ。だからそんなもの忘れて神々になりましょうよ――これは、やつが言ったことさ、ほんとうに言ったことなんだ!」「きみは、偉大な善をなしとげるために行こうとしているわけだが、そのじつ、善なんて信じちゃいませんよ。それできみはいらだち、苦しんでいるわけで、だからこそきみはそれほど復讐心にかられてるんです――これはやつがおれのことを言った言葉なんだ」。
アリョーシャ:「兄さん、落ち着いて、もうやめて!」
アリョーシャは、「病気のせいで、うわごとを言って、自分を苦しめてるんです!」と言うが、「やつは、ちゃんと自分の言ってることがわかってるのさ。きみはプライドを保つために行くわけで、立ち上がってこう言うんでしょうね。『あれはぼくがやりました』。そう、きみは、あの連中に褒められたいんですよね。『犯罪者で、人殺しじゃあるけど、なんて殊勝な心の持ち主なんだ、じつの兄を救いたい一心で告白するなんて!』」「兄さん、落ち着いて、もうやめて!」「おれはいつだって予感してたのさ、どうしてやつがやってくるのか、とね。『プライドを保つにしたって、やっぱり、期待はあったんですよ。スメルジャコフは罪をあばかれて監獄送りになり、ミーチャが無罪になる、で、自分は精神的な裁きを受けるだけ――ただし、他の連中からは称賛される』、そんな期待もね」。
悪魔:「だってきみは、フョードルの親父さんと同じで、ただの子豚じゃないですか。」
アリョーシャは、イワンが正気に戻ることを期待した。悪魔は、「それなら、善を信じりゃいいものを、さ。だってきみは、フョードルの親父さんと同じで、ただの子豚じゃないですか。きみにとって善が何だっていうんです?」「何のために行くのか自分にわからせるためなら、きみはどんな対価でも払うんです! きみはもう決心した気でいるみたいですけど、じつはまだ決心していないんですよ」「出かけて行くのは、出かけないでいるだけの勇気がないからなんです。なぜ、勇気がないのか、そこは、自分で考えるんですな、これこそ、君に与えられた謎なんですから!」と言って、姿を消したと、
イワンは言う。「謎」の答えは「臆病者」だということ。スメルジャコフも同じことを言っており、カテリーナも軽蔑している。そのうち、リーズも軽蔑しだすだろう。そんなことを言いながら、イワンは意識を失い始めた(結局、悪魔の言ったようにふるまったのは、イワンではなくカテリーナだった)。【⇒第11編:イワン10:やつがそう言うんだよ!】