運鈍根 ≒ ネガティブ・ケイパビリティ | A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

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そのような、どうやっても、うまくいかない事例に出会ったときこそ、この「ネガティブ・ケイパビリティ」が必要となってきます。
 
 
今の時代は、「こうすれば、苦労なしで、簡単に、お手軽に解決しますよー」のほうが受けるのです。
 
でも、お手軽な解決ばかり求めてしまうと、何かが欠落していきますし、結局は行き詰ってしまいます。
 
なぜならば、「世の中には、すぐには解決できない問題のほうが多い」からです。
 
 
ことによると、学校現場は、すぐに解決できない問題だらけかもしれません。
 
したがって、教育者には問題解決能力があること以上に、性急に問題を解決してしまわない能力、すなわち「ネガティブ・ケイパビリティ」があるかどうかが重要になってきます。
 
 
そして、私たちだけでなく子供たちにも問題解決能力(ポジティブ・ケイパビリティ)だけでなく、この「どうしても解決しないときにも、持ちこたえていくことができる能力(ネガティブ・ケイパビリティ)」を培ってやる、こんな視点も重要かもしれません。
 
 
解決すること、答えを早く出すこと、それだけが能力ではない。
解決しなくても、訳が分からなくても、持ちこたえていく。
 
消極的(ネガティブ)に見えても、実際には、この人生態度には大きなパワーが秘められています。
 
 
どうにもならないように見える問題も、持ちこたえていくうちに、落ち着くところに落ち着き解決していく。
 
人間には底知れぬ「知恵」が備わっていますから、持ちこたえていれば、いつか、そんな日が来ます。
<< P200-201



僕のお気に入り 『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』「第九章 教育とネガティブ・ケイパビリティ」(帚木 蓬生 著) の中の一節。



こうやって定期的に自分の考え方を整理してブログを綴っていくうちに、時には同じようなことを繰り返し繰り返し述べてきていることに気がつくことができます。
 
そしてそのことこそが自分が大切にしている価値観なのだと思ってはいるものの、それを具体的なキーワードとして自身落とし込むことができておらず日々悶々としていたときに出会ったのが『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(帚木 蓬生 著) という一冊で、この本の全体を貫いている「ネガティブ・ケイパビリティ」というキーワードこそが自分が大切にしている価値観を正に一言で言い表しているのだと膝を打ち、先日のエントリーに認めた次第です。
 
ネガティブ・ケイパビリティ
 
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 この聞き慣れない「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」、もしくは「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味するようです。
 
そして、この不確かさの中で事態や状況を持ちこたえ、また不思議さや疑いの中にいることができるということは、実は対象の本質に深く迫ることができるということでもあるとのことでした。
 
なぜならば世の中は様々な因果から成り立っているため、ネガティブ・ケイパビリティを発揮することにより目の前にある一見するとわかりやすい表層的な解決法に留まることなく、より本質的である深層的な問題に目を向けてその解決に取り組むことができるからです。
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そして自分がこの言葉に対して最も惹かれている部分は、「宙ぶらりんの状態を乗り越えることによって物事の本質に近づくことができる」という明るい未来を描くことができるというところです。
 
メタファーの重要性
 
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 そしてこのネガティブ・ケイパビリティは、表面的には「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」を意味しますが、同時に「どうにも対処しようのない事態に耐えた後に、それを経た後に得られるであろう物事の本質に触れることができる」というメタファーとしての役割をも同時に含んでいるのだと、個人的には思っています。
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その理由としては、このネガティブ・ケイパビリティこそが、私たちが自分の人生を歩む上で最も大切な「自らの意志で意義ある日常を積み重ねること」を可能にしてくれる唯一のものだと自分は考えるからです。
 
小さくても偉大なる心がけ:種蒔きと収穫

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 私たちの目の前には常に様々な問題が待ち受けていますが、その問題を解決して過ごすことこそが人生の意味でもあり、その問題解決において常に新しい種を蒔きその実りを得て問題解決に当たることこそが生きる意味でもあると考えるからです。
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 このように、実は私たちが人生を歩む上で大切なものである「ネガティブ・ケイパビリティ」ですが、似たような意味としては「運鈍根」という言葉もある様子です。

運鈍根とは

Wiktionary日本語版(日本語カテゴリ) Weblio辞書
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成功を収める上で重要とされる、三つの資質。運が良いこと、粘り強いこと、根気があること。
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そして以下のサイトもこの「運鈍根」についてわかりやすい説明をしてくれています。

「運・鈍・根」は、まさに商人の本質 しかし、運は「つき」とは違う

Gucci Info Ex

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「運・鈍・根」の「運」を、ゲームの「つき」のようにとらえるのは間違いです。「運」は環境に対する適応を指すものでしょう。恵まれた環境にあっても、それを生かすことができなければ、「運」を活用できません。
 
  「鈍」は、利口すぎては成功しないことを指していると思います。目端を利かせすぎるのは、長い目で見て成功につながらず、むしろ失敗することが多いのです。商売に成功しているのは意外に、不器用な生き方しかできない人です。
 
  才覚のある人はとかく目先の利を追い求めがちですが、それは商売の本道とは離れた道です。なまじ儲かったばかりに商売に身が入らず、相場や道楽に走って、結局店をつぶしてしまうといった事態を招くことになります。
 
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  「根」はお客様から信頼されるまで、根気よく努力することです。これは言うは易く、実行するのは大変難しい。お客様から信頼されるまでには、長い時間がかかります。
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「鈍・根・運」。渡部昇一氏が、芯を失った今の日本におくった言葉

BEST T!MES
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だから、最初は結果に期待して「いいこと」をするのではなく、ただ純粋に自分を高めるため、自分をよくするために「いいこと」を続けるようにするといいと思う。
 
 愚鈍に物事を続けていれば、「根」のいい人だと言われるようになり、その後「あの人、運がいいな」と言われるようになるのである。
 
「運・根・鈍」ではなく、「鈍・根・運」―。
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どちらも「根」を張るが如く、愚「鈍」/愚直に物事を続けることで、「運」を手繰り寄せることの大切さが述べられています。
 
 
このご時世、簡単さや簡便さ、そして効率化の名の元に物事を簡略化することがもてはやされてきていて、愚直に何かに取り組むことをあまりにも軽視する風潮が強くなってきていると自身感じています。
 
ですが、それが知識や心無い人々の手の中で手抜きや偽装といった刹那的な対応を招き、その結果誰も幸せにならないような残念な結果がもたらされてしまうということはここ最近のニュースでよく耳にすることでしょう。
 
もちろん私たちの前には常に解決すべき問題や課題が山積みになっていて、効率化をすることですぐに解決できるような簡単な問題もあれば、様々な問題が複雑に絡み合っていて時間をかけなければ解決できないような難しい問題もあり、特に後者の問題の場合には問題に対して長期間取り組むことへの耐性が求められることがあることを私たちは強く意識することが必要なのだと、個人的には思っています。
 
そしてその際に必要な資質/スキルの一つが「ネガティブ・ケイパビリティ」や「運鈍根」といった、愚直に、根気よく問題に取り組む際の姿勢なのでしょう。
 
なぜならば、私たちを取り巻く世界は様々な要因から成る複雑なシステムから成り立っていて、どちらかというとそのような時間をかけてじっくりと取り組むべき問題のほうが遥かに多いからです。
 
小さくても偉大なる心がけ:種蒔きと収穫

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加えて、その地道な作業を続けるためには「システムズ・アプローチ」と「ネガティブ・ケイパビリティ」という二つの視点/資質を身につける必要があるのだと、個人的には思っています。
 
その「システムズ・アプローチ」とは、私たちを取り巻く世界が常に互いに影響を及ぼし合うような様々な関係で構築されている大きなシステムの上に成り立っていることを意味し、私たちは「Aをしたから必ずZがもたらされる」というような直線的な思考ではなく、「AをすることによりZがもたらされる可能性が高いが、それがBにもCにも影響を与えるのでもしかしたらYがもたらされるかもしれないし、Zを実現したいのならDやFにも働きかけなければならない」というような円環的な思考を身につける必要があるのです。
 
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そう、私たちは種を蒔いたからといってその種が必ず実るわけではないこと、そしてそれを育てていく過程において想定しえないような様々な困難が目の前に生じることがあることをまず理解しなければならないのでしょう。
 
ですから、それを遂行する上において「ネガティブ・ケイパビリティ」という資質をも自らの内に育む必要があるのです。
 
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なぜならば、種を蒔いても芽が出るかわからない、もしくは芽が出たとしてもそれがきちんと成長して大きな実りをもたらしてくれるかどうかわからない、つまり「結果を出せるかどうかわからない」という状況は私たちにとって大きなプレッシャーであり多大なストレスをもたらしますが、そのようなハイ・プレッシャーの中でもコツコツと地道な努力を続け、更に想定もしていないような困難がもたらされた場合でもそれを受け止めて乗り越えるためには、このネガティブ・ケイパビリティという困難の中に身を置いても前向きに行動することができる能力は欠かすことができないからです。
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ですから、私たちは目の前にある困難な問題に対して「ネガティブ・ケイパビリティ」や「運鈍根」を意識して取り組む必要がありますが、それは答えのない状態に耐えたり、根気よく問題解決に取り組むことが決して徒労に終わるのではなくて、それらの対応を続けることによって物事の本質に近づくことができ、そのことこそ私たちにが運をもたらして必ずや明るい結末に至るのだという希望を持つことができるのだということを忘れてはいけないのでしょう。
 
 
また、以前にレビューを上げた以下の良書たちも、私たちが「ネガティブ・ケイパビリティ」や「運鈍根」を発揮することに関してきっと手助けしてくれるものだと、個人的には考えています。
 
『静かなリーダーシップ』
 
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「静かなリーダー」 とは、下記のような人々を指します。
・忍耐強くて慎重で、一歩一歩行動する人
・犠牲を出さずに、 自分の組織、 周りの人々、 自分自身にとって正しいと思われることを、目立たずに実践している人
 
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具体的には、静かなリーダーは下記のような行動を取ることがあります。
 ・理想ではなく、達成できそうなことに専念する
 ・現実的に自分の知識や理解を直視する
 ・強烈な動機で、必ず困難を切り抜ける
 ・時間を稼ぎ、直面する問題を掘り下げて考える
 ・自分の影響力を賢く活用する
 ・探りながら少しづつ行動し、徐々に行動範囲を広げる
 ・必要に応じて、規則を拡大解釈する方法を見出す
 
 
では、静かなリーダーにはどのような特徴があるのでしょうか。
 
著者は次の三つの特徴を挙げています。
 1. 自制
 2. 謙遜
 3. 粘り強さ
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『あたりまえのアダムス 人生で成功するために必要なこと』
 
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なぜならば、私たちは問題解決に際しては、往々にして派手で目を引く「スマートな」解決策やファインプレーを求めてしまいがちですが、本当に大切なことは、いかに「あたりまえ」なことを見抜いてそれを淡々と実行に移すかどうかが大切だということを、本書は示してくれているからです。

そのために必要なキーワードの一つが「メタ」というものだと、個人的には思っています。

これは「ある対象を記述したものがあり、さらにそれを対象として記述するもの」を意味しますが、それをどこまで細かく導き出せるかどうかがカギになるのでしょう。

しかし、これは口で言うほど簡単なものではないことは、アダムスも本書の中で述べていました。

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あたりまえのことを選び出すには、分析が必要である。分析するには、考える必要がある。そして、どこかの高名な先生も言ったとおり、考えることは仕事の中で最も苦しいことなのだ、と。だから、とことんまで考え抜く人が少ないのです
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そう、「あたりまえ」を導くためには「考えること」が必要になりますが、それは同時に「苦しいこと」でもあるということでした。

ですから「あたりまえ」を導くためには、ある種の忍耐や努力も求められることになるのです。
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『ウサギはなぜ嘘を許せないのか?』
 
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砂上の楼閣 という言葉があります。
見掛けが立派でも基礎がしっかりしていなく崩れやすいことの例えです。
 
本書ではそれを 「短距離走」に例えています。
 
人生やビジネスは言うまでもなく 「長距離走」 です。
長距離を走るためには強靭なスタミナが必要になります。
 
そしてそれは本書のキーワードでもある 「コンプライアンス」 、つまり 「社会的責任」 や 「道義的責任」 と言い換えることが出来るのではないでしょうか。
 
それらは一朝一夕に身につけられるものではありません、長期間の不断の努力によってのみ初めて身につけられるものだと思っています。
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そう、これらのことを日々意識しながら自らの人生を一歩一歩堅実に進めていくならば、必ずや未来には明るい展望が開けるものだと、自身強くそう思っています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


研究に必要な「運・鈍・根」
 
 
 
研究の分野でも、物事の解決の前に、長い長い助走期間があるのが通常です。
 
出発の時点で必要なのは長期的な展望です。
 
それは五年十年ではなく、二十年三十年にわたることだってあります。
 
最初は、海のもの、山のものともつかないものを相手にしなければなりません。
 
 
研究に必要なのは「運・鈍・根」と言われると、私は深く納得します。
 
「運」が舞い降りてくるまでには、辛抱強く待たねばなりません。
 
「鈍」は文字通り、浅薄な知識で表面的な解決を図ることを戒めています。
 
まさしく、敏速な解決を探る態度とは正反対の心構えです。
 
最後の「根」は根気です。
 
結果が出ない実験、出口の見えない研究をやり続ける根気に欠けていれば、ゴールに近づくのは不可能です。
 
 
運・鈍・根は、ネガティブ・ケイパビリティの別な表現と言っていいのです。
 
これほど、教育と研究の分野を支えているのはネガティブ・ケイパビリティであり、この大切さは日頃から教育の分野でとりあげていくべきです。
 
 
つまり、今すぐに解決できなくても、何とか持ちこたえていく、それはひとつの大きな能力だと、大人から説明された子供は、すっと心が軽くなるのではないでしょうか。
 
せっかちに問題を設定して、できるだけ早く解答を出すポジティブ・ケイパビリティを叩き込まれるときの暗い気持ちとは、天地の差があります。
 
 
 
不登校の子が発揮するネガティブ・ケイパビリティ
 
 
 
私のクリニックには、不登校の子供が親に連れられてよく受診します。
 
ほとんどの親が、このままだと我が子は、世の中から落ちこぼれていくと、恐れおののいています。
 
無理もありません。
 
ところてん式の教育を自分も経験し、必死で世の中の仕組みに適応してきたのですから、子供がそれを拒否したとなると、天と地がひっくり返ったような恐怖感を覚えるのでしょう。
 
 
しかし当の本人は、自分が受けている教育がどこかおかしいと感じています。
 
おかしいと感じている子のほうが、そうでない子よりも直観的には正しいのかもしれません。
 
まして、そこにいじめや仲間外れ、中傷がはいってくれば、教育の場は変質します。
 
楽しいどころか、恐怖の場になってしまいます。
 
その恐ろしい場所に、意を決して戻りなさいと言うのは、燃えている家に飛び込めと言うくらい酷でしょう。
 
 
不登校というのは、本人が選びとった避難所です。
 
そこを追い立てるのは、天災で避難所に逃げ込んだ人々を追い出すのと同じなのです。
 
せっかくの避難所ですから、本人に折り合いがつくまで、とどまってもらうのが一番です。
 
そのうち空模様を見て出て行くかもしれませんし、他のもっとよい避難所を見つけて移っていくかもしれません。
 
 
このとき本人が発揮しているのは、まさしくネガティブ・ケイパビリティと言っていいでしょう。
 
どうにもならない状況を耐えている姿です。
 
 
となれば、親も同じようにネガティブ・ケイパビリティを持つ必要があります。
 
わが子が折り合いをつけて進む道を見出す時が来るまで、宙ぶらりんの日々を、不可思議さと神秘さに興味津々の眼を注ぎつつ、耐えていくべきです。
 
 
 
私の家のすぐ近くに「アテスウェ」という名のフランス料理店があります。
 
“A tes souhaits”というのは、フランス人がくしゃみをした人に対して口にする科白です。
 
「望みがかないますように」という意味で言うのでしょう。
 
シェフはフランスで修業したこともある人で、いつも創意に満ちた本物のフランス料理を出してくれるので、編集者との会合には必ずそこを使います。
 
 
そのシェフに随分前に尋ねたことがあります。
 
料理学校では、覚えの早いほうでしたか、つまり優秀だったかと、訊いたのです。
 
返事は意外でした。
覚えが悪かったというのです。
 
覚えが早く優秀な者は、すぐに料理の世界から足を洗い、今店を持っているのはみんな成績が悪かった者ばかりという答えでした。
 
 
覚えが早いと見切りをつけるのも早く、じっくりその道を諦めずに歩み続けるのは、覚えが悪い人たちだったのです。
 
ネガティブ・ケイパビリティは、むしろ鈍才のほうが持っている証拠でしょう。
 
 
つい最近、「タイム」誌に興味深い論考が載りました。
 
親は普通で、生まれた子供がすべてそれぞれの道で成功をおさめている、九家族を調査した結果の報告です。
 
全員が二人か三人きょうだいですが、全く違う分野で傑出した仕事をしているのです。
 
例えば三人姉妹の場合、長女は大学の疫学教授、次女はユーチューブのCEO、三女は遺伝子検査会社のCEOです。
 
一男二女の場合、長女はヤフーの大幹部、長男は検事、次女は保健局長といった具合です。
 
かと思えば、長男がペンシルヴェニア大副学長、次男はシカゴ市長、三男がハリウッド映画製作会社協会の事務局長という三兄弟もいます。
 
しかし、両親は普通の人々で、親の七光の要素は皆無です。
 
 
この九家族の教育から共通点を引き出すと、次の六つの要素が見えてきました。
 
 
第一は、ほとんどが他国からの移民でした。
 
移住者はそれだけで、本国人に比べてすべての面でハンディキャップを負います。
 
簡単に言えば、百メートル競走を、スタートラインの後方、五メートルか十メートル地点から、スタートするようなものです。
 
しかしこのハンディが、子供たちに負けてなるものかという向上心と忍耐強さを与えていました。
 
 
第二に、両親は子供の小さい頃、教育熱心でした。
 
〇歳から五歳までの学校教育以前の早い時期に、子供たちにさまざまなことを学ばせていました。
 
つまり学ぶ心を、就学以前に植えつけていたのです。
 
第三は、親が社会活動家であり、世の中をよりよく変えていくための運動をしていました。
 
子供は親の行動を通して、社会の不合理を学びとり、それを変革していく姿勢を学んでいたのです。
 
いわばこうして自分を取り巻く世界の理解を深めたのです。
 
 
第四は、家庭の中が決して平穏ではなく、両親の言い争い、きょうだい喧嘩と無縁ではなかった点です。
 
とはいっても両親の争いは決して暴力沙汰ではなく、社会の見方の違いからの意見の突き合わせのようなものです。
 
不登校や万引き、喫煙、殴り合いの喧嘩も、子供たちは十代の頃経験しています。
 
移民の子としていじめられた子供もいますが、これが却ってなにくそという精神力を培っていました。
 
 
第五は、子供時代に人の死を何度も見て、生きていることの貴重さを学んでいる点です。
 
人の死を知ることは、自分の人生の限界を知ることに直結します。
 
だからこそ、生きているうちに自らのやりたいことを成し遂げる馬力も、生まれてくるのでしょう。
 
 
最後の六つ目は、丁寧な幼児教育のあとの、放任主義です。
 
すべての子供が、何をしても許されたと言います。
 
すべてを自分自身の責任に任せられると、逆に子供は野放図なことはできません。
 
「お前たちは、他人のゴールには絶対辿り着けない。お前がテープを切れるのはお前のゴールだけだ」と言われたのです。
 
 
 
この六つのどれひとつとっても、いわゆる教育ママやパパのやり方とは正反対です。
 
親が敷いたレールに子供を乗せ、猛スピードで後ろから押していく方法とは好対照です。
 
そしてそこに、私たちはネガティブ・ケイパビリティの力を見ることができます。
 
 
 
教育現場からの賛同
 
 
 
十年ほど前から、私は母校の九州大学医学部精神科で、森田療法セミナーの講師を務めています。
 
毎年、初心者コースとアドヴァンスコースの二つがあります。
 
参加者は精神科医や臨床心理士の他にも、企業に勤めている人もいて、要するに森田療法に興味を持っていれば、誰でも受講できます。
 
 
講義の中で、森田療法について話すついでに、少しだけネガティブ・ケイパビリティにも必ず触れます。
 
というのも、森田療法に限らず、他の精神療法の底支えをしているのは・・・ネガティブ・ケイパビリティだからです。
 
 
二年前、スクールカウンセラーをしている臨床心理士の方から、受講後に手紙をもらいました。
 
そこには、「ネガティブ・ケイパビリティの考え方は、現在、生徒指導上の難問が山積みになっている学校現場にこそ必要な視点だと存じます」と書かれていました。
 
 
私はやっぱりな、と膝を打って納得したのを覚えています。
 
手紙には、続けて重要な所感も綴られていたので、そのまま紹介します。
 
 
学校にいますと、ときには指導困難、解決困難な事例に出会うことがあります。
 
そんなとき、誰もが、途方に暮れてしまうことになります。
 
 
そのような、どうやっても、うまくいかない事例に出会ったときこそ、この「ネガティブ・ケイパビリティ」が必要となってきます。
 
 
今の時代は、「こうすれば、苦労なしで、簡単に、お手軽に解決しますよー」のほうが受けるのです。
 
でも、お手軽な解決ばかり求めてしまうと、何かが欠落していきますし、結局は行き詰ってしまいます。
 
なぜならば、「世の中には、すぐには解決できない問題のほうが多い」からです。
 
 
ことによると、学校現場は、すぐに解決できない問題だらけかもしれません。
 
したがって、教育者には問題解決能力があること以上に、性急に問題を解決してしまわない能力、すなわち「ネガティブ・ケイパビリティ」があるかどうかが重要になってきます。
 
 
そして、私たちだけでなく子供たちにも問題解決能力(ポジティブ・ケイパビリティ)だけでなく、この「どうしても解決しないときにも、持ちこたえていくことができる能力(ネガティブ・ケイパビリティ)」を培ってやる、こんな視点も重要かもしれません。
 
 
解決すること、答えを早く出すこと、それだけが能力ではない。
解決しなくても、訳が分からなくても、持ちこたえていく。
 
消極的(ネガティブ)に見えても、実際には、この人生態度には大きなパワーが秘められています。
 
 
どうにもならないように見える問題も、持ちこたえていくうちに、落ち着くところに落ち着き、解決していく。
 
人間には底知れぬ「知恵」が備わっていますから、持ちこたえていれば、いつか、そんな日が来ます。
 
 
「すぐには解決できなくても、なんとか持ちこたえていける。それは、じつは能力の一つなんだよ」ということを、子供にも教えてやる必要があるのではないかと思います。
 
 
~『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』「第九章 教育とネガティブ・ケイパビリティ」P194-201~