>>
しかしながら、正体不明の空間に向かって宇宙船のように突入していくことはもはや避けられないのかというと、そうでもない。
おそらく私たちは、フランスの社会史家ミシェル・フーコーが 「認識論的断絶」 と呼んだものの入り口に立っているのだろう。
「パラダイム・シフト」 とも似ているが、認識論的断絶は歴史の分岐点であり、そこでは世界を見る新しい枠組みができあがりつつある。
カール・マルクスが、階級闘争の歴史として歴史の枠組みを作り直したのは、そうした断絶の一例だろう。
現在のような重大な資源危機(燃料、水、食糧)は、仕事がますます抽象的になっていくというこれまでの流れを堰(せ)き止めることになるだろう。
そうした基本的なものの価格が上昇するにつれ、サービスに払う金額は減少し、私たちはふたたび 「現実的なもの」 に目を向けるようになる。
それは仕事をするということに対しても影響を及ぼすだろう。
自分たちが作っている物の 「付加価値」 よりむしろ基本的な価値を示さなくてはならなくなるだろう。
<< P73-74
僕のお気に入り『ソクラテスと朝食を 日常生活を哲学する』(ロバート・ロウランド・スミス 著) のなかの「はじめに」の一節。
改めてになりますが、先日のエントリー 『現実に影響を与える適応力向上のためにできること ~「現実, 常識, 真理」についての再考~』 でも述べたように、最近は、以前に 『人生のかけら:ver3.0 ~<情報編集力> を用いた “上級スキル”~』 でも述べたことがある試みの習慣化の一環として、Twitter上で #Dailyショートショート とする物語(ショートショート)の創作を日々続けて言いますが(最近はペースダウンしているものの…)、個人的にこのような物語(ショートショート)創作の際に意識していることの1つは、異なる2つの 「物語」 なり 「視点」 でも、その底に流れる共通のキーワードに関して自分が思い至るものを 「テーマ」 とするということにおいて、 様々な 「物語から教訓を得ること」 により 「現実で活かすことができる(新しい)知恵や技」 ともなる新しい考え方なり行動様式を 「“現実的に実践すること” を “可能にする”」 ために、つまり、以前に認めたことがある 『スーパーストラクチャー:まだ協働していない二つ以上のコミュニティの結びつき:ver2.0~適応~』 のエントリー内の「適応力を高めるために拡張すること」 を意味する 「スーパーストラクチャ―」 という考え方を参考にして実践しているものです。
そしてそれは、そのようにして得ることができた 「現実で活かすことができる(新しい)知恵や技」 は必ずや 「まだ解決策が見つかっていない問題で、適応が必要なチャレンジと呼ばれる “適応を要する課題” の解決に役立てること」 ができる筈だと、個人的に考えているからです。
…ということで、本日も物語(ショートショート)の創作に取り組んでいたところ、以下のような物語を綴ることができました...
「かんぱ~い♪」
暫くご無沙汰していたものの、久々に会社帰りに居酒屋で酒を酌み交わすべく合流したA氏とB氏は、賑やかで心地よい居酒屋の雑踏をBGMにしてささやかながらも再会の祝杯をあげるのでした。
「いや~、今週も疲れたなぁ…」
「そういや、Bは今月頭から異動になったって言ってたっけ?」
「そうなんだよ、新しい部署で色々と慣れない中でやることが多くて大変でなぁ…」
「まあ、気疲れもするだろうしね?」
「そうなんだよ!…多少は覚悟をしていたが、日中はずっと気が張り詰めているのか一日が終わって帰宅するともうグッタリでさ…」
「うんうん」
「新しい仕事やら何やらを覚えるのもそうなんだが…」
「うんうん」
「新しい人間関係の中で…こう、色々と勝手が違うのがな…」
「まあ、そりゃそうだよね…でも、周囲はあまりそういう風に苦労しているところは見てくれてないしね(笑)」
「そうそう、そうなんだよ!…特に俺の年齢や立場からはささっとスマートに仕事をこなすのが当たり前だと期待もされているわけだからな」
「そりゃそうだろうねぇ」
「新しいことを聞くのもそうなんだが、わからないことを聞いたり、何かを伝える際にいちいち相手に対して気を使わざるを得ないからひと時も気が休まらなくてな…」
「そりゃそうだろうねぇ」
「…お前はそればっかりだな?」
「だってほかに言い様がないじゃん?Bがそう思ってしまう気持ちは痛いほどわかるよ?」
「そうだなぁ…そうそう、で…お前から聞いたあの…質問の仕方?あれはそれなりに役立っていて、結構助けられてる部分があるからお前に礼が言いたくてだな」
「…あぁ、いつか話したマクドナルド理論的な質問方法のこと?」
「そうそう、わざと反論される余地を残す質問をするってやつ」
「そうだね、僕もあの方法を教わってから色々と捗ることが増えたから重宝してるよ」
「ただ、たまに相手に上から来られてムカつくときもあるけどな(笑)」
「まあ、そういう性格の相手を見つけることができるのもあの質問方法の使用目的の1つだからね」
「…と言うと?…前も聞いたかもしれんが?」
「いいよ、聞いてくれれば何回でも言うよ(笑)」
「ありがたいな、助かるよ、物覚えが悪くてスマンな」
「いやいや、一回で分かることなんてないし…たとえメモを取ったところで完全に理解することができないし…後述するけど、状況が変わったときに初めに聞いたことに固執することは、それはそれでリスクもあるしね」
「そうか…」
「一旦話を元に戻すと、マクドナルド理論的な質問で明らかに不備がある質問を相手にしたとき、相手には幾つかの選択肢を取ることができるんだけどね」
「あぁ」
「それは大別すると3つに分けることができると思うんだけど、それは相手の意見を補足なり訂正して明らかな正解をきちんと相手に正しく伝えることが1つ目…2つ目は、相手の意見を尊重してそこには確かに再考の余地があるかもしれないけども今ここで正解と言われていることを相手に明確に伝えること、最後の3つ目は相手の誤った認識を訂正しないでそのままにしておくこと」
「あぁ…」
「加えて…実は今の3つは 「質問の回答内容」 に関するものなんだけど、ここに 「質問者に対する回答者の態度」 というものを考慮する必要があって、僕の言葉で言うならば「好意的に回答する」 と 「威圧的に回答する」 の2つの態度を踏まえてマトリックス図的に考えるとね…」
「ふむ…」
「例えば、もちろん好意的に相手に正解を正しく伝えるがもちろん望ましいんだけど、先のマトリクス図的な考えを踏まえると、それ以外にも幾つかパターンがある訳じゃない?」
「あぁ」
「なぜそうなるかと言えば、それは相手からの質問内容や質問の仕方に対して、質問を受ける側の価値観がその回答方法に顕著に表れるからなんだ」
「…と言うと?」
「簡単に言うと、何であれ質疑応答を通して、質問者に対する回答者の関係性に対する価値観、そこには例えば上下関係に関する強弱の考え方、つまり優しく教え諭すのか、もしくは威圧的に接して相手に緊張感を与えるかといった関係性における態度に対する価値観の違いを見出すことができるだろうし…」
「そうだな…」
「回答者の回答に対する価値観、そこには例えば回答の種類や重要度によって、相手に正解をきちんと理解してもらうことで物事を予定調和的にスムーズに運ぼうとしているのか、もしくはAプランBプランのように答えが変わる可能性があるかもしれないけどもここでのAプランとしての正解を伝えることで相手や周囲に配慮することで自律的に動くことをサポートすることを重視しているのか、または相手の誤った認識を訂正しないで獅子の子落とし的な対応をすることで相手がトライアンドエラーに対して前向きな姿勢を持たせることによって自分で答えを見出すように仕向けるといったことが望ましいといった価値観の違いを見出すことができるんだろうね」
「確かに…」
「…で、もう1つ本当の本当にここが大事なことなんだけどね」
「ん?」
「さっき話したことは少なくとも肯定的な質疑応答に関する考察で、言い方を変えると、そこには何であれ質疑応答後にたとえ多少のミスやトラブルが生じたとしてもお互いが前進することができることを前提とした対応なのだけど…」
「あぁ」
「中には気に入らない相手を陥れるために、わざと相手に誤った認識を与えることを目的として間違った知識や古い知識を与えることでその相手はおろか周囲にも悪影響を与えるような輩もいるから、そういった場合に注意を払う必要があるときもあるんだよねってことが難しいと僕は思ってるんだ」
「う~ん…」
「もちろん、ここはそれが故意から来るものなのか、それとも不手際や不慣れから来るものなのかを厳密に区別することができないから非常にセンシティブなところがあるので見分け方が難しくてね…」
「そうだな…何て言ったっけか…性善説と性悪説的な言い方だったかな…」
「そうなんだ!…だからぶっちゃけ、もうここは試行錯誤を踏まえた経験を積み重ねることを覚悟するしかないとも考えてるんだけど、そんなときにいつも心の拠り所にしているのは次の物語なんだ」
>>
ある夜、師が弟子たちと会い、みなで話したいから焚(た)き火を熾(おこ)してほしいと頼んだ。
「精神の道とは、われわれの目の前で燃える火のようだ」 と、師は言った。
「火をつけようと思えば、息苦しさに耐え、目から涙を流しながら不愉快な煙をやり過ごさねばならぬ。
信仰を自分のものにする、というのはそういうことだ。
だが、いったん火がつけば、煙は消え、炎は辺りを照らし、われわれに温(ぬく)もりと静けさを与えてくれる」
「では、だれかがわれわれのために火をつけてくれた場合はいかがですか」
弟子の一人が聞いた。
「そして、だれかが煙を追いやるのを手伝ってくれたらどうなるのでしょう」
「そのようなことをするのは、偽りの師だ。 その者は意のままに火を持ち去ったり、消してしまったりするかもしれない。 だれにも火の熾し方を教えないがゆえに、世の中すべてを暗闇に陥れることもできるのだ」
<<
~『マクトゥーブ 賢者の教え』 P21~
「もちろん、この物語は精神の道とか信仰といった単語が出てくるのでやや非日常的なところがあるのだけどね」
「そうだなぁ…」
「それでも何であれ知識や考え方と言うのは、厳密には善かれ悪しかれそういった精神の道とか信仰にも繋がる部分があるし、特にどのような組織や共同体もそれらから何かしら強い影響を受けていると考える方が自然だと思うんだ」
「う~ん…」
「それに次の物語も、こう言った知識や考え方といった価値観にも繋がる関連の話題においては示唆に富んでると個人的には思っててね…」
>>
ナスレッディン(*)は王様の首相となりました。
あるとき、宮殿を散策していると、生まれて初めて王様のタカを見ました。
ところでナスレッディンは、今までにこの種の “ハト” を一度も見たことがありませんでした。
そこで彼は、はさみを取り出し、タカの爪と翼とくちばしをつめました。
「さあ、立派な鳥になったぞ。 おまえの飼い主は手入れを怠っていたからな」
宗教を信じる人々が、自分の住むところ以外の世界を知らず、話しかける相手から何ひとつ学ぼうとしないのは、なんと悲しいことでしょう!
* トルコに語り伝えられる民衆文学のひとつ 『ナスレッディン・ホジャ行状録』 の主人公名。
<<
~『小鳥の歌 とても短い123の物語』 「王様のハト」 P21~
「まあ、さっきも言ったけど、ここら辺は非常にセンシティブな面があるから一概には言えないと思うけど、それでも頭の片隅のどこかで意識して対応を心掛けることが周囲からの誤解や偏見といったものから自分の身を守るためには必要な考え方だと僕は考えている部分があるかな」
「う~ん…お前が言っているは、つまりは郷に入っては郷に従えってことか?」
「そうだね、基本的には…ただ、ひねくれついでに言っておくと、もし自分が仮に新参者の立場に立つならば、相手から賢いと思われるよりはバカにされているくらいの方が丁度いいってことにもなるのかな」
「はぁ…」
「うつけ者とか、道化者とか?」
「またお前はいつもながらそういうことを平然と…」
「まあ、もちろんこの言い方はややブラックユーモア的で、まあ本心からそう思っているわけではないんだけど、それでも経験則から考えると、時と場合を踏まえるのは言わずもがなとしてもどちらかというと軽口を叩き合うことができるの環境の方が意外と諸々と濃い情報を得ることができるし、もっと言うと身の回りの環境の変化に関する情報を早い段階で得ることができるだけでなくてね…」
「あぁ」
「始めの方にも言ったことだけど、自身を取り巻くそういった身の周りの環境が変化して様々な作業の前提が変わった際にはその対応を変えることも後々必要になることを考慮すると、そういったときにはさっきも言ったうつけ者とか道化者的なキャラクターとして周囲から思われている環境の方が今までのやり方を変えることに対する抵抗を抑えることもできるかなって考えてるんだ」
「…状況が変わった際に今までのやり方に固執するリスクってやつか?」
「うん、こんな物語が参考になるかな?」
>>
どのような生き方をするのが一番よいのでしょう、と弟子が師に訊ねた。
師は、テーブルを作るようにと言った。
あとはテーブルに釘(くぎ)を打てば完成というときに師がやってきた。
弟子は釘一本を三回ずつ打って留めている。
ところが、ある一本の釘はなかなか打ち込めないので、弟子はもう一回打ちつけなければならなかった。
その最後のひと打ちのために釘が天板にめりこみ、ひびが入ってしまった。
「おまえの手は、金槌(かなづち)を三度打ちつけるのに慣れていたのだ」 と師は言った。
「どんな行動でも習慣となってしまうと、もとの意味を失ってしまう。 そしてそれが結局は損失を及ぼすことになる。
一つひとつの行動は、それぞれが独自にものである。 何をするにも行動が習慣にのっとられてはいけない」
<<
~『マクトゥーブ 賢者の教え』 P126~
「まあ、ここは難しいのだけど、郷に入っては郷に従えは確かに一面では真実ではあれども、人員が入れ替わるというイベントはある意味では組織や共同体としての環境が変わることになるわけで、何であれ既存の習慣化されたやり方を見直す良い機会ではある訳だから、そこで新人がある意味マクドナルド理論的な質問方法を用いることによって先輩方に敬意を払う形で既存の習慣化されたやり方を今一度見直す機会にすることが望ましいと僕は思っててね」
「あぁ…」
「例えば新人がボケて先輩がツッコむイベントを楽しむって意味でさ…で、ここは実はこの前も話したシステムズ・アプローチとも関連するんだけど…」
「わかった、わかった!…お前がその 「実は」 って言葉を言った後は、大概その次の話が長くなるから、その話はまた今度話そうな」
「え?」
「今日はもう仕事でクタクタなんだから、楽しい酒を飲んでストレスを発散しようぜ!」
「う、うん…」
「難しい話はまた今度な」
「わかったよ…」
「そう拗ねるなって(笑)」
「いや、別にそういうわけではないけど…」
「じゃあ、延び延びになっていた旅行の話でもするか?」
「そうだね、そうしようか!」
…と、A氏とB氏は改めて賑やかで心地よい居酒屋の雑踏をBGMにしながら、且つそのBGMの一部として楽しそうな会話を始めるのでした。
…などと(^-^;
そして今回創作した #Dailyショートショート の物語のテーマは 「習慣化の功罪」 だったのですが、この点に関しては正直まだまだ上手く言語化することが難しいと思っているところがあって今でも常日頃、事ある毎にその点について考えることを続けていますが、現時点で考えていることは、やはり言い古されている通り、基本的に 「習慣化すること」 は常に 「“目的” とセットである」 ということをきちんと理解しなければならないということです。
それは例えば、次の物語から窺い知ることができるかもしれません。
>>
何事においても、「最初」 というのは、一番大切、特に若者や幼い者にとっては大切だということは、だれもが認めるところだ。
なぜなら、この時期に性格が形成されるし、色に染まりやすいからだ…。
もしも不注意であったために、子どもが堕落した人から堕落した物語を聞くようなことがあったら、そしてこちらが望んでいるような考えではなく、それと正反対の考えが吹き込まれたら、いったいどうするのだ?
若いときに吹き込まれた考えを消すことはだれもできないし、変えることもできない。
だから子どもが最初に聞く物語が 「徳」 の規範的な話であることが極めて重要だ。
そうすれば、若者は健全な場所にとどまり、清らかな光景と音楽に包まれ、すべての面で素晴らしいものを受け取るだろう。
そして美も、真面目な労働も、純粋な場所から吹くそよ風のように、目や耳に飛び込むだろう。
その結果、幼いときから最高の理性に心を寄せる可能性が高まる。
これよりも高貴な訓練などは存在しないのだ。
-プラトンの 『国家』 より
<<
~『魔法の糸』 「はじめに」 PⅪ~
そう、これは 「広く “一般的な常識” とされている考え方」 だと思っていますが、幼い頃に 「徳」 にまつわる社会的、もしくは道徳的価値観に基づいた行動をすることを 「“目的” として “習慣化された” 行動規範」 を身につけるならば、私たちはその行動の結果として 「善い結果 ≒ 自分(& 属する共同体)を益する結果」 を享受することができる(筈だ)というものであり、再三再四になりますが 「習慣化すること」 は常に 「“目的” とセットである」 ということ、そして当たり前になりますが、その 「目的」 とは自分や自分の属する共同体に益するものが望ましいということとも同義だとも考えています。
加えて上記の物語には、もしそのような 「“理想的な” 行動規範」 を身につけることができない場合には 「将来的に私たちの人生に暗い影を落とす出来事が生じる」 ことも暗に示しており、そこにはやや頑なな、言い換えるのならば 「固定型マインドセット(Fixed mindset)」 とも言うべき思考パターンが見受けられ、ここは個人的にはあまり好きな考え方ではありません。
なぜならば個人的には、何であれ 「成長的知能観-努力した分だけ知能は伸びる」 を心掛けることができれば自分は必ず成長することができるという 「グロウスマインドセット(growth-mindset)」 の考え方の方に魅力を感じますし、その考え方こそが今まで 「人生脚本のUpdate」 をキーワードとして認めてきた幾つかのエントリーの論拠にもなるものでもあるからです。
加えて、 「固定型マインドセット(Fixed mindset)」 の更なるデメリットとして個人的に考えていることは、そこにはややもすると柔軟性の欠けた優性思想的な価値観が伴いがちだということであり、それが元で私たちの身の周りでは往々にして 「誰も幸せにならない出来事」 が生じることが見受けられるということです、悲しいことに…
ですから、できればある意味において何事にもマインドセット(≒思考パターン)は 「“善い” 方向 」にも変えることができるという 「グロウスマインドセット(growth-mindset)」 の考え方を内包している以下の物語を常に心に留め置くことは非常に大切なことではないかと考えているところでもあります。
>>
ある仏教の僧院の長は深く悩んでいました。
かつては有名だったその僧院は、いまではすっかり零落(れいらく)していました。
僧たちの修行はいい加減で、見習い僧は出ていき、一般の信者たちはどんどん別の僧院に移っていきます。
僧院長は旅に出て、遠方の賢人に教えを請いました。
せつせつと苦悩を語り、どんなに自分の僧院を変えたいと願っているか、そしてどんなに昔の栄華(えいが)を取り戻したいと思っているかを訴えました。
すると賢人は僧院長の目を見つめて言いました。
「あなたの僧院が衰退している理由は、ブッダが姿を変えてあなたたちのそばで暮らしておられるのに、あなたたちが彼を崇(あが)めていないからなのですよ」
僧院長はひどく動揺し、あわてて僧院に戻りました。
ブッダがわが僧院に!
いったいだれの姿を借りているというのだ?
ファか?
いいや、まさかあの怠け者のはずがない。
ポウか?
いいや、頭が鈍すぎる。
しかし、ブッダはわざと姿を変えておられるのだ。
怠け者やうつけ者のふりをなさっていても少しも不思議ではない。
僧院長は僧たちを集め、賢人の言葉を伝えました。
僧たちも非常に驚き、疑いと畏敬(いけい)の念を持って互いを見つめ合いました。
この中のだれがブッダなのか?
変装を見抜くことはできませんでした。
だれがブッダであるかわからなかったので、彼らはだれに対しても敬意を持って接するようになりました。
彼らの顔は内からの光で輝きはじめ、見習い僧を引きつけ、やがて一般信者もまた集まってくるようになりました。
まもなく僧院は、かつての栄華をはるかに凌ぐほど繁栄するようになりました。
<<
~『ラオ教授の「幸福論」』「必要なのは「発想の転換」」P25-26~
また、もちろん普遍的な 「徳」 を目的とした行動のみに拠らず、何であれ何らかの 「習慣化された行動パターン」 が自身の内に見出されるとき、定期的にその 「習慣化された行動パターン」 を振り返ることは非常に有用なことだと個人的には考えておりますが、特にそのような 「習慣化された行動パターン」 の振り返りの機会は組織において有効であることを以下の物語は示してくれていると、個人的には考えます。
>>
導師が毎夕、礼拝のために座るとき、礼拝所の猫がじゃまをして、信者たちの気を散らすのが常でした。
そこで導師は、夕べの礼拝の間、猫を縛っておくようにと命じました。
導師が死んでから永らくたったあとも、猫は夕べの礼拝中、相変わらず縛られ続けていました。
その猫がついに死ぬと、ほかの猫が礼拝所に連れてこられ、夕べの礼拝の間、当然のように縛られていました。
何世紀もたち、あらゆる正式な礼拝における猫の本質的役割についての学術論文が、導師の弟子たちによって書かれたのでした。
<<
~『小鳥の歌 とても短い123の物語』 「ヒンズー教(グル)の猫」 P101~
なぜならば、何であれ新しい組織に加わる特に新参者をはじめとした組織構成員は 「習慣化された行動パターン」 を 「きちんと “身につける” ために “その目的を理解する” 必要がある」 のですが、もしそれを 「なあなあで済ます」 のならば、次の物語が指し示すように、そこには悲劇しか待ち受けてはいないのでしょうから…
>>
仮説-
二人のハンターが飛行機をチャーターして、森へ飛んだ。
二週間後、飛行機が彼らを迎えにきた。
パイロットは彼らの獲物を一目見るなり、こう言った。
「この飛行機じゃ、バファロー一頭を乗せるので精一杯です。 残念ながらもう一頭は、おいていくことになります。」
「去年、同じサイズの飛行機だったが、乗せてくれたぜ。」
パイロットは納得できかねる風だったが、ついに 「去年、そういうことでしたら可能でしょう」 と引き受けた。
飛行機は三人と二頭のバファローを乗せて飛びたった。
だが高度を上げられず、そのまま近くの丘に激突した。
彼らは頂上に登り、周りを見渡した。
ハンターの一人が仲間に行った。
「どの辺りにいると思う?」
もう一人がよくよく周囲を見回して言った。
「去年激突した位置から、西へにマイルばかりのところだな。」
<<
~『蛙の祈り』 「ハンター、森へ飛ぶ』 P70~
とまれ、この変化の激しい時代の流れの中で、常日頃、事ある毎に何であれ身の周りの 「習慣化された行動パターン」 を見直すことを 「習慣化する」 こと、言い換えるならば、日々不易流行を意識することで本質を見抜く目と流行を感知する感性を磨くことを心掛ける姿勢を持つことが非常に大切になってきているのだと、改めて強くそう思う今日この頃です。
あなたはこれまでに一度でも仕事を辞めることを夢想したことがあるだろうか。
大股でずかずかと上司のオフィスに入っていき、彼に(上司というのはたいてい男性だろう)、むかつくような彼の仕事ぶりについて自分がどう思っているかを洗いざらいぶちまける。
それをやってのけた後、デスクが並んでいる間の通路を、同僚たちの賞賛のまなざしを浴びながら、ぐっと顔を上げたまま、つんとすまして颯爽(さっそう)と歩いて、自分のデスクに帰ってくる。
そして、二度と戻ってこないみすぼらしい建物から、太陽が燦々(さんさん)と降り注ぐ新しい生活のなかへと、堂々と歩いていく。
そんな空想をしたことがあるだろうか。
もしこれが覚えのある空想だとしたら、この空想はあなたについてたくさんのことを教えてくれる。
まず、これがいちばん明白だが、あなたは間違った仕事についている。
第二に、まだその空想を実現していないのだから、あなたは臆病者だ。
第三に、もう少し言葉を和らげるとして、あなたには保証がない。
会社を辞められないのは、あれこれ負債を負っている-銀行ローン、家賃、子どもの教育費、借金、各方面からの請求書-にもかかわらず、返済できるだけの貯金がないからだ。
最後に、あなたは人口の六六パーセントに属している。
というのも、最近の新聞の調査によると、宝くじで一等賞に当選した人の三三パーセントが、それまでの仕事を続けている。
億万長者になるまで、彼らはごく平均的な勤め人だったのだと仮定すると、労働人口の約三分の一が、たんに金(かね)のためだけで働いているのではないということだ。
宝くじに投じる一人あたりの金額は社会の低階層のほうが多い。
また宝くじを買う人のなかには、すでに引退している人もいる。
それを考慮に入れたとしても、思いがけず大金が転がり込んできてもいまの仕事を続ける、と考えている人が労働人口の四分の一はいると考えていいだろう。
彼らは、大金が転がり込んでくるまで、じっと我慢して働いていたわけでは全然ない。
金を積まれても仕事を辞めない人たちだ。
彼らは働く必要がなくとも働き続ける。
そうなると疑問が生じる-いったい仕事とは何なのか。
いちばん古典的な定義は-あとで述べるようにマルクスはこれを根本的に変えてしまうが-、仕事とは労働を金と交換することである、というものだ。
金が関係してくるところではかならず、なんらかの力が割り込んできて、自然の流れを妨害する。賃金をもらわなくてはならないということは、逆にいえば、あなたが、できればゆっくり寝ていたい、あるいは釣りに行きたいということだ。
つまり、のんびりした時間への歓迎すべからざる介入を我慢することに対して、賃金という 「補償」 を求めるということだ。
「補償」 という言葉にはどこか奇妙な響きがある。
たとえば負傷の 「補償」 をしてもらう、というふうに。
だがこの言葉は仕事の中核にある概念をうまくとらえている。
それは “バランス” の概念だ。
労働と金が交換されるときにはかならず等価交換でなくてはならない。
この見方をすると、労働を買うことは、砂糖や封筒を買うことと何ら変わらない。
商品と貨幣の交換は、釣り合いがとれていて、公平でなくてはならない。
だが、労働人口の四分の一を占める、報酬があってもなくても働くという人たちの場合、そのバランスがくずれている。
四分の一というのはかなりの割合だ。
コメントしないで済ますわけにはいかない。
それも好意的なコメントと厳しいコメントを。
好意的に解釈すれば、この四分の一の人たちにとって、仕事は、金のための労働ではなく、もっと高貴なものだ。
彼らにとって、仕事とは、やりがいとか個人的実感を与えてくれるものだ。
そういう言い方をすると、なんだか彼らが自分のことしか考えていないみたいだが、最良の場合には、彼らは自分の仕事を、社会に 「何かを還元する」 とか 「おのれの分を尽くす」 とか 「世界をよりよくする」 ことだと見なしている。
彼らは、給料は受け取るが、彼らにとって労働は言わば慈善行為のようなものであり、道徳的義務感にもとづいて寄贈する無償の贈り物なのだ。
だから彼らは、他の調査が繰り返し報告している傾向を実地に証明しているだけだ。
その傾向とは、労働者は金銭的報酬だけでなく、機会の増大とか目的意識といった目に見えない利益をも求めるということである。
右のように書くと、彼らがぶりっ子みたいに見えるかもしれないので、厳しい見方もしてみよう。
彼らは、あなた方がうつむいてせっせと仕事をしているときに、デスクで口笛を吹き、パーティションの上からひょいと顔を出しては、満面に笑みを浮かべて 「やあ」 と言うような連中だ。
この種の人間は往々にして、大多数の、労働を等価の金と交換しているだけの、したがって労働の日々に対してハッピーな四分の一の人びとと同じような高尚な関係をもてないでいる人びとから、“反感” を買う。
だがそれはひとまず措(お)いておくことにして、彼らが嫌われるのにはもっと合理的な根拠がある。
すなわち、この不愉快な少数派は、何をやってもそれによって 「報われて」 しまうのだ。
彼らの場合、仕事は趣味であり、それに投じたエネルギーは二倍の収穫をもたらす。
一度投じたものを二度取り出せるのだから、市場は乱れてしまう。
彼らは自分の仕事の精神的価値を高め、それだけその仕事の金銭的価値を下げてしまうので、職場にこの手の連中がいると、わずかとはいえ、給与の上昇が抑えられ、同僚たちに迷惑がかかる。
だが、あなたが彼らに対して好意を感じようと反感をもとうと、このグループについて論じるのはこのへんにして、明らかに彼らよりも重要な、鐘形曲線(ベル・カーブ)の反対側に目を向けよう。
こちらのグループの場合、バランスがくずれているのは、当然もらえるはずの金額 “より少ない” 報酬しかもらっていないからだ。
重役たちは 「社員のみなさんこそがいちばんの財産です」 と口では言うが、仕事をしていると、ちゃんとギブ・アンド・テイクになっていないんじゃないかという気がしてくる。
一日じゅう鳥の羽をむしる、データを入力する、飛行機にスーツケースを積み込む、といった労働に対する報酬の額を考えると、自分が雇い主から尊重されているとはとても思えない。
皮肉なことに、「財産」 という言葉が示唆しているのは、現代社会でよく耳にするあの 「人材」 という奇妙な表現と同じく、肉体労働をしている者が、人間としてではなく、何よりもまず経済的価値の単位と見なされているということなのは明らかだ。
ここでカール・H・マルクス登場。
寄与した労働に対する過小報酬の別名は、遠慮せずにいえば、奴隷労働である。
つまり、投入したものよりも受け取るもののほうがずっと少ないということだ。
そういう状態について、マルクスは二つのきわめて重要な洞察をした。
もっとも重要なのは、それは経済的偶然のせいでも、生来の能力のせいでも、自然のなりゆきでもなく、特殊な社会的力関係のせいだ、という洞察である。
労働者がその労働に対して雀の涙ほどの報酬しか与えられず、そのためにいつまでも貧しいのは、それが本来の姿だからではなく、彼らが愚かだからでも、運が悪いからでも、人種的に差別されているからでも、怠け者だからでもない。
それはある原因の連鎖と関係があり、その連鎖を辿っていくと、彼らを犠牲にして裕福な暮らしをしている 「主人」 にいきつく。
その主人は労働に対して不当に大きな報酬を得ている。
いや実際、そもそも法外な報酬を得ているからこそ、主人としての力を獲得したのだ。
彼らが懐に入れる余分な金-高額な給料、莫大なボーナス-のことを資本という。
…
資本をめぐる議論は複雑で、まさに議論百出になりがちだが、そのいちばん底にあるのは、この 「不当に多い報酬を得る」 ということだ。
たとえ株や土地の姿をとっていようとも、資本とは要するに余った金のことである。
それゆえ、余っている金など一銭もない貧しい人びとにとっては、まさしく高根の花である。
差し迫った必要を満たしてはじめて、蓄えができるようになる。
…
資本は成長する。
イースト菌みたいに自分で自分を膨らます。
この魔法の成分を、資本家たちは貪欲に追及する。
労働者は、パンを食べていればいいのだ。
ここで事態はさらに悪化する。
というのも、資本が創り出す、金持ちと貧乏人との間の垂直方向の格差は、社会の階級格差となって現れる。
資本が社会をいくつもの階級に分断したにもかかわらず、階級格差がまるで自然の秩序であるかのように思われてくる。
言い換えると、私たちが 「階級」 と呼んでいるのは、経済的格差が蔓延していることの言い訳なのだ。
つまり、この格差はどうしても避けられないのだという、偽りの言い訳である。
なんだか絶望的な話のように聞こえるが、このことからマルクスは、補償と復讐の可能性を示唆する第二の洞察へと向かった。
すなわち、富者は貧者なしにはやっていけないのだから、貧者には隠れた力があるということだ。
主人と奴隷の関係についてのヘーゲルの考察、つまり主人は彼に支配されている者から主人と認められているかぎりにおいて主人でいられる、という考察から示唆を得て、マルクスはより根本的な真理を分離抽出した。
ひとりの人間の富は他の人間の貧困である、つまり富者は貧者に依存しており、役割を逆転させれば、貧者はある力を獲得するということである。
マルクスは労働者に、その力を浪費せず、活用するように、つまり自分の労働を安売りせず、欠かせないものとして提供することを勧める。
「生産手段を所有している」 のは労働者なのだから。
…
マルクスがヘーゲルから学んだもうひとつの教訓とは-歴史は真理という最終目標に向かって、彗星と同じく普遍の軌道を進んでおり、その真理とは、主人と奴隷がおたがいの目のなかに自分自身を発見し、自分たちが何ひとつ違わず、これ以上ないほどそっくりであることを悟ることである。
社会がこの次元に達したあかつきには、不平等の弟子は取り払われ、いたるところに共同体(コミューン)が浸透するだろう。
…共産主義国家…資本家たちの幼稚な実践は必ずやこれに屈服するだろう。
奴隷、すなわち労働力のかたまりは、彼らを縛りつけている鎖以外には失うものはない。
かくも明快きわまる公式を差し出されたら、資本は悪にしか見えてこないだろうし、労働は持てる者と持たざる者との乱暴な示談にしか見えてこないだろう。
…
いや、資本は悪ではないかもしれない。
それどころか、善の結実に他ならないのかもしれない。
少なくともこれがマックス・ヴェーバーの出した結論だ。
ヴェーバーは裕福な家に育ち、社会学という学問の基礎を築いた。
ヴェーバーにいわせれば、もし資本が、給料からさまざまな経費を引いた残りの金だとしたら、資本とは勤勉な労働の結実に他ならない。
裕福だと言って非難されるどころか、その金は自分の労働倫理を証明するものなのだから、賞賛されるべきである。
世の社長たちは、運がいいから社長になれたのではなく、懸命に働いたから社長になれたのだ。
ゼネラル・エレクトリック社の最高経営責任者だった、ジャック・ウェルチはこう言っている。
「働けば働くほど運が向いてくる」。
しかも、もし金曜の夜にバカ騒ぎをしなければ、やっとの思いで打ち込んだこの楔(くさび)があなたの禁欲主義に語りかける。
そこからヴェーバーは(彼の母親は敬虔(けいけん)なカルヴァン主義だった)、プロテスタンティズムとの親近性を指摘する。
ご存じのように、プロテスタンティズムは労働と禁欲という二つの美徳を強調する。
むろん、この二つの美徳が合体して効果的に金を生み出すというのは、なんとも皮肉だ。
というのも、金そのものはあいかわらず汚れたものと見なされている。
金はいわば麻薬である。
だから埋め、隠し、金庫に預けなくてはいけない。
金は金庫の暗闇のなかで価値を増していくだろう。
プロテスタントとは 「抗議する人」 という意味だが、何に抗議したかといえば、それはカトリック教会の 「見せびらかし」 、つまり芝居がかったやり方に対してだ。
芝居じみたことに対するプロテスタントたちの嫌悪感は金に対してもあてはまる。
実際よりも貧しいふりをして、働き続けるのがよいのだ。
会社でいちばんおとなしい連中が最後に笑うのだ。
そんなふうに考えてくると、「仕事とは金との単純な交換である」 という定義は単純すぎるように見えてくる。
「交換が不公平なせいで、私利を図る主人が二重構造を操っている」(マルクス)のか、それとも 「交換は公平だが、禁欲を学んだ主人たちが支配している」(ヴェーバー)のか。
かくしてマルクスもヴェーバーも 「権威」 とは何かという疑いを抱いた。
そこでヴェーバーは次に、職場における権威-あるいは 「リーダーシップ」 「指導者」 -とは何を意味するかについて考察する。
彼はその権威を三つのカテゴリーに分類する。
その三つのうち、「カリスマ的」 リーダーシップがいちばんよく知られているだろう。
現代の私たちはカリスマと聞くと、一部の人だけがもっている特別な資質を思い浮かべる。
…
しかし、ヴェーバーやその影響を受けた人びとにいわせると、カリスマには暗い側面がある。
カリスマというのは秘密の成分みたいなもので、ほしいものではあるが、つかみどころがなく、学んで身につけられる技術でもない。
…
ヴェーバーは言う-指導者のカリスマは、もって生まれた資質よりむしろ、指導される人びとが抱いている迷信的な憧れから生まれるのだ。
私たちはコーヒーの自動販売機のそばに集まって、ボスの噂話をする。
そのゴシップはますます、あのボスは特別なのだという感覚を強める。
私たちは、たとえ心の底では、彼が皿洗い機と同じくらい退屈な人間であることを知っていたとしても、つい、あのボスには神秘的なところがあると考えてしまいがちだ
それは、私たちが誰かにすがりたいと思っているからだ。
…
現代の職場により広くあてはまるのはヴェーバーのいう 「合理的・合法的」なタイプの指導者だ。
たしかに職種によっては、いまだにヴェーバーのいう第三のタイプ、すなわち 「伝統的」 権威をもった指導者がいる。
家族を守る父親とか、領地の民を守る領主みたいなタイプだ。
だがその性質からいっても規模からいっても、現代の産業において最も効果的なシステムは官僚制だ。
そこで 「合理的・合法的」 な指導者が必要になる。
官僚制における指導者は、カリスマ的な存在ではなく、有能な官僚であり、その権威を支えているのは個性ではなく規則である。
むろん今日、誰かが 「官僚制」 という言葉を口にするときにはかならず軽蔑の念がこもっているが、他の二つのタイプにありがちな権力の濫用が制限されているという点では、官僚制もそれほど悪いものではない。
息が詰まりそうだと感じるかもしれないが、民主主義と同じく、官僚制も、大多数の人びとの関心事を処理するという問題に対する解決策としては 「いちばん欠点が少ない」 かもしれない。
官僚制にはいくつかの特徴がある。
働いていればすぐに気づく特徴は 「序列」 だ。
もし組織に序列があるとしたら…それはカリスマによるのだはなく 「合理的・合法的」 理由による。
つまり、それは序列表の上で何人かの労働者を他より高い地位につけるためではなく…山積する仕事がいちばん効率的にさばけるのがピラミッド構造だからである。
いちばん単純な仕事はあまり熟練していない労働者でもできるが、ひとつ上の階層からの指示を必要とする。
その階層はまたひとつ上の階層からの指示を必要とする。
以下同じ。
たとえあなたが(マルクスのように)、これは階級差を強化するための密かな手段なのだと考えているとしても、序列制度というのは、軍隊の命令・統制の構造と同じく、指示の伝達が最速の構造であり、協議や議論を必要とする 「摩擦」(軍隊ではそう呼ぶ)を最小限にする。
下の者の意見が無視されるのは、情け容赦なくどんどんやってくる仕事を処理するためだ。
要するに、もしあなたが序列のトップからずっと下の方にいたとしても、あなた個人にその原因があるものだと考えてはならない。
もちろんビジネスの組織と軍隊との類似性はより希薄になってきた。
「人材」 はかつて 「人員」 と呼ばれていた。
今日、私たちは 「生きた組織」 とか 「組織DNA」 といった、より生体的な述語を使うようになってきた。
だが言葉が変わったからといって、仕事上の階層構造がなくなったわけではない。
現代において、この序列を強く擁護していたのはカナダの精神分析学者、組織理論家エリオット・ジャックス、そう、あの経営の導師(グル)だ…。
ただしジャックスは、序列を礼賛する前にまずチームという概念を批判する。
ジャックスは二〇世紀末の人間なので、チームワークさえあればすべてが解決すると盛んに言われた、第二次世界大戦後の職場の進化を冷静に振り返ることができた。
彼にいわせれば、チームワークと序列ほど相性の悪いものは他にない。
一見すると、チームというのはとても良いものに見える。
チームで働いた経験のある人は、自分がチームに属しているという心地よい感じを体験したかもしれない。
いや、あまりに心地よいために、組織全体よりもチームに対する忠誠心のほうが大きかっただろう。
チームは多種多様な才能を発掘し、活用する。
チームには、リベラルな民主主義の拡大、人権の確立、少数派への参政権の拡大、福利厚生の普及など、外の世界の進歩が反映されている。
いずれも文句なく良いものだ。
さらに、政治問題などを論じるために召集される少人数のグループを意味するフォーカスグループが生まれ、メンバーそれぞれが自分を表現できるような集団療法(グループ・セラピー)が生まれるところも、外の世界に似ている。
「チーム」 はそうした西洋的な価値にどっぷり浸かっているので、「序列」 を賛美することはまるでファシズムに投票することのように見なされている。
このように 「チーム」 は、独裁制に対する戦後の嫌悪感を一語で表現しているが、いちばんわかりやすい譬えはスポーツだ。
ビジネス用語のなかでも、スポーツの比喩がいちばん広く浸透している(「陣営を立て直す」 とか 「オフサイドにならないように」 とか)。
スポーツ用語を使うと、本当は大して魅力的ではない仕事が魅力的に見えるようになるばかりか、「団結心」 が高まり、そのおかげで仕事が早く片づくという効用もある。
職場のチームが、強いスポーツ・チームと同じように活発に活動すると、各人は思うままエネルギーを出すことができる。
以上に述べたすべてのことから、チームは職場において神聖不可侵のものになっている。
上司に向かって 「私はチームの一員ではありません」 と言ってみたまえ。
クビになる日も遠くないだろう。
エリオット・ジャックスにいわせると、そうした全般的な長所にもかかわらず、チームはその公約を果たすことはできない。
チームが出しうる能力は、個々人の能力の総計を下回る。
それは主に、努力が数人に分散されるために、責任が拡散し、役割分担が曖昧(あいまい)になってしまうからだ。
チームのなかでは、個人は隠れることができる。
全員に責任があると同時に、誰にも責任がない。
会議の後、結局、誰が何をやるのかがはっきりしない。
相互理解が得られたとしても、肝腎の仕事が片づかない。
仕事を効率的にやるためのチームのはずなのに。
さらに悪いことに、試合がないときにでもチームは解散しない。
そのおかげで、チームの存続のために仕事を創り出すことになる。
そうした傾向に対して、ジャックスは序列の導入を提案する。
組織の存在理由が、社交的な環境を提供することではなく、仕事を処理することだとしたら、いちばん効率的なのは組織を上から下へと貫いているパイプを使って仕事を割り振ることだ。
ボスは、どの階層に責任があるのかがすぐにわかる。
どの階層も仕事を適切に 「引き受ける」。
引き受けるということは片づくということだ。
チーム内で仕事が明確に配分され、特定できるリーダーがいるならば、チームも悪くない(この意味では、チームと序列という二分法は誤りだ)。
序列は政治的でも社交的でも心理的でもなく、ある組織が必要とするひとつの形式にすぎない。
ボスは鬼の面を脱ぎ捨て、仕事がさまざまな階層を経ていくのを思慮深く保証する、ただの管理者になる。
「組織」 とは、労働力を組織化するのではなく、仕事を組織化するものであり、いったん仕事が適切な場所に落ち着けば、あとはスムーズに事が運ぶ。
残念ながら、そんなにスムーズに事が運ぶ組織はほとんどない。
序列によって提供される骨格がないからではなく、組織をつくっているのが生身の人間だからである。
組織は人間と歴史と慣習から成り立っているから、階層間を仕事が上がったり下がったりするだけというわけにはいかない。
骨格の上にそうしたさまざまな要素がまるわりついているために、私が 「組織内政治」 と呼んでいるものがある。
その結果、仕事をするためには、公式の規則と非公式の現実、建前と本音、職業上の鋭い洞察眼と盲目的感情との、奇怪な組み合わせを乗り越えなくてはならない。
私は先に 「報酬」 という語を用いたが、この語はまさしく仕事のこうした側面のみを指している。
というのも、組織内政治に伴うありとあらゆる馬鹿げたことに耐えるなど、なんらかの報酬がなくてはやっていられない。
というわけで、ぐるりと一周して、仕事とは何か、適正な報酬とは何かという問題に立ち戻る。
じわじわと進行してきたサービス経済化に対する、マーガレット・サッチャー元首相の有名な言葉がある-洗濯物を引き受けることは誰にでもできます。
服だって誰かが作らなくてはならないのです、と。
しかしサービス経済、あるいは 「知識」 経済が、そのような言葉に耳を傾けたとは思えない。
次の世代には、サービス経済がすっかり定着してしまった。
ビジネスの世界で、洗濯に相当するのは 「コンサルティング」 かもしれない。
公共の領域では「共同作業」 だろう。
製造業ですら 「顧客関係重視の経営」 という義務から逃れられなかった。
たとえば自動車メーカーはその事業計画に関する 「出資者」 とその影響力を雇わなくてはならない。
いずれの場合においても、仕事とは何か、どうして誰もかもが報酬を受け取れるのか、それを突き止めることは難しい。
仕事の主な形態は 「話す」 ことだ。
雇用というのは手(耕す、種を蒔く、刈り取る、乳を搾る、作る、直す、切る、縫う、磨く、持ち上げる、運ぶ)を雇うことだと信じている人にとっては、話をするだけで給料をもらうというのはなんとも奇怪であり、不公平だとすら思える。
いやそれどころか、会社での実際の活動のほとんどは、もはや話すことですらなく、メールのやりとりだけだったりする(メールを書くだけでなく、削除する、再送する、撤回する、など)。
労働者だっておしゃべりをしたり、家に電話したり、お茶を入れたり、トイレに行ったりするが、そのうちに、自分が仕事らしい仕事をどれくらいしているのだろうかと自問するようになる。
ある経営雑誌がおこなった調査によると、アメリカの労働者は、一日に三〇分は、仕事をするために何かを探しているという。
「仕事をする」 ことと 「職場にいる」 ことは重なるが、全面的に重なるわけではない。
しかしながら、正体不明の空間に向かって宇宙船のように突入していくことはもはや避けられないのかというと、そうでもない。
おそらく私たちは、フランスの社会史家ミシェル・フーコーが 「認識論的断絶」 と呼んだものの入り口に立っているのだろう。
「パラダイム・シフト」 とも似ているが、認識論的断絶は歴史の分岐点であり、そこでは世界を見る新しい枠組みができあがりつつある。
カール・マルクスが、階級闘争の歴史として歴史の枠組みを作り直したのは、そうした断絶の一例だろう。
現在のような重大な資源危機(燃料、水、食糧)は、仕事がますます抽象的になっていくというこれまでの流れを堰(せ)き止めることになるだろう。
そうした基本的なものの価格が上昇するにつれ、サービスに払う金額は減少し、私たちはふたたび 「現実的なもの」 に目を向けるようになる。
それは仕事をするということに対しても影響を及ぼすだろう。
自分たちが作っている物の 「付加価値」 よりむしろ基本的な価値を示さなくてはならなくなるだろう。
先のことはわからないが、おそらく仕事はもっと基本的な形へと戻っていくだろう。
つまり、ただ話すだけではなく、もっと素朴な労働、すなわち干し草を束ねるとか、船体を鋲(びょう)で留めるとか、靴下の穴を繕(つくろ)うといった仕事が増えるのではなかろうか。
~『ソクラテスと朝食を 日常生活を哲学する』「4 Being at work 仕事をする 」P58-74~