A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

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しかしながら、正体不明の空間に向かって宇宙船のように突入していくことはもはや避けられないのかというと、そうでもない。

 

おそらく私たちは、フランスの社会史家ミシェル・フーコーが 「認識論的断絶」 と呼んだものの入り口に立っているのだろう。

 

「パラダイム・シフト」 とも似ているが、認識論的断絶は歴史の分岐点であり、そこでは世界を見る新しい枠組みができあがりつつある。

 

カール・マルクスが、階級闘争の歴史として歴史の枠組みを作り直したのは、そうした断絶の一例だろう。

 

現在のような重大な資源危機(燃料、水、食糧)は、仕事がますます抽象的になっていくというこれまでの流れを堰(せ)き止めることになるだろう。

 

そうした基本的なものの価格が上昇するにつれ、サービスに払う金額は減少し、私たちはふたたび 「現実的なもの」 に目を向けるようになる。

 

それは仕事をするということに対しても影響を及ぼすだろう。

 

自分たちが作っている物の 「付加価値」 よりむしろ基本的な価値を示さなくてはならなくなるだろう。

<< P73-74

 

 

僕のお気に入り『ソクラテスと朝食を 日常生活を哲学する』(ロバート・ロウランド・スミス 著) のなかの「はじめに」の一節。
 

 

 

 

 

改めてになりますが、先日のエントリー 『現実に影響を与える適応力向上のためにできること ~「現実, 常識, 真理」についての再考~』 でも述べたように、最近は、以前に 『人生のかけら:ver3.0 ~<情報編集力> を用いた “上級スキル”~』 でも述べたことがある試みの習慣化の一環として、Twitter上で #Dailyショートショート とする物語(ショートショート)の創作を日々続けて言いますが(最近はペースダウンしているものの…)、個人的にこのような物語(ショートショート)創作の際に意識していることの1つは、異なる2つの 「物語」 なり 「視点」 でも、その底に流れる共通のキーワードに関して自分が思い至るものを 「テーマ」 とするということにおいて、 様々な 「物語から教訓を得ること」 により 「現実で活かすことができる(新しい)知恵や技」 ともなる新しい考え方なり行動様式を 「“現実的に実践すること” を “可能にする”」 ために、つまり、以前に認めたことがある 『スーパーストラクチャー:まだ協働していない二つ以上のコミュニティの結びつき:ver2.0~適応~』 のエントリー内の「適応力を高めるために拡張すること」 を意味する 「スーパーストラクチャ―」 という考え方を参考にして実践しているものです。

 

 

 

そしてそれは、そのようにして得ることができた 「現実で活かすことができる(新しい)知恵や技」 は必ずや 「まだ解決策が見つかっていない問題で、適応が必要なチャレンジと呼ばれる “適応を要する課題” の解決に役立てること」 ができる筈だと、個人的に考えているからです。

 

 

 

 

 

…ということで、本日も物語(ショートショート)の創作に取り組んでいたところ、以下のような物語を綴ることができました...

 

 

 

 

 

 

 

「かんぱ~い♪」

 

暫くご無沙汰していたものの、久々に会社帰りに居酒屋で酒を酌み交わすべく合流したA氏とB氏は、賑やかで心地よい居酒屋の雑踏をBGMにしてささやかながらも再会の祝杯をあげるのでした。

 

「いや~、今週も疲れたなぁ…」

 

「そういや、Bは今月頭から異動になったって言ってたっけ?」

 

「そうなんだよ、新しい部署で色々と慣れない中でやることが多くて大変でなぁ…」

 

「まあ、気疲れもするだろうしね?」

 

「そうなんだよ!…多少は覚悟をしていたが、日中はずっと気が張り詰めているのか一日が終わって帰宅するともうグッタリでさ…」

 

「うんうん」

 

「新しい仕事やら何やらを覚えるのもそうなんだが…」

 

「うんうん」

 

「新しい人間関係の中で…こう、色々と勝手が違うのがな…」

 

「まあ、そりゃそうだよね…でも、周囲はあまりそういう風に苦労しているところは見てくれてないしね(笑)」

 

「そうそう、そうなんだよ!…特に俺の年齢や立場からはささっとスマートに仕事をこなすのが当たり前だと期待もされているわけだからな」

 

「そりゃそうだろうねぇ」

 

「新しいことを聞くのもそうなんだが、わからないことを聞いたり、何かを伝える際にいちいち相手に対して気を使わざるを得ないからひと時も気が休まらなくてな…」

 

「そりゃそうだろうねぇ」

 

「…お前はそればっかりだな?」

 

「だってほかに言い様がないじゃん?Bがそう思ってしまう気持ちは痛いほどわかるよ?」

 

「そうだなぁ…そうそう、で…お前から聞いたあの…質問の仕方?あれはそれなりに役立っていて、結構助けられてる部分があるからお前に礼が言いたくてだな」

 

「…あぁ、いつか話したマクドナルド理論的な質問方法のこと?」

 

「そうそう、わざと反論される余地を残す質問をするってやつ」

 

「そうだね、僕もあの方法を教わってから色々と捗ることが増えたから重宝してるよ」

 

「ただ、たまに相手に上から来られてムカつくときもあるけどな(笑)」

 

「まあ、そういう性格の相手を見つけることができるのもあの質問方法の使用目的の1つだからね」

 

「…と言うと?…前も聞いたかもしれんが?」

 

「いいよ、聞いてくれれば何回でも言うよ(笑)」

 

「ありがたいな、助かるよ、物覚えが悪くてスマンな」

 

「いやいや、一回で分かることなんてないし…たとえメモを取ったところで完全に理解することができないし…後述するけど、状況が変わったときに初めに聞いたことに固執することは、それはそれでリスクもあるしね」

 

「そうか…」

 

「一旦話を元に戻すと、マクドナルド理論的な質問で明らかに不備がある質問を相手にしたとき、相手には幾つかの選択肢を取ることができるんだけどね」

 

「あぁ」

 

「それは大別すると3つに分けることができると思うんだけど、それは相手の意見を補足なり訂正して明らかな正解をきちんと相手に正しく伝えることが1つ目…2つ目は、相手の意見を尊重してそこには確かに再考の余地があるかもしれないけども今ここで正解と言われていることを相手に明確に伝えること、最後の3つ目は相手の誤った認識を訂正しないでそのままにしておくこと」

 

「あぁ…」

 

「加えて…実は今の3つは 「質問の回答内容」 に関するものなんだけど、ここに 「質問者に対する回答者の態度」 というものを考慮する必要があって、僕の言葉で言うならば「好意的に回答する」 と 「威圧的に回答する」 の2つの態度を踏まえてマトリックス図的に考えるとね…」

 

「ふむ…」

 

「例えば、もちろん好意的に相手に正解を正しく伝えるがもちろん望ましいんだけど、先のマトリクス図的な考えを踏まえると、それ以外にも幾つかパターンがある訳じゃない?」

 

「あぁ」

 

「なぜそうなるかと言えば、それは相手からの質問内容や質問の仕方に対して、質問を受ける側の価値観がその回答方法に顕著に表れるからなんだ」

 

「…と言うと?」

 

「簡単に言うと、何であれ質疑応答を通して、質問者に対する回答者の関係性に対する価値観、そこには例えば上下関係に関する強弱の考え方、つまり優しく教え諭すのか、もしくは威圧的に接して相手に緊張感を与えるかといった関係性における態度に対する価値観の違いを見出すことができるだろうし…」

 

「そうだな…」

 

「回答者の回答に対する価値観、そこには例えば回答の種類や重要度によって、相手に正解をきちんと理解してもらうことで物事を予定調和的にスムーズに運ぼうとしているのか、もしくはAプランBプランのように答えが変わる可能性があるかもしれないけどもここでのAプランとしての正解を伝えることで相手や周囲に配慮することで自律的に動くことをサポートすることを重視しているのか、または相手の誤った認識を訂正しないで獅子の子落とし的な対応をすることで相手がトライアンドエラーに対して前向きな姿勢を持たせることによって自分で答えを見出すように仕向けるといったことが望ましいといった価値観の違いを見出すことができるんだろうね」

 

「確かに…」

 

「…で、もう1つ本当の本当にここが大事なことなんだけどね」

 

「ん?」

 

「さっき話したことは少なくとも肯定的な質疑応答に関する考察で、言い方を変えると、そこには何であれ質疑応答後にたとえ多少のミスやトラブルが生じたとしてもお互いが前進することができることを前提とした対応なのだけど…」

 

「あぁ」

 

「中には気に入らない相手を陥れるために、わざと相手に誤った認識を与えることを目的として間違った知識や古い知識を与えることでその相手はおろか周囲にも悪影響を与えるような輩もいるから、そういった場合に注意を払う必要があるときもあるんだよねってことが難しいと僕は思ってるんだ」

 

「う~ん…」

 

「もちろん、ここはそれが故意から来るものなのか、それとも不手際や不慣れから来るものなのかを厳密に区別することができないから非常にセンシティブなところがあるので見分け方が難しくてね…」

 

「そうだな…何て言ったっけか…性善説と性悪説的な言い方だったかな…」

 

「そうなんだ!…だからぶっちゃけ、もうここは試行錯誤を踏まえた経験を積み重ねることを覚悟するしかないとも考えてるんだけど、そんなときにいつも心の拠り所にしているのは次の物語なんだ」

 

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ある夜、師が弟子たちと会い、みなで話したいから焚(た)き火を熾(おこ)してほしいと頼んだ。

 

 

 

「精神の道とは、われわれの目の前で燃える火のようだ」 と、師は言った。

 

「火をつけようと思えば、息苦しさに耐え、目から涙を流しながら不愉快な煙をやり過ごさねばならぬ。

 

信仰を自分のものにする、というのはそういうことだ。

 

だが、いったん火がつけば、煙は消え、炎は辺りを照らし、われわれに温(ぬく)もりと静けさを与えてくれる」

 

 

 

「では、だれかがわれわれのために火をつけてくれた場合はいかがですか」

 

弟子の一人が聞いた。

 

「そして、だれかが煙を追いやるのを手伝ってくれたらどうなるのでしょう」

 

 

 

「そのようなことをするのは、偽りの師だ。 その者は意のままに火を持ち去ったり、消してしまったりするかもしれない。 だれにも火の熾し方を教えないがゆえに、世の中すべてを暗闇に陥れることもできるのだ」

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~『マクトゥーブ 賢者の教え』 P21~

 

 

 

「もちろん、この物語は精神の道とか信仰といった単語が出てくるのでやや非日常的なところがあるのだけどね」

 

「そうだなぁ…」

 

「それでも何であれ知識や考え方と言うのは、厳密には善かれ悪しかれそういった精神の道とか信仰にも繋がる部分があるし、特にどのような組織や共同体もそれらから何かしら強い影響を受けていると考える方が自然だと思うんだ」

 

「う~ん…」

 

「それに次の物語も、こう言った知識や考え方といった価値観にも繋がる関連の話題においては示唆に富んでると個人的には思っててね…」

 

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ナスレッディン(*)は王様の首相となりました。

 

あるとき、宮殿を散策していると、生まれて初めて王様のタカを見ました。

 

 

 

ところでナスレッディンは、今までにこの種の “ハト” を一度も見たことがありませんでした。

 

そこで彼は、はさみを取り出し、タカの爪と翼とくちばしをつめました。

 

 

 

「さあ、立派な鳥になったぞ。 おまえの飼い主は手入れを怠っていたからな」

 

 

 

宗教を信じる人々が、自分の住むところ以外の世界を知らず、話しかける相手から何ひとつ学ぼうとしないのは、なんと悲しいことでしょう!

 

 

 

* トルコに語り伝えられる民衆文学のひとつ 『ナスレッディン・ホジャ行状録』 の主人公名。

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~『小鳥の歌 とても短い123の物語』 「王様のハト」 P21~

 

 

 

「まあ、さっきも言ったけど、ここら辺は非常にセンシティブな面があるから一概には言えないと思うけど、それでも頭の片隅のどこかで意識して対応を心掛けることが周囲からの誤解や偏見といったものから自分の身を守るためには必要な考え方だと僕は考えている部分があるかな」

 

「う~ん…お前が言っているは、つまりは郷に入っては郷に従えってことか?」

 

「そうだね、基本的には…ただ、ひねくれついでに言っておくと、もし自分が仮に新参者の立場に立つならば、相手から賢いと思われるよりはバカにされているくらいの方が丁度いいってことにもなるのかな」

 

「はぁ…」

 

「うつけ者とか、道化者とか?」

 

「またお前はいつもながらそういうことを平然と…」

 

「まあ、もちろんこの言い方はややブラックユーモア的で、まあ本心からそう思っているわけではないんだけど、それでも経験則から考えると、時と場合を踏まえるのは言わずもがなとしてもどちらかというと軽口を叩き合うことができるの環境の方が意外と諸々と濃い情報を得ることができるし、もっと言うと身の回りの環境の変化に関する情報を早い段階で得ることができるだけでなくてね…」

 

「あぁ」

 

「始めの方にも言ったことだけど、自身を取り巻くそういった身の周りの環境が変化して様々な作業の前提が変わった際にはその対応を変えることも後々必要になることを考慮すると、そういったときにはさっきも言ったうつけ者とか道化者的なキャラクターとして周囲から思われている環境の方が今までのやり方を変えることに対する抵抗を抑えることもできるかなって考えてるんだ」

 

「…状況が変わった際に今までのやり方に固執するリスクってやつか?」

 

「うん、こんな物語が参考になるかな?」

 

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どのような生き方をするのが一番よいのでしょう、と弟子が師に訊ねた。

 

 

 

師は、テーブルを作るようにと言った。

 

あとはテーブルに釘(くぎ)を打てば完成というときに師がやってきた。

 

 

 

弟子は釘一本を三回ずつ打って留めている。

 

 

 

ところが、ある一本の釘はなかなか打ち込めないので、弟子はもう一回打ちつけなければならなかった。

 

その最後のひと打ちのために釘が天板にめりこみ、ひびが入ってしまった。

 

 

 

「おまえの手は、金槌(かなづち)を三度打ちつけるのに慣れていたのだ」 と師は言った。

 

「どんな行動でも習慣となってしまうと、もとの意味を失ってしまう。 そしてそれが結局は損失を及ぼすことになる。

 

一つひとつの行動は、それぞれが独自にものである。 何をするにも行動が習慣にのっとられてはいけない」

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~『マクトゥーブ 賢者の教え』 P126~

 

 

 

「まあ、ここは難しいのだけど、郷に入っては郷に従えは確かに一面では真実ではあれども、人員が入れ替わるというイベントはある意味では組織や共同体としての環境が変わることになるわけで、何であれ既存の習慣化されたやり方を見直す良い機会ではある訳だから、そこで新人がある意味マクドナルド理論的な質問方法を用いることによって先輩方に敬意を払う形で既存の習慣化されたやり方を今一度見直す機会にすることが望ましいと僕は思っててね」

 

「あぁ…」

 

「例えば新人がボケて先輩がツッコむイベントを楽しむって意味でさ…で、ここは実はこの前も話したシステムズ・アプローチとも関連するんだけど…」

 

「わかった、わかった!…お前がその 「実は」 って言葉を言った後は、大概その次の話が長くなるから、その話はまた今度話そうな」

 

「え?」

 

「今日はもう仕事でクタクタなんだから、楽しい酒を飲んでストレスを発散しようぜ!」

 

「う、うん…」

 

「難しい話はまた今度な」

 

「わかったよ…」

 

「そう拗ねるなって(笑)」

 

「いや、別にそういうわけではないけど…」

 

「じゃあ、延び延びになっていた旅行の話でもするか?」

 

「そうだね、そうしようか!」

 

…と、A氏とB氏は改めて賑やかで心地よい居酒屋の雑踏をBGMにしながら、且つそのBGMの一部として楽しそうな会話を始めるのでした。

 

 


…などと(^-^;

 

#Dailyショートショート

 

 

 

 

 

そして今回創作した #Dailyショートショート の物語のテーマは 「習慣化の功罪」 だったのですが、この点に関しては正直まだまだ上手く言語化することが難しいと思っているところがあって今でも常日頃、事ある毎にその点について考えることを続けていますが、現時点で考えていることは、やはり言い古されている通り、基本的に 「習慣化すること」 は常に 「“目的” とセットである」 ということをきちんと理解しなければならないということです。

 

それは例えば、次の物語から窺い知ることができるかもしれません。

 

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何事においても、「最初」 というのは、一番大切、特に若者や幼い者にとっては大切だということは、だれもが認めるところだ。

 

なぜなら、この時期に性格が形成されるし、色に染まりやすいからだ…。

 

もしも不注意であったために、子どもが堕落した人から堕落した物語を聞くようなことがあったら、そしてこちらが望んでいるような考えではなく、それと正反対の考えが吹き込まれたら、いったいどうするのだ?

 

 

 

若いときに吹き込まれた考えを消すことはだれもできないし、変えることもできない。

 

だから子どもが最初に聞く物語が 「徳」 の規範的な話であることが極めて重要だ。

 

 

 

そうすれば、若者は健全な場所にとどまり、清らかな光景と音楽に包まれ、すべての面で素晴らしいものを受け取るだろう。

 

そして美も、真面目な労働も、純粋な場所から吹くそよ風のように、目や耳に飛び込むだろう。

 

その結果、幼いときから最高の理性に心を寄せる可能性が高まる。

 

 

 

これよりも高貴な訓練などは存在しないのだ。

 

 

 

-プラトンの 『国家』 より

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~『魔法の糸』 「はじめに」 PⅪ~

 

 

 

そう、これは 「広く “一般的な常識” とされている考え方」 だと思っていますが、幼い頃に 「徳」 にまつわる社会的、もしくは道徳的価値観に基づいた行動をすることを 「“目的” として “習慣化された” 行動規範」 を身につけるならば、私たちはその行動の結果として 「善い結果 ≒ 自分(& 属する共同体)を益する結果」 を享受することができる(筈だ)というものであり、再三再四になりますが 「習慣化すること」 は常に 「“目的” とセットである」 ということ、そして当たり前になりますが、その 「目的」 とは自分や自分の属する共同体に益するものが望ましいということとも同義だとも考えています。

 

加えて上記の物語には、もしそのような 「“理想的な” 行動規範」 を身につけることができない場合には 「将来的に私たちの人生に暗い影を落とす出来事が生じる」 ことも暗に示しており、そこにはやや頑なな、言い換えるのならば 「固定型マインドセット(Fixed mindset)」 とも言うべき思考パターンが見受けられ、ここは個人的にはあまり好きな考え方ではありません。

 

なぜならば個人的には、何であれ 「成長的知能観-努力した分だけ知能は伸びる」 を心掛けることができれば自分は必ず成長することができるという 「グロウスマインドセット(growth-mindset)」 の考え方の方に魅力を感じますし、その考え方こそが今まで 「人生脚本のUpdate」 をキーワードとして認めてきた幾つかのエントリーの論拠にもなるものでもあるからです。

 

 

加えて、 「固定型マインドセット(Fixed mindset)」 の更なるデメリットとして個人的に考えていることは、そこにはややもすると柔軟性の欠けた優性思想的な価値観が伴いがちだということであり、それが元で私たちの身の周りでは往々にして 「誰も幸せにならない出来事」 が生じることが見受けられるということです、悲しいことに…

 

ですから、できればある意味において何事にもマインドセット(≒思考パターン)は 「“善い” 方向 」にも変えることができるという 「グロウスマインドセット(growth-mindset)」 の考え方を内包している以下の物語を常に心に留め置くことは非常に大切なことではないかと考えているところでもあります。

 

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ある仏教の僧院の長は深く悩んでいました。 

 

かつては有名だったその僧院は、いまではすっかり零落(れいらく)していました。 

 

僧たちの修行はいい加減で、見習い僧は出ていき、一般の信者たちはどんどん別の僧院に移っていきます。 

 

僧院長は旅に出て、遠方の賢人に教えを請いました。 

 

せつせつと苦悩を語り、どんなに自分の僧院を変えたいと願っているか、そしてどんなに昔の栄華(えいが)を取り戻したいと思っているかを訴えました。

 

すると賢人は僧院長の目を見つめて言いました。

「あなたの僧院が衰退している理由は、ブッダが姿を変えてあなたたちのそばで暮らしておられるのに、あなたたちが彼を崇(あが)めていないからなのですよ」

 

 

 

僧院長はひどく動揺し、あわてて僧院に戻りました。

 

ブッダがわが僧院に!

 

いったいだれの姿を借りているというのだ?

 

ファか?

 

いいや、まさかあの怠け者のはずがない。

 

ポウか?

 

いいや、頭が鈍すぎる。

 

しかし、ブッダはわざと姿を変えておられるのだ。

 

怠け者やうつけ者のふりをなさっていても少しも不思議ではない。

 

 

 

僧院長は僧たちを集め、賢人の言葉を伝えました。

 

僧たちも非常に驚き、疑いと畏敬(いけい)の念を持って互いを見つめ合いました。

 

この中のだれがブッダなのか?

 

変装を見抜くことはできませんでした。

 

 

 

だれがブッダであるかわからなかったので、彼らはだれに対しても敬意を持って接するようになりました。

 

彼らの顔は内からの光で輝きはじめ、見習い僧を引きつけ、やがて一般信者もまた集まってくるようになりました。

 

まもなく僧院は、かつての栄華をはるかに凌ぐほど繁栄するようになりました。
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~『ラオ教授の「幸福論」』「必要なのは「発想の転換」」P25-26~

 

 

 

 

 

また、もちろん普遍的な 「徳」 を目的とした行動のみに拠らず、何であれ何らかの 「習慣化された行動パターン」 が自身の内に見出されるとき、定期的にその 「習慣化された行動パターン」 を振り返ることは非常に有用なことだと個人的には考えておりますが、特にそのような 「習慣化された行動パターン」 の振り返りの機会は組織において有効であることを以下の物語は示してくれていると、個人的には考えます。

 

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導師が毎夕、礼拝のために座るとき、礼拝所の猫がじゃまをして、信者たちの気を散らすのが常でした。

 

そこで導師は、夕べの礼拝の間、猫を縛っておくようにと命じました。

 

 

 

導師が死んでから永らくたったあとも、猫は夕べの礼拝中、相変わらず縛られ続けていました。

 

その猫がついに死ぬと、ほかの猫が礼拝所に連れてこられ、夕べの礼拝の間、当然のように縛られていました。

 

 

 

何世紀もたち、あらゆる正式な礼拝における猫の本質的役割についての学術論文が、導師の弟子たちによって書かれたのでした。

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~『小鳥の歌 とても短い123の物語』 「ヒンズー教(グル)の猫」 P101~

 

 

 

なぜならば、何であれ新しい組織に加わる特に新参者をはじめとした組織構成員は 「習慣化された行動パターン」 を 「きちんと “身につける” ために “その目的を理解する” 必要がある」 のですが、もしそれを 「なあなあで済ます」 のならば、次の物語が指し示すように、そこには悲劇しか待ち受けてはいないのでしょうから…

 

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仮説-

 

 

 

二人のハンターが飛行機をチャーターして、森へ飛んだ。

 

二週間後、飛行機が彼らを迎えにきた。

 

パイロットは彼らの獲物を一目見るなり、こう言った。

 

「この飛行機じゃ、バファロー一頭を乗せるので精一杯です。 残念ながらもう一頭は、おいていくことになります。」

 

「去年、同じサイズの飛行機だったが、乗せてくれたぜ。」

 

 

 

パイロットは納得できかねる風だったが、ついに 「去年、そういうことでしたら可能でしょう」 と引き受けた。

 

 

 

飛行機は三人と二頭のバファローを乗せて飛びたった。

 

だが高度を上げられず、そのまま近くの丘に激突した。

 

彼らは頂上に登り、周りを見渡した。

 

 

 

ハンターの一人が仲間に行った。

 

「どの辺りにいると思う?」

 

 

 

もう一人がよくよく周囲を見回して言った。

 

「去年激突した位置から、西へにマイルばかりのところだな。」

<<

 

 

~『蛙の祈り』 「ハンター、森へ飛ぶ』 P70~

 

 

 

 

 

とまれ、この変化の激しい時代の流れの中で、常日頃、事ある毎に何であれ身の周りの 「習慣化された行動パターン」 を見直すことを 「習慣化する」 こと、言い換えるならば、日々不易流行を意識することで本質を見抜く目と流行を感知する感性を磨くことを心掛ける姿勢を持つことが非常に大切になってきているのだと、改めて強くそう思う今日この頃です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたはこれまでに一度でも仕事を辞めることを夢想したことがあるだろうか。

 

大股でずかずかと上司のオフィスに入っていき、彼に(上司というのはたいてい男性だろう)、むかつくような彼の仕事ぶりについて自分がどう思っているかを洗いざらいぶちまける。

 

それをやってのけた後、デスクが並んでいる間の通路を、同僚たちの賞賛のまなざしを浴びながら、ぐっと顔を上げたまま、つんとすまして颯爽(さっそう)と歩いて、自分のデスクに帰ってくる。

 

そして、二度と戻ってこないみすぼらしい建物から、太陽が燦々(さんさん)と降り注ぐ新しい生活のなかへと、堂々と歩いていく。

 

そんな空想をしたことがあるだろうか。

 

 

 

もしこれが覚えのある空想だとしたら、この空想はあなたについてたくさんのことを教えてくれる。

 

まず、これがいちばん明白だが、あなたは間違った仕事についている。

 

第二に、まだその空想を実現していないのだから、あなたは臆病者だ。

 

第三に、もう少し言葉を和らげるとして、あなたには保証がない。

 

会社を辞められないのは、あれこれ負債を負っている-銀行ローン、家賃、子どもの教育費、借金、各方面からの請求書-にもかかわらず、返済できるだけの貯金がないからだ。

 

最後に、あなたは人口の六六パーセントに属している。

 

 

 

というのも、最近の新聞の調査によると、宝くじで一等賞に当選した人の三三パーセントが、それまでの仕事を続けている。

 

億万長者になるまで、彼らはごく平均的な勤め人だったのだと仮定すると、労働人口の約三分の一が、たんに金(かね)のためだけで働いているのではないということだ。

 

宝くじに投じる一人あたりの金額は社会の低階層のほうが多い。

 

また宝くじを買う人のなかには、すでに引退している人もいる。

 

それを考慮に入れたとしても、思いがけず大金が転がり込んできてもいまの仕事を続ける、と考えている人が労働人口の四分の一はいると考えていいだろう。

 

彼らは、大金が転がり込んでくるまで、じっと我慢して働いていたわけでは全然ない。

 

金を積まれても仕事を辞めない人たちだ。

 

彼らは働く必要がなくとも働き続ける。

 

そうなると疑問が生じる-いったい仕事とは何なのか。

 

 

 

いちばん古典的な定義は-あとで述べるようにマルクスはこれを根本的に変えてしまうが-、仕事とは労働を金と交換することである、というものだ。

 

金が関係してくるところではかならず、なんらかの力が割り込んできて、自然の流れを妨害する。賃金をもらわなくてはならないということは、逆にいえば、あなたが、できればゆっくり寝ていたい、あるいは釣りに行きたいということだ。

 

つまり、のんびりした時間への歓迎すべからざる介入を我慢することに対して、賃金という 「補償」 を求めるということだ。

 

「補償」 という言葉にはどこか奇妙な響きがある。

 

たとえば負傷の 「補償」 をしてもらう、というふうに。

 

だがこの言葉は仕事の中核にある概念をうまくとらえている。

 

それは “バランス” の概念だ。

 

労働と金が交換されるときにはかならず等価交換でなくてはならない。

 

この見方をすると、労働を買うことは、砂糖や封筒を買うことと何ら変わらない。

 

商品と貨幣の交換は、釣り合いがとれていて、公平でなくてはならない。

 

 

 

だが、労働人口の四分の一を占める、報酬があってもなくても働くという人たちの場合、そのバランスがくずれている。

 

四分の一というのはかなりの割合だ。

 

コメントしないで済ますわけにはいかない。

 

それも好意的なコメントと厳しいコメントを。

 

好意的に解釈すれば、この四分の一の人たちにとって、仕事は、金のための労働ではなく、もっと高貴なものだ。

 

彼らにとって、仕事とは、やりがいとか個人的実感を与えてくれるものだ。

 

そういう言い方をすると、なんだか彼らが自分のことしか考えていないみたいだが、最良の場合には、彼らは自分の仕事を、社会に 「何かを還元する」 とか 「おのれの分を尽くす」 とか 「世界をよりよくする」 ことだと見なしている。

 

彼らは、給料は受け取るが、彼らにとって労働は言わば慈善行為のようなものであり、道徳的義務感にもとづいて寄贈する無償の贈り物なのだ。

 

だから彼らは、他の調査が繰り返し報告している傾向を実地に証明しているだけだ。

 

その傾向とは、労働者は金銭的報酬だけでなく、機会の増大とか目的意識といった目に見えない利益をも求めるということである。

 

 

 

右のように書くと、彼らがぶりっ子みたいに見えるかもしれないので、厳しい見方もしてみよう。

 

彼らは、あなた方がうつむいてせっせと仕事をしているときに、デスクで口笛を吹き、パーティションの上からひょいと顔を出しては、満面に笑みを浮かべて 「やあ」 と言うような連中だ。

 

この種の人間は往々にして、大多数の、労働を等価の金と交換しているだけの、したがって労働の日々に対してハッピーな四分の一の人びとと同じような高尚な関係をもてないでいる人びとから、“反感” を買う。

 

だがそれはひとまず措(お)いておくことにして、彼らが嫌われるのにはもっと合理的な根拠がある。

 

すなわち、この不愉快な少数派は、何をやってもそれによって 「報われて」 しまうのだ。

 

彼らの場合、仕事は趣味であり、それに投じたエネルギーは二倍の収穫をもたらす。

 

一度投じたものを二度取り出せるのだから、市場は乱れてしまう。

 

彼らは自分の仕事の精神的価値を高め、それだけその仕事の金銭的価値を下げてしまうので、職場にこの手の連中がいると、わずかとはいえ、給与の上昇が抑えられ、同僚たちに迷惑がかかる。

 

 

 

だが、あなたが彼らに対して好意を感じようと反感をもとうと、このグループについて論じるのはこのへんにして、明らかに彼らよりも重要な、鐘形曲線(ベル・カーブ)の反対側に目を向けよう。

 

こちらのグループの場合、バランスがくずれているのは、当然もらえるはずの金額 “より少ない” 報酬しかもらっていないからだ。

 

重役たちは 「社員のみなさんこそがいちばんの財産です」 と口では言うが、仕事をしていると、ちゃんとギブ・アンド・テイクになっていないんじゃないかという気がしてくる。

 

一日じゅう鳥の羽をむしる、データを入力する、飛行機にスーツケースを積み込む、といった労働に対する報酬の額を考えると、自分が雇い主から尊重されているとはとても思えない。

 

皮肉なことに、「財産」 という言葉が示唆しているのは、現代社会でよく耳にするあの 「人材」 という奇妙な表現と同じく、肉体労働をしている者が、人間としてではなく、何よりもまず経済的価値の単位と見なされているということなのは明らかだ。

 

 

 

ここでカール・H・マルクス登場。

 

寄与した労働に対する過小報酬の別名は、遠慮せずにいえば、奴隷労働である。

 

つまり、投入したものよりも受け取るもののほうがずっと少ないということだ。

 

そういう状態について、マルクスは二つのきわめて重要な洞察をした。

 

もっとも重要なのは、それは経済的偶然のせいでも、生来の能力のせいでも、自然のなりゆきでもなく、特殊な社会的力関係のせいだ、という洞察である。

 

労働者がその労働に対して雀の涙ほどの報酬しか与えられず、そのためにいつまでも貧しいのは、それが本来の姿だからではなく、彼らが愚かだからでも、運が悪いからでも、人種的に差別されているからでも、怠け者だからでもない。

 

それはある原因の連鎖と関係があり、その連鎖を辿っていくと、彼らを犠牲にして裕福な暮らしをしている 「主人」 にいきつく。

 

その主人は労働に対して不当に大きな報酬を得ている。

 

いや実際、そもそも法外な報酬を得ているからこそ、主人としての力を獲得したのだ。

 

彼らが懐に入れる余分な金-高額な給料、莫大なボーナス-のことを資本という。

 

 

 

 

資本をめぐる議論は複雑で、まさに議論百出になりがちだが、そのいちばん底にあるのは、この 「不当に多い報酬を得る」 ということだ。

 

たとえ株や土地の姿をとっていようとも、資本とは要するに余った金のことである。

 

それゆえ、余っている金など一銭もない貧しい人びとにとっては、まさしく高根の花である。

 

差し迫った必要を満たしてはじめて、蓄えができるようになる。

 

 

資本は成長する。

 

イースト菌みたいに自分で自分を膨らます。

 

この魔法の成分を、資本家たちは貪欲に追及する。

 

労働者は、パンを食べていればいいのだ。

 

 

 

ここで事態はさらに悪化する。

 

というのも、資本が創り出す、金持ちと貧乏人との間の垂直方向の格差は、社会の階級格差となって現れる。

 

資本が社会をいくつもの階級に分断したにもかかわらず、階級格差がまるで自然の秩序であるかのように思われてくる。

 

言い換えると、私たちが 「階級」 と呼んでいるのは、経済的格差が蔓延していることの言い訳なのだ。

 

つまり、この格差はどうしても避けられないのだという、偽りの言い訳である。

 

なんだか絶望的な話のように聞こえるが、このことからマルクスは、補償と復讐の可能性を示唆する第二の洞察へと向かった。

 

すなわち、富者は貧者なしにはやっていけないのだから、貧者には隠れた力があるということだ。

 

 

 

主人と奴隷の関係についてのヘーゲルの考察、つまり主人は彼に支配されている者から主人と認められているかぎりにおいて主人でいられる、という考察から示唆を得て、マルクスはより根本的な真理を分離抽出した。

 

ひとりの人間の富は他の人間の貧困である、つまり富者は貧者に依存しており、役割を逆転させれば、貧者はある力を獲得するということである。

 

マルクスは労働者に、その力を浪費せず、活用するように、つまり自分の労働を安売りせず、欠かせないものとして提供することを勧める。

 

「生産手段を所有している」 のは労働者なのだから。

 

マルクスがヘーゲルから学んだもうひとつの教訓とは-歴史は真理という最終目標に向かって、彗星と同じく普遍の軌道を進んでおり、その真理とは、主人と奴隷がおたがいの目のなかに自分自身を発見し、自分たちが何ひとつ違わず、これ以上ないほどそっくりであることを悟ることである。

 

社会がこの次元に達したあかつきには、不平等の弟子は取り払われ、いたるところに共同体(コミューン)が浸透するだろう。

 

…共産主義国家…資本家たちの幼稚な実践は必ずやこれに屈服するだろう。

 

奴隷、すなわち労働力のかたまりは、彼らを縛りつけている鎖以外には失うものはない。

 

 

 

かくも明快きわまる公式を差し出されたら、資本は悪にしか見えてこないだろうし、労働は持てる者と持たざる者との乱暴な示談にしか見えてこないだろう。

 

 

 

 

いや、資本は悪ではないかもしれない。

 

それどころか、善の結実に他ならないのかもしれない。

 

少なくともこれがマックス・ヴェーバーの出した結論だ。

 

ヴェーバーは裕福な家に育ち、社会学という学問の基礎を築いた。

 

ヴェーバーにいわせれば、もし資本が、給料からさまざまな経費を引いた残りの金だとしたら、資本とは勤勉な労働の結実に他ならない。

 

裕福だと言って非難されるどころか、その金は自分の労働倫理を証明するものなのだから、賞賛されるべきである。

 

世の社長たちは、運がいいから社長になれたのではなく、懸命に働いたから社長になれたのだ。

 

ゼネラル・エレクトリック社の最高経営責任者だった、ジャック・ウェルチはこう言っている。

 

「働けば働くほど運が向いてくる」。

 

しかも、もし金曜の夜にバカ騒ぎをしなければ、やっとの思いで打ち込んだこの楔(くさび)があなたの禁欲主義に語りかける。

 

そこからヴェーバーは(彼の母親は敬虔(けいけん)なカルヴァン主義だった)、プロテスタンティズムとの親近性を指摘する。

 

ご存じのように、プロテスタンティズムは労働と禁欲という二つの美徳を強調する。

 

むろん、この二つの美徳が合体して効果的に金を生み出すというのは、なんとも皮肉だ。

 

というのも、金そのものはあいかわらず汚れたものと見なされている。

 

金はいわば麻薬である。

 

だから埋め、隠し、金庫に預けなくてはいけない。

 

金は金庫の暗闇のなかで価値を増していくだろう。

 

プロテスタントとは 「抗議する人」 という意味だが、何に抗議したかといえば、それはカトリック教会の 「見せびらかし」 、つまり芝居がかったやり方に対してだ。

 

芝居じみたことに対するプロテスタントたちの嫌悪感は金に対してもあてはまる。

 

実際よりも貧しいふりをして、働き続けるのがよいのだ。

 

会社でいちばんおとなしい連中が最後に笑うのだ。

 

 

 

そんなふうに考えてくると、「仕事とは金との単純な交換である」 という定義は単純すぎるように見えてくる。

 

「交換が不公平なせいで、私利を図る主人が二重構造を操っている」(マルクス)のか、それとも 「交換は公平だが、禁欲を学んだ主人たちが支配している」(ヴェーバー)のか。

 

かくしてマルクスもヴェーバーも 「権威」 とは何かという疑いを抱いた。

 

そこでヴェーバーは次に、職場における権威-あるいは 「リーダーシップ」 「指導者」 -とは何を意味するかについて考察する。

 

 

 

彼はその権威を三つのカテゴリーに分類する。

 

その三つのうち、「カリスマ的」 リーダーシップがいちばんよく知られているだろう。

 

現代の私たちはカリスマと聞くと、一部の人だけがもっている特別な資質を思い浮かべる。

 

 

しかし、ヴェーバーやその影響を受けた人びとにいわせると、カリスマには暗い側面がある。

 

カリスマというのは秘密の成分みたいなもので、ほしいものではあるが、つかみどころがなく、学んで身につけられる技術でもない。

 

 

ヴェーバーは言う-指導者のカリスマは、もって生まれた資質よりむしろ、指導される人びとが抱いている迷信的な憧れから生まれるのだ。

 

私たちはコーヒーの自動販売機のそばに集まって、ボスの噂話をする。

 

そのゴシップはますます、あのボスは特別なのだという感覚を強める。

 

私たちは、たとえ心の底では、彼が皿洗い機と同じくらい退屈な人間であることを知っていたとしても、つい、あのボスには神秘的なところがあると考えてしまいがちだ

 

 

それは、私たちが誰かにすがりたいと思っているからだ。

 

 

 

 

現代の職場により広くあてはまるのはヴェーバーのいう 「合理的・合法的」なタイプの指導者だ。

 

たしかに職種によっては、いまだにヴェーバーのいう第三のタイプ、すなわち 「伝統的」 権威をもった指導者がいる。

 

家族を守る父親とか、領地の民を守る領主みたいなタイプだ。

 

だがその性質からいっても規模からいっても、現代の産業において最も効果的なシステムは官僚制だ。

 

そこで 「合理的・合法的」 な指導者が必要になる。

 

官僚制における指導者は、カリスマ的な存在ではなく、有能な官僚であり、その権威を支えているのは個性ではなく規則である。

 

むろん今日、誰かが 「官僚制」 という言葉を口にするときにはかならず軽蔑の念がこもっているが、他の二つのタイプにありがちな権力の濫用が制限されているという点では、官僚制もそれほど悪いものではない。

 

息が詰まりそうだと感じるかもしれないが、民主主義と同じく、官僚制も、大多数の人びとの関心事を処理するという問題に対する解決策としては 「いちばん欠点が少ない」 かもしれない。

 

 

 

官僚制にはいくつかの特徴がある。

 

働いていればすぐに気づく特徴は 「序列」 だ。

 

もし組織に序列があるとしたら…それはカリスマによるのだはなく 「合理的・合法的」 理由による。

 

つまり、それは序列表の上で何人かの労働者を他より高い地位につけるためではなく…山積する仕事がいちばん効率的にさばけるのがピラミッド構造だからである。

 

いちばん単純な仕事はあまり熟練していない労働者でもできるが、ひとつ上の階層からの指示を必要とする。

 

その階層はまたひとつ上の階層からの指示を必要とする。

 

以下同じ。

 

たとえあなたが(マルクスのように)、これは階級差を強化するための密かな手段なのだと考えているとしても、序列制度というのは、軍隊の命令・統制の構造と同じく、指示の伝達が最速の構造であり、協議や議論を必要とする 「摩擦」(軍隊ではそう呼ぶ)を最小限にする。

 

下の者の意見が無視されるのは、情け容赦なくどんどんやってくる仕事を処理するためだ。

 

要するに、もしあなたが序列のトップからずっと下の方にいたとしても、あなた個人にその原因があるものだと考えてはならない。

 

 

 

もちろんビジネスの組織と軍隊との類似性はより希薄になってきた。

 

「人材」 はかつて 「人員」 と呼ばれていた。

 

今日、私たちは 「生きた組織」 とか 「組織DNA」 といった、より生体的な述語を使うようになってきた。

 

だが言葉が変わったからといって、仕事上の階層構造がなくなったわけではない。

 

現代において、この序列を強く擁護していたのはカナダの精神分析学者、組織理論家エリオット・ジャックス、そう、あの経営の導師(グル)だ…。

 

ただしジャックスは、序列を礼賛する前にまずチームという概念を批判する。

 

ジャックスは二〇世紀末の人間なので、チームワークさえあればすべてが解決すると盛んに言われた、第二次世界大戦後の職場の進化を冷静に振り返ることができた。

 

彼にいわせれば、チームワークと序列ほど相性の悪いものは他にない。

 

 

 

一見すると、チームというのはとても良いものに見える。

 

チームで働いた経験のある人は、自分がチームに属しているという心地よい感じを体験したかもしれない。

 

いや、あまりに心地よいために、組織全体よりもチームに対する忠誠心のほうが大きかっただろう。

 

チームは多種多様な才能を発掘し、活用する。

 

チームには、リベラルな民主主義の拡大、人権の確立、少数派への参政権の拡大、福利厚生の普及など、外の世界の進歩が反映されている。

 

いずれも文句なく良いものだ。

 

さらに、政治問題などを論じるために召集される少人数のグループを意味するフォーカスグループが生まれ、メンバーそれぞれが自分を表現できるような集団療法(グループ・セラピー)が生まれるところも、外の世界に似ている。

 

「チーム」 はそうした西洋的な価値にどっぷり浸かっているので、「序列」 を賛美することはまるでファシズムに投票することのように見なされている。

 

このように 「チーム」 は、独裁制に対する戦後の嫌悪感を一語で表現しているが、いちばんわかりやすい譬えはスポーツだ。

 

ビジネス用語のなかでも、スポーツの比喩がいちばん広く浸透している(「陣営を立て直す」 とか 「オフサイドにならないように」 とか)。

 

スポーツ用語を使うと、本当は大して魅力的ではない仕事が魅力的に見えるようになるばかりか、「団結心」 が高まり、そのおかげで仕事が早く片づくという効用もある。

 

職場のチームが、強いスポーツ・チームと同じように活発に活動すると、各人は思うままエネルギーを出すことができる。

 

以上に述べたすべてのことから、チームは職場において神聖不可侵のものになっている。

 

上司に向かって 「私はチームの一員ではありません」 と言ってみたまえ。

 

クビになる日も遠くないだろう。

 

 

 

エリオット・ジャックスにいわせると、そうした全般的な長所にもかかわらず、チームはその公約を果たすことはできない。

 

チームが出しうる能力は、個々人の能力の総計を下回る。

 

それは主に、努力が数人に分散されるために、責任が拡散し、役割分担が曖昧(あいまい)になってしまうからだ。

 

チームのなかでは、個人は隠れることができる。

 

全員に責任があると同時に、誰にも責任がない。

 

会議の後、結局、誰が何をやるのかがはっきりしない。

 

相互理解が得られたとしても、肝腎の仕事が片づかない。

 

仕事を効率的にやるためのチームのはずなのに。

 

さらに悪いことに、試合がないときにでもチームは解散しない。

 

そのおかげで、チームの存続のために仕事を創り出すことになる。

 

 

 

そうした傾向に対して、ジャックスは序列の導入を提案する。

 

組織の存在理由が、社交的な環境を提供することではなく、仕事を処理することだとしたら、いちばん効率的なのは組織を上から下へと貫いているパイプを使って仕事を割り振ることだ。

 

ボスは、どの階層に責任があるのかがすぐにわかる。

 

どの階層も仕事を適切に 「引き受ける」。

 

引き受けるということは片づくということだ。

 

チーム内で仕事が明確に配分され、特定できるリーダーがいるならば、チームも悪くない(この意味では、チームと序列という二分法は誤りだ)。

 

序列は政治的でも社交的でも心理的でもなく、ある組織が必要とするひとつの形式にすぎない。

 

ボスは鬼の面を脱ぎ捨て、仕事がさまざまな階層を経ていくのを思慮深く保証する、ただの管理者になる。

 

「組織」 とは、労働力を組織化するのではなく、仕事を組織化するものであり、いったん仕事が適切な場所に落ち着けば、あとはスムーズに事が運ぶ。

 

 

 

残念ながら、そんなにスムーズに事が運ぶ組織はほとんどない。

 

序列によって提供される骨格がないからではなく、組織をつくっているのが生身の人間だからである。

 

組織は人間と歴史と慣習から成り立っているから、階層間を仕事が上がったり下がったりするだけというわけにはいかない。

 

骨格の上にそうしたさまざまな要素がまるわりついているために、私が 「組織内政治」 と呼んでいるものがある。

 

その結果、仕事をするためには、公式の規則と非公式の現実、建前と本音、職業上の鋭い洞察眼と盲目的感情との、奇怪な組み合わせを乗り越えなくてはならない。

 

私は先に 「報酬」 という語を用いたが、この語はまさしく仕事のこうした側面のみを指している。

 

というのも、組織内政治に伴うありとあらゆる馬鹿げたことに耐えるなど、なんらかの報酬がなくてはやっていられない。

 

というわけで、ぐるりと一周して、仕事とは何か、適正な報酬とは何かという問題に立ち戻る。

 

 

 

じわじわと進行してきたサービス経済化に対する、マーガレット・サッチャー元首相の有名な言葉がある-洗濯物を引き受けることは誰にでもできます。

 

服だって誰かが作らなくてはならないのです、と。

 

しかしサービス経済、あるいは 「知識」 経済が、そのような言葉に耳を傾けたとは思えない。

 

次の世代には、サービス経済がすっかり定着してしまった。

 

ビジネスの世界で、洗濯に相当するのは 「コンサルティング」 かもしれない。

 

公共の領域では「共同作業」 だろう。

 

製造業ですら 「顧客関係重視の経営」 という義務から逃れられなかった。

 

たとえば自動車メーカーはその事業計画に関する 「出資者」 とその影響力を雇わなくてはならない。

 

いずれの場合においても、仕事とは何か、どうして誰もかもが報酬を受け取れるのか、それを突き止めることは難しい。

 

仕事の主な形態は 「話す」 ことだ。

 

雇用というのは手(耕す、種を蒔く、刈り取る、乳を搾る、作る、直す、切る、縫う、磨く、持ち上げる、運ぶ)を雇うことだと信じている人にとっては、話をするだけで給料をもらうというのはなんとも奇怪であり、不公平だとすら思える。

 

いやそれどころか、会社での実際の活動のほとんどは、もはや話すことですらなく、メールのやりとりだけだったりする(メールを書くだけでなく、削除する、再送する、撤回する、など)。

 

労働者だっておしゃべりをしたり、家に電話したり、お茶を入れたり、トイレに行ったりするが、そのうちに、自分が仕事らしい仕事をどれくらいしているのだろうかと自問するようになる。

 

ある経営雑誌がおこなった調査によると、アメリカの労働者は、一日に三〇分は、仕事をするために何かを探しているという。

 

「仕事をする」 ことと 「職場にいる」 ことは重なるが、全面的に重なるわけではない。

 

 

 

しかしながら、正体不明の空間に向かって宇宙船のように突入していくことはもはや避けられないのかというと、そうでもない。

 

おそらく私たちは、フランスの社会史家ミシェル・フーコーが 「認識論的断絶」 と呼んだものの入り口に立っているのだろう。

 

「パラダイム・シフト」 とも似ているが、認識論的断絶は歴史の分岐点であり、そこでは世界を見る新しい枠組みができあがりつつある。

 

カール・マルクスが、階級闘争の歴史として歴史の枠組みを作り直したのは、そうした断絶の一例だろう。

 

現在のような重大な資源危機(燃料、水、食糧)は、仕事がますます抽象的になっていくというこれまでの流れを堰(せ)き止めることになるだろう。

 

そうした基本的なものの価格が上昇するにつれ、サービスに払う金額は減少し、私たちはふたたび 「現実的なもの」 に目を向けるようになる。

 

それは仕事をするということに対しても影響を及ぼすだろう。

 

自分たちが作っている物の 「付加価値」 よりむしろ基本的な価値を示さなくてはならなくなるだろう。

 

先のことはわからないが、おそらく仕事はもっと基本的な形へと戻っていくだろう。

 

つまり、ただ話すだけではなく、もっと素朴な労働、すなわち干し草を束ねるとか、船体を鋲(びょう)で留めるとか、靴下の穴を繕(つくろ)うといった仕事が増えるのではなかろうか。

 

~『ソクラテスと朝食を 日常生活を哲学する』「4 Being at work  仕事をする 」P58-74~

>>

同じ頃、そこから五百キロメートルも遠く離れたところで、実はぴんぴんしていたホアキンは、嘘をつかれ、あんなに素敵な家に家事まで出されて、そこまでしてただ一人の若者を救った意味があったのかと考えていたのだった。

それでいいのだ、と思うと、豚の骨を人骨と間違えた村の警察のことを思い出して、笑いが込み上げてきた。



新しい大工工場は前のものよりも少し控えめだったが、もうその村に名を知られていた。

その名も、大工屋「八」といった。

<< P55

 

 

僕のお気に入り 『寓話セラピー 目からウロコの51話』 (ホルヘ・ブカイ著) の中の 「一念発起のわけ」 の一節。

 

 

 

 

 

改めてになりますが、先日のエントリー 『現実に影響を与える適応力向上のためにできること ~「現実, 常識, 真理」についての再考~』 でも述べたように、最近は、以前に 『人生のかけら:ver3.0 ~<情報編集力> を用いた “上級スキル”~』 でも述べたことがある試みの習慣化の一環として、Twitter上で #Dailyショートショート とする物語(ショートショート)の創作を日々続けて言いますが(最近はペースダウンしているものの…)、個人的にこのような物語(ショートショート)創作の際に意識していることの1つは、異なる2つの 「物語」 なり 「視点」 でも、その底に流れる共通のキーワードに関して自分が思い至るものを 「テーマ」 とするということにおいて、 様々な 「物語から教訓を得ること」 により 「現実で活かすことができる(新しい)知恵や技」 ともなる新しい考え方なり行動様式を 「“現実的に実践すること” を “可能にする”」 ために、つまり、以前に認めたことがある 『スーパーストラクチャー:まだ協働していない二つ以上のコミュニティの結びつき:ver2.0~適応~』 のエントリー内の「適応力を高めるために拡張すること」 を意味する 「スーパーストラクチャ―」 という考え方を参考にして実践しているものです。

 

 

 

そしてそれは、そのようにして得ることができた 「現実で活かすことができる(新しい)知恵や技」 は必ずや 「まだ解決策が見つかっていない問題で、適応が必要なチャレンジと呼ばれる “適応を要する課題” の解決に役立てること」 ができる筈だと、個人的に考えているからです。

 

 

 

 

 

…ということで、本日も物語(ショートショート)の創作に取り組んでいたところ、以下のような物語を綴ることができました...

 


 

 

 

 

 

「ねぇ、おかしいと思わない?」

 

二人で観ていたテレビから流れるニュースに思うところがあったらしく、彼女は思い立った疑問をA氏に向けるのでした。

 

「おかしいって何が?」

 

「このニュースのことよ! この犯人は明らかにあんな悪いことをしているのに、この犯人にも弁護士がついて、場合によっては罪が軽くなることもあるのよね?」

 

「そうだね」

 

「でもそんなのおかしいって思わない?」

 

「その口振りだと、君はこの犯人が重罪を受けるべきだって思ってるって聞こえるけど?」

 

「えぇ、そうよ? だってそういう報道をしてるじゃない?あんなのって言い訳の余地があるはずないじゃないの!?」

 

「…そうだね、まあ、確かにこの報道を見る限りはそう思うこともできるかな」

 

「ね、あなたもそう思うでしょ?」

 

「えぇと…君がこのニュースを見聞きしてそう思うことに対しては、僕は特に否定はしないけど…」

 

「…いつもながら、何か含みのある、いやらしい言い方をするわね?」

 

「まあ、このニュースが事実を告げていて、この犯人の動機もがニュースの通りだとした場合には君が思うようにそうなるけど、少なくとも今の僕にはこの2つが正しいという確証がないから、僕はこの犯人に対して君が抱いているような負の感情を現時点では抱かないかな」

 

「…それはつまり、このニュースがウソを言っているってこと?」

 

「いや、そうは言っていないよ?…でも今僕らが得ている情報ではその可能性は…ウソとは言わないまでも間違っている可能性が否定できないし、この犯人を悪人と断定することはできないってことになるんじゃないかなってこと?」

 

「そんな…でも、ニュースを疑ったりしたら何も信じることはできなくなるんじゃないの?」

 

「いやいやいや、それは飛躍し過ぎだよ…ただ今回のように例え身近ではない人だったとしても、少なくとも誰であれ他人を悪人や犯人、もしくは罪人と断定するのなら、自分がきちんとそれに足る情報を得てからにしないと、逆に自分の格と言うか、品格が賤しくなるから気をつけた方がいいよって言いたかったってこと」

 

「…何それ? 私の品格が賤しいって言うの!?」

 

「いやいや…だから、今言ったことを踏まえて、最近はフェイクニュースなんて言葉も注目を集めてきているように自分が得ている情報に対して先ずはその真偽を確かめると言った情報リテラシーを磨く必要があるし、もしそうする習慣がないと、簡単に自分がリスクを負うような立場に立たされる…ある意味トラップがそこかしこに仕掛けられてるから気をつけた方がいいよってことですよ…」

 

「…そうなの?」

 

「そうだねぇ、残念ながら…その点に関しては、例えばこんな物語があるんだ」

 

>>

百名の木材切り出し労働者が半年のあいだ、森のなかで労働に従事した。

 

彼らの料理、洗濯を担当するために、二人の女性が同様に半年間働いた。

 

半年後、二人の男が二人の女性と結婚した。

 

地方紙は、男性の二パーセントが女性の百パーセントと結婚したと報じた。

<<

 

 

~『蛙の祈り』 「男の二パーセント」 P319~

 

 

 

「これは数字の見せ方、もしくは物語の背景によっては数字のトリックって言ってもいい物語だし…」

 

「…」

 

「あとは…」

 

>>

ドクター 「この足の痛みは年のせいですね。」

 

患者 「バカにせんでくれ、もう一方の足も同い年なんだ。

<<

 

 

~『蛙の祈り』 「この足の痛みは年のせい」 P322~

 

 

 

「これは権威ある人がさももっともらしいことを述べても、そこにはそれが必ずしも正しくない可能性があることを皮肉ったジョークでね」

 

「えぇ…」

 

「どちらかというと 「自分が目にしたり耳にする情報が必ずしも正しくない可能性があること」 を面白おかしく学ぶことができる物語だと思ってるし…」

 

「えぇ」

 

「例えば、次の物語は英雄譚に関してさえも、その物語の真偽に関して一考することの大切さを気づかせてくれる物語だと僕は思ってるんだ」

 

>>

ひとりの長老が死を悟り、若者を呼び寄せてある英雄の話を語って聞かせた。

 

その英雄は、戦いのさなかにある男を逃してやったそうである。

 

 

 

彼は男を休ませ、食べものを与えてかくまってやった。

 

もうすぐ安全地帯に入ろうというとき、男のほうは恩人を裏切って敵の手に渡してしまおうと決めたという。

 

 

「で、あなたはどうやってそこから逃げ出したのですか?」 と若者は訊ねた。

 

 

「わたしは逃げてはいない。 わたしはもう片方のほう、裏切った男なのだよ」 と長老は言った。

 

「だが、あのときの英雄があたかもわたしであったかのごとく話をすると、彼がわたしにしてくれたことの意味が理解できるのだ」

<<

 

 

~『マクトゥーブ 賢者の教え』 P119~

 

 

 

「個人的にはこれはレ・ミゼラブル的な意味合いを持った物語でもあると同時に、今回の話の流れではこのような英雄譚ですら、そこには疑う余地のある物語でもあり、妄信することを戒めることの大切さを教えてくれる物語だとも思っていてね」

 

「そうねぇ…」

 

「まあ、ここは本当に難しいところだと思ってるんだけどね…なぜなら、ある意味では 「人は見たいものしか見ない」 という言葉が真実であることを示す例には枚挙に暇がないからね」

 

「…」

 

「…と、あんまり真面目でシリアスな話をしてから締め括ると暗~い気持ちを引きずるか、または時折あるような君からの容赦ないツッコミが飛んで来そうだから、今日は先手を打っておくことにしようかな」

 

「え?」

 

>>

ある弟子が自分のことを打ち明けて言った。

 

「実は、わたしにはゴシップを繰り返す悪い癖があるんです。」

 

 

 

すると師は、からかい半分にこう言った。

 

「ゴシップを繰り返すだけなら、そんな悪いことにはならんじゃろう。

 

その腕を磨くのならば別じゃが…。」

<<

 

 

~『沈黙の泉』 「26-ゴシップ」 P48~

 

 

 

「そう、ここは定義にもよるけど 「ゴシップ」 という言葉は情報リテラシーとは切っても切り離せないものでもあることをきちんと理解することは、自分の身を守ることにも繋がると僕は考えてるし、そのことを表現している “まるで魔法のように 簡単に 広まってく噂話 偏見を前に ピュアも正義もあったもんじゃない仕方ない どうしようもない そう言ってわがまま放題大人たち” と歌う Official髭男dism の 「ノーダウト」 という曲は名曲だとも思ってるよ」

 

「何か…頭が痛くなってきたわね…」

 

「あら? …なら、実はさっきの裏切り者の英雄譚に関してはもう少し面白い話があるんだけど口直しに聴いてみる?」

 

「…いえ、あなたとは基本的に面白いの定義が違うから…余計に頭が痛くなりそうな気がするから、また今度にしておくわ」

 

「…そう、ホントに面白いのに? そうは言ってもゴシップでも扱い次第では…って話なんだけど?」

 

「結構です!…それならいっそ気分転換に少し散歩しながら買い物でもしてくるわ!」

 

「そっか、うん、行ってらっしゃい!」

 

「はいはい、まったく…」

 

そう言って心なしか疲れた背中を見せつつ買い物に出かける彼女を見送るA氏なのでした。

 

 

 

…などと(^-^;

 

#Dailyショートショート

 

 

 

 

 

そしてこのような物語(ショートショート)の創作という習慣を続けてきて思っていることに関しては以下のエントリーで、その考えを述べた次第です。

 

『人生脚本』の効果的なUpdate方法① ~怒りへの考察:対話へ通じる道?~

A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

 

>>>>
そしてここ3カ月弱の間にこのような物語(ショートショート)の創作という習慣を続けてきて思うことは、その前提として誰かから評価されることを目的としないのならば意外と物語を創作すること自体は難しいことではないですし、特に 「自分の思ったことや気がついたこと」 を物語の中のキャラクターに話をさせることで、その話の内容についてやその言葉遣いについて、また、語感やイメージ(濃淡・強弱・ポジネガ)などをある程度は第三者視点で客観視することができることから、「自分の思ったことや気づいたこと」 に対する考えをもう一段深めることができるに留まらず、その話から得ることができるまた違ったベクトルの連想やインスピレーションといったもの(もちろんここに関してはややセレンディピティ的な部分もありますが…)が、前向きなフィードバックとして有効活用することができるということです。

 

言い換えるならば、『『人生脚本』の効果的なUpdate方法と、それが「もたらすであろう未来」へ目を向けること』 でも述べたように、このブログのメインテーマの1つにもなりつつある 「人生脚本のUpdate」 について、メタファーではなく実際に 「“脚本 ≒ 物語” の創作」 を習慣化することが 「自分の価値観の確立」 や 「適切な自己効力感の修得」 の助けになると考えていますし、そのようにして成長する事でいわゆる 「大人」 になることができるのならば、パートナーをはじめとした様々なステークホルダーと共に 「(自分 “たち” の)明るい未来を切り拓くための行動」 を実践することができると、個人的には強くそう思うところです。

 

『人生脚本』の効果的なUpdate方法と、それが「もたらすであろう未来」へ目を向けること

A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

 

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ですから、改めてになりますが、引き続き 「積極的に行動することで経験を積み重ねてからその経験への考察を書くこと」 を、つまり自分の 「人生脚本のUpdate」 を常に意識すると共に、それが言わば 「自分の価値観を確立することで適切な自己効力感を用いて行動することができる “大人”」 として、自分が属するコミュニティーの歴史の中に身を置くことで 「個人とコミュニティーの共存共栄を図ることを可能にする目標達成のための行動を取ることを意味する “大人の嗜み” を実践すること」 を心掛けること、つまり、先人たちの実践知の恩恵を受けると共に、それらをも踏まえた自らの実践知をも将来に届けるという 「秘伝の継承」とも言うことができるメタファーで表される姿勢を心掛けることにも相通じる、「(自分 “たち” の)明るい未来を切り拓くための行動」 にも繋がっているということをきちんと認識することで日々の積み重ねを実践していきたいと、改めて強くそう思う今日この頃です。

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そして今回創作した#Dailyショートショート の物語のテーマは 「情報リテラシー」 だったのですが、この点に関しては以前も 『『「時と兆し」を洞察する方法』~情報リテラシーに基づいて「選択する」ということ~』 のエントリーでもその有用性を述べたことがありますし、この 「情報リテラシー」 は今後、私たちが特に身につけることを意識すべきとも言える 「洞察力」 にも繋がると、個人的には考えている次第です。

 

『人生脚本』の効果的なUpdate方法② ~洞察力の身につけ方/鍛え方:定石を覆す?~

 
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「非常に流れが早く、且つ、価値観の変遷が流動的で変化が多いことから先行きを見通すことが困難な 「激動の時代」 においては、私たちの目の前には今までの 「問題定義」 では解決し得ない 「新たな定義が必要な問題」 が多々立ち塞がるために 「臨床的直観力」 を駆使してそれら 「新たな “問題定義” が必要な問題」 を解決することが必要になるわけですが、その 「新たな “問題定義” を行なう」 ためには私たちの社会が 「人間は社会的動物である」 という前提を踏まえた「社会構築主義」 を考慮することで、先ずは社会の構成員である私たち個人個人が各々の 「人生脚本」 について真摯に向き合うことが必要になる」 という前提の元で、洞察力を身につけて、且つ日々洞察力を鍛える必要があるとも、個人的には考えている次第です。

 

『「時と兆し」を洞察する方法』~情報リテラシーに基づいて「選択する」ということ~

 
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もちろん、ここからは改めて私見であることを強調した上で述べていきたいのですが、今現在、特にこの 「洞察力」 を身につけることの重要性を殊更に強調しなければならないのは、今現在の私たちが置かれているのが先行き不透明な 「激動の時代」 だからこそとも言えるからであり、それは即ち、今まで自分たちが学んできた、そして正しいこととされてきた 「科学に基づく知識」 だけでは未来予測が困難になっていることが増えてきているに留まらず、私たちに受け継がれてきてはいたものの今までは軽視されがちだった 「栄枯盛衰」「歴史は繰り返す」 といった古来の考え方を再考することが正しいのではないかという疑問が増えてきたことにより、個人的にも本ブログ内で 「読書習慣」 シリーズとして認めてきた様々な 「先人の知恵」 について、改めてきちんと学び直す必要性があることが求めらてきているからなのだと、個人的には強くそう思う次第です。

 

 

 

そしてこれは至極当たり前なことですが、それらには過去においてはまだ 「科学的知識」 の発展の陰に隠れてしまっていたが故に今現在は 「スピリチュアル」 な印象を抱かれがちではあるものの、改めてきちんとそれらに向き合い、且つ正しい知識をつけることができるならば、それらは科学の法則に則った説明が可能なものとして形を変えて、今後は私たち未来に恩恵を与える有益な知識にもなり得るのではないかと、個人的には強くそう思っているところです。

 

そう、それらはおそらくは、これも私たちに受け継がれてきている 「温故知新」 という、古いものをたずね求めて新しい事柄を知る、という考え方が強力にサポートしてくれることなのでしょう。

 

 

 

ですから引き続き、自身の情報リテラシーを強く意識することで情報収集に努めるべく、読書を通じて先人の知恵を学ぶだけに留まらず、それらを温故知新の観点から、自身の望む 「明るい未来」 を形作ることができるような選択肢として加えることができるように知恵を働かせる習慣を身につけることを意識しながら、日々一歩一歩と歩みを進めて行きたいと、改めて強くそう思う今日この頃です。
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加えて、厳密にはこの 「情報リテラシー」 は 『『人生脚本』の効果的なUpdate方法④ ~“真実” の物語を “読み聞かせる”ということ~』 のエントリーでも述べたことがあるように、証拠や合理性ではなくて 「そうあって欲しい」 とか 「そうだったらいいな」 という希望に影響されて判断を行う 「希望的観測」 や、もしくは厳しい現実に適応するべく自分の価値観に照らし合わせてきちんと情報を判断することを可能にするある種の信念に拠って立つものでもあると、個人的にはそう考えているところでもあります。

 

『人生脚本』の効果的なUpdate方法④ ~“真実” の物語を “読み聞かせる”ということ~

 
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以上が 映画 『怪物はささやく』 の内容に関する情報になりますが、ではなぜ自分がこの 「物語」 に惹かれたのかを改めて考えてみますと、この物語が過去に自分が認めてきたエントリー 『【自問自答】自分は真実を受け入れる強さを身につけているのだろうか?』 で述べたことがある、私たちが往々にして抱きがちな 「現実と向き合うことを妨げてしまうこと」 を助長する 「希望的観測」 や、『現実に影響を与える適応力向上のためにできること ~「現実, 常識, 真理」についての再考~』 のエントリーでも紹介したことがあり、個人的に大のお気に入りでもある 「真実を売る店」 の物語に相通じるところがあるからなのだと、個人的にはそう考えているところです。

 

 

 

そして改めてになりますが、なぜ私たちにはこのような類いの 「物語」 が必要なのかということを考えるならば、私たちは厳しい現実と向き合うことで自らを成長させる 「強さ(≒適応力)」 を身につける必要がありますが、「現実的には」 それがとても難しい行為でもあるのだということをきちんと理解すること、そしてもし厳しい現実に負けてしまい心に傷を負ってしまうことがあったならば、例えば 「有用な寓意を秘めている様々な “物語”」 を身の丈に合った方法で教え諭されることで 「“今の” 自分に必要な強さ(≒適応力)」 を身につけることができるなど、様々な癒やしの方法があるのだということをも学ぶことで心の状態をニュートラルに保ち、目の前の現実を受け容れることで歩みを進めることを心掛けることが求められるからなのでしょう。

 

もちろん、それは非常に困難を伴うことではあるとは言え、それは同時に、そのような 「困難を “乗り越える” というイベント」 の一つ一つが私たち個人個人の人生を豊かに彩るものでもあるのだという心構えで人生を歩むことが大切なのだと、個人的には改めて強くそう思う次第です。

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以上を踏まえて、改めて今回のテーマでもある 「情報リテラシー」 と個人的な物語創作という取り組み #Dailyショートショート を併せ眺めてみると、この物語創作という取り組み自体が 「情報リテラシー」 の向上に役立っている部分があるのではないかという考えに至った次第です。

 

それは、最近は物語創作という取り組みに加えて、その取り組みをサポートしてくれるサイトに関して #Dailyショートショート と共に #short_tips としてタグ付けすることを試み始めていますが、子どもや若者向けの科学推理小説を著した著者が本の舞台となる世界を創り出す時に使った質問と手法を学ぶことができる、非常にためになる動画サイト(TED Talk)『Kate Messner- How to build a fictional world』 において、物語の中の架空の世界であっても、その世界を支配するルールや歴史、そして登場人物の行動パターンや彼らの世界への向き合い方等々、言わばその世界の成り立ちや構成(要素)を考えることの大切さを学べますが、その考え方はそのまま現実世界においても展開できる考え方でもあるということです。

 

もちろんこの考え方は、このブログでも度々キーワードとして述べている 「システムズ・アプローチ」 にも相通じるものでもありますので、この視点において目の前の情報を眺めることによって、私たちがいわゆる 「常識」 と呼ばれる眼鏡をかけて得ることができるものとはまた違ったひらめきを得ることができますし、それを用いることで何であれ新たな問題解決手法の構築に役立てることができるのだとも考える次第です。

 

そう、言い換えるならば、この 「システムズ・アプローチ」 はあまり聞き慣れない言葉でもありますが、目の前の問題は独立して存在しているのではなくシステム内においてお互いに影響を及ぼしながら存在をしていることや、私たちが基本的に関係性の中で日常を過ごしていること、言わば 「人間は社会的動物である」 という前提を踏まえた「社会構築主義」 の観点から考慮するならば、改めてこの 「システムズ・アプローチ」 は何であれ新たな問題解決手法の構築に役立てることができると考えますし、物語創作という取り組みは、その 「システムズ・アプローチ」 の考え方を身につける、もしくは何であれ目の前のシステムの構成を理解するための良い訓練にもなり得るのではないかと、最近はそう考えているところでもあります。

 

そして、もしそのようにしてきちんと自分が関わるシステムの構成を理解することができるのであれば、目の前の問題を引き起こしている一因ともなっている 「変数」 を見定めて対応することによって…例えばそれは物語創作の取り組みによって磨くことができた仮説構築力を用いて問題の対応に当たるとも言い換えることができますが…新たな問題解決手法構築の基盤を固めることにも繋がるのでしょう。

 

 

 

ですから、引き続き現実的な問題解決力Upにも繋がる 「システムズ・アプローチ」に関する知見を深めるべく、日々の物語創作という取り組み( #Dailyショートショート / #short_tips)を続けていきたいと、改めて強くそう思う今日この頃です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もともと不器用なくせに、何か手伝ってやろうとするとそれすら嫌がる奴らって何なんだよ、全く!」

 

僕は不満をぶつけた。

 

 

 

太っちょは座りなおして、そして話しはじめた。

 

 

 

 


それは町外れにある小さなぼろ屋だった。

小さな工場を向かいに持ち、家は二部屋と台所、それに質素なお風呂場が裏手にあるだけだった…。

それでもホアキンは不平を言わなかった。

この二年間で大工屋 「七」 の名は村でも知られるようになり、食べていくのには困らなかったからだ。

 



その日の朝、いつもどおり六時半に起きて、日の出を見に湖に向かった。

ところが家から二百メートル程のところで、ひどく傷ついた若者が倒れているのを見つけた。

急いで近寄り若者の胸に耳を近づけると…血と垢と酒にまみれてきつい匂いを放つ体の奥の方から、残された命を保とうと闘っている心臓の鼓動が、弱々しく聞こえてきた。

 



ホアキンは手押し車を持ってきて、若者を家まで運んだ。

ベッドに若者を寝かせ、服を割いてから石鹸と消毒液を使って丁寧に体を洗ってやった。

若者は酔っている上にひどく殴られたようだった。


いたるところに切り傷があり、右足は骨折していた。



それから二昼夜、ホアキンは降ってわいた来客の看病に追われた。

傷口に包帯を巻き、折れた脚を固定し、鳥のスープを小さなスプーンで口に運んで、介抱しつづけたのだった。



若者が目覚めたとき、ホアキンはその横で優しく、でも心配そうに彼を見ていた。


「どうだい?」


ホアキンは聞いた。



「大丈夫・・・だと思う」


若者はそう答えながら、きれいに介抱されている自分の体に目をやっていた。


「誰が俺を看てくれたんだ?」


「僕だよ」


「どうして?」


「君が怪我をしていたから」



「ただそれだけで?」


「まあ、助手も欲しかったところでね」


そして二人とも勢いよく笑った。

 

 


よく食べ、よく眠り、酒も控えたマヌエル-若者の名前はそういった-はすぐに体力を取り戻した。

ホアキンは彼に仕事を教えようとしたが、マヌエルはありとあらゆる口実を作ってはそれを避けようとした。

自堕落な生活で怠け癖のついた彼に、定職につき、善良な人間として、誠実に生きることがどれだけよいことであるかを、ホアキンは何度も何度も教え込もうとしたのだが、マヌエルは毎回いったんは分かったかのように見えても、少しするとまた眠りこけたり、任された仕事を投げ出したりしてしまうのだった。



数か月が過ぎ、マヌエルはすっかり元気になった。

ホアキンは彼がきちんと働くという約束の代わりに、よい方の部屋を与え、商売も一部任せ、一番風呂まで譲っていた。



ある晩マヌエルは、酒を絶って六か月にもなるのだから、一杯やったって何てことはないだろう、とホアキンが寝静まるのを待って村の飲み屋へ抜け出すことにした。

万一ホアキンが起きてくるといけないので、念のため内側から鍵をかけ、部屋にろうそくを灯したままで窓から外に出た。

 

 


一杯飲むと、もう一杯だけ、あともう一杯だけ…結局次から次へと酒に手が伸び…。

 



他の酔っ払いどもといい気分で歌っていると、飲み屋の前をサイレンを鳴らした消防車が通り過ぎた。

そのときはたいして気にもとめなかったが、明け方、千鳥足で帰ってきた家の前に人だかりを見つけ、そこで初めて気づいたのだった…。

 



焼失を免れたのは壁の一部と、工場にあった機械と工具だけ。
 

残りはすべて焼きつくされていた。

ホアキンの姿は見当たらず、焼け焦げた数本の骨が発見された。

そのわずかな骨は埋められ、上に建てられたお墓にはマヌエルの頼みでこう刻まれた。
 

「やるぞ、ホアキン、俺はやるぞ!」

 

 

 

 

 

苦労の末マヌエルは大工屋 「七」 を再建した。

怠け者だが腕はよかった彼は、ホアキンから学んだことを生かしてその商売を引き継ぐことができた。


いつもどこからかホアキンが見守り励ましてくれている気がして、結婚式、妻の出産、と大事なときにはいつもホアキンのことを思い出していた。



同じ頃、そこから五百キロメートルも遠く離れたところで、実はぴんぴんしていたホアキンは、嘘をつかれ、あんなに素敵な家に家事まで出されて、そこまでしてただ一人の若者を救った意味があったのかと考えていたのだった。

それでいいのだ、と思うと、豚の骨を人骨と間違えた村の警察のことを思い出して、笑いが込み上げてきた。



新しい大工工場は前のものよりも少し控えめだったが、もうその村に名を知られていた。

その名も、大工屋「八」といった。

 

 

 

 

 

 

「生きているとね、デミアン、時として大事な人すら助けてあげられないこともある。そうは言っても、苦労してでもやる価値があることといえば、それは人助けだ。 これは “道徳的” 義務でもなんでもない。 人が生きていくうえで、その時その時に選んでいく選択肢の中のひとつにすぎないんだ。 私は今までの自分の経験や、周りの人たちを見てきたことによって、自由で自分をよく知っている人というのは、寛容で優しさにあふれ、そして与えることと受け取ることをどちらも同じくらい気持ちよくこなしているのだ、と思うようになった。 だから、自己満足している奴らに出会っても憎んではいけない。 そういう人たちは自分自身のことだけですでにいっぱいいっぱいに違いないのだから。卑しい、浅ましい、ちっぽけな行動を君自身がとっていると気づいたら、そのときは逆に、自分の中で何が起きているのか考えなおしてみるいい機会なんだ。 どこかでとるべき道を間違えてしまっているに違いないから。 以前、こんなことを書いたな。

 

 

 

神経症患者には必要ない。

 

治してくれるセラピストも

 

世話をしてくれる父親も。

 

 

必要なものは

 

どこで道を間違えたか

 

教えてくれる先生だ。
 

~『寓話セラピー 目からウロコの51話』 「一念発起のわけ」 P52-56~

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有名な話だが、ソクラテスは「吟味(ぎんみ)されない人生は生きる価値なし」と断言した。

 

また彼は演説より対話を好んだから、彼と話してみると、あなたは自分自身や自分の行動について深く考えることになるはずだ。

 

その結果、あなたの人生により大きな意味が見出せるだろうし、おこないをあらためようと決意するかもしれない。

 

そうなれば、あなたの人生に欠けていた「意味」が生まれるはずだ。

 

 

 

ヘーゲルとベーグルを食べても、ベーコンとベーコン・エッグを食べても、同じように豊かな朝食になるだろう。

 

これまで哲学では、針の先にはどれくらいの数の天使が乗れるか、とか、人間と神の違いは何か、をめぐって、恐ろしく激しい議論が闘わされてきたけれど、哲学の目的は、学者たちに難問を課すことではなく、私たちみんなが知恵を探求するのを手助けすることだ。

 

何しろ「哲学(フィロソフィー)」という言葉の本来の意味は、知恵(ソフィー)を愛する(フィロ)ということだ。

 

「知恵」というのは「頭がいい」のとは違う。

 

頭がいいというのは、たとえば抽象的な議論で勝つことにすぎないが、知恵はもっと実用的なもので、日常生活でさまざまな謎に直面したときに適切な判断を下せる能力のことだ。

 

その意味で、哲学というのは、いま現実に生きている生活がじつは一筋縄ではいかないことをいかに自覚するかという学問であり、きっとソクラテスは、神は存在するか否かといった問題ばかりでなく、さっきトーストとマフィンを運んできてくれたウェイターにチップをいくらやるべきかという問題にも関心を示すはずだ。

 

 

 

著者はこの本で、先例に従って、歴史上の偉大な思想(哲学だけでなく心理学や社会学や政治学も含めて)が、自分がどんなふうに生きているか、とか、どうすれば自分の人生に対してもっと思慮深くなれるか、といったこととどう関係しているかを示そうと思う。

 

どうすれば倫理的に行動できるか、とか、どの政党に投票すべきか、といったテーマを詳しく論じた本はすでにたくさんある。

 

だがこれまでの本は、専門用語で書かれていることを別にしても、大思想をいわば神棚に奉っている。

 

この本の狙いは、それを日常生活のなかにしっかりと根づかせることだ。

<< P2-3

 

 

僕のお気に入り『ソクラテスと朝食を 日常生活を哲学する』(ロバート・ロウランド・スミス 著) のなかの「はじめに」の一節。

 

 

 

 

 

改めてになりますが、現在小学3年生になる息子の育児に関わる日々の中での様々な息子とのコミュニケーションや、その息子を介したパートナーとのコミュニケーションを通じて、そしてそれらに触発されて得ることができた考えを巡らすことによって辿り着いた数々の考察を「育児日記」として綴るだけではなく、それら考察を更に発展させて更に得ることができた着想に関してをこうやってブログとしても綴って認めていくことも続けておりますし、『「理想的な “親” の育児ポリシー」 とは?:主体性の引き出し ~ “期待する” ということ』として幾つかのエントリーも認めてきているところです。

 

 

そして、日々の基本的な育児ポリシーとして最も大切なことの1つとして心掛けていることが「(子どもの)主体性」を尊重するということであり、例えば『なんで?:ver2.0』のエントリーでも述べたことがあるように「(子どもの)好奇心を育むこと」を心掛けているところではあるものの、何であれそう言うことができますが過ぎたるは猶及ばざるが如しという言葉にもあるように、物事には何事においても節度を意識した行動をすることも併せ教えること、言い換えるならば「(状況に応じて節度を意識することができる)躾をすること」が親としては必要になるということを頭では理解しているものの、それを自身の育児において適切に実践することがこんなにも難しいことなのかということを痛感する日々を過ごしているところでもあります。

 

なぜならば「好奇心」はこれまでも述べてきているように、子どもが周囲の環境に強い関心を持つことにより積極的な行動を起こすことで様々な知識を身につけたり必要な関係性を構築することを強力にサポートしてくれる強力な武器にもなる一方で、「“度を越した”好奇心」は好奇心は猫を殺すとも言われることがあるように、そもそも好奇心には厳密に言うならばそのメリットとデメリットがもたらす効果が「個性や環境(風土)との相性」に左右されがちな両刃の剣的な性質を内包しており、「好奇心に関わる躾」に関してはその取り扱い方如何によっては容易にダブルスタンダード(二重規範)になり得てしまうからであることから「親としての躾の在り方」に関しては親として細心の注意を払う必要があるのだと、個人的には常々強くそう思っているからです。

 

躾 ≒ 健全な良心を発達させること:建設的に “超自我” を確立するために

A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

 

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と言うのも最近頓に考えることとして、確かに誰もが主体的な行動を実践することを可能にする 「自己効力感」 や、その土台ともなる自分自身の存在に対して肯定的な感情を言い表わす 「自己肯定感」 は非常に大切な感情であり私たちが充実した実りある人生を歩む上では必要不可欠なものではあるものの、何であれ “過剰に在ることを戒める” こととして 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」 という言葉もあるように、これらの言葉が最近非常に脚光を浴びるようになってきたことから残念ながらそれらが “適切に” 扱われることなく 「謝った “万能感” ≒ 幼児的万能感」 や 「過信」 といったものとしてデメリットを生じさせるような場面を見聞きすることが増えてきましたし、自分自身も親としてそれらの扱い方を誤って息子と接してしまっていたのだと、そう反省しているところです。

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つまり、ここで述べている「好奇心が内包するデメリット」とは「謝った“万能感”≒幼児的万能感」を子どもにもたらしてしまうと言うべきことでもあり、それは以前のエントリー『「理想的な “親” の育児ポリシー」その②: ~「黒い羊」との向き合い方~』でも触れたことがある、子どもにとって必要なものではあるもののその扱いが難しい「(子どもが)自由を求める空気」や「(子どもの)反抗心」にも繋がるもので「黒い羊」で表されるメタファーでもあるのだと個人的にはそう考えている次第ですし、そこでも紹介した「かわいそうな羊たち」という物語はこの「好奇心が内包するデメリット」だけに留まらず、先にも述べた「好奇心に関わる躾の在り方」如何によっては容易にダブルスタンダード(二重規範)になり得てしまうその理由を端的に示している個人的な最もお気に入りの物語の1つでもあります。

 

「理想的な “親” の育児ポリシー」その②: ~「黒い羊」との向き合い方~

A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

 

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昔々、羊飼いの一家がいた。

 

たったひとつの飼育場で羊を育て、世話をして放牧していた。

 

 

 

ときどき、羊たちが逃げ出そうとすることがあった。

 

そのときはいつも一家の最長老が羊のところまで行ってこう言うのだった。

 

「無責任で傲慢な羊たちよ、お前たちは危険だらけの外の世界を知らないのだ。 ここにいるから水と食料の心配もなく、狼からも守られているのだぞ」

 

 

 

ふだんはこれだけ言えば羊たちの “自由を求める空気” は治まっていた。

 

 

 

ある日、変わった羊が生まれた。

 

黒い羊と言っておこう。

 

その羊は反抗心が強く、柵を越えて自由へ向かって飛び出そうと仲間に呼びかけていた。

 

 

 

長老が羊たちを訪れる回数は次第に増えていった。
 

それでも羊たちは落ち着かず、羊飼い一家は放牧の度に小屋に戻す作業に手間取った。

 

 

 

とうとうある夜のこと、黒い羊が仲間を説得して、すべての羊たちは逃げ出した。

 

羊飼い一家がそれに気づいたのはもう夜が明けたあとだった。

 

小屋は壊され、空っぽになっていた。

 

一家全員、長老のもとへ駆け込んだ。

 

「逃げた! 逃げたぞ!」

 

「かわいそうに…」

 

「お腹がすいたら?」

 

「喉が渇いたら?」

 

「狼が出たら?」

 

「私たちなくしてどうなるんだろう」

 

 

 

長老は咳払いの後キセルを一服くゆらせてからこう言った。

 

「そのとおりじゃ。 我々なしで一体どうなることじゃろう。 しかしもっと悲しむべきことは…羊なくして我々はどうなるのじゃ」。

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~『寓話セラピー 目からウロコの51話』 「かわいそうな羊たち」 P138-139~

 

 

 

そう、ここで描かれている 「黒い羊」 は 「①-1 自由を求める空気」 や 「①-2 反抗心」 のメタファーでもありますし、その対象は長老の言うところの 「水と食料の心配もなく、狼からも守られている飼育場」 であり、これは 「②-1 危険だらけの外の世界から “守られている安全な場所”」 であると同時に 「②-2 “自由” が “制限 ”された場所」 というメタファーでもあります。

 

そして、「飼育場」に対する 「“黒い羊” と “長老” の “見解の相違”」 こそが、この物語の “肝” なのだと、個人的には考えています。

 

つまり、長老は 「守るべき羊たち」 に 「安全な場所を提供している」 ことから、その 「“安全” を “担保する” ため」 に、羊たちにとって 「自由が制限されること」 は、言わば 「“当たり前” だという認識」 を持っているのに対して、「外の危険性に “思い至らない” 黒い羊」 は、「自由が制限されることは “おかしい”」 と考えており、そこに 「お互いの “すれ違い” がある」 わけだったのですが、そこからお互いに 「打ち解ける努力」 をしなかったために、「最悪の展開を迎えてしまった」 ということです。

 

言い換えるならば、もしお互いが 「それぞれ “自分の行動の根拠”」 をきちんと説明して 「膝を付け合わせること」 によって、「お互いの “すれ違い”」 を埋めるための努力をしていたのならば、物語の結末はまた違っていたものになっていたことでしょう。

 

なぜならば、「黒い羊」 も 「長老」 も、「一面では “個々の意見” としては正しいこと」 をそれぞれの観点から述べているものの、今回の物語の “肝” としては、その 「お互いの “すれ違い”」 や、その 「“すれ違い” を埋める努力を “放棄していること”」 が焦点として当てられているからです。

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また、この「黒い羊」に対して異なる視点から眺めた際に別の表現で言い表すことを考えてみたとき、そこには「日常と非日常」というキーワードを見出すことができるのではないかと、個人的には考えています。

 

なぜならば「地道な営み」というメタファーでもある「日常」という言葉はよくよく考えるならば「退屈」というメタファーにもなり得ますし、それに相対する「非日常」という言葉には「魅力的」や「刺激的」ではあるものの「刹那的」というメタファーでもあることを踏まえたとき、この「“日常”を軽視しがちで且つ“非日常”に強い関心を示しがちな黒い羊」を「“適切に”飼いならすこと“こそ”」が、私たちが「日常」において時に前向きに取り組む姿勢を維持することに対して困難を感じることから生じる現実逃避から逃れ、「地道な営みを積み重ねることによって“大きな実り”を得るための行動を実践すること」を強力にサポートしてくれることにも繋がり得ると考えることができるからです。

 

そして上記に関しては今までも『日常を過ごす≒積み重ね』や『日常を過ごす≒積み重ね:ver2.0』、それから『何のために?』などのエントリーにおいて自分の考えを述べてきましたが、加えて下記の物語も「日常」の大切さ、つまり何であれ「実り」を得るためにはそれに応じた「日常を過ごすこと」の大切さを述べている非常に優れた物語の1つなのだと、個人的にはそう考える次第です。

 

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パディーの果樹園のスグリやクロフサスグリやアカフサスグリは味といい、収穫量といい、最高でした。

 

果樹園は三とおりありました。

 

パディーは毎日、鍬(くわ)を持って三つの果樹園を見てまわり、せっせと雑草をぬきました。

 

雑草に栄養分を横取りされないので、パディ―の果樹園では毎夏、みずみずしい果物がたわわになりました。

 

 

 

でも果樹を上手に育てるパディーは子育てが苦手のようでした。

 

パディーの二人の息子はそのあたりいちばんの怠けものとして知られていました。

 

二人は一日中、お酒を飲んだり、おいしいものを食べたり、友だちと無駄口をたたいたりして過ごしていました。

 

二人とも、父親をてつだうために指一本、動かしたことがありませんでした。

 

ときがたつにつれて、パディーは息子たちの怠けぐせが心配でなりませんでした。

 

「わたしが死んでしまったら、うちの果樹園は雑草だらけで果物がならなくなるだろう」とパディーは近所のひとたちを相手に嘆きました。

 

「わたしの息子たちは飢え死にしてしまうにちがいない。」

 

 

 

村から少し離れたところに小さな洞穴がありました。

 

この洞穴に深い知恵の持ち主として知られている隠者(いんじゃ)が住んでいました。

 

パディーは息子たちのことでなやみになやんだあげく、この隠者をたずねました。

 

隠者はパディーの言葉に耳を傾けた後、長い白ひげを撫(な)でさすりながらしばらく考えこんでいましたが、やがて立ち上がってパディーの肩をたたき、「安心なさい。息子さんたちが働きものになるように、わしが計らってあげよう」と言いました。

 

 

 

隠者は洞穴を後にして二人の若者をたずねました。

 

「大事な話があるんだよ。おまえたちのお父さんの果樹園にはすばらしい宝物が埋まっている。それを見つければ、おまえたちは一生、食べるものにも、着るものにも、不自由しないだろう。」

 

 

 

それは九月のことで、二人の息子はクリスマスまで毎日、果樹園を掘り返して宝物を探しました。

 

金貨のいっぱい入った壺(つぼ)でも出てくるかと望みをかけていたのです。

 

 

 

クリスマス・イヴがきましたが、宝物は見つかりませんでした。

 

二人は隠者のところに出かけていき、よくもおれたちをだましたなとなじりました。

 

 

 

「だましたわけではない」と隠者はにこにこ笑って答えました。

 

「探しつづけなさい。宝物は来年の九月までに必ず見つかるよ。」

 

 

 

二人の息子は、とても信じる気になれないと答えました。

 

 

「だったら、取り引きをしようじゃないか」と隠者は言いました。

 

「九月になっても、食べるものや着るものに一生、困らないだけの金が手に入らなかったら、わしが弁償してあげよう。しかし宝物が見つかったら、その半分は村の貧しいひとたちに分けるようにしなさい。」

 

 

 

二人の息子は取り引きに応じることにして果樹園を耕しつづけました。

 

木々のあいだの地面が掘りかえされるのを見て、パディーは大喜びしました。

 

おかげで雑草が生えなくなったからです。

 

こうして夏の半ばには果樹園の木々はまた大きな実をたわわにつけました。

 

 

 

隠者は二人の息子に言いました。

 

「どうだ、宝物が見つかったようじゃないか?」

 

 

 

二人ははじめ、隠者が何を言っているのか、わかりませんでした。

 

けれどもまわりを見まわし、重たそうにしなっている木々をながめて、ハッとしました。

 

それからの数週間、隠者は息子たちといっしょに果物をつみました。

 

息子たちは収穫した果物の半分を市場で売り、半分を貧しいひとたちに分けあたえました。

 

 

 

二人の兄弟は毎日、果樹園でせっせと働きました。

 

そして毎年、収穫したものの半分を売り、半分を貧しいひとたちに分けあたえました。

 

おかげで隠者が予言したように、彼らは一生のあいだ、食べるものにも、着るものにも不自由しませんでした。

 

(R・ヴァン・ド・ワイヤー『ケルト族につたわるたとえ話』から)

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~『世界中から集めた 深い知恵の話 100』「15 ほんとうの宝物」P51-53~

 

 

 

 

 

ですから特に子育てにおける「躾」においては、子どもが好奇心を発揮することにのみ焦点を当てるのではなく、そのベクトル(方向性や加減)をも意識することが大切だということを併せ伝えること、つまり「黒い羊を飼いならすこと」において「日常」より豊かにすることによって地道な営みの積み重ねの先にある大きな実りを得ることができるような日々を歩むことが大切なのだと、個人的には改めて強くそう思う次第です。

 

 

 

 

 

加えて最近頓に思うこととしては、この「黒い羊の飼いならし方」は何も子育てにおける「躾」に留まらず、家庭をはじめとした組織全般に関して重要であると言うことができるのではないかということですが、それはどのような組織であれその成長維持において必ず行われる新陳代謝の際には「黒い羊」が生まれるからであり、その「飼いならし方」如何で組織の今後の方向性が決定すると言っても過言ではないと考えることができるからです。

 

そしてこの点に関してやや大仰な表現をするのならば『『人生脚本』のUpdateにおける重要事項は?①:「治療的ダブルバインド」と「分かち合いの精神」』でも述べたことを発展させて、個人個人の枠に留まらない「組織(≒コミュニティ)における『人生脚本』のUpdate」において「黒い羊の飼いならし方」とも言うべき「治療低ダブルバインド」の実践が必要になることにも繋がるのではないかと、個人的には強くそう思う次第です。

 

『人生脚本』のUpdateにおける重要事項は?①:「治療的ダブルバインド」と「分かち合いの精神」

A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

 

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つまり、言い換えるならば、私たちが手にしている 「自分以外の著者による、“私たち個人個人の”(初期の)人生脚本」 には、その性質上/構造上、「“呪い” のダブルバインド」 が高確率で含まれていることを 「“意味する” こと」 は避けられない事実ですし、それがすなわち、「自分以外の著者(親、周囲の関係者、文化)」 が 「“悪意” から “呪い” のダブルバインドを著した」 とは “必ずしも” 言えないということをも 「きちんと “理解すること”」 が大切であり、だからこそ 「Aをやってもダメ、Bをやってもダメ!」 という “呪いのダブルバインド” を、「AをやってもOKですし、BをやってもOKで、いずれの行動も、あなたの未来において “益をもたらす”ことでしょう」 という “治療的ダブルバインド” とする 「人生脚本のUpdate(≒成長)」 が必要になるとも言うことができるからです。

 

 

 

加えて、そうすることにより私たちは 「親子間の確執」 や 「世代間の確執」 において端を発する様々な悲劇に起因する問題の 「解決の糸口」 を見出すことができるようになりますし、そうすることによって日々の生活を安定したものとして日々を積み重ねて歴史を刻んでいくことになるだけでなく、やや大仰な表現をするならば、それこそが正に 「(私たちが)生きる意味において最上位に位置づけられるものの1つでもある」 と言っても差し支えないのだと、個人的に考える次第です。

 

 

 

ですから、日々積極的に前向きな行動に取り組む姿勢で様々な経験をすること、及びその経験を定期的に振り返ることで 「人生脚本のUpdate」 を意識すること、そしてその際は 「AをやってもOKですし、BをやってもOKで、いずれの行動も、あなたの未来において “益をもたらす”ことでしょう」 という “治療的ダブルバインド” を意識することにおいて 「考え方を変える(≒成長する)」 ことが大切なのでしょう。

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以上を踏まえて、いつもながら「よくもまあここまで!」と言うほどには「綺麗事」「ポエム」の類を滔々と述べてきたわけになりますが、それはこれらの考え方が大切だということを重々承知してはいるものの、理想を掲げて且つその理想を実現するための行動を日々心掛ける必要があると同時にその継続的実践がとても難しいものでもあり、その過程で様々な試練に会うことが常でもあるのだということを踏まえつつ、だからこそこうやって繰り返し繰り返し、自戒の意味も込めてこのような文章を綴っている次第です。

 

「理想的な “親” の育児ポリシー」その⑤: ~リマインドの精神→ライト、ついていますか?~

A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

 

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ですから、改めてになりますが、「躾」 や 「道を説く」 という行為において、理想を掲げてその理想を実現するための行動を日々心掛ける必要があると同時にそれは実現することがとても難しいものでもあり、その過程で様々な試練に会うことが常であるのだということを踏まえつつ、それは誰しもが同様であることから、もし相手が同じように理想的な姿どころか欠点だらけに見えて、且つそのことで自分が仮に迷惑をかけられたとしても、それでも相手に寄り添ってそれらを赦すことで相手への 「親切な対応」 を心掛けることが望ましいのだということ、加えて、現代のような世の中の価値観の変遷が流動的で変化が多い 「激動の時代」 においては 「親切な対応」 を心掛けることが 「“特に重要になる” 可能性」 があるのだと個人的には考えていますし、この考え方は是非とも息子にも身につけて欲しい考え方だと 「親」 としても強くそう思うところではありますが、その 「伝え方」 においてはきちんと 「親子の関係性」 や 「親子双方の価値観」 を考慮して対応することによって、健全な子どもの自主性を育むことを意識して 「お互いが望む未来」 に向けて歩みを進めることが必要になるのだと、改めて強くそう思う次第です。

 

そしてそれを実践することができるのならば、親として極端な権威主義に走って子どもの自立を妨げてしまったり、放任主義の名の元に子どもの傲慢さを図らずとも助長してしまうという愚を犯すことを防ぐことができるようになるのだとも考えているところです。

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そしてもしかしたら、このような習慣(振り返り&文章を綴ること)を身につけることこそが、子どもの(そして親自身の)価値観における「倫理観」を育むことによって将来的に「道」を踏み外すことを避け、その結果として自分自身の身を守ることにも繋がる方法になるのかもしれないな(≒そうだったらいいな)、などとも考えている次第です。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

 

 

ギリシアの哲学者ソクラテスは、国家によって死刑を宣告され、毒をあおいで死んだ。

 

それを考えると、ソクラテスから朝食に誘われても、あなたは二の足を踏むかもしれない。

 

でも彼が殺されたのはその好奇心のせいだ。

 

だとしたら、いっしょに朝御飯を食べるには最高の相手ではないか。

 

ソクラテスは大勢の人を質問攻めにして怒らせたために、口を封じられたのだ。

 

彼の精神は鋭く、満足することを知らず、発明創意に富んでいて、「法の目的は何か」といった問いから、「男女の性別はどこから来たのか」といった問いにいたるまで、ありとあらゆることに疑問を投じた。

 

彼のいちばん有名な弟子であるプラトンは、師匠を「馬にうるさくつきまとう虫」と形容した。

 

なるほど。

 

もしソクラテスといっしょに、カプチーノとクロワッサンの置かれたテーブルについたら、彼はいきなり「きみはどうして今みたいな生活をしているのかね」とか「きみには人間としてどんな価値があるのか」と訊いてくるかもしれない。

 

彼に死刑を宣告した国家と同じように、きっとあなたはむかつくだろう。

 

でも彼の質問につき合ってみたら、素晴らしい内面探求の旅に連れていってくれるかもしれない。

 

天才と狂気が隣り合わせなのはなぜか、とか、宇宙は霊魂からできてるというのはどういうことか、などを説明してくれるだろうし、あるいはもっと個人的なレベルで、幸福でいるより善良でいることのほうが重要である理由を挙げてくれるかもしれない。

 

有名な話だが、ソクラテスは「吟味(ぎんみ)されない人生は生きる価値なし」と断言した。

 

また彼は演説より対話を好んだから、彼と話してみると、あなたは自分自身や自分の行動について深く考えることになるはずだ。

 

その結果、あなたの人生により大きな意味が見出せるだろうし、おこないをあらためようと決意するかもしれない。

 

そうなれば、あなたの人生に欠けていた「意味」が生まれるはずだ。

 

 

 

ヘーゲルとベーグルを食べても、ベーコンとベーコン・エッグを食べても、同じように豊かな朝食になるだろう。

 

これまで哲学では、針の先にはどれくらいの数の天使が乗れるか、とか、人間と神の違いは何か、をめぐって、恐ろしく激しい議論が闘わされてきたけれど、哲学の目的は、学者たちに難問を課すことではなく、私たちみんなが知恵を探求するのを手助けすることだ。

 

何しろ「哲学(フィロソフィー)」という言葉の本来の意味は、知恵(ソフィー)を愛する(フィロ)ということだ。

 

「知恵」というのは「頭がいい」のとは違う。

 

頭がいいというのは、たとえば抽象的な議論で勝つことにすぎないが、知恵はもっと実用的なもので、日常生活でさまざまな謎に直面したときに適切な判断を下せる能力のことだ。

 

その意味で、哲学というのは、いま現実に生きている生活がじつは一筋縄ではいかないことをいかに自覚するかという学問であり、きっとソクラテスは、神は存在するか否かといった問題ばかりでなく、さっきトーストとマフィンを運んできてくれたウェイターにチップをいくらやるべきかという問題にも関心を示すはずだ。

 

 

 

著者はこの本で、先例に従って、歴史上の偉大な思想(哲学だけでなく心理学や社会学や政治学も含めて)が、自分がどんなふうに生きているか、とか、どうすれば自分の人生に対してもっと思慮深くなれるか、といったこととどう関係しているかを示そうと思う。

 

どうすれば倫理的に行動できるか、とか、どの政党に投票すべきか、といったテーマを詳しく論じた本はすでにたくさんある。

 

だがこれまでの本は、専門用語で書かれていることを別にしても、大思想をいわば神棚に奉っている。

 

この本の狙いは、それを日常生活のなかにしっかりと根づかせることだ。

 

だからこの本では、私はさまざまな天才たちをあの世から呼び戻す。

 

彼らは、仕事に出かけるあなたについてくるだろう。

 

スポーツジムに行けば、社会史学者のミシェル・フーコーがあなたと並んで走りながら、あなたが日課にしているエクササイズがじつは国家による統制の一形態であることを説明してくれるだろう。

 

精神分析家のジャック・ラカンはショッピングについてきて、あなたが試着室の鏡を眺(なが)めている間、そばでナルシシズムの危険について解説してくれるだろう。

 

仕事中は、カール・マルクスが、賃金労働者を辞める方法を耳打ちしてくれるだろう。

 

マキャヴェッリはパーティーを成功させるコツを教えてくれ、カール・シュミットは同居人との喧嘩はかならずしも悪いものではないと諭(さと)してくれ、ブッダは風呂のなかで眠ってしまう方法を授けてくれる。

 

毎日の朝の儀式について、あるいはテレビで何を観るかについて、彼らが自説を展開するのを聞くうちに、あなたは彼らの思想が少しわかってくるはずだ。

 

あなたは彼らの思想に魅了されるかもしれないし、ちょっとおかしいと感じるかもしれないが、いずれにせよ、彼らの思想は、あなたが日々をどう過ごすかに深く関わっている。

 

 

 

もちろん、みんながみんな、かならずしもこの本のようなパターンで毎日を過ごすわけではないだろう。

 

毎日セックスをする人ばかりではないだろうし、両親とランチを食べるのは-ひょっとすると「ありがたいことに」-年に一度くらいのものだろう。

 

私は3章で、一七世紀の政治思想家トマス・ホッブズに登場してもらい、どうして朝の通勤は私たちの内部に眠っている奴隷根性を起こすのかについて説明するが、自宅で仕事をしている人は、その章で述べるような通勤地獄とは無縁だろう。

 

また、「こういう章がほしかったのに」という読者もいるはずだ。

 

本書の続編を書くとしたら、「学校へ子どもを迎えに行く」「精神療法家の面談を受ける」「教会に行く」「残業で徹夜する」といった章を入れることになるだろう。

 

だが本書で述べた経験はどれもみなさんがよく知っているものばかりであり、したがって、それらについて新たに考え直すための道具をみなさんはすでにおもちのはずだ。

 

 

 

偉大な思想家たちの大思想だけを扱った本ではない。

 

私自身の考えも述べるし、音楽、絵画、映画、文学、さらには水の結晶に関する驚くべき日本の実験にも触れる。

 

「医者にかかる」の章では、痛みについてのまじめな研究だけでなく、世界一面白いジョーク(とされているもの)にも触れる。

 

「夕食を作って食べる」の章では、フランスの人類と並べて、料理にまつわるデカダンスをテーマにしたピーター・グリーナウェイ監督の映画『コックと泥棒、その妻と愛人』にも言及する。

 

要するに、日常に一条の光を投げかけ、ユーウツな暮らしにユーモアをもたらし、タイクツな繰り返しにカイケツをもたらすような材料なら何でも使う。

 

古いものも、新しいものも、借り物も、エッチなものも(「セックスをする」の章ではポルノグラフィについて論じる)。

 

 

 

「吟味されない人生は生きる価値なし」というのが本当だとしたら、「いずれそのうちにこのテーマについて勉強しよう」などと考えていないで、いますぐ吟味してみようではないか。

 

何しろ私たちの人生の九九パーセントは日常なのだから、「日常を生きている間には考えず、あとからゆっくり考えよう」と思っても、そのときにはほとんど時間は残っていない。

 

思い切っていま考えてみれば、服を着るとか、眠りに落ちるといった、一見するととるに足らないことの背後に、とても大事なものを見つけることができ、それを新しい光の下で見られるようになるかもしれない。

 

~『ソクラテスと朝食を 日常生活を哲学する』「はじめに」P1-5~

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「息子よ」

 

父親は言った。

 

「飛ぶためにはな、翼が十分広がるための空間が必要なのだ。 パラシュートで降りるのと同じだ。 ある程度の高さが必要なんだ。 飛ぶためにはまず危険を冒してみなければならない。 それが嫌なら、諦めて一生歩きつづけるのがまあいちばんかもな」

<< P106

 

 

僕のお気に入り 『寓話セラピー 目からウロコの51話』 (ホルヘ・ブカイ著) の中の 「翼は飛ぶためにある」 の一節。

 

 

 

 

 

改めてになりますが、先日のエントリー 『現実に影響を与える適応力向上のためにできること ~「現実, 常識, 真理」についての再考~』 でも述べたように、最近は、以前に 『人生のかけら:ver3.0 ~<情報編集力> を用いた “上級スキル”~』 でも述べたことがある試みの習慣化の一環として、Twitter上で #Dailyショートショート とする物語(ショートショート)の創作を日々続けて言いますが(最近はペースダウンしているものの…)、個人的にこのような物語(ショートショート)創作の際に意識していることの1つは、異なる2つの 「物語」 なり 「視点」 でも、その底に流れる共通のキーワードに関して自分が思い至るものを 「テーマ」 とするということにおいて、 様々な 「物語から教訓を得ること」 により 「現実で活かすことができる(新しい)知恵や技」 ともなる新しい考え方なり行動様式を 「“現実的に実践すること” を “可能にする”」 ために、つまり、以前に認めたことがある 『スーパーストラクチャー:まだ協働していない二つ以上のコミュニティの結びつき:ver2.0~適応~』 のエントリー内の「適応力を高めるために拡張すること」 を意味する 「スーパーストラクチャ―」 という考え方を参考にして実践しているものです。

 

 

 

そしてそれは、そのようにして得ることができた 「現実で活かすことができる(新しい)知恵や技」 は必ずや 「まだ解決策が見つかっていない問題で、適応が必要なチャレンジと呼ばれる “適応を要する課題” の解決に役立てること」 ができる筈だと、個人的に考えているからです。

 

 

 

 

 

…ということで、本日も物語(ショートショート)の創作に取り組んでいたところ、以下のような物語を綴ることができました...

 

 

 

「ただいま~…あら珍しい、あなたがドラマを観てるなんて」

 

彼女が帰宅するといつもは読書をしていることが多いA氏がテレビに向かってドラマを見ている様子。

 

「おかえり…うん、久々に録り貯めていたドラマを観てるんだ」

 

「ふぅん…で?」

 

「…あ、あぁ、『妖怪シェアハウス』 ってドラマの最終回なんだけど」

 

「うんうん」

 

「このドラマのストーリーは、素直で純粋がために海千山千の悪者に騙され続けてボロボロになった薄幸な女主人公の澪がひょんなことから知り合った妖怪たちとシェアハウスで一緒に暮らす中で生きるための強さを身につけて自分の人生を歩む過程を描いた物語なんだけどね」

 

「えぇ」

 

「妖怪たちの自由で縛られない姿を通して自分のやりたいことを実現するために努力することで魅力的になった澪は、粗削りながらもその文才に惚れた就職先の編集者兼社長と、その一方で妖怪たちと親密になりすぎたがために自身も妖怪化していく澪の身を案じる陰陽師の末裔でもある神主から同時に求婚されて、どちらと結ばれた方が幸せになれるのかということで心底思い悩むんだけど…」

 

「うんうん、で?で?」

 

「結局、澪はどちらの相手も選ばず…つまり結婚することを選ばずに、第三の選択肢として妖怪化する道を選んだんだ」

 

「は?何それ?」

 

「澪が言うには、妖怪化は忌み嫌うことじゃなくて、自分の感情を解放することができる自分にとっては望ましいことだって気がついたということだって言ってね」

 

「はぁ…」

 

「もちろん今まで澪をサポートしてきた妖怪たちもそんな想定外の澪の突拍子もない選択に対してはツッコまざるを得なかったんだけど、当の澪はあっけらかんとしたもので、先ずは修験道の修行をして昔の人なら誰もが身につけていたであろう特別な力を身につけると共にその実体験を記事にしようと言うんだけど」

 

「えぇ…」

 

「そんな記事が本にできるのか?という妖怪の一人の問いかけに対して澪は、多分書籍化は無理で、日本中の出版社や編集者はそんなものは売れないし誰も望んでないのでやめた方がいいって言うと思うってしれっと答えるんだ」

 

「その可能性が高いわよね、どう考えても…」

 

「うん・・・でも、続けて澪はそう言うことを、つまり売れること目指すとか、または皆が望むものを書くとか、ひいてはごくごく常識的なことをさも当たり前のように言う人間を見るとゲロが出そうな自分になってしまったと前置きしてから、こうやって妖怪の皆さんとシェアハウスで過ごすことを始めとした予期せぬことが起きることに心から魅了されてしまった自分がいて、もし自分の生きたいように生きることによって自分が妖怪化してしまうとしても、今となってはそれこそが自分の本望だし、そのことを教えてくれたのは他でもない自分の敬愛する妖怪の皆さんだったのですよと笑顔で話を続けてね…」

 

「まぁ…」

 

「…それから、自分の道を進むことを堅く決意した澪が修行に出掛けることに対して後ろ髪を引かれながらも見送ることしかできない妖怪たちとの別れを告げてから、澪はシェアハウスを後にして新たな一歩を踏み出していったんだ」

 

「そうだったの…」

 

「うん、それでそれから1年後に未だに澪のことを案じ続けていた編集者兼社長宛てに一冊の書籍が届いたんだけどね」

 

「うんうん」

 

「それは澪から贈られてきた 『妖怪シェアハウス』 という題名の書籍で、そこには空気を読まない人生を貫くという妖術 「開き直り(ひらきなおり)」 を駆使することで大空を羽ばたきながら世の中の価値観を愉快痛快に笑い呑みするという 「令和の妖怪:目黒美緒」 についての物語が描かれていたんだ」

 

「あら…」

 

「加えて、それでもその妖怪は決して忌み嫌うものなどではなくて、それどころかその妖怪の角を見たものには幸せが訪れると言われていることも併せて描かれていてね」

 

「えぇ」

 

「改めてその点をよくよく考えてみると、実はそういった妖怪は人間にとっても存在意義があるとも考えられるじゃないかなって思うんだけど、どう思う?」

 

「…そうなるかしら?」

 

「うん、だからこそ、その書籍の題名は 『妖怪シェアハウス』 だったんじゃないかと…言い換えると、そもそもこの世の中自体が人間と妖怪の共存共栄という意味でのシェアハウスなのではないかということであって、もしかしたらそこには 「妖怪の定義」 について一考すると面白いんじゃないのかなっていう問題定義も含まれているんじゃないかって、僕はそう思うんだ」

 

「…相変わらずあなたは想像力がたくましくて宜しいことだわね」

 

「そう言って頂けると!」

 

「あら?想像力がたくましいって皮肉の意味でも使うわよね?」

 

「うん、知ってるよ、君がそう意味で言ってるのは(笑)」

 

「そうよね(笑)」

 

「そうそう、もう1つ、さっきまでは 『ディア・ペイシェント~絆のカルテ~』 ってドラマの最終回を観てたんだけどね」

 

「あら、そうだったの?」

 

「うん、このドラマのストーリーは1人の若い女性医師が、モンスターペイシェントと呼ばれる医療従事者や医療機関に対して自己中心的で理不尽な要求を繰り返す患者の対応に苦悩しながらも、先輩医師や同僚、そして地方の地元で開業医として患者と真摯に向き合い続ける尊敬する父親との関わり合いなどから様々な学びを得て成長することで、「誠実さ」 という医師として大切な 「幸せになるための医療」 に基づいた人と人との絆の本当の意味での大切さに気づくというものなんだけど」

 

「えぇ」

 

紆余曲折の後でその主人公の女性医師は、難しく考え過ぎていたのだけど自分が願っていることは実は簡単なことだったとして…」

 

「えぇ…」

 

「こう締めくくるんだ…私の願いは単純だ…治療の場を争いや対立の場にしたくない…真摯に患者さんと向き合いたい…誠実であり続けたい…病院をいつも温かい言葉で満たしたい…そしてこの場所が全ての人の癒やしの場でありますように…とね」

 

「そうねぇ…」

 

「でもこれって、よくよく考えると医療関係者じゃなくてもできることがあるんじゃないかと僕は思うし、綺麗事を言うなら誰だって自分の居場所できちんと持つべき心構えと言ってもいいんじゃないかって思うんだよ」

 

「…また出たわね、あなたお得意のそういうやつ!」

 

「…言い方、言い方…でもね、大切なことだと僕は思うよ」

 

「まあ、言いたいことは分かるわよ」

 

「あと面白いのはね」

 

「面白い?」

 

「そう、さっきの 『妖怪シェアハウス』 も 「ディア・ペイシェント』 も、そのドラマのどちらもが自分の身に降りかかる様々な理不尽に対して心が折れそうなときに周囲の助力を得ることで 「自分の生き方を確立することができたという物語」 と言っても過言ではないとは思うんだけどね」

 

「えぇ」

 

「その生き方の方向性は一見すると正反対と言ってもいいくらいだよね…一方は空気を読まないことで我が道を行く生き方を選ぶし、一方は周囲と誠実に向き合うことで癒しの場を提供するという生き方を選ぶことになるのだから」

 

「そう言われるとそうかしら…」

 

「ただそれでも、周囲と誠実に向き合うことで癒しの場を提供するという後者の生き方はさっき君も言ってたけど綺麗事過ぎて揶揄されるくらいには王道然としてる肯定的な生き方だけど、空気を読まないことで我が道を行くという前者の生き方だって、その姿を見た者が幸せになるというある意味で周囲に良い影響を与えることができる自らの信念に忠実な生き方なのであれば、それはそれで1つの肯定的な生き方になるということになるわけなのではないかと…」

 

「えぇ」

 

「…まとめると、もちろん自分の身に降りかかる理不尽に対しては色々と思うこともあるのだろうけど、それはある意味では 「自分の肯定的な生き方」 を発見することができる1つのきっかけにもなり得るし、例えば理不尽が自分の身に降りかかるのであれば周囲に助けを求めることをきちんと意識するだけに留まらず、もし身の回りにそういった辛い境遇の人がいるのならば自分が適切な救いの手を差し伸べる側に回ることを意識することも大切なんじゃないかって、今回の2つのドラマを観てそんなことを考えたんだよね…」

 

「ふぅん…」

 

「…あれ、そういう反応?」

 

「…だってあなたの話はいつもながらに長いのよね」

 

「だって、君が話しかけてきたから話をしたんだけど、そんなことを考えてたからさ…」

 

「別にいいのよ…あなたの話を聞いていないわけじゃないんだけど、あんまりよくわからないときはリアクションに困るというか…で、今日は何か物語はないの?あれば聞くわよ、こうなったら…何て言ったかしら、毒を食らわば?」

 

毒を食らわば皿までだよ…いつもながら君の言い方は引っ掛かるんだけど、それでは物語を1つ…」

 

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パブロ・ピカソよの言葉より。

 

<神は芸術家である。 神はキリンを創(つく)り、象を創り、蟻を創った。 実際、神は作風のことを考えもしなかった-ただ、創りたいと思ったものを創ってきたのだ>

 

 

 

師は言う。

 

自らの道を歩みはじめると、われわれは大きな不安にさいなまれる。

 

すべてをきちんと間違いのないように、という思いにとらわれてしまうのだ。

 

だが考えてみれば、われわれの人生は一回きりなのに、いったい誰がその 「完璧な」 手本を示すことができるのだろうか。

 

神は、キリンを、象を、蟻をお創りになった-われわれがたったひとつの手本に従わねばならない必要性がどこにある?

 

 

 

手本というものは、ほかの人たちが現実に向き合ったときにどうしたかを知ることにのみ役立つものだ。

 

われわれは他人がしたことにいく度も驚嘆もし、同じく他人が踏んだ轍(てつ)を踏まぬようにと心がけることもいく度もできた。

 

 

 

だが、生きる、ということに関しては-そう、こればかりは自分で決めていかねばならない。

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~『マクトゥーブ 賢者の教え』 P184~

 

「まあ、何であれ生き方には…自分の道の歩き方にはこれと言った絶対的な正解はないわけなのだから、例えば、少なくとも自分の信念を貫くことと共に、それが周囲に肯定的な影響を与えるのかどうかを考慮することを併せ念頭において行動することを心掛けるということが大事なんだということなのだろうなって僕は思うんだ」

 

「そうねぇ…私もそうは思うわよ」

 

「ありがと」

 

「もういいかしら?あなたの長い話を聞いていたら、丁度夕ご飯の準備をする時間になったから、この話はこれでお終いね、もう行くわよ」

 

「…何か最近は扱いが雑じゃない?」

 

「あら?あなたの話を聴いてあげてるのよ、私は…だからあんまり贅沢は言わないことね」

 

「…」

 

 

 

普段はA氏にやり込められることが多いものの、今回はどうやら彼女に軍配が上がった様子で…

 

 

 

…などと(^-^;

 

#Dailyショートショート

 

 

 

 

 

そしてこのような物語(ショートショート)の創作という習慣を続けてきて思っていることに関しては以下のエントリーで、その考えを述べた次第です。

 

『人生脚本』の効果的なUpdate方法① ~怒りへの考察:対話へ通じる道?~

A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

 

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そしてここ3カ月弱の間にこのような物語(ショートショート)の創作という習慣を続けてきて思うことは、その前提として誰かから評価されることを目的としないのならば意外と物語を創作すること自体は難しいことではないですし、特に 「自分の思ったことや気がついたこと」 を物語の中のキャラクターに話をさせることで、その話の内容についてやその言葉遣いについて、また、語感やイメージ(濃淡・強弱・ポジネガ)などをある程度は第三者視点で客観視することができることから、「自分の思ったことや気づいたこと」 に対する考えをもう一段深めることができるに留まらず、その話から得ることができるまた違ったベクトルの連想やインスピレーションといったもの(もちろんここに関してはややセレンディピティ的な部分もありますが…)が、前向きなフィードバックとして有効活用することができるということです。

 

言い換えるならば、『『人生脚本』の効果的なUpdate方法と、それが「もたらすであろう未来」へ目を向けること』 でも述べたように、このブログのメインテーマの1つにもなりつつある 「人生脚本のUpdate」 について、メタファーではなく実際に 「“脚本 ≒ 物語” の創作」 を習慣化することが 「自分の価値観の確立」 や 「適切な自己効力感の修得」 の助けになると考えていますし、そのようにして成長する事でいわゆる 「大人」 になることができるのならば、パートナーをはじめとした様々なステークホルダーと共に 「(自分 “たち” の)明るい未来を切り拓くための行動」 を実践することができると、個人的には強くそう思うところです。

 

『人生脚本』の効果的なUpdate方法と、それが「もたらすであろう未来」へ目を向けること

A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

 

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ですから、改めてになりますが、引き続き 「積極的に行動することで経験を積み重ねてからその経験への考察を書くこと」 を、つまり自分の 「人生脚本のUpdate」 を常に意識すると共に、それが言わば 「自分の価値観を確立することで適切な自己効力感を用いて行動することができる “大人”」 として、自分が属するコミュニティーの歴史の中に身を置くことで 「個人とコミュニティーの共存共栄を図ることを可能にする目標達成のための行動を取ることを意味する “大人の嗜み” を実践すること」 を心掛けること、つまり、先人たちの実践知の恩恵を受けると共に、それらをも踏まえた自らの実践知をも将来に届けるという 「秘伝の継承」とも言うことができるメタファーで表される姿勢を心掛けることにも相通じる、「(自分 “たち” の)明るい未来を切り拓くための行動」 にも繋がっているということをきちんと認識することで日々の積み重ねを実践していきたいと、改めて強くそう思う今日この頃です。

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そして今回創作した #Dailyショートショート の物語のテーマは 「“自らの進むべき道” を選ぶこと」 だったのですが、正直この点に関しても 『『人生脚本』の効果的なUpdate方法⑥ ~“独善”の“取り扱い方”を身につけること~』 で述べた 「“独善”の“取り扱い方”」 と同じように、今まである程度の齢を重ねてきている筈の自分でもまだまだ分からないことだらけですし、もちろん 「四十にして迷わず」 という言葉やその考え方は知っているものの、四十代も半ばに差し掛かろうとしている今現在でも事ある毎に思い悩むことしきりな日々を過ごしています。

 

そんな日々の中で最近よく考えることは 「“自分の” 人生の課題」 とも言うべきもので、これは言葉にすることが少々難しいのですが、誰であれ何であれ人生の 「“どこかの” タイミング」 で 「“自分の” 人生の課題」 と向き合わざるを得なくなる時期があり、その課題と真摯に向き合うことでそれをクリアするのではなくその課題を避けたり課題から逃げようとしたとしても、その 「課題」 からは決して逃げ切ることができず、仮に一時的には逃げられたと思えるようなことがあったとしてもいつかどこかでその 「課題」 に向き合わざるを得なくなるだけではなく、そのような場合には 「より “難易度が増した” 課題」 と向き合わざるを得なくなるのではないかということです。

 

加えて、そのような 「“自分の” 人生の課題」 は正に百人百様でどこにも 「ハウツー」 や 「マニュアル」 などは存在せず、また 「課題に対する “唯一解” を知っている人」 は存在しないがために、結局は自らが腹をくくることで 「課題」 に向き合う覚悟を決めないといけないのだと個人的には考えていますし、 そのためには、正に 「深淵に臨む」 とも言える状態に私たちが立っているように見える状況であっても、私たちには必ずやそのような 「深淵を越えることができる “翼” を私たちのそれぞれが有している」 という “メタファー” を信じることによって 「“自分の” 人生の課題」 を乗り越えることができるようになり、そのような経験を積み重ねることによってのみ個人個人が各々の  「“自らの進むべき道” を選ぶこと」 ができるようになるのではないかとも考えている次第です。

 

私たちの持つ “翼” の持つ力 ~「空を飛ぶという “人類の憧れ”」というメタファーの実践~

A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

 

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そしてそれは正に 「深淵に臨む」 とも言える状態に私たちが立っているように見える状況であっても、私たちには必ずやそのような 「深淵を越えることができる “翼” を私たちのそれぞれが有している」 という “メタファー” として、常に意識することはとても大切なことなのかもしれません。

 

 

 

加えて、私たちがその “翼” の持つ素晴らしい力を発揮するためには、基本的には自らの経験を通してのみそれが可能になるということも忘れてはいけないのでしょう。

 

 

 

ですから、私たちは先ずは 「自分はとても素晴らしい力を有した “翼” を持っている」 ということをきちんと認識する必要がありますが、もし不幸にもそのことを忘れてしまっている状態に在るのならば自分自身の 「人生脚本を “考古学視点” から読み返す」 ことによって 「自分はとても素晴らしい力を有した “翼” を持っている」 ということを思い出すことが必要になりますし、そうすることで私たちの誰もが 「想像を遥かに超えた素晴らしい行動」 を起こすという 「空を飛ぶという “人類の憧れ”」というメタファーを実践することができる可能性を秘めているということを心から信じることで自らの人生を歩んでいくことを心掛けることがとても大切なことなのだと、個人的には強くそう思うところです。

 

「種蒔きと収穫」が大切な理由② ~コンシェルジュ・マジックを実践するために~

A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

 

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このような一連の「“明るい未来” に繋がる “地道な努力の積み重ね” 」 を可能にするために、そしてその “明るい未来” を共に築く仲間でもある家族をはじめとしたステークホルダーとの関係性を深めることにも繋がる 「コンシェルジュ・マジック」 を実践するために、「自らの “可能性の種”」 を自分自身の歩んできた人生の歴史の中から “考古学的な視点” をもって発掘することによって 自らの人生脚本における結末を “ハッピーエンド” とすることができるような、前向きで主体的な行動を強く意識することの大切さを改めて考えることが増えてきていると感じる今日この頃です。

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ですから、私たちは人生においていつか必ず 「“自らの” 人生の課題」 とも言うべき 「深淵」 を 「乗り越えるための “翼”」 を自分が既に有していると 「本心から信じること」 が必要になりますが、時にはそれを強力にサポートしてくれる周囲からの助力を求めることが必要になりますし、それは現実世界において自分を励ましてくれる両親や友人、または上司や同僚に留まらず、先人たちが残してくれた様々な知恵、そしてそれらを題材にした現代における様々な魅力的な創作作品だということを併せてきちんと理解することは非常に重要なことなのだと、個人的には強くそう思うところです。

 

 

 

そしてもし、次の2つの物語を胸に刻んでおくならば、適切な時期に 「“自らの” 人生の課題」 とも言うべき 「深淵」 を 「乗り越えるための “翼”」 を自分が既に有していると 「本心から信じること」 が容易になることでしょう…

 

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師は言う。

 

われわれのなかにある神の御心(みこころ)は、映画のスクリーンのようだ。

 

そこでは色々なことが起きる-人びとは愛したり、別れたり、秘宝が見つかったり、遠くの国のことがわかったりする。

 

 

 

今、どんな映画が上映されているかは問題ではない。

 

どちらにせよ、スクリーンはそこにあるのだから。

 

涙がこぼれ落ちても、血が流れても、なにも関係ない-なぜなら、スクリーンの白さを侵すものはないからだ。

 

 

 

映画のスクリーンのように、神はここにいる-人生のあらゆる喜びと苦しみの後ろに。

 

自分の映画が終わったそのときに、神に会うことができるだろう。

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~『マクトゥーブ 賢者の教え』 P186~

 

 

 

 

 

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アヴィラの聖女テレサは次のように書きのこしている。

 

 

<覚えておきなさい。 

 

主はわたしたちをみな招かれました。 

 

主は純粋なる真実であるのですから、その招きを疑ってはなりません。 

 

主はおっしゃいました。

 

『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい』 と。

 

 

 

その招きがわたしたちひとりひとりに対してでなかったとすれば、主はこうおっしゃったでしょう。

 

『こちらに来たい者は来なさい。 あなたがたはなにも失うものはないのだから。 けれど、用意ができた者にしか飲みものを与えない』 と。

 

 

 

主はなんの条件もつけませんでした。

 

道を歩み、望むだけで、だれでも主の愛という生きた水を受け取ることができるのです>

<<

 

 

~『マクトゥーブ 賢者の教え』 P191~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日、ホルヘは物語をひとつ準備して僕を待っていた。

 

 

 

 

その子が大きくなったとき、父親は言った、

 

「息子よ。 誰もが翼を持って生まれてくるわけではない。 お前に飛ぶ義務がないのも確かだが、神さまから授かった翼を持ちながら歩くことしかできないなんて、父さんは悲しいことだと思う」

 

 

 

「でも、僕は飛び方を知らないよ」

 

息子はそう答えた。

 

 

 

「そうだな…」

 

父親は息子を連れ、歩いて山を登り、深淵を見下ろす崖っぷちにやって来た。

 

「ほらみてごらん、これが空間だ。 飛びたくなったらここに来るといい。 空気を吸って、翼を広げながらこの深淵を跳ぶんだ。 そうすれば自然に飛べるよ」

 

 

 

息子は戸惑った。

 

「もし落ちたら?」

 

 

 

「落ちたって死にはしない。 怪我はするかもしれないが、それは次の機会に役立つ経験となるだろう」

 

父親はそう答えた。

 

 

 

息子は村に戻り、人生を共に歩いてきた仲間たちに会いに行った。

 

 

 

頭が固い人たちは彼にこう言った。

 

「気でも違ったか? 何でそんなことするんだよ。 君の親父さんも変な人だな…何で飛ぶ必要があるんだ?そんな意味のないこと忘れろよ」

 

 

 

彼を愛する親友たちはこう言った。

 

「もし本当に飛べたとしたら? でも危なくないかな? 少しずつ始めたらどうだ? 階段や木のてっぺんから試してみろよ。 でも…山の頂上からというのはどうも…」

 

 

 

息子は友情の厚い仲間たちの話に従うことにした。

 

木のてっぺんに上り、勇気をふり絞って跳んだ。

 

翼を広げて、力いっぱい動かそうとしてみたが、残念ながら地面に激突してしまった。

 

 

 

額に大きなたんこぶを作って、父親のもとへ行った。

 

「嘘つき! 飛べないじゃないか。 試しにやってみたら…見てよ、このたんこぶ! 僕は父さんとは違うんだ。 僕の翼はただの飾りなんだ」

 

 

 

「息子よ」

 

父親は言った。

 

「飛ぶためにはな、翼が十分広がるための空間が必要なのだ。 パラシュートで降りるのと同じだ。 ある程度の高さが必要なんだ。 飛ぶためにはまず危険を冒してみなければならない。 それが嫌なら、諦めて一生歩きつづけるのがまあいちばんかもな」

 

~『寓話セラピー 目からウロコの51話』 「翼は飛ぶためにある」 P105-106~

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Ⅰ キーワード解説 訳注として

 

 

メンバーシップ

 

一般的な語義としては、「会員資格」 のことであるが、ここでは、文化人類学者バーバラ・マイアホッフのメタファーを取り入れ、人生が 「メンバー化されて」 いると想像されているため、「メンバーシップ」 とは、人の人生における重要な関係や提携として特徴づけられる諸個人や組織の広がりを指している。

 

 

リ・メンバリング

 

個人の人生を会員制のクラブにたとえることによって、人生を再構成すること。 マイアホッフの援用であり、「思い出す」 と 「メンバーに加える」 のダブルミーニング。

 

 

 

 

 

ストーリーテリングについてのこの話を実際に書くことは、自分の仕事をリ・メンバリングするさらなる練習となった。

 

つまり、子どもたちとの私の仕事の実践と知識を創成してくれる、私の人生の二、三のメンバーシップを認証する機会が提供されたのである。

 

この認証によって、そのような知識と実践の創成における自分の貢献を否定しているわけではない。

 

一段下の立場を取ろうとしているわけでもないし(一段上の立場などもっての他である)、何かを放り出そうとしているわけではない。

 

むしろ、私としては、このようなリ・メンバリングに取り組まなければ、子どもたちとの私の仕事は 「薄い」 記述(2)に変わり、多くのものが見捨てられてしまうだろうということなのである。

 

そうなれば、私の人生における重要なメンバーシップにおいて共同創成された知識や技術を再訪するという選択肢は、閉じられてしまう。

 

そうなれば、私の仕事を 「豊かに」 あるいは 「厚く」 記述されるために貢献するステップを踏み出す機会も、奪われてしまう。

 

そうなれば、私が仕事自体において新しい可能性を開く扉も、閉じられるであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

原注

 

 

(2) ポスト構造主義的思想の流れにおける、薄い記述と厚い記述の並置については、ギアーツ(1973)の 「厚い記述-文化の解釈学的理論をめざして」 を参照のこと。

<< P22-35

 

 

僕のお気に入り 『セラピストの人生という物語』 (マイケル・ホワイト 著) の中の 「Ⅰ リ・メンバリングと定義的祝祭」 の一節。

 

 

 

 

 

本ブログでも折に触れて述べているように、こうやって毎週定期的に時間を設けることで自分を振り返って文章を綴ることを習慣にすることが、言い換えると 「書くこと」 を習慣化することが 「心の整理に繋がる大切な習慣」 でもあることを心から実感しているのですが、それは『「人生脚本」 のUpdate』 をキーワードとしてアンテナに引っ掛かる日々の様々な考察をまとめてこうやって文章にすることで頭と心を整理することによって現実における適応力が大幅に向上してきていると、個人的には考えているからです。

 

と言いますのも、私たちを取り巻くこの激動の時代においては日々朝令暮改的な様々な変化に直面することしきりで翻弄される場面が多々あることから、以前の自分なら間違いなくその対応の遅れや対応不備から凹んで後ろ向きなメンタルになり辛い日々を送らざるを得ないことも多々ありましたが、 「書くこと(≒人生脚本のUpdate)」 によって適応力が向上することにより、言い換えるならば、「書くこと(≒人生脚本のUpdate)」 に伴う 「(自分の)価値観の “確立”」 により、自分の行動に芯が通ることになるために自分の行動に自信を持つことができていることから、その行動に伴う結果を-それが善かれ悪しかれ-受け入れることができていると思えることが増えているからですし、そう考えるならば、こうやって 「書くこと(≒人生脚本のUpdate)」 によって適応力を向上させることをいわゆる1つの 「成長」 と呼んでもいいのだと個人的には考えている次第です。

 

 

なぜならば、次に示す物語がそのような自分の考えを後押ししてくれているとも言うことができると思っているからです。

 

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自己のあらゆる限界について愚痴(ぐち)をこぼす弟子に対して、師は言う。

 

「たしかに、おまえは限りのある人間じゃ。 だが、十五年前にはできそうもないと思えたことも、今ではできるというものがあるではないか? いったい何が変わったというのか?」

 

 

「わたしの能力が変わったのでしょう。」

 

 

「そうではない。 お前が変わったのじゃ。

 

 

「同じことじゃないですか?」

 

 

「いや、違う。 おまえとは、自分はこのような人間であると考えるところのものである。 おまえの考え方が変わったとき、お前は変わったのじゃ。」

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~『沈黙の泉』 「162-成長」 P228-229~

 

 

 

 

 

もちろん、ここで言う 「考え方が変わる≒成長」 という考え方は分からないではないですが、この物語だけですとこの 「考え方が変わる」 の 「定義」 がいまいち曖昧なところもあることから、補足として次の2つの物語-その物語の1つは正に 「定義」 という題名ですが!-を併せ読むことによって、この 「考え方が変わる≒成長」 の意味をきちんと理解することができると考えています。

 

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師は、まるで子供が夢中になるように現代の発明に興味を持っていた。

 

ある日、ポケット計算器を目にしたとき、その驚きをついに隠すことができなかった。

 

 

 

後になって、師はきさくにこう言った。

 

「多くの人々があのようなポケット計算器を持っておるようじゃが、自分たちのポケットには計算するに値するようなものは何も持っておらんようじゃ。」

 

 

 

数週間の後、ある人が師を訪ねてきて、どんなことを弟子たちに教えているのかと問うと、師は答えて言った。

 

「自分にとっての優先事項を正しく捉(とら)えるように教えておる。 すなわち、金を持つことのほうが、金を計算するよりも優れていること。 実際に体験を持つことのほうが体験を定義するよりも勝っているということを教えておる。」

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~『沈黙の泉』 「177-定義」 P248-249~

 

 

 

 

 

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ある弟子が、家族のもとに戻って仕事に就(つ)こうと、いとまごいをしに師のところへやってきた。

 

弟子は何か持ち帰るものを所望した。

 

 

 

師は言った。

 

「これから話すことについてよく思いめぐらしてみなされ。 

 

熱いと感じるのは、火ではなく、お前が熱いと感じるのじゃ。

 

 

 

ものごとを見るのは目ではなく、おまえさんが見るのじゃ。

 

 

 

円を描くのはコンパスではなく、製図家が描くのじゃ。」

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~『沈黙の泉』 「204-手段」 P286-287~

 

 

 

 

 

そう、この2つの物語が述べていることは理論や理屈を最重要視するのではなくて、 「自らの行動に基づいて “考えること”」 を推奨しているものであり、 「考え方が変わる≒成長」 とは、自らの行動の軌跡を振り返る、もしくは省みることによって過ちを生じさせた行動を改める、もしくは正しく行動することができたことに関する行動を習慣化したりより一層強化することこそが 「成長」 だと言うこともできるのだと個人的には考えておりますし、それは正に 『「人生脚本」≒「ナラティブ・セラピー」 ~個人の物語に目を向ける意義~』 のエントリーでも述べたことがあるように、「私たちは皆、意識的にしろ無意識的にしろ、定められた「自分自身の脚本」に従って人生を歩むことになるものの、初めて自分が手にする脚本は自分が真の意味での主人公として社会に足を踏み出す前の幼い頃、まだ親を含めた諸先輩方からの保護が必要だった頃に自分以外の彼らが作製した脚本でもあり、本来は定期的に見直すことで書き換えを行って自らがその脚本に対して加筆修正をしていくという作業が必要になる」 という 「人生脚本(のUpdate)」 という考え方に相通じるものがあるとも考えています。

 

そしてそれは、改めてになりますが、『『人生脚本』をUpdateするためにできること:その④ ~治療的ダブル・バインドを身につける~』 のエントリーでも述べたように、 「人生脚本」 についての様々な知識(「① 「人生脚本」 について概念 / 「② [(個々の人生脚本」 のストーリー」)を身につけると共に、それを 「③ 効果的に書き換える方法としての “治療的ダブルバインド” の実践スキル」 もを正しく身につける必要があるのだとも考える次第です。

 

なぜならば、私たち 「“個々のキャラクター” の各々が織り成す物語」 として、その各々が手にする 「個々の環境(親、周囲の関係者、文化)」 において形作られるものが、「(初期の)人生脚本」 であり、且つその 「(初期の)人生脚本の“著者”」 は 「自分以外の“誰か”」 でもあることから、私たちは先ずは 「(自分自身の)人生脚本」 の存在をきちんと認識すると共に、その 「人生脚本」 の書き換えを今後は 「“自らの手”で行う“必要がある”」 ことを踏まえたとき、このような 「(初期の)人生脚本」 は、厳密に言えば 「“当人以外” の著者から見ることができる “個々のキャラクター像”」 と 「著者が “認識している環境” の相互作用」 を元にして著されたものであり、当然そこには 「“現実” とは異なる脚本が描かれている “可能性が非常に高い”」 ことから 「“将来において” 様々な問題を引き起こすことは当然と言えば当然」 だからです。

 

つまり、言い換えるならば、私たちが手にしている 「自分以外の著者による、“私たち個人個人の”(初期の)人生脚本」 には、その性質上/構造上、「“呪い” のダブルバインド」 が高確率で含まれていることを 「“意味する” こと」 は避けられない事実ですし、それがすなわち、「自分以外の著者(親、周囲の関係者、文化)」 が 「“悪意” から “呪い” のダブルバインドを著した」 とは “必ずしも” 言えないということをも 「きちんと “理解すること”」 が大切であり、だからこそ 「Aをやってもダメ、Bをやってもダメ!」 という “呪いのダブルバインド” を、「AをやってもOKですし、BをやってもOKで、いずれの行動も、あなたの未来において “益をもたらす”ことでしょう」 という “治療的ダブルバインド” とする 「人生脚本のUpdate(≒成長)」 が必要になるとも言うことができるからです。

 

 

 

加えて、そうすることにより私たちは 「親子間の確執」 や 「世代間の確執」 において端を発する様々な悲劇に起因する問題の 「解決の糸口」 を見出すことができるようになりますし、そうすることによって日々の生活を安定したものとして日々を積み重ねて歴史を刻んでいくことになるだけでなく、やや大仰な表現をするならば、それこそが正に 「(私たちが)生きる意味において最上位に位置づけられるものの1つでもある」 と言っても差し支えないのだと、個人的に考える次第です。

 

 

 

ですから、日々積極的に前向きな行動に取り組む姿勢で様々な経験をすること、及びその経験を定期的に振り返ることで 「人生脚本のUpdate」 を意識すること、そしてその際は 「AをやってもOKですし、BをやってもOKで、いずれの行動も、あなたの未来において “益をもたらす”ことでしょう」 という “治療的ダブルバインド” を意識することにおいて 「考え方を変える(≒成長する)」 ことが大切なのでしょう。

 

そして個人的には、この 「“治療的ダブルバインド” を意識することにおいて 「考え方を変える(≒成長する)」 こと」 は、もしかしたら次の物語が示している 「分かち合いの精神」 をも併せて意識することによって 「より一層望ましい結果」 を、また 「明るい未来」 を私たちにもたらすのだと、そう強く思う今日この頃です。

 

>>

師は言う。

 

たいていは、愛することは愛されることよりも簡単だ。

 

 

 

他人の手助けや援助を受け入れるのは難しい。

 

自分が自立した人間だということを誇示しようとして、隣人が愛を示そうとするのを阻んでしまうことがある。

 

 

 

老親は、幼いときに与えてもらった慈しみを返そうとする機会を子どもたちから奪っている。

 

多くの夫(もしくは妻)たちは、不運に見舞われても、伴侶(はんりょ)にたよるのを恥と思う。

 

こうしていくうちに、愛情という水は周囲に浸(し)みわたらなくなってしまう。

 

 

 

隣人が愛を示そうとする行為を受け入れよう。

 

誰かがわたしたちを助けよう、手を差し伸べよう、このまま続けていけと励ましてくれようとしている、その行為を許すのだ。

 

 

 

こうした純粋で謙虚な愛情を受け入れるようになれば、愛とは与えるものでも貰(もら)うものでもないということがわかるようになるはずだ。

 

愛とは、分かち合うものなのだ。

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~『マクトゥーブ 賢者の教え』 P82~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Ⅰ キーワード解説 訳注として

 

 

メンバーシップ

 

一般的な語義としては、「会員資格」 のことであるが、ここでは、文化人類学者バーバラ・マイアホッフのメタファーを取り入れ、人生が 「メンバー化されて」 いると想像されているため、「メンバーシップ」 とは、人の人生における重要な関係や提携として特徴づけられる諸個人や組織の広がりを指している。

 

 

 

認証フォーラム

 

私たちが知識の真正性を得る装置のひとつ。 セラピストの場合、スタッフ・ミーティングにはじまり、セミナーやカンファレンス、試験資格など、多岐にわたっている。

 

 

 

リ・メンバリング

 

個人の人生を会員制のクラブにたとえることによって、人生を再構成すること。 マイアホッフの援用であり、「思い出す」 と 「メンバーに加える」 のダブルミーニング。

 

 

 

定義的祝祭

 

オルタナティヴ・ストーリーを好意的聴衆と共有するための集まり。 人々が自分たちのアイデンティティの返還を要求したり再定義できるよう援助する儀式。 これもまたマイアホッフからの借用。

 

 

 

~実践

 

たとえば、ナラティヴ・セラピーではなくナラティヴ・プラクティスという用語が好まれるように、ナラティヴ・セラピストが自らの活動を平等主義的で透明性の高い活動に向ける姿勢が、この用語には含意されている。

 

 

 

 

 

はじめに

 

 

…諸個人が精神療法文化の一員と認可されるときに起こる変化について…まず、実践上の正統な知識として重要なものの変化である。

 

この認可においては、個人の歴史において創成されてきた、よりローカルな民間知識は周辺化され、しばしば脱資格化され、専門家の規律・訓練をへた公式の専門知識に置き換えられる。

 

また、個人の人生のメンバーシップとして重要なものの変化について…この過程において、精神療法単一文化連合が、諸個人の人生における多様で歴史的なローカルな連合に取って代わるのである。

 

 

 

第三に、認証フォーラムにおいて適切とされているものに関して起こる変化について…これは、知識の抜け目のない上演のための舞台として適切とされているものの変化のことである。

 

そして、第四には、そのような認証フォーラムにおいて表現されるべき、適切な証人実践を構成するものに関して起こる変化について…これらの変化において、より非公式な舞台や証人実践が、公式で専門化された舞台や実践に置き換えられていく。

 

 

 

私が提唱するのは、これらの変化すべてが、セラピストの人生や仕事を薄い記述へ導くということである。

 

それこそが、重荷、疲労、そして消耗の経験、さらには絶望や燃え尽き症候群への脆弱性を確立する状況に大きく影響する。

 

 

 

 

次には、「リ・メンバリング」 実践を紹介する。

 

これは、セラピストが自分の人生の歴史的でローカルな重大な連合を取り戻し、特権化するのを援助する実践である。

 

これは、セラピストがそれまで考えもしなかった諸個人を自分の人生や仕事に取り込み、可能性を探求する上で手助けとなる実践でもある。

 

私が提唱するのは、人生のこのリ・メンバリングが、セラピスト自身を、仕事上、さらには人生一般における知識と技術を備えた者として経験させるのに貢献するということである。

 

 

 

議論は、その後で、「定義的祝祭」 という概念の探求に向かう。

 

この概念は、オルタナティヴな認証フォーラム、そしてオルタナティヴな証人実践を構造化する選択肢を導くものである。

 

これらのフォーラムへの参加により、セラピストの知識は力強く本物だと証明され、彼らの仕事や人生が 「厚く」 ないし 「豊かに」 記述されるのに貢献する。

 

このような定義的祝祭への参加が、セラピストを支え、奮い立たせるものであることを提唱する。

 

 

 

私がリ・メンバリング実践と定義的祝祭についての考えを書き留める課題に取り組みだしたとき、回想をもはじめることになった。

 

それによって、私は、自らのプライベートな歴史のストーリーに触れたのである。

 

私は、そんなストーリーのうちのひとつをここに含める決心をした。

 

これは透明性のためでもあるし、本書が先に進むにつれあきらかになるであろうその他の理由のためでもある。

 

 

 

 

 

マウス・ストーリー(1)

 

 

私は、十九歳になるペニーの父親である。

 

ペニーがまだ、ほんの小さな女の子だった頃のこと。

 

彼女は私の妹のジュリーの家から帰ってくると、玄関のドアのところで待ち構えていて、私をものすごいいきおいで叱責した。

 

「私には一度も、マウス・ストーリーを話してくれなかったわね」 と叫んだのである。

 

彼女は仁王立ちになって、全身で怒りをあらわにしていた。

 

まるで、地球上でもっとも重要な人生の鍵のひとつを私が彼女から取り上げたかのような怒りだった。

 

それは、彼女の現在の生活全般に対して決定的に重要な情報であるかのようだった。

 

まるで、自分自身の次に重要だと言わんばかりだった。

 

「マウス・ストーリー。 マウス・ストーリー。 ああ、あの話か!」

 

私はようやく、四歳下の妹のジュリーがまだ小さな女の子だった頃、自分が話して聞かせた話を思い出して、おもわず大きな声を上げた。

 

自分史のなかにあるこのエピソードをペニーに隠すつもりなど毛頭なかった。

 

ただ、自分のストーリーテリング能力には全然感心しなかったし、もう一度掘り起こしてみるべきものだとは思いもしなかっただけのことである。

 

ところが、言わばジュリーがこっそり秘密をもらしたようなもので、言い訳をせざるを得ないことは明白だった。

 

 

 

あれがいつ、どのようにして始まったのかは全く思い出せないが、ジュリーがまだ小さい頃、自分が小さな女の子のマウスの話をしたことは憶えていた。

 

そのマウスは、とても有能で、かしこくて、問題を解決するのが上手で、力持ちで、いつでも公平で、遊び好きで、それに冒険が大好きだった。

 

彼女のコミュニティ感覚は賞賛の的だったし、と同時に、自分の考えをしっかりもっていることでも知られていた。

 

この少女のマウスはいくらか大志を抱いていて、時には、気分にむらがあって、いたずらっ子にもなることは、付け加えておかなければならない。

 

こんなストーリーテリングにどうやって、いつ入っていったのか思い出せないが、妹が小さかった頃、なぜこんなことを続けたのかはいくらか思い出せる。

 

第一に、そして一番重要なこととして思い出すのは、ジュリーが私にそれをうるさくせがんだことである。

 

彼女は実際、そういうのはお得意で、私も妹を大好きだったから、それに抵抗するのは、不可能でないにしても、難しいことだった。

 

第二は、ジュリーがすごく 「元気のいい」 女の子で、まったく男勝りだったことである。

 

マンガの主人公がみな男性だというのは不公平だと彼女が考えていたことも、思い出す。

 

第三は、当時、私と弟はジュリーのことを 「ひっつき虫」 だと言ったが、妹が私たちにつっかかってくるとき世界はずっと楽しいものになった。

 

輝く瞳に、いっぱいの遊び心、それに思いっきりのよさと誠実さ。

 

 

 

ペニーがこんな昔の話をほじくりかえしたばっかりに、私は気がついてみると自信喪失の危機に瀕していた。

 

やる気になるだろうか?

 

少女マウスの冒険を再現できるだろうか?

 

はるか昔のストーリーテリングの筋や登場人物をもう一度かき集めることができるだろうか?

 

結局、この危機からは、すみやかに救出された。

 

なぜなら、ペニーがこう明言したからである。

 

父親として、私にはストーリーを共有する義務がある。

 

そして、彼女は実に執拗だった。

 

私のパートナーのシェリルも、ペニーの母親として、私を励ました。

 

「できるわよ。 もちろん、できるって。 あなただって、わかってるじゃない」。

 

 

 

それが本当かどうか自分に分かる前に、私は、マウス・ストーリーのいろんなシリーズの再現に取り掛かった。

 

「少女探偵マウス」、「猫が十匹いる家のマウス」、「横丁マウス」、そして 「山の手マウス」。

 

各シリーズの主たる登場人物はどれも、一世代前の少女マウスの性格や取り組みをそのまま受け継いだ少女マウスである。

 

私の最初の試みに対するペニーの反応は、完全にそれを強化するものだった。

 

そのため、これは彼女の定例ベッドタイム・ストーリーとなり(とはいえ、眠りに誘うという点ではまったく機能しなかったけれど)、まもなく、次の話を仕入れる必要に迫られたのだった。

 

 

 

すぐにペニーは、このストーリーをカセットに録音することを思いついた。

 

このようにして、彼女はコレクションを築き、とても大切にした。

 

このコレクションはどうなったのかって?

 

おおかたは使い物にならなくなった。

 

たとえば、一度など、のりの瓶がカセットの上で逆立ちをした恰好になっていて、発見されたときには手遅れだった。

 

ペニーにとっては悲劇であり、慰めようのないものであった。

 

彼女は立ち直ったかって?

 

もちろん、イエスである。

 

その他のカセットは、時の流れのなかで失われ、忙しく出来事が起こり続ける人生のてんやわんやのなかで消えていった。

 

しかし、何本かはまだ今でも残っている。

 

 

 

本稿の準備をしていた頃、あの頃のペニーとの関係を振り返りながら、私は、かつて自分にとってこれらのストーリーが大切であった、そのさまざまなあり方を再訪している自分を発見した。

 

たとえば、ああいうストーリーは、私が不在でペニーが幼かった頃には、私と彼女との結びつきのための強力な触媒となっていた。

 

教育のために遠くまで出かけるようになると、私は、自分が出かけていく町に場面を設定したマウス・ストーリーを録音しておくことにした。

 

私のいないあいだ、ペニーがそれを聴くことで、彼女が私の人生に触れ、わずかながらも私と一緒にいることを経験するだろうと信じていたのである。

 

そして、そう考えることで、私も彼女と一緒にいることをわずかながらも経験すると信じた。

 

と同時に、出張にはテープレコーダーをもっていき、さらに次のストーリーを録音できるようにした。

 

ペニーがみやげとして録音したストーリーをほしがっていることは、よくわかっていた。

 

しかし、それ以上に(ずっとずっと大きなことに)、旅先でストーリーを録音することは、私の心のなかで執拗に続く、癒しようもない、離れていることの悲しみをやり過ごすのに大きく役立ったのである。

 

あまりに遠くまで来たこと、ペニーから離れ、時にはシェリルからも離れ、さらには他の愛する人々からも離れていることによる感情。

 

夜に、ホテルの自分の部屋でストーリーを録音することは、私が見つけることのできる唯一の解毒剤であった。

 

他の何も効き目はなかった。

 

 

 

最近、わたしはたまたま、時の経過による損壊を免れたマウス・テープを二、三本見つけた。

 

そこで、そのうちの一本から一部をここに紹介しようと思う。

 

そうするのは、このようなストーリーの共同生産の感覚を読者にもわかってほしいからである。

 

いかなるストーリーの語りも、聞き手の反応によって形作られる部分が大きい。

 

聞き手がそのストーリーの登場人物でもある場合、それはいくら強調しても強調し過ぎることはない。

 

この場合、ペニーが聞き手であり、登場人物でもあった。

 

以下に示す逐語禄は、探偵マウス・シリーズのストーリーの標準的導入部分である。

 

探偵マウスは変な癖がないわけではないが(たとえば、ときに彼女は衒学趣味をあらわにした)、シャーロック・ホームズにも解明困難なミステリの多くを解決することさえできる特別なマウスなのである。

 

 

 

探偵マウス・シリーズの各話は、真夜中の森ではじまる。

 

探偵マウスは、木の上のとても素敵な居心地のいい家で熟睡しているという設定である。

 

思いどおりにならない事情がいくつかあって、探偵マウスは、適当な時間には決して呼びつけられないし、かといって夜はいつも死んだように眠っている。

 

探偵マウスはどちらかというと、熟睡するたちであり、ドアを叩く音など決して聞こえないのだった。

 

そのため、そんな不便な時間に探偵マウスを呼び出そうとする者は誰でも、それなりの音でドアをノックしなければならず、それは段々に大きな音にならざるを得ず、結局はドアをガンガン叩くことになる。

 

その結果、ドアは開かれる。

 

ちょうつがいからもぎとられ、ドアは床に激突する。

 

立ちのぼるホコリとドアの破片。

 

たいてい、これによって、探偵マウスは自分が必要とされているという急な知らせに気づくのだった。

 

言うまでもなく、各話のはじまりでは決まって、文字どおりたたき起こされた探偵マウスの気分は害されている。

 

事実、お話のこの場面で、彼女は決まって機嫌が悪いのである。

 

以下の逐語禄において、ペニーの貢献を太字で示していこう。

 

 

 

 

 

トン、トン、トン。(やさしいノックの音)

 

少女探偵マウスは、熟睡していて、ピクリともしない。

 

コン、コン、コン。(すこし大きめのノックの音)

 

少女探偵マウスは、身動きしない。

 

ドン、ドン、ドン。(大きなノックの音)

 

少女探偵マウスは、寝返りを打ち、すこしばかり鼻にしわを寄せる。

 

ところが、また眠りに落ちる。

 

 

 

ペニーがくすくす笑う。

 

 

 

ダン、ダン、ダン。(かなり大きなノックの音)

 

 

 

ペニーは大笑いする。

 

 

 

少女探偵マウスは、枕を顔に押し付ける。

 

さもなくば、熟睡のまま。

 

 

ドスン、ドスン、ドスン。(最大の音)

 

 

げ~き~と~つ?

 

 

ドアはちょうつがいからもぎとられ、床にたたきつけられる。

 

少女探偵マウスは片目をほんのすこしだけ開け、かつてはドアであった木片の山と立ちのぼるホコリの向こうの薄暗がりに目をこらす。

 

 

 

なんてこった! またかよ! どうしてこんなことがいつも真夜中に起こらなくちゃならないんだ? ああああああっ!(ペニーも大声を出し、四歳の声で話の筋を引き継ぐ)

 

 

 

どうしてもっと適当な時間に来れないのよ?(ペニーは続ける)

 

 

 

仕方ないって感じでゆっくりと、少女探偵マウスは、やわらかくて暖かいベッドから抜け出し、ドアの方へ進む。

 

玄関まで来ると、少年がひとりで立っている。

 

 

 

おおおおお!(ペニーは愛情たっぷりに叫ぶ)

 

 

 

「あんた誰なの? ここで何してんのよ! それに、なんでうちのドアをぶっこわさなくちゃなんないのよ?」 と、少女探偵マウスは質問攻めにしたものの、それでもものすごくイライラしている。

 

 

 

ここでも、さらに大きな笑いがペニーから漏れる。

 

 

 

「ドアを壊そうとは思わなかったんだよ。 僕はまだ小さな男の子だからね。 君の家のドアをノックしたのは、君の助けが必要だったからだよ。 だけど君が出てきてくれないもんだから、すこしずつ大きな音でノックするようにした。 それだけのことだよ」

 

 

 

少女探偵マウスは、いくらか声をやわらげて、こう言う。

 

「『それだけのこと』 って、どういうことよ? ひとの家のドアをぶっこわすなんていうのは、とんでもないことなのよ? それに、これはオークでできてるのよ? しかもね、これは二週間前に新調したばかりなの! もういいわよ、とにかく私があんたの何の役に立つのか言ってみなさいよ」

 

 

 

わかってる! わかってる!(ペニーは大きな声を出す。 そして、私たちは、かの有名な少女探偵マウスのもうひとつのとんでもない冒険譚へと誘われるのである)

 

 

 

 

 

それでは、私のプライベートなエピソードをここに挿入した目的についてお答えしよう。

 

私としては、ストーリーテリングについての上記の説明に特別なものはないと思っている。

 

それに、ストーリーテリングに加わるのは、小さい子どもを世話している人々にとって珍しいことでもなんでもない。

 

読者の多くは、自分自身のストーリーテリングの歴史に関する面白い説明を思いだしながら読まれたことだろう。

 

それなら、どうして私はこんな話を選んだというのか?

 

ストーリーテリングについてのこの話をもちだした、私の主たる目的は… 「リ・メンバリング」 実践というものの探求の導入にすることである。

 

リ・メンバリング実践は、セラピストの生産性の潜在的源だと私は信じて疑わないし、それは、仕事における私たちの現在進行形の滋養の源を提供する。

 

このリ・メンバリングは、単に思いだすことではない。

 

それは、私たちのアイデンティティのストーリーの創成、それに生活知識や生活技術に重要な貢献をしてくれた諸個人を認定し認証していくのに、実際に貢献する実践なのである。

 

 

 

何年ものあいだ、私は、多くの両親や、子どもを育てる役割を担った人々から、子育て中の子どもについてのさまざまな心配事について相談を受けてきた。

 

私はいつでも、子育てをしている人々や子どもたちとの面接をとても楽しみにしているし、彼らの心配事に対応する仕事でどれだけいろいろなことができるかを探ることも楽しいものである。

 

この仕事がいつでも完全なものだとか、小さな技術上の問題がないなどと匂わせるつもりは毛頭ないが、私は常に、子どもたちが世界をどのように知っていくのかという方法に参加することや、そのような知り方を支持し、引き上げるセラピー実践の探求に喜びを見いだしてきた。

 

これによって、相談の中心にある心配事をあきらかにする行為について、素晴らしく想像的な選択肢が提供された。

 

 

 

このようなことを振り返るなかで、私は気がついてみると、このような喜び、つまりこの特別な知り方に随分なじんでいることや、治療実践の展開について考えていた。

 

私はこれをどのように説明すべきなのだろう?

 

このような知り方との私の結びつきをもたらすものは何なのだろう?

 

このような治療実践を形作るものは何なのだろう?

 

もしかしたら子どもの発達理論か?

 

いや、そんなことはないだろう。

 

子どもとの仕事についての何冊かの教科書だろうか?

 

役に立つとは言えるだろう。

 

しかし、それでは私にとって満足のいく答ではない。

 

むしろ、このような質問に対する徹底した回答によって、私は、ジュリーやペニー、それに自分の知っている小さな子どもたちと自分との関係性を振り返ることになったのだろう。

 

子どもたちとの仕事において私に知識をもたせたものは、このような結びつき、つまり私の人生のメンバーシップという文脈においてだったことは、間違いない。

 

ジュリー、ペニー、それにその他の小さな子どもたちは、治療実践とこれらの知識の共同著述に私と一緒に取り組んでくれたのである。

 

 

 

 

一九九六年のはじめに、私は、なくしたと思っていたマウス・テープを何本か見つけた。

 

十五年も前のストーリーを再訪するのは、素晴らしいことだった。

 

それによって、このストーリーテリングの歴史を振り返る余裕が与えられ、子どもたちとの私の仕事の精神に対するペニーやジュリーの貢献と理解されることがらについて、ふたりと会話をすることができた。

 

この会話の結果、私は彼女たちの声がこの仕事において以前にもまして大きな存在となっていることに気がついた。

 

シェリルの声ももちろんである。

 

そもそも、彼女が、自分が一度も聞いたことのないストーリーを賞賛し、私が再現できることを疑わず、多くの方法でそれらを語ることを強化してくれたのだから。

 

このようなことはとても楽しいものであり、この仕事において私を支えているものについて、大いなる意識を経験した。

 

 

 

ストーリーテリングについてのこの話を実際に書くことは、自分の仕事をリ・メンバリングするさらなる練習となった。

 

つまり、子どもたちとの私の仕事の実践と知識を創成してくれる、私の人生の二、三のメンバーシップを認証する機会が提供されたのである。

 

この認証によって、そのような知識と実践の創成における自分の貢献を否定しているわけではない。

 

一段下の立場を取ろうとしているわけでもないし(一段上の立場などもっての他である)、何かを放り出そうとしているわけではない。

 

むしろ、私としては、このようなリ・メンバリングに取り組まなければ、子どもたちとの私の仕事は 「薄い」 記述(2)に変わり、多くのものが見捨てられてしまうだろうということなのである。

 

そうなれば、私の人生における重要なメンバーシップにおいて共同創成された知識や技術を再訪するという選択肢は、閉じられてしまう。

 

そうなれば、私の仕事を 「豊かに」 あるいは 「厚く」 記述されるために貢献するステップを踏み出す機会も、奪われてしまう。

 

そうなれば、私が仕事自体において新しい可能性を開く扉も、閉じられるであろう。

 

 

 

 

原注

 

(1) このストーリーは、『個人的なことは職業的なことである』(White & Hales, 1997)に初出。 ここで再度紹介したのは、本書におけるリ・メンバリングする会話についての私の主張を紹介する上で有意義だと信じたからである。 このストーリーについての後述の振り返りが、ナラティヴ・セラピーの概念と実践に関する重要な区別を明確化する上で援助となるだろうという思想によって、その話はここに収められることとなったと言っても過言ではない。

 

(2) ポスト構造主義的思想の流れにおける、薄い記述と厚い記述の並置については、ギアーツ(1973)の 「厚い記述-文化の解釈学的理論をめざして」 を参照のこと。

 

~『セラピストの人生という物語』 「Ⅰ リ・メンバリングと定義的祝祭」 P22-35~