謝罪?器の大きさ? | A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

A Seedsman's Tweets ~種蒔き種蒔き♪~

徒然に呟いていきます。
ツイッターも!http://twitter.com/nabe_w999

>> 
アメリカの大実業家・アンドリュー・カーネギーは謝罪についてこう語っています。
 
「恨みを抱くな。たいしたことでなければ、堂々と自分の方から謝ろう。頑固を誇るのは小人の常である。にっこり握手して自分の過ちを認め、いっさいを水に流して出直そうと申し出てこそ、大人物である」
 
あなたが真のゴールをしっかり見据えていれば、理不尽な相手への謝罪など、とても些細なことだと気付くはずです。
 
前前前世までにも渡る大きな器を持った時、私たちはカーネギーに並ぶことができるかも、です。
<< P84



僕のお気に入り 『社畜人ヤブー 3rd Impact』(那智 泉見著) の「シン・とある社畜の業務所感2 謝意100%の土下座?」の中の一節。


日々を過ごしていると思い通りにいかないことはままあるわけで、運が悪いと感じることでしょうがないと諦めがつくこともあれば、準備不足や立ち回りの至らなさなど自分の先見の明の無さを嘆かなければならないことも多々あるわけです。
 
そしてそのような思い通りにいかないことの原因としては運、または自分に責のあることであればやり過ごせることができるものの、時にはどう考えても自分に責がないのにそれが自分のせいだとして責任転嫁をされたり、たとえ自分の側に多少の落ち度があったとして、それをあたかも針小棒大の如く大袈裟に取り上げえられてマウントを取られたうえで理不尽なまでに攻撃されるなどということがあると、さすがに何だかなぁと呆れると共に言葉にならない悲しみを感じることがあり、その後には沸々と怒りが湧いてきてどうしようもならない気分に陥ることがあるものです。

なぜそのようなことが生じるかというと、私たちは様々なステークスホルダーと共に人間関係を築いて社会生活を営んでいますが、残念ながら我が身可愛さから自分のことだけを考えることで他人の感情に無配慮な上、他人を傷つけることを少しも厭わない人々が一定数存在するからだと、個人的には考えています。

祝福? 呪詛?

>>>>
例えば以前に下記エントリーでも述べましたが、言葉の暴力ともいえる理不尽な攻撃的な態度で周囲に悪影響を与える人を、私たちが生活する環境下においてとても多く目にすることができるでしょう。
 
感受性:ver2.0
 
>>
理不尽さや他人からの攻撃的な態度は、感受性豊かな性質を備えた人に対して致命的とも言えるダメージを与えてしまうこともある可能性を私たちは意識する必要があるのだと思っています。
<<
 
そしてそれら悪意ある言葉を使用する人々から受けた影響で体調を崩したり人生を狂わされてしまった被害者に関するニュースを耳にしない日がないことは、とても悲しいことだと思っています。
<<<<


ですが、私たちはたとえ他人からそのような理不尽な扱いを受けたとしても、それらに対して過剰に反応をすることが決して自分のためにならないことを以下のサイトは教えてくれています。


器が小さい人の特徴9つ

5セカンズ


>>

器が小さい人の特徴としてすぐ怒る

 
器が小さい人は、感情を溜めておく器も小さいため、すぐに気持ちが外に出てしまいます。特に怒りや卑屈な気持ちなどのマイナス感情が出やすい傾向があります。

本人としては我慢しているつもりでも、「怒ってる?」と周りからは丸分かり。そんな時は心配するとかえって「怒ってないって言ってるじゃん!」と火に油を注ぐだけなので、そっとしておくのが一番ですが、心配されていないと感じるとそれに対してまた怒ったりすねたりすることもあるので注意が必要です。
 

人のせいにする

 
何か問題が起きたり、誰かが責任を取らなければいけない時に、人のせいにして逃げようとするのが器の小さい人の特徴です。

自分のミスであっても、自分がミスすることになった原因を他に見つけ出し、自分の否を認めようとはしません。

自分を守ろうとする意識が強く、「でも」「だって」が口癖。何か言われたら、その内容を理解しようとする前にまず反論しようとします。

明らかな自分のミスの場合にはその言い訳に終始し、失敗から学べないタイプです。人に対してだけでなく、自分に対しても言い訳することに慣れてしまい、次につながる改善策が見えてこないのです。


<<
 
そう、人のせいとして責任転嫁をしたり、怒りをあらわにするという行動は実は自分の器の小ささを周囲にアピールする行為でもあるのです。

つまり、理不尽な行動をとる人物というのは「私はこんなに器が小さな人間なんですよ~」ということを図らずも自らの行動で示しているようなものなのでしょう。

ですから、たとえ他人から理不尽な扱いを受けたとしても、それに過度に反応するということは、自分もそれらを行った器の小さな人々と同じステージに上がることを意味するのであまり得策なことではないのだと、個人的には思っています。


加えて、何であれ因果応報の教えをわかりやすく表現した「お天道様」という考え方も、自らに降りかかる理不尽に対して過剰に反応することを抑止することを助けてくれることでしょう。

お天道様が見てる

日本語表現辞典 Weblio辞書

>>
人間の悪事に対して、ほかの人間が誰も見ていなくても太陽はきちんと見ているのだから、どんな時でも悪事ははたらかぬべきだと説く語。
<<



「お天道様が見ている」は正しい

竹の女

>>
お天道様は、罰を与えたりはしないのです。
お天道様は、「愛」と「法則」なのです。
それこそが、「天の道」。
 
「誰も見ていなから」と悪事を働いて逃げおおせたとて、
いずれ法則が自分を裁きます。
誰も気づかないところで善行を行ったのなら、
のちのち大きな愛となって返ってきます。
 
「お天道様が見ている」というのは、
この世には常に愛と法則が働いているということを
わかりやすく言い換えたものだと私は思うのです。
<<


ですから、私たちは何事であれ自分の未来を形作るものは今現在の自分の行動であることを強く意識して、自らを信じて常に行動することが求められるのでしょう。

もちろん日々の行動においては失敗することがあるのならばそれを真摯に受け止めて反省をした上での行動が求められますし、周囲からの理不尽な対応においては毅然とした態度でそれを受け止めることが求められるのだと思っています。

そして同時にそのことこそが、自分の器を大きくするために私たちが日々取り組まねばならないことでもあるのかもしれません。

清濁併せ呑むために

Tweets Stock NEO

>> 
そう、「困難」 は見方を変えるならば、 私たちの人生に彩りを与えてくれる大切なものでもあるのです。
 
 
ですから困難や問題を避けるのではなくて、困難や問題が目の前に現れてもそれを乗り越えることができる自信を身につけるべく日々努力すること、それが大事なことなのでしょう。
 
そしておそらくは、そのような自信が心の余裕をもたらし、 周囲に対して貫禄のある風格をもたらすことになるのだと思っています。
<< 



そして最後に、これは自分も常に意識しているお気に入りの考え方でもあるのですが、私たちは故事成語の元にもなったある人物の行動をお手本にすることができるのだということを強く意識することができるのでしょう。

韓信の股くぐり

故事ことわざ辞典
>>
韓信の股くぐりとは、将来に大志を抱く者は、屈辱にもよく耐えるというたとえ。
<<



韓信の股くぐり 「人間力」エピソード集

人間力ラボ

>>
反射的に反応して、自分に不利な結果を招くのは簡単なことだ。そこをぐっとこらえることで、新しい自分の未来が切り開けるものなのである。

韓信は、自分を殺して目的を追い続けることで、大望を果たしたのである。
<<


その人物とは中国秦末から前漢初期にかけての活躍した武将韓信で、劉邦が天下を取ることに最大限貢献した国士無双とも称された武将です。

そして韓信は先の故事成句もあるように、目先のつまらない挑発に反応して決して自らの未来を汚すことなく、自らの才能を強く信じ、様々な苦難を乗り越えて野心を遂げたことで一躍有名になった人物でもあります。

ですから改めてになりますが、器の小さな人物からの理不尽な行動に反応して同じステージに上がることで自らの器の小ささを露呈することなく、そのような小人を相手にすることなく自ら信じる道を進むことで小さな行動を日々積み重ね、その過程において自らの器を磨いていくことで理想を叶えるべく歩みを進めていくことが求められるのだと、自分は強く思っています。


もちろんこれらは言うほど簡単なことではないことは承知していますが、そう意識して日々を送ることで自らの信じる道を日々歩んでいきたいものです。

 
 
 
 



 
 
 
 土下座は社畜の文化です。
 
・・・
 
さて、個人においても何か問題が発生した時に必要とされるのは対処の速さです。
 
謝罪しなければいけないような事案の場合、時間を置いてしまいますと謝罪を受ける側が感じ、受け取る「誠意」が薄れてしまいます。
 
早ければ早いほど信頼の損失も最小限にとどめることができるというものです。
 
 
しかし、時として理不尽なクレームや責任転嫁のような形で謝罪を求められることが少なくありません。
 
とりあえずは頭を下げ、相手の怒りが収まるまで待つ・・・。
 
相手の言い分をまずは反論せずにじっくりと聞くことで大概の場合、振り上げた拳はゆっくりと下ろされるものです。
 
相手も人間ですからそういつまでも怒りの感情に流されはしません。
 
また、相手の理不尽な主張に対して憤った場合、こちら側のメンタルとしては自分たちは100%悪くなかったのだろうか?という自問自答をしてみるべきです。
 
様々な事案の中で自分が100%正しいと言い切れることが果たして世の中にあるものでしょうか?
 
被らなければならないことには必ずその原因があるはずです。
 
もし仮に99%正しいと思っていても100%でなければ原因は自分にもあるわけですから謝罪をするべきなのです。
 
どうしても納得がいかない!
理不尽だ!
 
絶対に謝りたくないという思いや憤りから逃れられない場合はその原因を前世まで遡ってみてはいかがでしょうか。
 
あなたは前世でかなりの悪人だったのかもしれません。
 
それでもダメな場合はもっと遡って前前前世まで遡ってみてください。
あれ、女子高生になってませんか?
 
ほら、もう、どうでもよくなってきたでしょう。
 
こちらに謝意がなければ誠意は伝わりませんが少しでもそれがあれば、おのずと身に言葉にあふれ、相手に伝わる謝罪ができることでしょう。
 
 
アメリカの大実業家・アンドリュー・カーネギーは謝罪についてこう語っています。
 
「恨みを抱くな。たいしたことでなければ、堂々と自分の方から謝ろう。頑固を誇るのは小人の常である。にっこり握手して自分の過ちを認め、いっさいを水に流して出直そうと申し出てこそ、大人物である」
 
あなたが真のゴールをしっかり見据えていれば、理不尽な相手への謝罪など、とても些細なことだと気付くはずです。
 
前前前世までにも渡る大きな器を持った時、私たちはカーネギーに並ぶことができるかも、です。
 
 
しかし、悪質なクレーマーなどは謝罪の誠意を金銭などに置き換えて要求してくる場合があるので大変です。
 
会社の利益として毅然と守るべきところは守らなければなりませんから非常に難しい対応を
迫られることでしょう。
 
 
~『社畜人ヤブー 3rd Impact』「シン・とある社畜の業務所感2 謝意100%の土下座?」 P82-84~