すこし前、「鉾とりて~土方歳三辞世の歌?」 でふれた、『俳遊の人 土方歳三』を読みました。
歳さん俳句などの解説本かと思いきや、もっと広がりのある内容でした。
第一部は「剣術道場と学問」で、江戸時代の“ダブルスクール”としての道場についての説明からはじまりました。幕末の武士たちにとって、実は剣術修業そのものが目的というよりは、漢学・蘭学などの学問修業と並行、人によっては剣術修業のほうがおまけ(口実)であった、という内容でした。
まあ、なんにせよ、当時の武士には教養が必須だったということです。
近藤勇なんかは、「武士」として、ものすご~く学問に真剣に取り組みました。
歳三の句だけかと思ったら、近藤の漢詩・和歌制作についても、かなりの分量でふれられていました。予期しなかっただけに、おトク感ありです。
対して歳三の場合は、いかにも江戸近郊の富農の息子といった感じです。周囲には、趣味的な雅事、文雅の好きな者がたくさんいました。そうした中で、歳三も「月並句会」に通ったと思われます。
司馬遼太郎の小説などを代表に、歳三の句作の下手っぷりがよく(温かく)描かれますが、これは歳三が悪いのではなく、幕末の「月並句会」の風なのだとか。もちろん、才があったとはけっしていえませんが。
歳三の遺した句集『豊玉発句集』ですが、実は、京都の隊務の合間に詠んでいたというのは司馬氏などの創作で、江戸を発つ前の句を集めたものなのだとか。
なので、司馬氏以降の書籍などに見られがちな、句の中に政治的解釈をもとめるのは違うのではないか、ということが、この本では述べられていました。
それから、「鉾とりて」の歌について。
この本の中では、島田魁が歳三への追悼歌として詠んだとされていました。
たしかに、この歌集自体、26年前に島田家から霊山歴史館に寄贈されていたものだといいますし、いまになってなぜ歳さん自身が詠んだという解釈に? など、不思議に思いますが……