東京散歩道

東京散歩道

「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

東京お散歩教室は、首都圏の隠れた名所や穴場観光地、地元の名物などを紹介している、1人参加が中心の少人数制の街歩きの会。身近な街をお散歩して新たな発見とストレス解消をご提供するほか、趣味の仲間作りの場にもなっています。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の東京お散歩教室「第186回 王子周辺ぐるっと散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は王子駅北口から。

 

まずは、洋紙発祥の地碑へ。

 

 

洋紙発祥の地碑は、北区王子1丁目に立つ記念碑。

日本の洋紙生産は、明治6年(1873)にヨーロッパの先進文明を視察して帰国した渋沢栄一(1840~1931)が「抄紙会社」を設立し、王子に製紙工場を造ったことから始まりました。

田園の中、煙を吐く煉瓦造の工場は、当時の錦絵にも描かれ、東京の新名所となり、日本の製紙業に大きな役割を果たしましたが、昭和20年(1945)、戦災によりその歴史を閉じました。

この碑は、工場創立80周年を記念し、昭和28年(1953)に、王子製紙の跡地に建てられたものです。

 

洋紙発祥の地碑の次は、お札と切手の博物館へ。

 

 

お札と切手の博物館は、北区王子1丁目、独立行政法人国立印刷局内にある、お札と切手関係の専門博物館。

印刷局創立100年を記念して、昭和46年(1971)に新宿区市谷に開設。

平成23年(2011)に北区王子に移転しました。

展示室は1階と2階に分かれており、1階展示室は、新しい日本銀行券の紹介コーナーや偽造防止技術の歴史についての展示、1億円の重さ体験コーナーなどがあり、2階展示室は、歴代の日本のお札や切手を展示し、社会背景の変化や技術の進歩によるデザインの移り変わりを見ることができるほか、世界のお札や切手も多数展示されています。

また、国立印刷局では、旅券(パスポート)・官報・諸証券も製造しており、これらを紹介するコーナーもあります。

 

お札と切手の博物館の次は、あすかパークレールへ。

 

 

あすかパークレールは、平成21年(2009)7月より運行を開始した、無料で乗車できる「飛鳥山公園モノレール」の愛称。

公園入り口駅から山頂駅までの高低差17.4m、レール延長48mを2分で結んでいます。

運転は無人で、年末年始、整備点検日等を除いて年中無休。

運行時間は午前10時から午後4時まで。

利用者はエレベーターと同じ要領でボタンを押し、モノレール「アスカルゴ」の昇降操作を行います。

定員はイス席6人、立ち席10人の16人乗り。

車両内は冷暖房完備で、車イス・ベビーカーでの利用も可能です。

 

あすかパークレールの次は、飛鳥山公園へ。

 

 

飛鳥山公園は、北区にある区立公園。

8代将軍·徳川吉宗が享保の改革の一環として、花見の行楽地として整備・造成を行ったことが始まりで、明治6年(1873)、太政官布達により、上野公園・芝公園・浅草公園・深川公園と共に日本最初の公園に指定。

主な施設として、「北区飛鳥山博物館」・「紙の博物館」・「渋沢史料館」などがあります。

また、園内に残る渋沢栄一の旧邸(晩香廬・青淵文庫)は国の重要文化財に指定されています。

 

飛鳥山公園を散策しながら、続いて渋沢史料館へ。

 

 

渋沢史料館は、北区西ケ原2丁目、飛鳥山公園内にある博物館。

渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、昭和57年(1982)に開館。

かつて栄一が住んでいた旧渋沢邸跡に建ち、公益財団法人渋沢栄一記念財団が運営を行い、栄一の生涯と事績に関する資料を収蔵・展示しています。

また、関連イベントなども随時開催しています。

 

史料館を見学後、旧渋沢庭園へ。

 

 

旧渋沢庭園は、飛鳥山公園の一角にある、曖依村荘と名付けられた渋沢栄一の旧宅跡。

はじめ渋沢栄一が王子製紙の工場を訪問した際、王子権現(王子神社)付近を散策したところ、眺望が良かったことから西ケ原の地を気に入り、明治12年(1879)に別荘地とし、明治34年(1901)に庭園を含めた敷地面積8,470坪(約28,000㎡)の本邸が完成。

その後、栄一の長寿の祝いの都度、建物が設けられ、明治42年(1909)5月に古稀(70歳)祝いとして平壌から愛蓮堂が移築され、大正6年(1917)に喜寿(77歳)祝いとして晩香廬、大正14年(1925)に傘寿(80歳)祝いとして青淵文庫が贈られました。

子爵·渋沢栄一は昭和6年(1931)に亡くなりますが、栄一の長男·篤二が病弱であったため、篤二の長男で、栄一の嫡孫である敬三が2代当主として家督と子爵位を継承。

栄一から遺言を預かった渋沢子爵家当主·敬三によって邸宅内の土地と建造物は財団法人竜門社(後の公益財団法人渋沢栄一記念財団)に寄贈され、昭和8年(1933)から一般公開を開始。

昭和20年(1945)には、内閣総理大臣官舎第二別館となりましたが、同年の空襲により日本館と西洋館からなる本館など主要な建物は焼失。

そして、時代が下ると敷地の分割が進みましたが、晩香廬と青淵文庫の周辺は庭園の姿が維持され、平成4年(1992)からは北区が管理。

現在は旧渋沢庭園として一般公開されています。

 

旧渋沢庭園では、まず晩香廬を見学。

 

 

晩香廬は、渋沢栄一の77歳の喜寿を祝い、合資会社清水組(現在の清水建設)の清水満之助が長年の厚誼を謝して、大正6年(1917)に贈った小亭。

建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられています。

また、外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ、壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっています。

さらに、応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家·田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができます。

なお、晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、栄一自作の漢詩の一節「菊花晩節香」から採ったといわれます。

そして、栄一はこの場所をレセプションルームとして愛用し、国内外の賓客をもてなしました。

 

晩香廬の次は、青淵文庫へ。

 

 

青淵文庫に入る前に、建物をバックに記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

 

青淵文庫は、渋沢栄一(雅号·青淵)の80歳の傘寿と子爵に昇格した祝いを兼ねて、門下生の団体「竜門社」が大正14年(1925)に贈呈した建物。

栄一が収集した「論語」関係の書籍の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築で、設計者は田辺淳吉。

建物の外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられています。

さらに、上部の窓には渋沢家の家紋「丸に違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されており、内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されています。

 

青淵文庫を出た後は、「渋沢×北区 飛鳥山おみやげ館」でおやつ&お土産購入タイム。

 

 

各々気になった商品を購入。

私は渋沢百訓饅頭をその場で食べました。

 

お買い物の後は、飛鳥の小径へ。

 

 

飛鳥の小径は、飛鳥山公園の北側、JR線路沿いの小径。

約10種類、1,300株ほどの紫陽花が植えられており、見頃は6月の初旬。

約350mの小径が鮮やかに彩られます。

 

飛鳥の小径で紫陽花観賞をした後は、王子神社へ。

 

 

王子神社は、北区王子本町1丁目に鎮座する東京十社の一社。

旧称は「王子権現」で、「王子」という地名の由来にもなっている神社。

御祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命・天照大御神・速玉之男命・事解之男命の五柱で、総称して「王子大神」と呼ばれており、開運招福、運気の回生、厄除け、家内安全、身体健全、交通安全や子供に関する祈願に神徳あらたかです。

創建は不明ですが、平安時代、源義家が奥州征伐の折、当社の社頭で慰霊祈願を行い、甲冑を納めたという故事もあり、その後、元亨2年(1322)、領主·豊島氏が紀州熊野三社より王子大神を迎えて、「若一王子宮」として奉斉。

熊野にならって社殿を再興しました。

それよりこの地は王子という地名になったといわれています。

そして、戦国時代は北条氏が崇敬し、江戸時代に入ると将軍祈願所に定められ、3代将軍·徳川家光が社殿を新造。

儒学者·林羅山に命じて『若一王子縁起』絵巻三巻を作らせ奉納し、その後も社殿の造営・修繕は続き、「王子権現」の名で江戸の名所の一つとなり、明治元年(1868)には准勅祭社に選ばれました。

社殿は戦災焼失後、昭和39年(1964)と昭和57年(1982)の2回の造営を経て再建された権現造の建物。

その他、北区指定無形民俗文化財(民俗芸能)「王子田楽」を奉納する8月の祭礼や、12月の熊手市などの風物詩をはじめ、天然記念物として東京都指定文化財となった大イチョウ、理容業界の神様とされる関神社と毛塚があることでも知られています。

 

王子神社の次は、狸家へ。

 

 

狸家は、北区王子本町1丁目にある和菓子店。

王子といえば、狐を連想しますが、こちらでは狸が最中になって売られています。

 

狸家の次は、石鍋商店へ。

 

 

石鍋商店は、北区岸町1丁目にある明治20年(1887)創業の甘味処。

久寿餅が有名なのですが、時間が遅かったので既に売り切れ。

メンバーさんが代わりに「狐の行列瓦煎餅」をお土産に購入されました。

 

石鍋商店の次は、王子稲荷神社へ。

 

 

王子稲荷神社は、北区岸町1丁目に鎮座する、宇迦之御魂神・宇気母智之神・和久産巣日神を御祭神として祀る、衣食住の祖神で、産業の守護神。

古くは「岸稲荷」と称し、平安時代中期の武将·源頼義が関東稲荷総司として深く信仰していたという社伝が残っています。

そして、豊島氏が領主の時代に地名が王子と改まり、「王子稲荷神社」に改称。

戦国時代は北条氏が尊崇しました。

また、江戸時代には金輪寺が別当として、明治維新まで王子権現(王子神社)と共に管掌し、徳川将軍家の祈願所として大いに栄え、3代将軍·徳川家光が社殿を造営、5代将軍·綱吉と10代将軍·家治が修繕をした後、11代将軍·家斉が文政5年(1822)に社殿を新規再建。

八棟造り極彩色の華麗な社殿が建てられましたが、昭和20年(1945)4月の空襲で本殿は大破。

現在の社殿は、拝殿・幣殿が文政5年(1822)のもので、本殿は昭和35年(1960)に再建されたものです。

また、昭和62年(1987)には、社殿の総塗り替えが165年ぶりに行われ、神楽殿も新規に建て替えられました。

 

王子稲荷神社の次は、名主の滝公園へ。

 

 

名主の滝公園は、北区岸町1丁目に所在する区立公園。

名主の滝は、江戸時代後期に王子村の名主·畑野孫八が屋敷内に滝を開き、茶を栽培し、一般の人々に開放したのが始まりで、名称もそれに由来しています。

明治中頃には、畑野家から貿易商·垣内徳三郎の所有となり、栃木の塩原の景観を模して庭石を入れ、ヤマモミジなどを植栽し、渓流をつくって、庭園として公開。

昭和13年(1938)には、株式会社精養軒に所有が移り、食堂やプールも設けられましたが、戦災で焼失。

その後、昭和35年(1960)に東京都によって再公開され、昭和50年(1975)に北区に移管されました。

園内は、男滝・女滝・独鈷の滝・勇玉の滝の4つの滝からなり、地下水をポンプで汲み上げて水を流しています。

(現在は、男滝のみが10時から16時まで稼働)

 

 

名主の滝公園に着いたのが閉園間近だったため、狸最中だけつまんで公園を後にし、北とぴあへ。

 

 

北とぴあは、北区王子1丁目に所在する、区の産業の発展と区民の文化水準の高揚を目的として、平成2年(1990)にオープンした複合文化施設。

館内には、ホール・会議室・研修室・音楽スタジオ・トレーニングルーム・消費生活センターといった、様々な施設があり、最上階の17階にある展望ロビーでは、南・東・北の三方が眺められるようになっていて、北区の景色を一望することができます。

 

こんなふうに、あちこち巡って王子駅でお散歩は終了。

 

 

その後、有志のメンバーさんと「くいもの屋 わん 王子店」で懇親会を開いて、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、またの機会にどうぞよろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

http://tokyo-osampo.com

お散歩ナビゲーター 小島信康です。

 

今回は東京お散歩教室「第186回 王子周辺ぐるっと散歩」のご案内です。

 

第186回は、北区。

王子駅周辺に点在する、様々な見所を、紫陽花観賞をしながら巡ります。

 

コースは下記の通りです。
≪王子駅~洋紙発祥の地碑~お札と切手の博物館~あすかパークレール~飛鳥山公園~渋沢史料館~旧渋沢庭園~飛鳥の小径~王子神社~王子稲荷神社~名主の滝公園~北とぴあ~王子駅≫

 

その他、日程・時間・参加費等、詳細は教室ホームページをご覧ください。

 

 

途中のおやつや、お土産購入も楽しみの一つ。

 

 

また、お散歩の後、懇親会も開いていますので、こちらもお楽しみいただけるかと思います。

(参加はご希望者のみ。お酒が飲めない方も多数参加されています)

 

 

東京お散歩教室は、街の見どころをのんびり歩いて巡る、大人の遠足。

 

参加者ほぼ全員がおひとりさまで、一人では入りにくい施設や穴場観光地などをみんなで訪ねたり、寺社をお参りしたりしています。

 

「街歩き」「タウンウォッチング」「健康」「ストレス解消」「友達作り」「穴場観光」「風景写真」などにご興味をお持ちの方、是非ご検討なさってみてください。

 

何卒よろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

http://tokyo-osampo.com

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の東京お散歩教室「第185回 和泉多摩川~狛江散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は和泉多摩川駅から。

 

まずは、こばこベーグルへ。

 

 

こばこベーグルは、駅のすぐそばにある地元で人気のベーグル屋さん。

こちらで、おやつ&お土産を購入。

 

こばこベーグルの次は、多摩川の河川敷にある、多摩川決壊の碑へ。

 

 

多摩川決壊の碑は、狛江市猪方4丁目にある、多摩川水害のモニュメント。

昭和49年(1974)8月31日深夜から9月1日夕方にかけて台風16号の影響をうけ、多摩川の水位が上昇を続けました。

この出水により、1日昼頃、二ヶ領宿河原堰左岸下流の取付部護岸が一部破壊されたのを発端に、激しい迂回流が生じたため高水敷が侵食され、午後10時過ぎには本堤防が決壊し、住宅地の洗掘が始まりました。

迂回流はその後も衰えを見せず、本堤防260mを崩壊させたうえ、1日深夜から3日午後までの間、狛江猪方地区の家屋19棟を流失させる被害をもたらしました。

この「多摩川水害」は、首都圏の住宅地で発生し、3日間という長時間にわたった特異な災害であり、報道機関によってリアルタイムに全国に報じられ、国民の注目を集めることとなり、建設省は災害直後から本堰周辺の復旧工事を進め、翌年には完了させるとともに、「多摩川災害調査技術委員会」を設置し、原因の究明にあたりました。

一方、被災住民は国家賠償法に基づいて提訴し、平成4年(1992)に判決が確定。

その後、従来の堰より40m下流に、洪水を安全に流す新しい堰が完成しました。多摩川決壊の碑は、水害の恐ろしさを後世に伝えるとともに、治水の重要性をうたっています。

 

多摩川決壊の碑の次は、猪方小川塚古墳公園へ。

 

 

猪方小川塚古墳公園は、狛江市猪方3丁目にある、令和2年(2020)に開園した古墳公園。

猪方小川塚古墳(東京都指定史跡)は、墳丘の直径約15m、高さ約3mの円墳で、7世紀半ばに築造されたものと考えられ、平成23年(2011)の発掘調査により、泥岩質の石材で造られた切石切組積みの横穴式石室が確認されました。

石室は、天井部と壁面の一部が失われているものの、良好な状態で残されており、玄室の礫床上から耳環や鉄鏃などの副葬品が出土しました。

市では多摩川流域全体で見ても数少ない切石切組積みの横穴式石室を良好な状態で保存しつつ活用を図るため、保存・整備の方法を検討。

そして、石材に保存処理を施し、覆屋を設け前面からガラス越しに石室内部を観察できるようにし、墳丘を復元するなどの整備を行いました。

 

猪方小川塚古墳公園の次は、亀塚古墳公園へ。

 

 

暑かったので、途中で思わずミニストップに立ち寄り、ソフトクリームなどを買って、身体をクールダウンさせました。

 

 

亀塚古墳公園は、狛江市元和泉1丁目にある、令和2年(2020)に開園した古墳公園。

亀塚古墳は、5世紀末頃に築造されたと考えられる、最大長約41m、高さ約7mの帆立貝形の前方後円墳で、狛江古墳群の中でも屈指の規模をほこる古墳でした。

発掘調査は昭和26年(1951)に行われ、銅鏡や鉄剣、馬具などが出土。このうち、金銅製金具に見られる人物や動物の図像が、高句麗の古墳石室内の壁画に類似していることから、狛江と渡来人との関係が指摘されました。

その後、墳丘の大部分が削られてしまい、前方部の一部が残るのみとなっていましたが、前方部周辺を整備し、通路や広場を設けて植栽などを施し、古墳公園として開園。

なお、出土品は東京国立博物館などに収蔵されています。

 

亀塚古墳公園の次は、穴守稲荷分神社へ。

 

 

穴守稲荷分神社は、狛江市中和泉3丁目に鎮座する、豊受姫命を御祭神として祀る神社。

大田区羽田5丁目に鎮座する穴守稲荷神社から勧請し、創建された分社ですが、創建年代や経緯は不明。

家内安全商売繁昌の御神徳があるとうたっています。

 

穴守稲荷分神社の次は、狛江市立古民家園へ。

 

 

狛江市立古民家園は、狛江市元和泉2丁目にある「むいから民家園」の愛称で知られている古民家園。

園内には、市内に残された江戸時代の数少ない建造物として、旧荒井家住宅主屋1棟と旧髙木家長屋門1棟が移築・復元されています。

もともと、元和泉1丁目に残されていた旧荒井家住宅主屋は、東京都と小田急電鉄による連続立体交差・複々線化事業にともない、取り壊されることになっていました。

また、西野川1丁目に残されていた旧髙木家長屋門にも取り壊しの話が持ち上がっていました。

この古民家の保存を求める声は市民の間からあがり、市民有志は古民家を解体・保存し、市内に復元することを目指して行政に働きかけ、古民家復元事業は市民と行政が協働で取り組むワークショップ方式で進められました。

そして、平成14年(2002)4月、旧荒井家住宅主屋が移築・復元されて古民家園が開園し、その後、平成22年(2010)に旧髙木家長屋門も移築・復元され、現在にいたります。

 

 

日陰になっている旧荒井家住宅主屋の縁側に腰掛けて、おやつタイム。

こばこベーグルで買ったベーグルをみんなで頬張りました。

 

狛江市立古民家園の次は、兜塚古墳へ。

 

 

兜塚古墳は、狛江市中和泉3丁目にある東京都指定史跡。

兜塚古墳は、昭和62年(1987)と平成7年(1995)に行われた確認調査により、墳丘の残存径約43m、周溝外端までの規模約70m、高さ約4mの円墳と考えられます。

また、周溝の一部の状況から、円墳ではなく帆立貝形の古墳の可能性も指摘されています。

墳丘の本格的な調査を実施していないため、主体部などはよくわかっていませんが、土師器や円筒埴輪が出土しており、円筒埴輪の年代から築造年代は6世紀前半と考えられています。

 

兜塚古墳の次は、伊豆美神社へ。

 

 

伊豆美神社は、狛江市中和泉3丁目に鎮座する、大国魂大神を主祭神として祀る神社。

創建は寛平元年(889)で、当時「武蔵総社六所宮」と呼ばれた大國魂神社から分霊を勧請したことによります。

そのため、当初の名称は「六所宮」で、もともとは北谷村字大塚山(現在の狛江市元和泉)に鎮座していましたが、天文19年(1550)の多摩川の洪水により、天文21年(1552)、現在地に遷座。

江戸時代は、当地を所領とした井伊氏・石谷氏・松下氏より、金穀の奉奠があったといい、明治元年(1868)、「六所宮」から「伊豆美神社」に改称しています。

また、参道の入口に建つ小振りの石造鳥居は、慶安4年(1651)に、和泉村の領主·石谷清定の三男·石谷貞清によって奉納されたもので、江戸時代初期に造られた石造鳥居は、都内でも数が少なく、また市内では最古のもので、市指定文化財に指定されています。

 

 

拝殿にお参りした後、神楽殿の前で記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

伊豆美神社の次は、泉龍寺へ。

 

 

泉龍寺は、狛江市元和泉1丁目にある、雲松山と号し、釈迦如来を本尊として祀る曹洞宗の寺院。

由緒は、伝説によれば、奈良東大寺を開山した良弁僧正が天平神護元年(765)にこの地に来て雨乞いをし、法相宗・華厳宗兼帯の寺を創建したのが始まりとされ、天暦3年(949)、廻国の増賀聖がこれを天台宗に改め、法道仙人彫刻の聖観世音菩薩を安置したといいます。

そして、戦国時代になると寺は衰退し、小さな観音堂だけになっていましたが、旅の途中で立ち寄った泉祝和尚が泉の畔で霊感を受け、ついに曹洞宗の参禅修行道場として当寺を復興。

その後、天正18年(1590)、徳川家康が関東に入国すると時代は一変し、石谷清定が入間村(調布市)の内150石と和泉村(狛江市)の内100石を与えられ、地頭として霊泉に接する小田急狛江駅南側に陣屋を構えて下屋敷としました。

清定は泉龍寺の中興開山·鉄叟瑞牛和尚に帰依し、霊泉に中島を造り弁財天像を祀るなど、率先して寺域の整備に努めたので、中興開基とされています。

また、本堂は宝永3年(1706)再建されたもので、市内最古の建造物。

昭和35年(1960)より翌年にかけて、檀信徒の総意により諸堂とともに大改修が行われ、茅葺の屋根は瓦葺に変わりました。

 

 

この日、泉龍寺では、コーヒーと音楽を楽しむイベント「珈琲参道2024」が催されていたため、境内は大賑わいでした。

 

泉龍寺の次は、泉龍寺弁財天池へ。

 

 

泉龍寺弁財天池は、狛江市元和泉1丁目にある市の史跡。

市民に「しみず」という名で親しまれている池で、「和泉」という地名もこの池からうまれたものと推定されます。

伝説によると、奈良時代に全国的な大旱魃があり、良弁僧正がこの地において雨乞いを行ったところ、竜神が現れて雨を降らし、その時に水が湧き出したといい、旧「和泉村」の雨乞い行事をする霊泉として信仰を集めてきました。

また、池の中島には元禄6年(1693)にできた石の祠があり、弁財天が祀られています。

池はいつの旱魃にも涸れることなく、その豊富な水量で下流の水田の灌漑用水に利用されてきましたが、市内での地下水汲み上げ量が増えた結果、昭和47年(1972)11月に涸れつきてしまい、昭和48年(1973)3月12日に、狛江市史跡第一号に指定され、復元工事が行われました。

 

泉龍寺弁財天池の次は、耳切り地蔵尊へ。

 

 

耳切り地蔵尊は、狛江市元和泉1丁目、泉龍寺別院の境内に立つ地蔵尊。

背中に「明暦三年(1657)檀那の菩提のために、地蔵菩薩を造立し奉る。隆法寺、西源の代」という文字が刻まれています。

隆法寺は、泉龍寺の塔頭として旅人を泊めたりする村の中の憩いの場で、ほぼ泉龍寺別院の位置にありましたが、明治維新の頃に廃寺。

なぜ「耳切り地蔵尊」と呼ばれているかというと、一説には次のような言い伝えがあるためです。

「昔、このお地蔵様が道の辻に立っていた頃のこと、村人が追いはぎに襲われ刀で斬りつけられ、やっと逃げ帰りました。翌日になってみたら何の傷もありません。不思議に思って辻のところに行ってみると、なんと、お地蔵様の耳に刀傷がありました。お地蔵様が身代わりになってくれたのでした。」

こうした伝説から、耳で悩んでいる人を救ってくれる、ということにもなり、今も人々の崇敬を集めています。

(言い伝えは、他にも諸説あります)

 

耳切り地蔵尊の次は、狛江駅前へ。

 

 

狛江駅前で、狛江が絵手紙発祥の地であることを紹介して、お散歩は終了。

 

 

その後、有志のメンバーさんと「つぼ八 狛江駅前店」で懇親会を開いて、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、またの機会にどうぞよろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

http://tokyo-osampo.com

お散歩ナビゲーター 小島信康です。

 

今回は東京お散歩教室「第185回 和泉多摩川~狛江散歩」のご案内です。

 

第185回は、狛江市。

市内に点在する、水辺の景観、古墳、公園、神社、古民家、寺院などをご紹介します。

 

コースは下記の通りです。
≪和泉多摩川駅~多摩川決壊の碑~猪方小川塚古墳公園~亀塚古墳公園~穴守稲荷分神社~狛江市立古民家園~兜塚古墳~伊豆美神社~泉龍寺~泉龍寺弁財天池~耳切り地蔵尊~狛江駅≫

 

その他、日程・時間・参加費等、詳細は教室ホームページをご覧ください。

 

 

途中のおやつや、お土産購入も楽しみの一つ。

 

 

また、お散歩の後、懇親会も開いていますので、こちらもお楽しみいただけるかと思います。

(参加はご希望者のみ。お酒が飲めない方も多数参加されています)

 

 

東京お散歩教室は、街の見どころをのんびり歩いて巡る、大人の遠足。

 

参加者ほぼ全員がおひとりさまで、一人では入りにくい施設や穴場観光地などをみんなで訪ねたり、寺社をお参りしたりしています。

 

「街歩き」「タウンウォッチング」「健康」「ストレス解消」「友達作り」「穴場観光」「風景写真」などにご興味をお持ちの方、是非ご検討なさってみてください。

 

何卒よろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

http://tokyo-osampo.com

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の東京お散歩教室「第184回 赤羽橋~田町散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は赤羽橋駅から。

 

 

まずは、赤羽橋交差点から見える東京タワーをチェックして、芝丸山古墳へ。

 

芝丸山古墳は、港区芝公園4丁目にある、5世紀代の築造とみられる前方後円墳(東京都指定史跡)。

全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mほどある、都内最大級の前方後円墳で、南武蔵有数の族長の墓と考えられますが、墳頂部や後円部西側が削られてしまっているため、原形はとどめていません。

調査は、明治31年(1898)に、坪井正五郎によって行われましたが、既に後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)が失われていたため、遺体や副葬品などは不明です。

 

続いて、墳頂部にある伊能忠敬測地遺功表を紹介。

 

 

伊能忠敬測地遺功表は、伊能忠敬の功績を称えた碑で、測量の起点となったのが、芝公園近くの高輪の大木戸であったため、東京地学協会が昭和40年(1965)に遺功表を建設。

もとは、明治22年(1889)に設置された、高さ8.58mの青銅製の角柱型のものでしたが、戦災で失われたため、現在のものが再建されました。

 

芝丸山古墳の次は、芝東照宮へ。

 

 

芝東照宮は、港区芝公園4丁目に鎮座する、徳川家康を御祭神として祀る神社。

日光東照宮・久能山東照宮・上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つに数えられ、もとは、増上寺の山内に元和3年(1617)に建てられた、徳川家康の寿像を祭祀する社殿「安国殿」が起源。

明治の神仏分離令により、増上寺から切り離され、芝東照宮となりました。

その後、戦災で寿像と3代将軍·徳川家光が植えたものと伝わるご神木のイチョウ(東京都指定天然記念物)以外、全てを焼失。

昭和44年(1969)に現社殿に再建されました。

 

芝東照宮の次は、港区立芝公園へ。

 

 

港区立芝公園は、港区芝公園4丁目にある、面積約13,522㎡の区立公園。

芝公園一帯は、江戸時代には増上寺の境内であった敷地が、明治6年(1873)の公園制定の太政官令によって公園として開放された日本最古の公園の一つ。

第二次世界大戦後、政教分離政策のために増上寺と切り離され、敷地の外周部分は都立芝公園に、この一角は様々ないきさつを経て、現在は港区立芝公園となっています。

そして、園内は災害用マンホールトイレ、かまどベンチ、雨水貯留槽や太陽光発電機による照明施設や時計等を配置し、広域避難場所としての機能が充実。

さらに既存樹木を活かしつつ新たな樹木を植栽し広場を芝生とするなど敷地全体を緑化し、園路は保水性舗装とするなど、ヒートアイランド対策も行いました。

 

港区立芝公園の次は、旧台徳院霊廟惣門へ。

 

 

旧台徳院霊廟惣門は、港区芝公園4丁目にある、2代将軍·徳川秀忠の霊廟建築の一つで国の重要文化財。

霊廟は戦災に遭いましたが、寛永9年(1632)に造営された惣門は罹災を免れ保存。

内部に木造仁王像(2躯)が安置されています。

 

旧台徳院霊廟惣門の次は、増上寺へ。

 

 

増上寺は、港区芝公園4丁目にある、「三縁山 広度院 増上寺」と称する浄土宗の七大本山の一つ。

本尊は阿弥陀如来です。

増上寺は、明徳4年(1393)に酉誉聖聰上人が、関東での正統念仏道場として、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)に創建。

その後、江戸城拡張に伴い、慶長3年(1598)に現在地に移転しました。

江戸時代は、寛永寺とともに徳川将軍家の菩提寺となり、関東十八檀林の筆頭として、常時3,000名の僧侶が修学に励む大寺院となりますが、明治維新後は神仏分離の影響により規模が縮小。

境内の広範囲が芝公園となりました。

そして、昭和20年(1945)の空襲で、徳川将軍家霊廟や五重塔をはじめとした数多くの堂宇を焼失。

戦後、昭和46年(1971)より本格的な復旧が始まり、昭和49年(1974)に大殿、平成元年(1989)に開山堂(慈雲閣)、平成12年(2000)に光摂殿、平成21年(2009)に圓光大師堂、平成22年(2010)に新しい安国殿が建立され、現在の姿になりました。

戦災で多くを失った増上寺ですが、元和8年(1622)に再建された三解脱門は戦災を免れ、江戸時代初期の増上寺の面影を残す貴重な建造物として、国の重要文化財に指定されています。

 

 

この日の増上寺は、「浄土宗開宗850年慶讃会 令和6年度 御忌大会」の真っ最中であったため、大変大勢の人たちで賑わっていました。

 

増上寺を出た後は、「ル・パン・コティディアン 芝公園店」へ。

 

 

こちらで、おやつやお土産を購入し、芝大神宮へ。

 

 

芝大神宮は、港区芝大門1丁目に鎮座する、天照皇大御神と豊受大御神の二柱を主祭神として祀る東京十社の一社。

社伝によれば、寛弘2年(1005)に伊勢の内外両宮を勧請して創建したといわれ、当初は飯倉山(現在の芝公園)に鎮座していましたが、増上寺の移転に伴い、慶長3年(1598)に現在地に奉遷。

鎌倉時代は、源頼朝より社地の寄贈を受け、江戸時代は、徳川幕府の篤い保護のもと、「関東のお伊勢さま」として関東一円の庶民の信仰を集めました。

また、古くは「飯倉神明宮」、「芝神明宮」と称されていましたが、明治5年(1872)に「芝大神宮」に改称。

社殿は、昭和20年(1945)5月の空襲で旧社殿が焼失後、戦後二度にわたって造営が行われ、平成17年(2005)、鎮座1000年を祝う「芝大神宮壱千年祭」斎行の際に、社務所等の改築が完了し、現在の姿に。

例大祭は、9月16日を中心に、9月11日から21日まで、神輿渡御などの各種神事が行われますが、それらが長期間「だらだら」続くため、古来より「だらだら祭り」といわれ、期間中、生姜を授与していることから、「生姜祭り」とも呼ばれています。

 

芝大神宮の次は、旧芝離宮恩賜庭園へ。

 

 

入園後、まずはおやつタイム。

「ル・パン・コティディアン 芝公園店」で買ったパンをみんなで頬張ってから、園内を散策。

 

 

旧芝離宮恩賜庭園は、港区海岸1丁目にある、開園面積約43,175㎡を有する池泉回遊式の都立庭園で、小石川後楽園とともに、現存する最も古い大名庭園の一つ。

かつて、この地は海面でしたが、明暦(1655~1658)の頃に埋め立てられ、延宝6年(1678)、老中·大久保忠朝の邸地に。

この忠朝の上屋敷内に作庭された大名庭園「楽壽園」がもともとの起源といわれ、楽壽園には、水辺庭園特有の潮入り式の池があり、潮の干満によって景色が変化するよう工夫されていたようで(現在は淡水)、その後、数氏を経て、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷に。

さらに、明治4年(1871)には、有栖川宮家の所有になりましたが、明治8年(1875)に宮内省が買い上げ、明治9年(1876)、芝離宮となるも、大正12年(1923)の関東大震災で、迎賓館として使われていた洋館を焼失。

そして、大正13年(1924)1月に、昭和天皇御成婚記念として東京市に下賜され、同年4月に旧芝離宮恩賜庭園として一般に公開。

その後、昭和54年(1979)年6月には文化財保護法により、国の名勝に指定されました。

 

旧芝離宮恩賜庭園の次は、竹芝ふ頭へ。

 

 

到着後、まずは竹芝客船ターミナル内にあるアンテナショップ「東京愛らんど」でお土産を購入。

 

 

竹芝ふ頭は、港区海岸1丁目にある東京港の旅客ターミナルの一つ。

東京港の前身である江戸湊は、江戸庶民に必要な消費物資の流通拠点として大変重要な役割を果たしていましたが、東京湾の開港は昭和16年(1941)まで実現せず、築港は明治時代に隅田川口改良工事として始まり、水路の浚渫と、その浚渫土砂による月島や芝浦の埋立造成が進められました。

その後、陸上交通網が崩壊した大正12年(1923)の関東大震災を契機に、東京港の重要性が認識され、ふ頭建設が急ピッチで進み、大正14年(1925)に日の出、昭和7年(1932)に芝浦、昭和9年(1934)に竹芝ふ頭が完成。

現在の竹芝ふ頭は、延長465m、水深7.5mあり、伊豆諸島・小笠原諸島への人や物資の玄関口「竹芝客船ターミナル」になっています。

 

 

初日はこちらで記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

竹芝ふ頭の次は、重箱堀へ。

 

 

重箱堀は、芝浦運河沿いに建設されたシーバンスS館の南側にある大正2年(1913)に作られた石積護岸。

四角い形をしていることから「重箱堀」と呼ばれるようになったといわれていますが、明治時代の芝浦はまだ東京湾に面した行楽地として賑わっていた場所で、かつては料亭や旅館が軒を連ね、明治11年(1878)には、蘭方医·鐘ヶ江晴朝が東京府知事から許可を得て、都内初の海水浴場を開設した場所でもあります。

 

重箱堀の次は、港区立伝統文化交流館へ。

 

 

港区立伝統文化交流館は、港区芝浦1丁目にある、旧協働会館(旧芝浦見番)を活用し、令和2年(2020)4月に開館した東京都内で唯一現存する木造見番建築。

建物は、昭和11年(1936)、芝浦花柳界の見番として建設されたもので、見番とは、芸者がいる「置屋」、料理を手配する「料亭・料理屋」、座敷を提供する「待合」から構成された「三業」を取りまとめる三業組合事務所のこと。

戦後は、東京都が港湾労働者の宿泊所の一部として使用し、「協働会館」と呼ばれていましたが、平成12年(2000)3月、老朽化により施設は閉鎖。

一時は取り壊す計画もありましたが、保存・活用を望む地域の声を受け、港区は利活用に向けた検討を進めました。

そして、平成21年(2009)4月に建物が東京都から港区へ無償譲渡され、同年10月、港区指定有形文化財に指定。

耐震診断や建物調査の後、約2年にわたる保存修理工事を経て、新しく「伝統文化交流館」としてオープンしました。

 

こんなふうにあちこち巡って、田町駅でお散歩は終了。

 

 

その後、有志のメンバーさんと「大衆居酒屋 とりいちず 田町慶応仲通り店」で懇親会を開いて、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、またの機会にどうぞよろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

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