赤羽橋~田町散歩 4月6日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の東京お散歩教室「第184回 赤羽橋~田町散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は赤羽橋駅から。

 

 

まずは、赤羽橋交差点から見える東京タワーをチェックして、芝丸山古墳へ。

 

芝丸山古墳は、港区芝公園4丁目にある、5世紀代の築造とみられる前方後円墳(東京都指定史跡)。

全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mほどある、都内最大級の前方後円墳で、南武蔵有数の族長の墓と考えられますが、墳頂部や後円部西側が削られてしまっているため、原形はとどめていません。

調査は、明治31年(1898)に、坪井正五郎によって行われましたが、既に後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)が失われていたため、遺体や副葬品などは不明です。

 

続いて、墳頂部にある伊能忠敬測地遺功表を紹介。

 

 

伊能忠敬測地遺功表は、伊能忠敬の功績を称えた碑で、測量の起点となったのが、芝公園近くの高輪の大木戸であったため、東京地学協会が昭和40年(1965)に遺功表を建設。

もとは、明治22年(1889)に設置された、高さ8.58mの青銅製の角柱型のものでしたが、戦災で失われたため、現在のものが再建されました。

 

芝丸山古墳の次は、芝東照宮へ。

 

 

芝東照宮は、港区芝公園4丁目に鎮座する、徳川家康を御祭神として祀る神社。

日光東照宮・久能山東照宮・上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つに数えられ、もとは、増上寺の山内に元和3年(1617)に建てられた、徳川家康の寿像を祭祀する社殿「安国殿」が起源。

明治の神仏分離令により、増上寺から切り離され、芝東照宮となりました。

その後、戦災で寿像と3代将軍·徳川家光が植えたものと伝わるご神木のイチョウ(東京都指定天然記念物)以外、全てを焼失。

昭和44年(1969)に現社殿に再建されました。

 

芝東照宮の次は、港区立芝公園へ。

 

 

港区立芝公園は、港区芝公園4丁目にある、面積約13,522㎡の区立公園。

芝公園一帯は、江戸時代には増上寺の境内であった敷地が、明治6年(1873)の公園制定の太政官令によって公園として開放された日本最古の公園の一つ。

第二次世界大戦後、政教分離政策のために増上寺と切り離され、敷地の外周部分は都立芝公園に、この一角は様々ないきさつを経て、現在は港区立芝公園となっています。

そして、園内は災害用マンホールトイレ、かまどベンチ、雨水貯留槽や太陽光発電機による照明施設や時計等を配置し、広域避難場所としての機能が充実。

さらに既存樹木を活かしつつ新たな樹木を植栽し広場を芝生とするなど敷地全体を緑化し、園路は保水性舗装とするなど、ヒートアイランド対策も行いました。

 

港区立芝公園の次は、旧台徳院霊廟惣門へ。

 

 

旧台徳院霊廟惣門は、港区芝公園4丁目にある、2代将軍·徳川秀忠の霊廟建築の一つで国の重要文化財。

霊廟は戦災に遭いましたが、寛永9年(1632)に造営された惣門は罹災を免れ保存。

内部に木造仁王像(2躯)が安置されています。

 

旧台徳院霊廟惣門の次は、増上寺へ。

 

 

増上寺は、港区芝公園4丁目にある、「三縁山 広度院 増上寺」と称する浄土宗の七大本山の一つ。

本尊は阿弥陀如来です。

増上寺は、明徳4年(1393)に酉誉聖聰上人が、関東での正統念仏道場として、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)に創建。

その後、江戸城拡張に伴い、慶長3年(1598)に現在地に移転しました。

江戸時代は、寛永寺とともに徳川将軍家の菩提寺となり、関東十八檀林の筆頭として、常時3,000名の僧侶が修学に励む大寺院となりますが、明治維新後は神仏分離の影響により規模が縮小。

境内の広範囲が芝公園となりました。

そして、昭和20年(1945)の空襲で、徳川将軍家霊廟や五重塔をはじめとした数多くの堂宇を焼失。

戦後、昭和46年(1971)より本格的な復旧が始まり、昭和49年(1974)に大殿、平成元年(1989)に開山堂(慈雲閣)、平成12年(2000)に光摂殿、平成21年(2009)に圓光大師堂、平成22年(2010)に新しい安国殿が建立され、現在の姿になりました。

戦災で多くを失った増上寺ですが、元和8年(1622)に再建された三解脱門は戦災を免れ、江戸時代初期の増上寺の面影を残す貴重な建造物として、国の重要文化財に指定されています。

 

 

この日の増上寺は、「浄土宗開宗850年慶讃会 令和6年度 御忌大会」の真っ最中であったため、大変大勢の人たちで賑わっていました。

 

増上寺を出た後は、「ル・パン・コティディアン 芝公園店」へ。

 

 

こちらで、おやつやお土産を購入し、芝大神宮へ。

 

 

芝大神宮は、港区芝大門1丁目に鎮座する、天照皇大御神と豊受大御神の二柱を主祭神として祀る東京十社の一社。

社伝によれば、寛弘2年(1005)に伊勢の内外両宮を勧請して創建したといわれ、当初は飯倉山(現在の芝公園)に鎮座していましたが、増上寺の移転に伴い、慶長3年(1598)に現在地に奉遷。

鎌倉時代は、源頼朝より社地の寄贈を受け、江戸時代は、徳川幕府の篤い保護のもと、「関東のお伊勢さま」として関東一円の庶民の信仰を集めました。

また、古くは「飯倉神明宮」、「芝神明宮」と称されていましたが、明治5年(1872)に「芝大神宮」に改称。

社殿は、昭和20年(1945)5月の空襲で旧社殿が焼失後、戦後二度にわたって造営が行われ、平成17年(2005)、鎮座1000年を祝う「芝大神宮壱千年祭」斎行の際に、社務所等の改築が完了し、現在の姿に。

例大祭は、9月16日を中心に、9月11日から21日まで、神輿渡御などの各種神事が行われますが、それらが長期間「だらだら」続くため、古来より「だらだら祭り」といわれ、期間中、生姜を授与していることから、「生姜祭り」とも呼ばれています。

 

芝大神宮の次は、旧芝離宮恩賜庭園へ。

 

 

入園後、まずはおやつタイム。

「ル・パン・コティディアン 芝公園店」で買ったパンをみんなで頬張ってから、園内を散策。

 

 

旧芝離宮恩賜庭園は、港区海岸1丁目にある、開園面積約43,175㎡を有する池泉回遊式の都立庭園で、小石川後楽園とともに、現存する最も古い大名庭園の一つ。

かつて、この地は海面でしたが、明暦(1655~1658)の頃に埋め立てられ、延宝6年(1678)、老中·大久保忠朝の邸地に。

この忠朝の上屋敷内に作庭された大名庭園「楽壽園」がもともとの起源といわれ、楽壽園には、水辺庭園特有の潮入り式の池があり、潮の干満によって景色が変化するよう工夫されていたようで(現在は淡水)、その後、数氏を経て、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷に。

さらに、明治4年(1871)には、有栖川宮家の所有になりましたが、明治8年(1875)に宮内省が買い上げ、明治9年(1876)、芝離宮となるも、大正12年(1923)の関東大震災で、迎賓館として使われていた洋館を焼失。

そして、大正13年(1924)1月に、昭和天皇御成婚記念として東京市に下賜され、同年4月に旧芝離宮恩賜庭園として一般に公開。

その後、昭和54年(1979)年6月には文化財保護法により、国の名勝に指定されました。

 

旧芝離宮恩賜庭園の次は、竹芝ふ頭へ。

 

 

到着後、まずは竹芝客船ターミナル内にあるアンテナショップ「東京愛らんど」でお土産を購入。

 

 

竹芝ふ頭は、港区海岸1丁目にある東京港の旅客ターミナルの一つ。

東京港の前身である江戸湊は、江戸庶民に必要な消費物資の流通拠点として大変重要な役割を果たしていましたが、東京湾の開港は昭和16年(1941)まで実現せず、築港は明治時代に隅田川口改良工事として始まり、水路の浚渫と、その浚渫土砂による月島や芝浦の埋立造成が進められました。

その後、陸上交通網が崩壊した大正12年(1923)の関東大震災を契機に、東京港の重要性が認識され、ふ頭建設が急ピッチで進み、大正14年(1925)に日の出、昭和7年(1932)に芝浦、昭和9年(1934)に竹芝ふ頭が完成。

現在の竹芝ふ頭は、延長465m、水深7.5mあり、伊豆諸島・小笠原諸島への人や物資の玄関口「竹芝客船ターミナル」になっています。

 

 

初日はこちらで記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

竹芝ふ頭の次は、重箱堀へ。

 

 

重箱堀は、芝浦運河沿いに建設されたシーバンスS館の南側にある大正2年(1913)に作られた石積護岸。

四角い形をしていることから「重箱堀」と呼ばれるようになったといわれていますが、明治時代の芝浦はまだ東京湾に面した行楽地として賑わっていた場所で、かつては料亭や旅館が軒を連ね、明治11年(1878)には、蘭方医·鐘ヶ江晴朝が東京府知事から許可を得て、都内初の海水浴場を開設した場所でもあります。

 

重箱堀の次は、港区立伝統文化交流館へ。

 

 

港区立伝統文化交流館は、港区芝浦1丁目にある、旧協働会館(旧芝浦見番)を活用し、令和2年(2020)4月に開館した東京都内で唯一現存する木造見番建築。

建物は、昭和11年(1936)、芝浦花柳界の見番として建設されたもので、見番とは、芸者がいる「置屋」、料理を手配する「料亭・料理屋」、座敷を提供する「待合」から構成された「三業」を取りまとめる三業組合事務所のこと。

戦後は、東京都が港湾労働者の宿泊所の一部として使用し、「協働会館」と呼ばれていましたが、平成12年(2000)3月、老朽化により施設は閉鎖。

一時は取り壊す計画もありましたが、保存・活用を望む地域の声を受け、港区は利活用に向けた検討を進めました。

そして、平成21年(2009)4月に建物が東京都から港区へ無償譲渡され、同年10月、港区指定有形文化財に指定。

耐震診断や建物調査の後、約2年にわたる保存修理工事を経て、新しく「伝統文化交流館」としてオープンしました。

 

こんなふうにあちこち巡って、田町駅でお散歩は終了。

 

 

その後、有志のメンバーさんと「大衆居酒屋 とりいちず 田町慶応仲通り店」で懇親会を開いて、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、またの機会にどうぞよろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

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