お散歩ナビゲーター小島信康です。
今回は只今開催中の東京お散歩教室「第195回 田園調布~武蔵小杉散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。
出発は田園調布駅から。
出発してすぐに「JEAN FRANÇOIS 田園調布店」でお買物。
お買物した後は、田園調布旧駅舎へ。
田園調布旧駅舎は、大田区田園調布3丁目にある建物。
田園調布駅は、大正12年(1923)3月に当時の村名をとった「調布駅」として開業。
大正15年(1926)1月、「田園調布駅」に改称されました。
西側に面した洋館風の旧駅舎は、東横線田園調布駅-多摩川駅間の改良工事に伴い、平成2年(1990)9月に使用停止となり解体。
その後、改良工事が完成した平成12年(2000)1月に復元されました。
復元後は、駅舎としての機能はなくなり、街のシンボルとして、東西自由通路や商業施設への玄関的な役割を担っています。
田園調布旧駅舎を見た後は、再びお買物タイム。
「レピドール 田園調布店」と「ピネード 田園調布店」に立ち寄って洋菓子を購入。
お買物タイムの次は、カトリック田園調布教会へ。
カトリック田園調布教会は、大田区田園調布3丁目にある教会。
教会はフランシスコ会カナダ管区の司祭によって昭和7年(1932)に建てられました。
現在の大聖堂は昭和27年(1952)に建てられたもので、「アッシジの聖フランシスコ」という名前が付けられており、最大で約500名が座れ、2階には昭和53年(1978)に設置された2,132本のパイプ、30本のストップを持つパイプオルガンがあります。
そのほか敷地内には、フランシスコ会館、クララ聖堂、修道院、ルルドの中庭、ボランティアセンター、フランシスコ像などがあります。
(撮影NG)
カトリック田園調布教会の次は、宝来公園へ。
宝来公園は、大田区田園調布3丁目にある区立公園。
この土地は、大正14年(1925)、田園調布の開発に当たった田園都市株式会社が、武蔵野の旧景を保存し、永く後世に残すために、街の一画の汐見台の地を公園用の広場として残したもの。
その後、田園調布会に贈られ、昭和9年(1934)10月に同会から東京市に寄付されました。
東京市は整備を行い、昭和11年(1936)4月に宝来公園として開園。
そして、昭和25年(1950)10月に大田区に移管され、現在に至っています。
宝来公園でおやつタイム。
おやつタイムの後、公園で記念写真。
皆さん、撮影ご協力有難うございました。
宝来公園の次は、多摩川台公園を散策。
多摩川台公園は、大田区田園調布にある区立公園。
公園は多摩川に沿って伸びる丘陵地に約750mにわたって展開。
面積は66,661㎡あり、亀甲山古墳、宝萊山古墳、多摩川台古墳群の上に位置しています。
また、園内には、多摩川八景見晴台、海南亭、水生植物園、四季の野草園、あじさい園、二つの広場などがあり、公園入口には、「多摩川台公園 古墳展示室」があります。
まずは、宝萊山古墳をチェック。
宝萊山古墳は、多摩川台公園内にある東京都指定史跡。
古墳は、多摩川下流域左岸の台地上、標高37.5m付近に築造された全長約97mある、4世紀に築かれたこの地域最古の前方後円墳。
昭和9年(1934)に後円部が土取工事で削平された際に、粘土槨の埋葬施設が発見され、四獣鏡、紡錘車形碧玉製品、玉類、剣などの武器類が出土。
また、平成7年(1995)の公園整備に伴う確認調査において、前方部にも埋葬施設があることが推定され、前方部の先端が「撥状」に広がる形をとることが明らかにされました。
宝萊山古墳の次は、多摩川台古墳群へ。
多摩川台古墳群は、多摩川台公園内にある亀甲山古墳と宝莱山古墳の間に築造された8基からなる古墳時代後期の古墳群(東京都指定史跡)。
発掘調査から前方後円墳1基と7基の円墳群からなる古墳群であることが確認されています。
古墳が造られた順序は、円墳の2号墳が6世紀前半に、2号墳を前方部に利用した前方後円墳の1号墳が6世紀後半に築造。
続いて6世紀末から7世紀前半にかけて3・4・5・6・7号墳が造られました。
最後に8号墳が7世紀中頃に造られ、これで古墳群の築造は終了します。
円墳の規模は、直径13~20m内外と小規模です。
古墳の横穴式石室からは、副葬された直刀、鉄鏃(鉄製のやじり)等の武具類、耳飾りや管玉等の装身具類、馬具の轡、須恵器や土師器が出土し、墳丘部からは円筒埴輪が発見されています。
この古墳群は荏原台古墳群の一支群にあたり、都内の古墳の多くが都市化の波に埋もれてしまっている中で貴重な存在であるといえます。
多摩川台古墳群を見た後は、「多摩川台公園 古墳展示室」へ。
多摩川台公園 古墳展示室は、宝莱山古墳や亀甲山古墳、多摩川台古墳群などの解説や出土した副葬品が展示されている施設。
室内はほぼ4世紀から7世紀にかけて造られた古墳を再現した展示となっており、6世紀後半に造られた横穴式石室をもつ前方後円墳の後円部の一部を切り取った状態をイメージしています。
そのほか、大田区から世田谷区にまたがる荏原台古墳群のうち、大田区域の田園調布古墳群で出土した太刀や勾玉、埴輪などのレプリカを展示しています。
古墳展示室の次は、亀甲山古墳へ。
亀甲山古墳は、多摩川台公園内にある東京都を代表する前方後円墳の一つで、多摩川流域最大の前方後円墳でもあります。
測量調査から、築造当時の規模は、墳丘長107.25m、前方部幅49.5m、後円部径66m、前方部高7.63m、後円部高11.75mあり、墳丘の途中に一段の平坦面を設けた二段築成であったと推定されています。
発掘調査が行われていないため、出土遺物がなく、正確な築造年代は不明ですが、宝莱山古墳の次に築造された4世紀後半の首長墓と考えられています。
芝丸山古墳(港区)、宝莱山古墳と並ぶ大形前方後円墳で、旧状がよく残されていることでも貴重な存在となっており、昭和3年(1928)に国の史跡に指定されています。
亀甲山古墳の次は、調布浄水場跡地を抜けて、あじさい園へ。
多摩川台公園のあじさい園は、6月に7種類、3,000株のあじさいが咲き誇ります。
しばらく、あじさい観賞をした後は、多摩川浅間神社へ。
多摩川浅間神社は、大田区田園調布1丁目に鎮座する、「田園調布の氏神様」と呼ばれている神社。
御祭神は木花咲耶姫命、故事から家庭円満・安産・子安の神とされ、火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織などの守護神として崇敬されています。
創建は文治年間(1185~1190)と伝えられ、由緒は源頼朝が豊島郡滝野川松崎に出陣したとき、夫の身を案じた北条政子が後を追って多摩川まで来ました。
その時わらじの傷が痛んだため、この地で傷の治療をすることにして逗留した際に亀甲山へ登ってみると富士山が鮮やかに見えました。
富士吉田には自分の守り本尊である浅間神社があるので、政子はその浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を祈り、身につけていた正観世音像をこの丘に建てました。
それ以来、村人たちはこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び尊崇しました。
これが多摩川浅間神社の起こりとなっています。
その後、承応元年(1652)5月に浅間神社表坂の土止め工事をしていたとき、九合目辺りから唐銅製の正観世音の立像が発掘され、多摩川で泥を洗い流すと片足が欠けていました。
そこで、新たに足を鋳造して祀り、6月1日に神事を行いました。
以来、例祭は6月に行われています。
本殿の建築様式は、社殿の上にさらに別の社殿がのった二階建て構造という特殊な形式で、浅間造と呼ばれ、都内では唯一のものです。
また、社殿は浅間神社古墳の上に建てられています。
多摩川浅間神社をお参りした後、本来なら丸子橋を渡って新丸子に向かう予定だったのですが、時間がだいぶ押してきたため、多摩川駅へ。
多摩川駅からお隣の新丸子駅まで、電車を使ってワープ。
新丸子駅に着いたところで、2度目のおやつタイム。
行列ができる人気店「ビッグ ベイビー アイスクリーム」に立ち寄り。
おやつタイムの後は、京濱伏見稲荷神社へ。
京濱伏見稲荷神社は、川崎市中原区新丸子東2丁目に鎮座する、主祭神として常磐稲荷大神、配神として五成大明神(宇賀之御魂大神・大己貴神・猿田ひこの神・大宮能女神・保食之神)を祀る神社。
昭和20年(1945)から30年(1955)頃、初代宮司·冨澤冠受大人之命が、戦後の地域復興のために、伏見稲荷大社(京都)から御分霊を勧請したのが始まりで、境内は、九棟流れ造りの社殿の周囲を富士山の溶岩で固め、その上に108体のカラフルな神狐像を安置。
また、身代わり開運稲荷、白狐社、祇園玉光稲荷、富士浅間神社、白山社、三神知恵稲荷といった多くの摂末社も祀られています。
こんなふうに、あちこち巡って武蔵小杉駅でお散歩は終了。
その後、有志のメンバーさんと「三代目 鳥メロ 東急武蔵小杉駅前店」で懇親会を開いて、解散となりました。
ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。
それでは、またの機会にどうぞよろしくお願いいたします。
東京お散歩教室