和泉多摩川~狛江散歩 5月4日(土) | 東京散歩道

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「東京お散歩教室」主宰、小島信康が綴る身近な街の素敵発見探訪記。

お散歩ナビゲーター小島信康です。

 

今回は只今開催中の東京お散歩教室「第185回 和泉多摩川~狛江散歩」の初日の様子を簡単にご紹介します。

 

出発は和泉多摩川駅から。

 

まずは、こばこベーグルへ。

 

 

こばこベーグルは、駅のすぐそばにある地元で人気のベーグル屋さん。

こちらで、おやつ&お土産を購入。

 

こばこベーグルの次は、多摩川の河川敷にある、多摩川決壊の碑へ。

 

 

多摩川決壊の碑は、狛江市猪方4丁目にある、多摩川水害のモニュメント。

昭和49年(1974)8月31日深夜から9月1日夕方にかけて台風16号の影響をうけ、多摩川の水位が上昇を続けました。

この出水により、1日昼頃、二ヶ領宿河原堰左岸下流の取付部護岸が一部破壊されたのを発端に、激しい迂回流が生じたため高水敷が侵食され、午後10時過ぎには本堤防が決壊し、住宅地の洗掘が始まりました。

迂回流はその後も衰えを見せず、本堤防260mを崩壊させたうえ、1日深夜から3日午後までの間、狛江猪方地区の家屋19棟を流失させる被害をもたらしました。

この「多摩川水害」は、首都圏の住宅地で発生し、3日間という長時間にわたった特異な災害であり、報道機関によってリアルタイムに全国に報じられ、国民の注目を集めることとなり、建設省は災害直後から本堰周辺の復旧工事を進め、翌年には完了させるとともに、「多摩川災害調査技術委員会」を設置し、原因の究明にあたりました。

一方、被災住民は国家賠償法に基づいて提訴し、平成4年(1992)に判決が確定。

その後、従来の堰より40m下流に、洪水を安全に流す新しい堰が完成しました。多摩川決壊の碑は、水害の恐ろしさを後世に伝えるとともに、治水の重要性をうたっています。

 

多摩川決壊の碑の次は、猪方小川塚古墳公園へ。

 

 

猪方小川塚古墳公園は、狛江市猪方3丁目にある、令和2年(2020)に開園した古墳公園。

猪方小川塚古墳(東京都指定史跡)は、墳丘の直径約15m、高さ約3mの円墳で、7世紀半ばに築造されたものと考えられ、平成23年(2011)の発掘調査により、泥岩質の石材で造られた切石切組積みの横穴式石室が確認されました。

石室は、天井部と壁面の一部が失われているものの、良好な状態で残されており、玄室の礫床上から耳環や鉄鏃などの副葬品が出土しました。

市では多摩川流域全体で見ても数少ない切石切組積みの横穴式石室を良好な状態で保存しつつ活用を図るため、保存・整備の方法を検討。

そして、石材に保存処理を施し、覆屋を設け前面からガラス越しに石室内部を観察できるようにし、墳丘を復元するなどの整備を行いました。

 

猪方小川塚古墳公園の次は、亀塚古墳公園へ。

 

 

暑かったので、途中で思わずミニストップに立ち寄り、ソフトクリームなどを買って、身体をクールダウンさせました。

 

 

亀塚古墳公園は、狛江市元和泉1丁目にある、令和2年(2020)に開園した古墳公園。

亀塚古墳は、5世紀末頃に築造されたと考えられる、最大長約41m、高さ約7mの帆立貝形の前方後円墳で、狛江古墳群の中でも屈指の規模をほこる古墳でした。

発掘調査は昭和26年(1951)に行われ、銅鏡や鉄剣、馬具などが出土。このうち、金銅製金具に見られる人物や動物の図像が、高句麗の古墳石室内の壁画に類似していることから、狛江と渡来人との関係が指摘されました。

その後、墳丘の大部分が削られてしまい、前方部の一部が残るのみとなっていましたが、前方部周辺を整備し、通路や広場を設けて植栽などを施し、古墳公園として開園。

なお、出土品は東京国立博物館などに収蔵されています。

 

亀塚古墳公園の次は、穴守稲荷分神社へ。

 

 

穴守稲荷分神社は、狛江市中和泉3丁目に鎮座する、豊受姫命を御祭神として祀る神社。

大田区羽田5丁目に鎮座する穴守稲荷神社から勧請し、創建された分社ですが、創建年代や経緯は不明。

家内安全商売繁昌の御神徳があるとうたっています。

 

穴守稲荷分神社の次は、狛江市立古民家園へ。

 

 

狛江市立古民家園は、狛江市元和泉2丁目にある「むいから民家園」の愛称で知られている古民家園。

園内には、市内に残された江戸時代の数少ない建造物として、旧荒井家住宅主屋1棟と旧髙木家長屋門1棟が移築・復元されています。

もともと、元和泉1丁目に残されていた旧荒井家住宅主屋は、東京都と小田急電鉄による連続立体交差・複々線化事業にともない、取り壊されることになっていました。

また、西野川1丁目に残されていた旧髙木家長屋門にも取り壊しの話が持ち上がっていました。

この古民家の保存を求める声は市民の間からあがり、市民有志は古民家を解体・保存し、市内に復元することを目指して行政に働きかけ、古民家復元事業は市民と行政が協働で取り組むワークショップ方式で進められました。

そして、平成14年(2002)4月、旧荒井家住宅主屋が移築・復元されて古民家園が開園し、その後、平成22年(2010)に旧髙木家長屋門も移築・復元され、現在にいたります。

 

 

日陰になっている旧荒井家住宅主屋の縁側に腰掛けて、おやつタイム。

こばこベーグルで買ったベーグルをみんなで頬張りました。

 

狛江市立古民家園の次は、兜塚古墳へ。

 

 

兜塚古墳は、狛江市中和泉3丁目にある東京都指定史跡。

兜塚古墳は、昭和62年(1987)と平成7年(1995)に行われた確認調査により、墳丘の残存径約43m、周溝外端までの規模約70m、高さ約4mの円墳と考えられます。

また、周溝の一部の状況から、円墳ではなく帆立貝形の古墳の可能性も指摘されています。

墳丘の本格的な調査を実施していないため、主体部などはよくわかっていませんが、土師器や円筒埴輪が出土しており、円筒埴輪の年代から築造年代は6世紀前半と考えられています。

 

兜塚古墳の次は、伊豆美神社へ。

 

 

伊豆美神社は、狛江市中和泉3丁目に鎮座する、大国魂大神を主祭神として祀る神社。

創建は寛平元年(889)で、当時「武蔵総社六所宮」と呼ばれた大國魂神社から分霊を勧請したことによります。

そのため、当初の名称は「六所宮」で、もともとは北谷村字大塚山(現在の狛江市元和泉)に鎮座していましたが、天文19年(1550)の多摩川の洪水により、天文21年(1552)、現在地に遷座。

江戸時代は、当地を所領とした井伊氏・石谷氏・松下氏より、金穀の奉奠があったといい、明治元年(1868)、「六所宮」から「伊豆美神社」に改称しています。

また、参道の入口に建つ小振りの石造鳥居は、慶安4年(1651)に、和泉村の領主·石谷清定の三男·石谷貞清によって奉納されたもので、江戸時代初期に造られた石造鳥居は、都内でも数が少なく、また市内では最古のもので、市指定文化財に指定されています。

 

 

拝殿にお参りした後、神楽殿の前で記念写真。

皆さん、撮影ご協力有難うございました。

 

伊豆美神社の次は、泉龍寺へ。

 

 

泉龍寺は、狛江市元和泉1丁目にある、雲松山と号し、釈迦如来を本尊として祀る曹洞宗の寺院。

由緒は、伝説によれば、奈良東大寺を開山した良弁僧正が天平神護元年(765)にこの地に来て雨乞いをし、法相宗・華厳宗兼帯の寺を創建したのが始まりとされ、天暦3年(949)、廻国の増賀聖がこれを天台宗に改め、法道仙人彫刻の聖観世音菩薩を安置したといいます。

そして、戦国時代になると寺は衰退し、小さな観音堂だけになっていましたが、旅の途中で立ち寄った泉祝和尚が泉の畔で霊感を受け、ついに曹洞宗の参禅修行道場として当寺を復興。

その後、天正18年(1590)、徳川家康が関東に入国すると時代は一変し、石谷清定が入間村(調布市)の内150石と和泉村(狛江市)の内100石を与えられ、地頭として霊泉に接する小田急狛江駅南側に陣屋を構えて下屋敷としました。

清定は泉龍寺の中興開山·鉄叟瑞牛和尚に帰依し、霊泉に中島を造り弁財天像を祀るなど、率先して寺域の整備に努めたので、中興開基とされています。

また、本堂は宝永3年(1706)再建されたもので、市内最古の建造物。

昭和35年(1960)より翌年にかけて、檀信徒の総意により諸堂とともに大改修が行われ、茅葺の屋根は瓦葺に変わりました。

 

 

この日、泉龍寺では、コーヒーと音楽を楽しむイベント「珈琲参道2024」が催されていたため、境内は大賑わいでした。

 

泉龍寺の次は、泉龍寺弁財天池へ。

 

 

泉龍寺弁財天池は、狛江市元和泉1丁目にある市の史跡。

市民に「しみず」という名で親しまれている池で、「和泉」という地名もこの池からうまれたものと推定されます。

伝説によると、奈良時代に全国的な大旱魃があり、良弁僧正がこの地において雨乞いを行ったところ、竜神が現れて雨を降らし、その時に水が湧き出したといい、旧「和泉村」の雨乞い行事をする霊泉として信仰を集めてきました。

また、池の中島には元禄6年(1693)にできた石の祠があり、弁財天が祀られています。

池はいつの旱魃にも涸れることなく、その豊富な水量で下流の水田の灌漑用水に利用されてきましたが、市内での地下水汲み上げ量が増えた結果、昭和47年(1972)11月に涸れつきてしまい、昭和48年(1973)3月12日に、狛江市史跡第一号に指定され、復元工事が行われました。

 

泉龍寺弁財天池の次は、耳切り地蔵尊へ。

 

 

耳切り地蔵尊は、狛江市元和泉1丁目、泉龍寺別院の境内に立つ地蔵尊。

背中に「明暦三年(1657)檀那の菩提のために、地蔵菩薩を造立し奉る。隆法寺、西源の代」という文字が刻まれています。

隆法寺は、泉龍寺の塔頭として旅人を泊めたりする村の中の憩いの場で、ほぼ泉龍寺別院の位置にありましたが、明治維新の頃に廃寺。

なぜ「耳切り地蔵尊」と呼ばれているかというと、一説には次のような言い伝えがあるためです。

「昔、このお地蔵様が道の辻に立っていた頃のこと、村人が追いはぎに襲われ刀で斬りつけられ、やっと逃げ帰りました。翌日になってみたら何の傷もありません。不思議に思って辻のところに行ってみると、なんと、お地蔵様の耳に刀傷がありました。お地蔵様が身代わりになってくれたのでした。」

こうした伝説から、耳で悩んでいる人を救ってくれる、ということにもなり、今も人々の崇敬を集めています。

(言い伝えは、他にも諸説あります)

 

耳切り地蔵尊の次は、狛江駅前へ。

 

 

狛江駅前で、狛江が絵手紙発祥の地であることを紹介して、お散歩は終了。

 

 

その後、有志のメンバーさんと「つぼ八 狛江駅前店」で懇親会を開いて、解散となりました。

 

ご参加くださいました皆様、誠に有難うございました。

 

それでは、またの機会にどうぞよろしくお願いいたします。

 

東京お散歩教室

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