森園遺跡
[森園, p57]
“森園遺跡の甕棺墓は中期中葉から営まれはじめ、中期の終わりには終焉している。”

森園遺跡の特徴は、甕棺墓が弥生中期後半から中期末(倭国大乱期)にしかないことです。御笠川西岸の奴国系の集落では、甕棺墓は弥生前期末-中期初頭に始まり、中期前半から中期中頃は完全に甕棺墓の墓制です。森園遺跡などの御笠川東岸は奴国とは少し異なるようです。
 

“木棺墓と土坑墓は甕棺墓を破壊することなく、あるいは甕棺墓から破壊されることもなく…甕棺墓群の周囲につくられている。”

奴国系では中期前半から中頃は、甕棺墓の単一墓制となるが、木棺墓と土坑墓が同時期にあり異なる。
 

“SP06-08の3基は列埋葬の形態をとっており、その主軸は大型甕棺墓SJ20・38・39・41などの主軸方向とも等しいが、木棺墓と土坑墓は一般的には甕棺墓より古く、この地域では前期でもかなり古い段階の墓制である。上記の甕棺墓の1段階古い時期(中期前葉)と考えるのは、すでに甕棺墓が盛行する時期に達しており不自然である。さらに古い時期(前期)と考えても、すでに周囲では中・寺尾遺跡や御陵前ノ椽(えん)遺跡などで甕棺墓がつくられており、この仮定も結論を下すのは難しい。”
 

“一般論論から見ると、中期の前葉でも古い段階のものの可能性が強いが、甕棺墓が消滅してから後の後期のものであることも考えられる。そうなると石棺墓とほぼ並行する時期となる。”

ここの一般論は、弥生前期末から中期初頭の夜臼土器系集落の木棺墓のことを言っているようである。しかし森園遺跡は夜臼式土器ではなく、純粋な遠賀川式土器の集落である。純粋な遠賀川式土器の集落は福岡平野では珍しく定まった墓制も確定していない。中期後半の倭国大乱期の戦時下だけ、奴国系の甕棺墓がある。しかし単一墓制ではなく同時期に木棺墓と土坑墓もある。純粋な遠賀川式土器の集落では、奴国に臣下して甕棺墓制ではなく、弥生前期の木棺墓と土坑墓の墓制を中期以降も継続しているようです。

また御笠川西岸の奴国系集落では抜歯風習というものはありませんが、東岸にある金隈遺跡では抜歯風習がある。つまり御笠川西岸は奴国ですが、東岸は奴国とは異なる国のようです。

松葉園遺跡
[松葉園, p57]
“松葉園遺跡の位置付け 大正期の地形図に当てはめると松葉園遺跡は乙金山から舌状に西へのびる低丘陵上に位置し、乙金村の集落域に重複している。”


[松葉園, p30大正時代地図]
[松葉園, p57]
“遺跡の南西の微高地上には森園遺跡・中・寺尾遺跡が所在する。森園遺跡では中期中頃から末、中・寺尾遺跡は中期前半から後半の集落が確認され、中期後半にはこの3遺跡いずれも集落が営まれている。… 住居の所在する丘陵は確かに異なっているが、距離的に近いこと、集落の動向に大きな時期差が認められないことから、大きく見れば同じ集落と捉えることもできよう。”

“後期に入ると中・寺尾遺跡で1軒住居が見られる他は極端に少なくなる。”


遠賀団印は重要文化財に指定されています。

『遠賀団』というのは中・寺尾遺跡などの大野城市の御笠川東岸の遺跡グループのようです。北の朝鮮半島方面から、遠賀川河口の芦屋に上陸したグループです。その名のとおり、遠賀川式土器だけを出土します。一方、『御笠団』というのは碧雲寺および竈門神社地域の宝満山の山伏に由来するようです。御笠川の最上流域は、ローカルの通称で岩踏川と呼ばれており、宝満山の山伏が石を跳び越えて川を渡っていた名残りでしょう。碧雲寺という台湾最南部の寺院もあるように、前回ブログの古の琉球海路のグループのようです。しかしBC400以降は朝鮮半島の高句麗系の勢力が強くなりました。さらに遣隋使の頃に掃討があり琉球海路はほぼ無人地域になりました。平安時代の遣唐使は松浦・済州島航路に切り替わりました。このように宝満山の山伏である『御笠団』は徐々に衰退していきました。さらに戦国時代に宝満山の山伏集団は敗れ決定的に衰退しました。しかし江戸時代に黒田藩の助成により宿場町として復活しました。碧雲寺は、現在、福岡市博多区の博多駅の北500mほどにある「萬松山 承天寺」の「別院 碧雲寺」となっています。

図右下の宝満川の住血吸虫汚染は、御笠地区E が源泉でした。開始時期は弥生中期末でした。すぐ下流の永岡遺跡も弥生中期末に全滅しました。御笠川の住血吸虫汚染は、馬場遺跡(太宰府)、吉ヶ浦遺跡(太宰府)、道場山遺跡の3ヶ所が源泉でした。藍染川の馬場遺跡は、住血吸虫汚染の開始時期はたぶん弥生時代です。馬場遺跡は弥生時代と古墳時代の遺跡・遺物が全く無いので、詳細時期を確定できませんでした。高雄川の吉ヶ浦遺跡は弥生中期後半に墓地となり全滅しました。白鷺川の道場山遺跡も弥生中期後半に大墓地となり廃絶しました。弥生中期後半は倭国大乱期です。しかし道場山遺跡に戦傷遺骨は無いです。戦争に敗れたわけではありません。しかし全員死亡して廃絶しました。一方、山口川流域の貝元遺跡は逆に弥生中期後半と弥生後期に大繁栄します。 山口川(筑紫野市)が住血吸虫に汚染されなかった根拠としました。源泉に最も近い野黒坂遺跡は、弥生中期後半に突然激減しますが、かろうじて1軒だけ継続します。御笠川下流の中・寺尾遺跡と同じです。1軒だけ継続します。


[野黒坂, pp.91-95]
“弥生時代中期(その2) 5類土器 弥生時代中期中葉に編年できよう。この時期の遺構はこの10号住居跡だけで他になく、弥生時代前期後半から中期前半まで盛行した集落の急速な衰退がうかがえる。”
 “古墳時代前期 8類土器 40号住居跡・・このほかに35号住居跡があるが,土器の出土は皆無である。しかし南東壁にそってベットが設けられ床面中央には炉と桃割る焼土があり,36・39・40号などとほぼ同時期と思われる。そうであれば,この4軒の住居跡は弥生時代後期初頭から古墳時代初頭へかけて連続した一家屋の変遷を示すものといえる。”


AD183~AD248が弥生後期。女王卑彌呼の時代です。野黒坂遺跡は弥生後期初頭~古墳時代初頭も1軒だけ。高雄川の住血吸虫汚染が続いています。

このように、御笠川河畔の遺跡は、全て弥生中期後半に突然全滅して墓地となってしまうか、または突然激減して1軒だけとなります。

 

一方、宝満川と異なり、御笠川河畔の遺跡では戦傷遺骨は全くありません。御笠川河畔では倭国大乱の戦死者はありません。

 

弥生中期中頃まで御笠川・宝満川の河畔直近で集落が大繁栄しています。しかし弥生中期後半に、突然、御笠川河畔の集落は全て全滅または避難して、河畔の集落は放棄され、ほぼ消滅します。

 

弥生中期後半に始まった御笠川の住血吸虫汚染が原因です。

 

宝満川・御笠川の住血吸虫汚染は、1980年代まで続きました。


2.5. 仲島遺跡
[仲島遺跡, p45]
“55-2区
SB01 弥生時代中期後葉から末と考えられる。
SJ01 弥生時代中期前葉と考えられる。
SJ01 弥生時代中期中葉と考えられる。
SP01-SP04 いずれも甕棺墓より先行するもので、弥生時代前期後葉から中期初頭頃のものであろう。
 弥生時代の墓地は、これまでの仲島遺跡の発掘調査では確認されたことがなく、55-2区で墓域の位置をはじめて知ることができた。その意味では大きな成果であり、同時期の集落との関係が注目される。また削平されたものを含めると、まだかなりの数があったものと思われる。
SD01 弥生時代中期後葉頃であろうか。
SD02 SD01に切られる。弥生時代中期後葉頃であろうか。
SD03 古墳時代後期(6世紀後葉から末頃)と考えられる。
SD04 古墳時代後期(6世紀末前後)と考えられる。
SD05 古墳時代後期(6世紀末前後)と考えられる。
SD13 これまでの調査結果同様、6世紀後半から末頃と考えられる。
SX01-SX03 出土遺物が少ないが、SD13との切り合い関係から、6世紀後半頃と考えられる。”


[仲島遺跡, p45]
“55-4区
SB01 古墳時代後期(6世紀後葉から末頃)と考えられる。
SB02 古墳時代後期と考えられるが、SB01、SB03との切り合い関係から、6世紀後半頃であろうか。
SB03 古墳時代後期(6世紀後葉から末頃)と考えられる。
SB04 出土遺物が少ないが、全体構造などからSB03とほぼ同時期であると考えられる。
SB05 出土遺物が少ないが、SB01との切り合い関係などから古墳時代後期(6世紀末頃)と考えられる。
SE01 弥生時代中期と考えられる。
SE02 古墳時代後期(6世紀末から7世紀初頭)と考えられる。
SE03 古墳時代後期(6世紀末から7世紀初頭)と考えられる。
SD01 古墳時代後期(6世紀後半から末頃)と考えられる。
SD01 弥生時代中期と考えられる。
SD01 弥生時代中期と考えられる。”


以上の仲島遺跡の遺構の時期をよく確認すると、弥生時代中期後葉まではあります。しかし仲島遺跡も、弥生時代後期と古墳時代前期がありません。そして再び古墳時代後期は復活します。

弥生後期と古墳前期の空白期間は、上述した、上流の高雄川河畔の野黒坂遺跡で、住居跡が突然激減して一軒しかない時期と同じです。そして野黒坂遺跡も古墳後期に再び復活して住居跡が激増して21軒です。

御笠川下流の仲島遺跡も、上流の野黒坂遺跡と全く同じ傾向です。弥生中期後葉に墓数が急増しています。倭国大乱期ですが、戦傷遺骨、さらに棺内の鏃や剣の切先残存も確認できません。倭国大乱での戦傷および戦死ではありません。

弥生中期後葉の墓数の急増の原因は、御笠川の住血吸虫汚染です。そして集落は全滅です。弥生後期と古墳前期は、放棄されています。

そして古墳後期に復活しています。上流の野黒坂遺跡、下流の仲島遺跡とも、ほぼ同時に復活しています。御笠川は古墳時代後期に住血吸虫汚染が軽減されたようです。

ただ完全に住血吸虫汚染が無くなったわけではなく、弥生中期の大盛行期と比べると閑散としています。住血吸虫汚染は1980年代まで継続していましたから。この時点では、住血吸虫汚染の完全な解消ではないです。


次ブログは御笠川のさらに下流の博多区の遺跡を見ていきます。


引用文献
6. [森園]
九博, https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/library.html, No.313
森園遺跡II, 大野城市文化財調査報告書第55集, 大野城市教育委員会, 1999.

7. [松葉園]
九博, https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/library.html, No.385
松葉園遺跡I, 大野城市文化財調査報告書第59集, 大野城市教育委員会, 2003.

8. [野黒坂]
九博, https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/library.html, No.34
福岡南バイパス関係埋蔵文化財調査報告, 筑紫郡太宰府町・筑紫野町所在遺跡群 第1集, 福岡県教育委員会, 1970.

9. [仲島XII]
九博, https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/library.html, No.453
仲島遺跡XII, 福岡県大野城市仲畑所在遺跡調査報告, 大野城市文化財調査報告書第71集, 大野城市教育委員会, 2006.