太宰府天満宮の藍染川流域は、弥生時代と古墳時代の遺跡がありません。謎。ミステリーです。

 

6. 何も無い、弥生時代と古墳時代
どの報告書を見てもありません。

[連歌屋, p3]
<原文> “遺跡の始りは本報告にもあるがチャート製の石核が出土しており、旧石器段階にまで遡る可能性があるが、遺構や遺物包含層がはっきり形成されているのは、新町遺跡3次調査で確認された縄文晩期後葉の黒川式期を 待たなければならない。本報告においても当該期のものと考えられる土器片や石敷片の出土が報告されており、当時の生活ステージとして周辺が利用されていたことがわかる。その後の弥生、古墳時代に付いては報告例がなく、不明な状況である。”

 

新町3次は、PDF、販売、さらにデータベースおよび図書館にも無く、報告書が公開されていませんが、縄文晩期後葉の土器が出土したようです。しかし弥生・古墳時代は報告例が無いと書かれています。

[馬場6・7次, p5]
<原文> “旧小字「馬場」の範囲を便宜的に遺跡名にしているため、範囲内の遺構の展開は多様である。古くは、縄文時代早期の遺物が出土した浦ノ田遺跡が北東部に位置している。馬場遺跡からみて南西部に位置する奥園遺跡・新町遺跡では縄文時代晩期の遺物がある程度まとまって出土し ている。しかし、調査の成果から考えると、縄文時代に続く弥生・古墳時代では、この地区は目立った土地利用はされていない。奈良時代に入っても遺物として須恵器片などが散見されるが、継続的に人間活動の痕跡を示すような遺物・遺構は検出されていない。”


ここの奥園遺跡は奥園1次のことです。奥園1次は報告書が公表されています。PDFは無いですが、販売図書とデータベースで公開されています。縄文時代晩期の土器が出土しているようです。しかし続く弥生・古墳時代は目立った土地利用されていないと書かれています。次に示しますが全遺跡トータルで、わずかですが1, 2点の弥生時代の土器の小片が見つかっています。弥生時代の痕跡はこれが全てです。住居跡の土坑、墓地、水田跡などの遺構は皆無です。

[馬場8次, p4]
<原文> “弥生、縄文時代については報告例がない。本報告で小片ではあるが須玖Ⅱ式の甕が出土しているが、遺構や遺物包含層は確認できていない。7世紀後半~8世紀に属する須恵器の小片は少数ながら周辺遺跡や本報告でも確認できるが、遺構は確認されていない。太宰府北東部にあたる天満宮周辺遺跡の大きな画期は12世紀段階、平安時代後期に入ってからと考えられる。”


須玖Ⅱ式の甕の土器小片が1個見つかっています。藍染川流域で弥生時代の土器出土は初めてである。須玖Ⅱ式は中期弥生時代の中葉ころで、倭国大乱の直前です。そして須恵器の小片は少数であるが奈良時代初期。これは後述する奈良時代の峠の反対側の宝満山23次のⅠ区の須恵器窯を流用したと考えられる登り窯型の木炭窯を伴う鍛鉄製鉄遺構から出土した須恵器と関連するかもしれません。弥生時代と奈良時代の土器小片が数個見つかっています。

しかし藍染川流域が本格的に復活するのは平安時代後半以降です。連歌屋、馬場、奥園、新町、つまり藍染川流域は、弥生時代と古墳時代の生活痕跡が全く無い。奈良時代になって土器などが、やっと少数散見される。この奈良時代を少し見てみます。

7. 奈良時代の周辺遺跡
宝満山23次のⅠ区が、少し早く奈良時代前期、8世紀前半から始まります。藍染川ではなく、原川(筑紫野)の河畔です。天満宮の奥の峠を越えた原川は8世紀前半、住血吸虫に汚染されていないようです。そして宝満山23次は、Ⅱ区、Ⅲ区へと平安時代・鎌倉時代まで大製鉄所が継続します。

鉄器鍛冶が始まります。遺跡は、鉄器鍛冶の1大拠点として繁栄した証の遺跡が多数見つかっています。つまり平安時代後半以降は鉄器生産地としての一面も持っていたことがわかります。このように藍染川の周辺部では人が住むようになりました。

しかし藍染川の中心部で人が住むようになるのは平安時代後半以降です。門前町としての繁栄が始まりしました。えん罪で遠く太宰府に左遷され、非業の死を遂げた菅原道真公。安楽寺は、道真公の魂を鎮めるために、朝廷肝いりの大きなお寺だったようです。お寺ですから大きな墓地と火葬場も発掘されています。多くの墓石、遺骨、そして蔵骨器が出土しています。この墓地は浦ノ田Ⅳで見ます。さらに藍染川を少し下った馬場4次でも墓地が発掘されています。この馬場4次は藍染川の平野部の墓地のようです。浦ノ田Ⅳの安楽寺の墓地とは系列が少し異なるようです。人が住み始めた証拠です。

そして実際に土地利用した住居跡などは北の連歌屋から始まりました。次に、参道、馬場、奥園と藍染川の中心部に住居跡が確認され、安楽寺の門前町としての街並みが華やかに栄え始めました。以下、各遺跡毎に報告書を読んでみます。

7.1. 宝満山23次の製鉄遺跡

図は宝満山23次の第Ⅰ区~Ⅳ区です。原川(筑紫野)の河畔です。この時代、原川は住血吸虫には汚染されていません。

表より、宝満山23次でタタラの鍛鉄法が始まったのが8世紀前半です。奈良時代は平城京のAD710からです。縄文晩期を最後に、弥生・古墳時代は生活の痕跡が全く途絶えていました。奈良時代になって、やっと少し戻って来たようです。

 

タタラ

日本のタタラの砂鉄原料は、鳥取県・島根県の山間部で大規模に採集されていました。四隅突出墳丘墓の地域とほぼオーバーラップします。四隅突出墳丘墓もモンゴル高原のステップに由来しますが、時代は早く2世紀から日本に渡来しています。

  • 語句説明:タタラ : タタラというのは日本独特で砂鉄を原料にする製鉄法です。大陸系の製鉄法は全て鉄鉱石が原料です。製鉄というのは鉄鉱石または砂鉄から半製品鉄を作ります。

須恵器

8世紀前半は、既に、筑紫野市の原川は住血吸虫には汚染されていないことがわかります。川のすぐ両岸に住んでいますから。そして木炭窯が須恵器窯そっくりである点が注目されます。

  • 語句説明:須恵器 : この宝満山遺跡23次は縄文時代最初期から押型文土器の遺跡でした。そして古墳時代からは須恵器窯型の木炭窯の遺跡になっています。縄文時代より居住していた遺跡で、宝満山から木を伐採し、木炭を製作しています。木炭窯の構造は、古墳時代頃より渡来した須恵器窯型の登り窯を導入しているようです。須恵器は高温焼成しますので土器の胎土中の赤い酸化鉄が還元されて青みがかった硬い土器になります。

[宝満山23次, p30 p31]
<原文> “I区では調査区中央から南側にかけて奈良時代の製鉄関連遺構が検出された。… I 区の製鉄関連の遺構は、登り窯の木炭窯1基、焼土坑12基(竪穴状遺構含む)、製錬炉1基(2 号炉)、製錬炉にともなう排浄土坑2基、鍛冶炉1基(1号炉)、鍛冶炉に伴う土坑1基、性格不明 の炉1基(3号炉)が検出された。いずれも8世紀第1四半期のものであると考えられる。”

[宝満山23次, p30 p31]

<原文> “構造が須恵器窯に非常に類似するため、当初、須恵器窯ではないかとも考えられたが、本体ない し前庭部から須恵器や瓦などがほとんど出土しなかったことや、窯体の床面に木炭窯によく認められるカーボン吸着面があったこと、類似する構造の木炭窯が全国各地で報告されていることから考え合わせても、木炭窯であることはまず間違いないであろう。”

 

鍛鉄法

平城京に遷都して奈良時代が始まったのが710年です。737年、都では天然痘が流行り、牛飼いのステップ遊牧民が平城京に直接移住してきたことがわかります。種痘は牛の血清から発明されましたから。牛頭王薬師如来様が現れた頃だと思います。大陸のステップでは、8世紀前半は、滅亡復活を繰り返し、745年に完全に滅亡した東突厥の終末混乱期です。突厥の鍛鉄の工人を含む遺民が大量渡来したと考えられます。急速に日本の鍛鉄の工房が技術力が上がり大型化します。

  • 語句説明:鍛鉄法 : 鍛鉄法というのは精錬法の1つです。精錬というのは製鉄法で得られた半製品鉄から灰分(スラグ、砂、土)を除き、鋼(はがね)の鉄製品にする方法です。前漢および後漢とは異なり、遊牧民系の精錬法です。名の通り半熔融の赤熱鉄を鍛錬して脱灰します。柔然または蠕蠕(Avar or Apal)支配下、アルタイ地方で鍛鉄奴隷だった突厥が独立して突厥可汗国を建てたことで知られています。遊牧民の精錬法です。元々はトルコ・地中海のシチリア・サルデーニャ辺りの方法だったらしいですが、400年頃、Apalがステップ奥深くのエニセイ川上流域、アルタイ山麓に持ち込んだようです。これ以降、遊牧民の精錬法としてステップ全域に拡がりました。鉄勒が有名です。一方、日本の九州では12世紀ころ、宝満山23次から糸島の元岡へ主力製鉄所が移転し、遊牧民の鉄の男たちは全て糸島です。宝満山23次は、太宰府がかつて大製鉄所であった時代の遺跡群です。その後、糸島が日本の最高技術の鉄の男の主力製鉄所となりました。

[宝満山23次, p56]
<原文> “鍛造剥片は鉄塊や鉄板を加熱鍛打する際に鉄 素材の表面から剥離した鉄中の不純物の薄い酸化被膜のことである。 … 270は鉄床石で鍛冶を行う際に鍛打する台石として使われた。一部が強く被熱し、鍛打された痕跡が残る。”

<コメント> 鍛鉄法であることがわかる。

 

[宝満山23次, p56]

<原文> “羽口(255~263)は中型(255,256)と細型 (257~263)が見られる。中型は製錬炉付近から出土しているため、製錬炉に用いられた送風管の可能性が高いが、類例がなく、判断に悩む。…”
<コメント> 中型の羽口は製錬炉へ空気を送り込む送風管らしいが、この時代の国内ではこの形式の炉が無いため、報告者は悩んでいる。つまり突然、新型炉で現れ、既に完成形の大型炉の一貫製鉄所で鍛鉄製品を作っている。朝鮮半島の新羅は鍛鉄法だがこの形式の炉は無い。中国は鍛鉄法ではない。大陸の奥の方のステップからの鍛鉄移民、それも突厥の直営工房の工人集団の可能性が高い。ちょうど8世紀初に突厥は一旦滅びた。

7.2. 鉾ノ浦の土器
御笠川の北側の観世音寺付近は7世紀には最盛期でした。この間、藍染川流域は全く手付かずで誰も住んでいませんでした。

[鉾ノ浦47・111, p51]
こちらも鍛鉄法ですが、大陸ステップの鍛鉄法ではなく、外洋帆船により海路で地中海から直接渡来した鍛鉄法です。東播磨系、今の岡山あたりです。遠いですから少人数です。8世紀初、奈良時代前期に鉾ノ浦に生活痕跡があります。東播磨系の土器が出土します。遺跡周辺を見ると、藍染川は秋山地区の小丘を挟んで、南側の湯の谷西地区の川(丸点線)と隔てられています。鉾ノ浦遺跡は、この川の南側です。川を一つ隔てているのでギリギリ住めたのでしょうか。住血吸虫に汚染された藍染川から約100mの地点です。奥園~五条の藍染川流域はまだ全く手付かずです。そして、この鉾ノ浦も奈良時代前期中頃に埋没します。再びずっとブランクがあり、次に現れるのは平安時代後期です。やはり住血吸虫に汚染されている藍染川に近すぎます。高尾山北麓の太宰府地蔵院や鉾ノ浦は住血吸虫に汚染されていません。さらに高尾山南麓も、地蔵公園のすぐ北の菖蒲浦古墳は古墳時代に人が住んでいます。丸点線の川は汚染されていない。

長破線の住血吸虫クリエーターの経路は、高尾山を通らず、高尾山東麓を迂回したと思われます。石坂峠を越えて、溝尻口に侵入して、藍染川に住血吸虫を拡散したという「住血吸虫クリエーター物語」も、意外と真実味があるかもしれません。

ここで疑問が残るのがクリエーターの途中経路の原川(筑紫野)の河畔です。この原川は汚染ダメージが軽微で、河畔の宝満山23次の回復は8世紀初と早いことです。ここには前述した押型文土器グループの原(はる)と宝満山23次、小賀谷(おがたに)がいました。この押型文土器グループに川粘土採取を拒否された。しかし通過のみ許可した。ゆえに原川の汚染ダメージが軽微であった。

少し長々と物語を語りましたが、一方の藍染川下流域でも、8世紀初に鉾ノ浦から土地利用が試行されました。しかし消滅断絶しました。そして藍染川流域が本格的に復興するのは、12世紀の北側の連歌屋からの大規模な土地再開発以降とずっと後です。次で見てみます。


引用文献
※ 九博>西都大宰府>資料ライブラリー(右端)
https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/library.html

1. [大宰府史跡Ⅳ] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.460
大宰府史跡発掘調査報告書Ⅳ, pp.6-7, 九州歴史資料館, 2007年


2. [馬場4次] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.321
馬場遺跡(九州電力太宰府変電所建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書), p3 p34 p37, 太宰府市の文化財第41集, 太宰府市教育委員会, 1999年

3. [馬場8次] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.448
馬場遺跡2, p4 p53, 太宰府市の文化財第87集, 太宰府市教育委員会, 2006年

4. [馬場6・7次] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.477
馬場遺跡3, 太宰府市の文化財97集, pp.5-6 p66 p67, 太宰府市教育委員会, 2008年

5. [奥園2・3次] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.382
奥園遺跡, 太宰府市の文化財第64集, 太宰府市教育委員会, 2002年

6. [大町] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, <span class="text_5">No.209
大町遺跡(西日本鉄道太宰府駅駅舎改築に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書), 太宰府市の文化財第18集, 太宰府市教育委員会, 193年

7. [天満宮] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.171
太宰府天満宮, 太宰府天満宮境内地発掘調査報告書第1集, 太宰府天満宮, 1988年

8. [天満宮Ⅱ] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.195
太宰府天満宮Ⅱ, 太宰府市の文化財第15集, 太宰府天満宮, 1990年

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10. [天満宮Ⅲ] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.253
太宰府天満宮Ⅲ, 太宰府市の文化財第26集, 太宰府市教育委員会, 1995年

11. [浦ノ田A・B] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.266
浦ノ田A・B遺跡, 福岡県文化財調査報告書第126集, p2 p14 p16 p19 p35, 福岡県教育委員会, 1996年

12. [浦ノ田Ⅱ] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.332
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