3. 貝元遺跡
貝元遺跡は弥生時代に継続的に集落があります。つまり貝元遺跡は住血吸虫に汚染されませんでした。前後しましたが、貝元遺跡の所在地は、九州自動車道の筑紫野インターチェンジの下です。

 

この貝元遺跡の河跡を最初に見てみます。これが200m南を流れる山口川が住血吸虫に汚染されていない根拠となります。

 

※ 最初におことわりしておきますが、各遺跡は発掘調査後に宅地造成や道路工事により削平され残念ながら残っていません。新興住宅地であり現在の居住者は遺跡とは無関係です。

 


<原文>
“C 河跡
遺跡西端にて検出した南から北へ流れた河跡で,最大幅時で上端幅18~10m,下端幅15~6.5m,最深部で1.8m。75m分調査したが,南側の筑紫野市教委調査範囲では西南方向へ湾曲しており,旧尾根裾に沿ったものであった事が判かる。粗砂層とシルト質層が基本的に互層をなしており,洪水の度に濁流が走った様相がみられる。遺物は両岸際に大量に出土し,弥生中期前葉代には既に最大の河幅で存在しており・・”    

次図は貝元遺跡の河跡の断面図です。

この河跡は山口川の上流からの用水路です。 次図は広域の地図です。

太線は山口川です。細線は現在の用水路を示しています。用水路は、筑紫野市立山口小学校の前の橋付近から取水しています。ここでは、この地点を高低差±0mとします。現在の用水路は、貝元遺跡外の西側を通過しています。弥生時代の用水路は、破線で示すように貝元遺跡内の西側を通っていました。貝元遺跡は、弥生時代、継続的に大集落があります。

±0m地点の川の水は、弥生時代、継続的に住血吸虫に汚染されていません。そして弥生時代、貝元遺跡へ供給されました。これが、山口川は住血吸虫に汚染されていない根拠です。さらに山口川から、わずか100mの距離の集落が大繁栄しています。これも山口川が住血吸虫に汚染されていない根拠です。


3.1. 福岡県発掘調査地域
弥生時代の集落の住居跡を確認します。 貝元遺跡は、下図のように発掘調査区域が福岡県と筑紫野市に分かれています。ここでは福岡県発掘調査の報告書を見ます。

福岡県発掘調査の区域の報告書は、[貝元-福岡県Ⅰ],[貝元-福岡県Ⅱ(上)],[貝元-福岡県Ⅱ(下)]の3報に分かれています。

 

この区域では、本書で今まで見てきた遺跡と逆で、後期弥生時代の前葉に、急激に人口が増えます。住血吸虫汚染からの流入避難民の難民キャンプのようです。すべての時代を合わせると住居跡だけでも、1号住居跡~433号住居跡まであります。[貝元-福岡県Ⅱ(下)]に遺跡の変遷をまとめた項目があり、これより引用します。

弥生前期後葉~中期後葉
[貝元-福岡県Ⅱ(下), pp.348-351]
<原文> “この時期以前に縄文中期阿高式系土器数点,縄文晩期後葉古段階の浅鉢,後晩期の粗製深鉢片が各数点,偏平打製石斧19点,縄文時代の磨製石斧数点等が出土しており,確実にこの地での活動が認められるが,遺構はなく,集落の形成等がなされた類ではない。”

“弥生前期後葉~中期後葉  いきなり当地に大集落が形成される時期である・・”


“弥生前期後葉
…遺構・遺物ともに少なく・・当時期の住居は7軒,土抗70基,土抗墓(らしきものも含む)が9基,木棺墓が1基みられる。住居は円形住居で・・”

“弥生中期前葉
この時期は集落形成が確立されて住居数も多くなる。竪穴住居(住152・48・139・278)も見られるようになり,また,住266のような小型類も出現する。これは次の時期に継続する。方形住居は明確に構造を知り得るものが無いが,小規模な,円形住居に対して従的な類のようである・・”

“弥生中期中葉
この時期は集落がほぼ前代の規模を維持し続けた時代で,円形住居が9軒,方形住居が10軒・・”

“弥生中期後葉
この時期は方形住居23軒,円(楕円)形住居が2軒・・”

<コメント> ここで着目されるのは、方形住居が円形住居を大きく上回っていることです。弥生中期中葉を境に逆転しています。弥生中期後葉が住血吸虫の最初期です。

 

 

弥生中期末葉~後期初葉

倭国大乱期です。

[貝元-福岡県Ⅱ(下), pp.351-353]
<原文> “弥生中期末葉

この時期は住居25軒,土抗が14基,甕棺墓が1基,土抗墓が2基,堀立柱建物3棟となり,集落規模としては前代と変わらない。それ以上に,巨大堀立柱建物や,明確な倉庫棟的建物の出現は,時代を画するものであろう。住居は小型長方形類が定着したと思われ,一部にコーナー部分だけのベット部分を付けたものが現われてくる。集落内の配置は巨大建物を内部に取り込んで,その北西側を広場とするような略環状形態をとっているようだ・・”

西暦ではAD160-183頃です。隈・西小田遺跡の倭国大乱の時期です。巨大堀立柱建物は前線の軍議場であったかもしれません。出陣前には、周辺地域から貝元に兵士が集結し、巨大建物で軍議を行い、そして山口小学校前の橋で勝鬨を挙げ、萩原地区・五郎山地区を通過して、隈・西小田に攻め込んだのかもしれません。


<原文> 
“弥生後期初葉

この時期は住居が17軒,土抗が5基で,明らかな墓は無い。住居の数自体は減少しているが,実際の集落規模は余り変わらないだろう・・この浅い土抗が貯蔵穴とも思えないので,前代に建ったと思われる巨大建物24の尊属と関連があると推測される。”

<コメント>暦ではAD183-189頃です。わずか13歳の小さな女子が倭国連合の女王として即位し、邪馬壹國の女王卑彌呼として、後漢の霊帝に朝貢して金印を授与されました。倭国大乱は終わり、巨大建物は消えています。この時期がAD183~189頃で、巨大建物は消えましたが、住居数が増える訳でもなく、むしろ少し減っている。AD183卑弥呼即位~AD189後漢より金印と鉄刀を授与されるまで、約6年間の混沌とした時代。日本の時代では、後期弥生時代の初頭です。

弥生後期前葉~布留期
後期前葉-中葉の女王卑彌呼の繁栄期。 そして晩年の衰退期。

[貝元-福岡県Ⅱ(下), pp.353-355]
<原文>
“弥生後期前葉~中葉

この時期は住居51軒,土抗墓1基,土抗7基で,集落は明らかに拡大している・・”

<コメント> AD190-220、弥生後期前葉~中葉、女王卑彌呼の前半時代に大繁栄する。後漢より金印を授かった卑彌呼の親派らしい。畿内の土器は無く、地域の土器だけである。


“弥生後期後葉~末葉
当時期の住居は40軒,土抗が12基,木棺墓1基,石棺墓9基,土抗墓2基である。・・更に,この時期には墓地が形成される。まず,北東端住居グループ範囲の中に石棺1~3が営まれ,中でも石棺1は独立した個人墓で,石棺2・3は西方に離れて従たる位置に在る。”

<コメント> AD220-238、弥生後期後葉。AD220に、女王卑彌呼へ金印・中平鉄刀を贈答した後漢が滅びた。在地系土器の貝元遺跡に、外来系の石棺墓集団が入り込んで来た。女王卑彌呼の在地系はジリ貧状況であった。AD238の魏朝貢は、公孫征伐の戦時下でも、とにかく早く「魏への朝貢」という起死回生の一手だった。

“古墳時代初頭(庄内~布留期)
小集落化・・実際にはこの前の弥生後期末葉から急激な衰退に至っている。庄内期の住居が5軒,布留古期の住居が7軒となり,数の少なさが歴然としている・・これらの時期をもって,本集落は一度消滅し,百年以上人跡が途絶える。”

<コメント> AD243頃、魏の帯方郡司が殺されるなど、魏の衰退をみて、石棺墓集団は直接的な武力闘争モードに入った。AD243-248が弥生後期末葉です。そしてAD248または249の卑彌呼の死とともに急速に衰えた。

3.2. 筑紫野市発掘調査地域
中央部の筑紫野市の報告書はありません。南端の報告書だけ見てみます。

[貝元-筑紫野市1, pp.5-7]
<原文>

“今回の報告書作成は、遺物や遺構の掲載に余裕をもたせたものにしてしまったが、レイアウト等が完了した後で、3分冊の報告書予算しか確保できない事となったため、第2分冊以降は、できうる限りの遺物を掲載し、第3分冊目にて、まとめを書く事とするためトータル的には非常にアンバランスになる事を事前の了承としたい。
竪穴住居跡(SC) 138軒
土坑(SK)    48基
甕棺      3基
石棺墓     3基
溝状遺構(SD)  24条
河跡(自然流路) 1条
柱穴      2122”

 

[貝元-筑紫野市1]
3分冊の第1分冊です。[貝元1,筑紫野市教育委員会,第60集,1999]のPDFです。"時期確定の資料とは言い難い"などの表現はあるが、時期の記載が全く無い。
[貝元-筑紫野市2]
3分冊の第2分冊です。[貝元2,筑紫野市教育委員会,第66集,2005]です。できうる限りの遺物が掲載された図版編です。全181ページ。PDF公開なし。筑紫野市歴史博物館で購入した。しかし時期の記載はこれも全く無い。
[貝元-筑紫野市3?]
3分冊の第3分冊は、まとめが書かれる事になっていました。しかし第3分冊目は、PDF・販売ともに無。あらゆる図書館に無いので出版されていない。公開されていない。

[貝元-筑紫野市1, p5]
<原文>

“この背振山塊から派生した山地hの間を山口川が走り、上流付近では河成段丘を形成しながら下流平野部へと流れる。”
“調査区の西南部には耕作土直下に砂礫層がすぐ検出されて、遺構の存在しない所も認められる。この礫層は、前述の河岸段丘形成時のものである。”
“当初の剥土は以上のことを考慮しながら行なったが、調査過程で、床土と考えられていたものも本来の床土と整地層の残りがあることに気がつき、8年度の調査からは、さらに上面で剥土をとめる事とした。この剥土については県の担当者より、嘘を掘っていると云われたが県・市の境界にある県の遺構No建物20の柱穴が市側で上面より検出されている事からも明白となった。”


はっきり河岸の段丘が存在するようです。“柱穴が市側で上面より検出されている事からも明白となった。”勝負は決したようです。何も言わなくてもいい。あとは柱穴で穴で勝てる。

県側主張の河跡(Old Water Bed)  VS 市側主張の河岸の段丘 遺構の考古学的な意見の相違です。九州の県と市の官製バトルは、すごいようです。畿内ではとても考えられません。

市側の主張では、「河跡」に依存した山口川の非汚染根拠は弱まります。しかし貝元遺跡と針習は、弥生時代に集落が継続しています。これより山口川の上流域、貝元遺跡に近い山口川、針習に近い山口川は、住血吸虫に汚染されていません。もし山口川に起点を求めるならば、永岡単独の住血吸虫起点です。これは、シリーズ1の「倭国武尊物語」そのものです。永岡遺跡が起点である。永岡遺跡の鼠の遡上で吉ヶ浦が全滅した。高雄川も住血吸虫汚染された。さらに高雄川下流域の鷺田川から入舟して道場山へも住血吸虫汚染がおよんだ。

道場山遺跡を見てみます。


引用文献
※ 九博>西都大宰府>資料ライブラリー(右端)
https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/library.html

[貝元-福岡県Ⅰ] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.300
貝元遺跡Ⅰ, 九州自動車道筑紫野I.C.建設に伴う筑紫野市所在弥生・古墳時代大集落の発掘調査報告, p101, 福岡県教育委員会, 1998年.

[貝元-福岡県Ⅱ(上)] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.318
貝元遺跡Ⅱ(上巻), 九州自動車道筑紫野I.C.建設に伴う筑紫野市所在弥生・古墳時代大集落の発掘調査報告, 福岡県教育委員会, 1999年.

[貝元-福岡県Ⅱ(下)] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.319
貝元遺跡Ⅱ(下巻), 九州自動車道筑紫野I.C.建設に伴う筑紫野市所在弥生・古墳時代大集落の発掘調査報告, pp.348-351 pp.353-355, 福岡県教育委員会, 1999年.

[貝元-筑紫野市1] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, No.341
貝元遺跡1, 九州自動車道筑紫野I.C.建設に伴う発掘調査報告, 筑紫野市文化財調査報告書 第60集, pp.5-7, 筑紫野市教育委員会, 1999年.

[貝元-筑紫野市2] 九博>西都大宰府>資料ライブラリー, PDF無 (購入印刷本)
貝元遺跡2, 筑紫野市文化財調査報告書 第66集, 筑紫野市教育委員会, 2005年.(すべて図版)

[貝元-筑紫野市3?]  未出版