寺地はるなさんの小説は道徳的で、ひねくれ者の私には眩しすぎて勢いよくページをめくれないことが多いのですが、今回ご紹介する「白ゆき紅ばら」は、ゲスい部分も露わになっていてとても読みやすかったです。

 

って、どんな感想や!と、自分でもツッコミたくなりますね。すみません。でも主人公がお利口さん過ぎず、それでいて一生懸命なところに等身大の人間らしさを感じて「イイ」と思う一冊でした。

 

 

「白ゆき紅ばら」というと、あの有名なグリム童話が思い浮かぶと思いますが、本書のモチーフになっているのはズバリそれでして、物語の内容がわからない私は「予習なしでも読めるかな?」とビビりながら読み出したことをお伝えしておきます。

 

幼い頃、私は世界の童話集が好きで一応あれこれ読んではいたのですが、そこからディズニー作品を観るようになり、「なんか海外のお話って困っているお姫様のところに王子様がやってきて結婚してめでたしめでたし系ばっかやん」と気づいてから、ジブリオンリーで生きてきたので、途中からプリンセス要素のある本には触れてこなかったんですね。

 

だってお姫様は必ずといっていいほど美人で、王子様もさわやか系イケメン。しかも王子様はお姫様のことなんて何にも知らないのに毎回その美しすぎる外見にのみ魅了されて、「僕と一緒になれば生涯安泰だよ」と自信満々。お姫様もお姫様で権力のあるお金持ちとくっつけば面倒なことから逃れられるぜ!と言わんばかりに、王子よろしく態勢で自分から困難に立ち向かうなどしない。は?いやいやお前もっと自力でがんばれや。そもそもブスだったらこの展開は望めんし、そういった女はどうするんよ。なんで女は究極に儚い設定なのよ。

 

と、まぁこのような経緯で「白ゆき紅ばら」を知らずして育った私でも、本書には作中にちゃんと物語の要約が載っているため問題なく読むことができました。

 

ちなみにグリム童話のほうの「白ゆき紅ばら」は、白ゆきと紅ばらという仲良し姉妹が母親と3人で暮らしていて、ある日クマと友達になったところから物語が始まります。姉妹は毎日のようにクマと遊んでいましたが、春になるとクマは当然家を出ていきます。

 

その後、姉妹は森に行き、倒木の下敷きになっている小人を助けますが、小人はふたりに感謝するどころか悪態をつきながら去っていきます。そのあとに二回同じことがあり、小人に対して不信感を抱いた姉妹でしたが、今度はその小人が洞窟に宝石を隠しているのを発見します。すると慌てて逃げ出そうとした小人の進路を塞ぐようにクマが現れ、小人を殺してしまいます。

 

実は小人が隠していた宝石は、クマの物。なんとクマは、小人に魔法をかけられてクマの姿にされていた王子様だったのです。白ゆきは魔法が解けた王子様と結婚し、紅ばらは王子様の弟と結婚して幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。

 

なんだか違和感ありませんか?王子様との唐突な結婚。クマだったときは友達だったじゃん。しかも王子様の弟って何?それまでそんなキャラなんか出てこなかったのに、紅ばらは結婚しちゃうんかい!

 

では、寺地さんのほうの「白ゆき紅ばら」はどうでしょう。こちらは、「のばらのいえ」という母子を守るための施設で育った祐希と紘果の物語なんですが、ここを運営する夫婦がちょっと変人なんです。実奈子・志道夫婦は大学時代にボランティア活動を通して知り合い、「かわいそうな子どもを救いたい」という共通の理想から、「のばらのいえ」を運営することになったのですが・・

 

実は「のばらのいえ」の中で、祐希だけは夫婦の家族でした。というのも、祐希は生まれてすぐ父親が刑務所に入り、母親が精神を病んでしまったため、遠縁にあたる実奈子の両親に引き取られて育ちました。実奈子の両親亡き後は、実奈子が志道と共に祐希を育てると言い、現在に至ります。

 

これだけを聞くと、この夫婦はなんて良い人たちなんだろうと思います。しかし、夫婦の正体は「かわいそうな人に施してあげて感謝されたい」願望を持つ残念な人たちでした。

 

感謝だけされたいふたりは、自分のしたいことしかしません。「のばらのいえ」に保と紘果が入居することになった時も、発達と精神に遅れのある保の世話を嫌がった夫婦は、面倒事のすべてを祐希ひとりに投げ出してしまいます。夫婦のこうした態度は段々悪化していき、いつしか祐希は家の家事雑用すべてを任され、あっという間にヤングケアラーに。

 

一方、紘果は祐希とは対照的に「何もしなくていい子」として育てられます。正確には何もしなくていいではなく、何もできないように育てられ、そうすることで一生「のばらのいえ」から出られなくなるよう支配されていました。

 

祐希は自分の人生を生きたいと願いながらも、紘果や保のことが心配で「のばらのいえ」を逃げ出すことができません。そう思っても志道から「お前らのような人間は社会から受け入れられず自立できない」と呪いの言葉をかけられているため、なかなか決心がつかないのです。紘果は賢く、何でもできる祐希が自分たち兄妹のためにこの家の犠牲になっていることを申し訳なく思っています。祐希は私とは違って自立できるし、底辺から抜け出せる。けれども私は志道の財力がなければひとりでは生きていけない。紘果は無力な自分に疲れ、生きることを半ば諦めていました。

 

大人は子どもを守らなければならないのに、お前は俺の庇護がなければ生きていけないなどと教え込むのは恩着せがましいったらありゃしない。そんなに誰かに感謝されなきゃ生きていけないって、それは自分自身の問題なのに他人を使って消化すんなや!外面を守るために家庭を犠牲にするやつもコレと同じだわな。

 

言葉は悪いですが、そう思いましたね。

 

そんな辛い日々を送っている祐希と紘果へ高校の恩師がくれたメイ・ウエストの名言がこれ

 

Good girls go to heaven, bad girls go everywhere.

 

いい子は天国に行ける。でも悪女はどこへでも行ける。

 

作中で祐希がアルバイトしたときに、先輩から「あなたはどこに行っても通用する」と言われ、感動したシーンがあります。

 

「どこに行っても」

 

校長先生に「きみたちにはあらゆる可能性があります」と言われても、何の重みも実感もなかった祐希。けれども、先輩の言った「どこに行っても」からは、ここではない場所という選択肢があり、そこに行こうと思えば行けるのかもしれないという実感が持てたのです。

 

本書の中にはたくさんの「お返し」が登場します。誰かに助けてもらったらいつか「返さなきゃ」。他人にやさしくしてもらったら「返さなきゃ」。それは私たちの日常生活の中にも、小さなことから大きなことまで普通に存在しています。それと同時に、良いことをしたら「感謝」されて当然だという意識もあります。

 

しかし余裕のない人間同士でこれらは成り立つのでしょうか。助けてもらって申し訳ないと感じるこの罪悪感は、困っていることに手をかしてもらうこと自体が恥という概念から来ているのでは?困っている人=迷惑な人。だからそんな人を助けた自分は感謝されないといけない。自分を信じられない人は他人に依存するしかないので、疑似でもいいから誰かに必要とされたい。

 

本書を読んでいて、ドロドロの重い雰囲気の中、唯一痛快だったのが「のばらのいえ」に住む少女が子育てをする能力のない両親へ当てた言葉でした。

 

「なんかさ、幸せになることが最大の復讐、みたいな言葉あるでしょ。わたし、あれ納得いかない」「幸せは幸せだし、復讐は復讐だもん。べつべつに果たしたい」

 

本当にそうだと思いました。不幸は不幸だし、幸せは幸せ。苦労しただけ幸せになれるとか、話せばきっとわかるとかは成功者だけのキラキラワードに聞こえてしまいます。本書にはそういうことを言って、かわいそうな人を救えている自分に酔いしれて、わかった気になっている人なんかも登場するので、そこにも注目を。

 

いつものレビューだったら、物語の邪魔にならないようにキレイな内容にはキレイな感想をつけるようにしていますが、今回は祐希がグリム童話の「白ゆき紅ばら」がきらい!自分と紘果はあんな姉妹みたくなりたくない!と言っていたので、遠慮なく書かせてもらいました。

 

そして本書と同じようなテーマの作品としては、凪良ゆうさんの「汝、星のごとく」一穂ミチさんの「光のとこにいてね」がオススメです。個人的には凪良さんがイチオシですが、もしよければ3冊読み比べてしっくりくる本を見つけてみてください。

 

 

 

以上、「白ゆき紅ばら」のレビューでした!

 

 

 

 

 

 

 

 

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