71の誕生日にリタイヤして、5年ぶりに
五月からシルバー人材センター経由で働きだしたのですが
その段階では六月までのローテーションは決まっていて
少ない人数での割り振りで無理している一部を引き受けたので
五月には2日、六月は3日の勤務日数でした
それが今月は初めてのわたしが居る前提でのローテーションなので
基本3日サイクルでの勤務になりますので
週に2日ないしは1日勤務の繰り返しになります
それで先週が初めての二日勤務になったのですが
まだまだ一日の仕事の流れを試行錯誤しているので
それなりに、なんとなくの疲労感が残ります(^O^;)
月曜日は、令和7年7月7日
”777”スリーセブンの日だったのですが
わたし的には特にはなにもなし(^O^;)
今週の出勤日は水曜日の1日だけなので
一回は10km歩いておかないと、と歩いてきました
一日出勤すると、歩数が18,000~22,000歩ほどになっていて
距離も10km越えになっているのです
多分階段の上り下りとか、掃除の動作等で歩数カウントが狂って
実際の距離はそれほどはないのかな?とは思うのですが
それでも身体に対する負荷は10km歩くのと同等かなと判断し
負荷をかけ過ぎないようにと
出勤一日と10kmノルディックを等価として
これまで週に二回、少なくとも一回は10km歩いてきたのを
出勤した時は、その分10km歩くのを減らしてきました
そうすると
10kmノルディックは2週間に一回になってしまうので
どうするかは、身体の様子を見ながら
もうすこし様子を見ながら考えていきたいと思っています
歩いた後に、彼女(元奥さん)に頼まれて
お墓参りをしてから、お昼をいただいてきました
お食事の時のドリンクバーと
食後のデザートは、歩いて貯めたポイントです
8日火曜日
少し前に新聞の書評を見て、『35年目のラブレター』を観てきた
と記事にしましたが
その時に図書館で原作本の予約もしました
その本の予約順がやっと回ってきたので
それを一日で読み上げてしまいました
映画を観た時には
そこまで字って覚えられないのだろうか??
映画の中で、本の中で何度も西畑さんは
「それは読み書きできる人の感覚」だと言われています
読み書きできる私には、正直言って覚える気がなかったのではないの・・・
と思ってしまっていました
映画では、字の読み書きを覚える始めるはずの幼少期のことはさらっと流していて
大きくなってからを主に辿っていましたが
本では幼少期に多くのページを割いていました
そこで語られた現実、先生をはじめとした学校でのいじめ
そして、それを覆すことの出来なかった家庭環境
勉強するという習慣が身につかなかったのも仕方なかった、のかなとは思いました
読み書きが出来ないことを分かったうえで店長を任せられようとしたのだから
人一倍料理は頑張ったのだと思われます
多分それが自分が生きていくための最優先事項だったのだと思います
それが縁あって皎子さんと結婚し
自分を受け入れて、献身的にサポートしてくれた皎子さんに
これまでの感謝の気持ちを伝えるために
時間的に余裕の出来た定年後に夜間中学に入って字を覚えます
そして結婚から35年経ってラブレター書き上げます
この後毎年クリスマスに一通ずつ書いていきますが
4通目を渡す前に皎子さんはガンで亡くなってしまいます
西畑さんにとってはこのタイミングでしか字を覚えることは出来なかったのでしょう
それでも三回だけでしたが
皎子さんに自筆で思いのたけを伝えることが出来ました
短くはない時間は経ってしまいましたが
それでも想いは成し遂げました
話の中身はぜんぜん違いますが
わたしのトランスももっと早い時期に出来なかったのか?
もしくは今、若い自分が居たら!と思うことはよくあります
ただしブルーボーイ事件は中学の時
カルーセル真紀さんがモロッコで性転換したのも社会人にはなっていましたが20代
この時はまだまだ自分事とは捉えられませんでした
次に埼玉医大での性別適合手術
そして特例法へと動き出した時には50代になっていました
でもこの時は、遅い結婚で、なおかつ子供に恵まれたのも時間がかかりましたので
こども達は学齢前でした
この時には子育ても、そしてある意味ではそれ以上に仕事もがんばっていた時期で
トランスのことは自分ごととしては考えられませんでした
それが自分の中で盛り上がったのは
彼女(元奥さん)との間でのモヤモヤも強くはなって来ていたのですが
それとともに60過ぎての三社目の転社で
それまでの引っ張るから支援するに、役割の変化から来る時間や心のありようの変化が
きっかけだったのかな、と思います
それなら彼女が言うように
子供が成人になるのを待てなかったか?というと
やはりあの時に動き出したことで
ギリギリではありましたが
”想いの性で、天職と思った仕事をやり通す”ことが出来たので
あのタイミングでよかったし
あのタイミングでしかなかった、のかなと思っています
そして生まれが五年早くても、五年遅くても
わたしの産み、育み、育ててきたシステムは創れなかったし
もし若い時に特例法があったら
多分仕事にのめり込むことはなく、天職に巡り合うこともなかったでしょう
その意味で
わたしのトランスは60過ぎてでしたが
これがわたしのタイミングだったのだと思っています
9日水曜日
今週の出勤日です
この日も無事一日終わりました(^O^)
10日木曜日
先週の二勤務と、今週の10kmと一勤務で、少し疲れが溜まっているようなので
スーパー銭湯に行ってきました
この日も12時過ぎから16時過ぎまで居ました
スーパージェット水流に、サウナと冷水浴、空気浴の繰り返しで
心身ともかなり楽になりました(^O^)
でも回数券は後一枚
安売りの時にでもまた手に入れておかなければ・・・
12日土曜日
彼女から連絡があり
「お部屋を片付けていたら、こんなの見つかったよ」と
半世紀ほど前に山小屋の会で作ったワインを渡されました
ワインのことは全くわかりませんが
多分長年熟成するようには作られていないと思うし
温度管理されているセラーに入っていたわけではないので
もう飲めないだろうと思うので、このまま記念でとっておきます
13日日曜日
本日お荷物届きました
住所の変更は年賀状等で届けてあるのだけれども
前の住所(隣の家)のままなので
隣に届いて、彼女が持って来てくれました(^O^;)
相手は最初の会社の時に配属された先輩であり
一時期は上司でもあって、トマムの共同会員になった仲間だった人で
家族と彼以外では、最初にわたしのトランスを受け入れてくださった方です