今年も特にGWだからと言って特には予定はないのですが
5年目の今日、その年の秋にこちらに戻ってくる準備として
最後の大物として、私の机の天板を運びました
元記事でも少し書きましたが
私の机は、中学一年で初めて自分の机を持った時から
100%自分独りでの手作りなんです(^O^)
そんな私の机を通して、わたしの育った時を少し振り返ってみます
「わたしの自分史 番外編」です
※桃は毎年母が袋がけして実を育てていましたが
柿と夏みかんは手入れせずのほぼ野生状態でしたが毎年実を付けて、いただいていました(^O^)
わたしの生まれ育った地、横須賀は
今でもたまにTVで取り上げられていますが
崖地にへばりつくように家が建てられていて、そこに辿り着く道は階段ばかり・・・
それで高齢者が住めなくなって空き家が増えているそうです
わたしが暮らしていた頃は(終戦直後で)
まだまだそんな問題は顕在化していませんでしたが
わたしの居た処も、山の一面に貼りつくように17戸のお家が点々とあって
その内自家持ちは5戸だけで、わたしん家も借家でした
石段を登った先の二軒のうちのドンづまりの一軒
上の間取りでも分かるように、6畳と3畳の二間で親子四人が暮らしていました(^O^;)
当時はまだまだ街中で傷痍軍人の人がアコーディオンを弾いて
施しをいただいているような時代で
盥に洗濯板や、氷を作るではなく氷で冷やす冷蔵庫を実際に使っていました
エアコンはないので、夏には窓全開で蚊帳を吊っていたし
し尿の汲み取りや畳替えの作業も現場を見ていて
雨漏りするトタン屋根は自分たちでコールタールを塗っていました
そしてお風呂は銭湯なのですが
父の帰りがいつも遅かったので、ほとんどは母と弟の三人で行って
小学生の内は女湯でした
それでも当時は誰からもヘンな目で見られることはありませんでした(^O^;)
その父は、今や観光地になっている米軍基地前のどぶ板通りで
※今でこそ日本全国あちこちで外国人の姿を見かけるのは日常茶飯事ですが
当時は街中で外国人さらには黒人の姿を見かけることはほとんどありませんでした
ですから親戚等が遊びに来て初めて外国の人と間近で接すると
なんとなく恐れと言うか厭な感覚になる様でした
わたしは、当たり前の状況として
特にはなんの気持ちもなかったですが
この違和感の感覚は
知らないことに対する恐れということでは
わたし達セクマイに多くの人が感じる感覚と同じものなのかな、と思います
米軍の将兵さん達を相手に肖像画を描いて養ってくれたのですが
大体10時から20時くらいが営業時間だったので
朝もわたし達が学校に行く時は、まだ三畳の部屋で寝ていました
ですから朝食は台所の(上の間取りの下半分)一畳分の上がり框の部分でいただいたのですが
この部分は板の間にもかかわらず、(座布団もなしで)必ず正座でした(^O^;)
お陰様で、会社勤めになってから昼食をいただいていた居酒屋の女将から
「正座の君」と呼ばれていました
飲み会の時も和室であれば、ご飯を食べる時だけは正座でした
ここで一度本題に戻ります
上の様な間取りですから個室の確保なんていうのは夢にも思わないのですが
それでも中学生になり、勉強も小学生の時みたいにはいかないだろうとは思っても
新たに机を置く場所もない ・・・・後に弟用に折り畳み式の机を買ったのですが(^O^;)
それで母が使っていた蛇の目ミシンを畳むと、上辺が平らになるので
その上部に本棚兼用の吊り下げラックを新たに手作りして
※A4の本を格納できるように240mmの板で枠棚を作り
前面は900X1800のベニヤ板を1:2でに分割して
50mmの枠を付けて観音開きの扉としました
周りをカーテンで囲った半畳分のスペースが、わたしの勉強スペースになりました
※六畳間の右下赤枠のスペースです
この勉強スペースで中学~高校と勉強し
大学受験の時には、四当五落と言われた時代でしたが
わたしは”四時間しか寝られない”なんてことは出来ませんでした
それでも23時から一時間の(30分ずつ二本)ラジオ講座
『旺文社の大学受験講座』を一年間聞き続けました
そして食後から少し休憩してから、23時までは受験勉強はしました
おかげで初めて、数学と英語の問題集を二回ずつやり切り
世界史については、古代から現代まで一冊のノートに纏めました
このノートは今でも持っています(^O^)
当時は浪人生なんて当たり前で
自動車部に入った時は、現役生より浪人生の方が多くて
浪人生の方が駿台閥とか代ゼミ閥とか作って大きな顔をしていました(^O^;)
わたしは塾には行けなかったし
摸試も学校でやった旺文社の摸試しかしらず
最後の摸試も第一志望の合格率は50%くらいでした
それでも120名募集で、実際には128名合格させ
名目倍率53倍(当時全国一位)実質35倍のなか
123位で合格したのだから
”本番に強いわたし”ですね(^O^)/
まだまだ大学進学率が30%を超えない頃
それでもあの経済状況で、条件が付いたとは言え
大学に行くことを許してくれた両親には感謝しかないですね(^O^)
なんと言っても、わたしは大学に行けたことで
その後の自分の人生を自分でデザインして行けたのだと思っているので・・・
そして大学卒業後に会社に入り、静岡に転勤した時には
まともな机は持っていなかったと思いますが
その後この地に移ってきての借家では、柱に引っかけ金具を建てて
板厚の構造用合板を天板に机を作りました
※この時から私の机は座机です
最初の机はミシンを流用しての机なので仕方ないのですが
わたしは椅子に腰かけての形より、地べたに座っての形の方が好きなのです
その後近くに初めての家を建てたのですが
そこでは最初前の借家で使っていた構造用合板の天板を使いまわして
脚だけを丸棒とボールキャスターの部材を買ってきて移動できる机にしていました
それから数年して、(最初の)会社の会議用のテーブルがいらなくなったので
900X1800の天板だけもらってきて
取り敢えずはカラーボックスを横にして台とし、机の設置をしました
この後二番目の会社に移り、そこで知り合ったのに紹介されて結婚し
いろいろあって彼女の名古屋のマンションに移り住むことになりました
一部屋わたしの仕事部屋をもらえたので
そこに会議用のテーブル天板は持ち込んで、新たに机の設置です
前の家の時には単に机上でのお仕事だけでなく
オフコンも家に設置して、プログラムの打ち込みから動作検証までしていて
なおかつA3カラーレザー複合機やFAXまで導入していたので
環境としては完全なるスモールオフィスで
業務規定になかった在宅勤務を勝手にしていました(^O^)
それは会社を変えて、名古屋に移って来ても変わらずで
扱う機材がオフコンからPCになり
そのPCサーバーを置く場所として机の脚というか台座の部分を使おうと
サーバーのサイズに合わせた格納ボックスを作って机としました
その後子供たちの成長に合わせて、幼稚園に入る前にと
こちらの彼女(元奥さん)の両親の家の空き地にわたし達の家を建てて移り住み
そこの一部屋を仕事部屋としてラックと本棚で周りを構成しましたが
机自体はやはり運び込んだテーブル天板です
このころには
やはり会社の規定にはなかったのですが、社長の承認の下
”主勤務地:自宅”の辞令ももらっちゃいました(^O^)/
これに対しては
若い世代の人たちは、みんな「いいなぁ~」と言っていたのですが
わたしと同世代以上の人たちは、みなさん「大変ですね」と言っていました
わたしはそれまでに勝手に動いていたことのお墨付きが出ただけで
何も変わらなかったのですが・・・
そして「勝手にRLE」で家を出た時も
このテーブル天板は、持っていき
「勝手にRLE」を終えてこの地に戻ってくる時の天板運びが
元記事の内容です
ですから脚の部分はその時々で作り直していますが
今使っている机の天板は
かれこれ40年くらい使い続けていることになります
多分今の机で終わりかな・・・