【冠婚葬祭編】葬の巻 わたしの葬儀(^O^;) | わたしの夢はどこに・・・

わたしの夢はどこに・・・

私ってなに?本当にGIDなんだろうか?まだまだ彷徨っています。
その中で多くの方のブログを見させていただいて、いろいろなことを教えていただきました。
このブログは自らの心の整理と、一つの事例として他の方の参考になったらお返しになるかな
と思って開きました。

今日は父の命日

  20年前に享年84歳で亡くなりました

  ですから、唯一父にだけはわたしのトランスのことはお話しできていません(^O^;)

 

両親は栃木北部の出で、隣部落の同じお寺さんの檀家どうし

  とは言っても、わたしの生まれ育った家には鎮守社の神棚はありましたが

  仏壇はありませんでした

  当然お墓もね!

 

そうした中で父は亡くなったのですが

  亡くなった時は、わたしの生まれ育った地ではなく

  シーパラ近くの団地でした

父母がこの地に移ったのは、わたしが転勤で家を出て静岡に移ってからで

  この団地が生まれた直後でした

  そして父はそのころから、亡くなる前の闘病生活に入るまで

  長年この地の老人会の会計として

  ず~っと実質的に老人会の面倒をみてきたのでした

    さすが、わたしの父で、上の子のじいちゃんです(^O^)

      彼女(元奥さん)の血筋だと

      地域の活動でもあてがわれた決められた役割はやっても

      自らすすんでボランティアをすることはないのです

    でも、父-わたし-上の子と繋がる血筋の流れでは

      ボランティアを楽しむ心が伝わっているのです(^O^)/

 

父は横須賀の米軍基地前のどぶ板通りで

  主に米海軍の将兵さんたちを、油絵で肖像画を描いて育ててくれたのですが

  同業者の仲間は居ても基本自営業で、組織的に多くの人との繋がりはありませんでした

その意味では、会葬者は親族と若干の同業者と考えて

  こじんまりと今はやりの家族葬(当時はそういう考え方はなかった)でもよかったのですが

  当時からわたしは、「葬儀」は亡くなった者を弔うのはもちろんですが

  その場を普段会えていない人の邂逅のきっかけにするとか

  いろいろな意味があるのですが

  それ以上に残された者を、周りの人に改めてよろしくお願いします

  という意味があるのだと思っているのです

 

それでわたしの家からしたらやりすぎくらいなのですが

  バスをチャーターして団地と葬儀場との間をシャトルさせたこともあり

  200人以上の団地の方に会葬していただきました

そしてその時は、わたしが喪主の母に変わって

  遺族代表としてご挨拶させていただいたのです

それから、父は闘病の合間に自身の遺影を描いていたのですが

  額装まではし切れていなかったのを

  わたしが父に代わって額装させてもらいました

 

それから家にはこれまでは入る人が居なかったので、お墓はなかったのですが

  父も母もお墓には入りたい人たちだったので

  わたしん家のお墓を造ることにしました

両親の故郷に作っても、なかなかお参りには行けないだろうし

  今住んでいる処のそばならば

  わたしが帰った時には墓参りに連れて行くことも出来るので

  ちょうどそのころに売り出した霊園にお墓を造りました

 

そしてその納骨の時、わたしにとっては衝撃的な事実に突き当たったのです(*_*;

  そのことは頭では分かっていたはずなのですが・・・

  お墓のカロートには底に石板が敷かれていて

  骨壺が四つまで収納できます

うちの家族は、両親とわたしと弟の四人

  骨壺四つなら、骨壺の中身を石板の下に巻いてスペースを空けなくても収納できる

  そしてこの後五つ目以降の骨壺が入ってくる予定はありません!

  ということは、骨壺に入ったわたしの骨は永遠に土に還ることはありません(^O^;)

それを見た途端

  (それまでも当時やっと知られだしてきた海洋散骨になんとなく惹かれていたのですが)

  これでは(土に還られないのでは)ダメだ!と

  強烈に思ってしまったのです!

 

わたしは小学生の頃に、母のお兄さんが亡くなった時に

  母の在所での土葬を実際に経験しているのです

  そして死ぬことは、そのように土に還ること、と思い込んでいたのです(^O^;)

  それが今では土に還れないのかぁ~っと!

 

そして当時は、まだまだ現役でバリバリお仕事していた時であり

  当然友たちもみな元気に働いている時だったので

  今死ぬことがあったなら、葬儀を残された家族に任せるのではなく

  自分自身でプロデュースして、挨拶も(亡くなったはずの)自身でやろうか

  なんて考えていました ・・・毎年最新状況での挨拶DVDを作り直したりしてね(^O^)

 

そして今、わたしの親戚筋は

  上の世代は母方の東京の叔父さん夫婦が居るだけで

  その叔父さんも施設に入っている状況だし

  あと従兄弟も父方母方合わせて8人居ますが

  子供たちとの交流もなく、これからも改めての付き合いは生じないだろうから

  改めて葬儀に呼ぶこともないだろうと思います

 

それにわたしは昨年献体登録も出来たので

  わたしになにかあった時には、献体事務局に登録してある

  子供たちのいずれかから連絡してもらうようになっています

多くは、この献体で大学に渡す前に葬儀を行うこともあるようですが

  わたしは、この時はただ引き渡してもらえばよいかと思います

  そして連絡先に亡くなったことの通知だけを出してもらって!

その後、半年から数年して医学生の実習で使われてから

  連絡が来て、日取りを決めてから火葬されて、ここまでは大学側でしてもらえます

  ですから火葬の時の立ち合いと、その後の納骨だけを

  家族?だけでしてくれればいいかな、と思っています

 

そしてその納骨も、できたら(お墓に収納するのではなく)

  どこの海でもいいけれど全部散骨してもらえたら・・・チャーターでなければ5万くらい

  うれしいな、と思っています

 

今となっては、周りの諸事情を考えても

  わたしの葬儀はこんなでいいかな(^O^)

  わたしのことは、わたしを直に知っている子供たちが

  なにかの折にでも、フッと思い出してくれるだけでよく

  未来の私を知らない人にまで思われる必要はないと思っています

  だからお墓にわたしが居る必要はないのです・・・

    ※お墓自体も、どこかの段階で墓じまいをするつもりです

 

多分わたしの葬儀をお願いすることになるだろう二人の子供たち

  それまでには、連絡先等々いろいろと纏めておくから

  よろしくお願いしますね<m(__)m>

  わたしが死んだら

    ①大学の献体事務局に連絡して・・・・遺体引取は大学がしてくれる

    ②大学から連絡が来たら、火葬立会しての収骨・・・・ここまで大学

    ③業者に連絡して散骨依頼・・・・母の時の業者さんに確認済

    ④連絡先に、わたしの亡くなったことの通知・・・もしかして①の後??

  これだけだから(^O^)

 

 

 

そして今日は、わたしも参加したことのあるシティマラソンです

  早朝ウォークのショートコースでも一部重なるので

  今朝歩いているともう準備が始まっていました

※第二関門の19km地点、向こうにタイムオーバーした者の送還バスが待機しています

    左の写真の下向き矢印のあたりでタイムオーバー(^O^;)

 

この大会の種目はハーフに5kmで

  5kmのコースは、わたしの最初のエントリーレースでした

そしてハーフのコースは2回参加したのですが

  一回目は、残念ながら第二関門で、後100mと言う処でタイムアップ

  バスでの強制送還です(^O^;)

  でも翌年のリベンジマッチでは、なんとか自分の足でゴールのよつ池公園まで帰れました

  制限時間2時間30分のところ2時間21分54秒(^O^)

 

ハーフの2時間30分というのは(特にわたしからしたら)きつい部類のレースなので

  簡単にもう一度、とは言えないですが

  5kmからはもう一度チャレンジしてみたいな、と言う気持ちは

  少しはのこっているのですがね・・・

 

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