この時期Amebaのお節介で
n年前にこういう記事を書いていますよ!と、言ってくるので
わたしも3~4年毎に、この関連記事を書いています
わたしは16の誕生日を過ぎた土曜日に
生まれ育った地の血液センターに出向いて、初献血をしました
その頃は、まだまだ売血も残っていて”黄色い血”問題などもあったのですが
同時に献血事業が立ちあがっていく時期でした
当時は、200ml全血での献血のみでしたが
手術等で輸血が必要な時
その輸血に必要な血液の本数と同量の献血者を集めるのが基本でした
ただ、その時に献血手帳があると
そこに記録されている献血本数までは減免されるという内規?があり
結果として、献血は預(託)血(液)の性格もありました
正直わたしも初期には、この預血を意識していて
ほぼ最大使用される可能性のある心臓手術の30本を目指していました(^O^;)
そして1964年に売血による血液製造が、そして1974年に預血も禁止され
その後1990年に有料採血(売血)が完全に廃止され
献血100%に移行していきました
それに前後する1986年に、400ml全血と成分献血が始まるのですが
成分献血が始まることで
それまでの全血で一回献血すると2カ月は間を空けなければいけなかったのが
成分献血なら、最短2週間で献血が出来るようになりました
わたしの血液センター巡りも
神奈川から始まって、静岡、愛知、静岡と戻って
わたしの前日のチョンボでこれは達成できませんでした(*_*;
最終173回
取り敢えずの目標150回は超えたのですが、なんだかなぁ~
そして元々の記事の骨髄バンク登録
これも、ある日車から流れてきたラジオ
後に日本骨髄バンクの基となった東海骨髄バンクの大谷貴子さんのお話でした
それまでは骨髄移植のことは知らなかったのですが
ここで骨髄移植のことを知り
献血以上にドナーを集めることが大変とのことで
取り敢えずは適合率80%の目標ドナー登録20万人と言っていたかと思います
それでわたしは、ラジオでお知らせのあった連絡先に連絡を取り
(今から30年以上ですから、多分お手紙だったと思います)
登録手続きをしました
一度だけ二次検査まで行ったのですが
その時は、より適合する人が見つかって、その先には進みませんでした
そしてリブログした2016年には、目標を超えて46万人の登録がなされているのですが
献血同様、最近では若い人の登録者が減ってきているので
わたしも55歳でドナーからは卒業したように
ダンダンと登録人数が減少しています
献血そして骨髄は、ある期間が経てば再生して元に戻ります
今の自分の健康を感謝し
今は預託の概念はなくなりましたが
それでもいつか自分が
と言うよりも自分の愛する人が必要になった時に
欲しいと思うのなら
誰かに助けてほしいと思うのなら
自分が、誰かの助け人になりませんか?
ちなみにHRTやっていたら絶対献血は出来ない、と言うことではないですからね!
黄体系のホルモン剤を接取している時は出来ません
あくまでも卵胞系のホルモンのみを接取しているのが条件になります
またこれはホルモン剤が、と言うことではなく
注射後30日は空けて、と言うことです
多くの場合接取サイクルは月間と言うよりも週間サイクルなので
4週間28日ではダメか、と確認したのですが、回答としては30日でした(^O^;)
このあたりは本当に科学的計量的な指示なのかは、私としては疑問ですが・・・
と言うことで
わたしの場合最終的にはHRTは卵胞系のパッチ剤である
「エストラーナテープ」のみにしたので
HRTのことは気にせずに、献血をしていました
このことは過去記事にもしていますが
この条件は多くのMTFの方には厳しい条件のような気がしますが
もし条件をクリアできる方がいらしたら、ぜひ考えていただけたら、と思います
そして別の視点で、わたしは臓器提供の意思表示もしていました
ただこれは、先日の医大への献体登録で、できなくなりました(^O^;)
これでもうわたしには、息の絶えるときまで献ずるものは何もないですが
できるだけ長い期間生きて
トランスした人の、そうでない人と変わらない人生を綴っていきますか・・・