センテンスサワー -30ページ目

センテンスサワー

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「笑いの神は死んだ」と笑いを愛する哲学者がいたならば、そんな言葉を残すと僕は思う。昨今のバラエティ番組をみていると、そう感じざるおえず、とてもさみしく感じてしまうこともある。それでも、神は死んでいたとしても、昨今のバラエティ番組の質は高く、神が存在しなくても成り立っていることも事実である。

それでは、「笑いの神が死んだ」とはどういうことか。そもそも本当に笑いの神は存在しているのか。ちなみにここでの笑いの神とは、偶発的にアクシデントが発生した時に爆笑が起こる現象のことを指すものではなく(「笑いの神が降りる」と表現することもあるが)、また別の神のことである。ここでの笑いの神とは、超越的存在者である信者を引き連れた某お笑い芸人のことである。



本題に入る前に少し重要な話をしておきたいと思う。個人的な見解だが、お笑い芸人の価値観はなんとなく宗教的だと感じている。何かを信仰する信者と言い換えてもいいかもしれない。芸人は笑いに絶対的な価値を置き、笑いのためならなんだってできるというのが共通の意識ではないだろうか。例えば、笑いのジャンルに張り芸というものがある。体を張って、危険を顧みず、アクシデントを笑いに変える。どれだけお金を積まれても、やりたくもないようなことであっても、彼らはそれが笑いになるならば、果敢にチャレンジしていくのである。出川哲朗は「笑いのためならば死ねる」と豪語している。これも冗談のように聞こえる人も少なからずいるだろうが、本人としてはマジでリアルなことだと思う。つまり、笑いに昇華することで、救われたと感じるのである。

また、お笑い芸人を目指す人の特徴の一つに、承認欲求に飢えている人が多いと聞いたことがある。コミュニケーションの中でも笑いというのは極めてわかりやすい反応であり、瞬間的に得られることで、承認欲求を満たすのに最適のようだ。実際、お笑い養成所には承認欲求を満足に得られていない人が多いようである。彼らにとって養成所は、現代版駆け込み寺のような役割を果たしているのかもしれない。

社会から包摂されることなく、社会不適合者と烙印を押されてしまった人々にとって、存在を肯定してもらえる数少ない場所でもあるのだろう。不幸を嘆くのではなく、それを真摯に受け止めて、笑いへと昇華することで成立させる。実家が不幸であったり、学校でいじめにあったり、容姿に不具合があったり、不条理な運命に打ちひしがれるのではなく、それを逆手に取って苦難を受け止め、肯定する。それが強力な武器になる世界がお笑いには開かれているのである。



さてさて、そろそろ本題に入ろうと思う。

今回のテーマに即し、最も重要な人物は松本人志だと感じている。彼の作り上げた笑いであったり、その構造を紐解くことで、少しずつ解き明かしていきたいと思っている。

松本人志について簡単に解説しておこうと思うのだが、その必要もなさそうなので端折ることにする。松本人志とは、ダウンタウンとしてごっつええ感じで一時代を築き、出演する数々のバラエティ番組を企画構成していることでも知られている。今なお、お笑い界の頂点に君臨し、昨今では映画監督としても大活躍している。

のだが、最近では、松本人志の評価があまり良くないと感じるのである。特にネット上において、それは著しく感じてしまう。松本人志の出演するバラエティ番組の視聴率を取り上げ、低視聴率を揶揄し、打ち切り間近と騒ぎ立てたり、ツイッターでのつぶやきに対して、「松本人志は終わった」「おもんない」とネタにされるほど。見ていて痛々しく、気持ちのいいものではない。逆に僕のような松本人志を擁護したい側は、松本信者とレッテルを貼られてしまうのである。

そもそも信者ってなんだよ!!と僕は一度立ち止まって、考えてみたい。

松本信者とは、そう名付ける者にとって、松本人志を過大評価し、松本人志の笑いを絶対視している人々のことを指すのだろう。確かに、それはあながち間違ってはいないと思う。ただ認識の問題であり、松本信者になった、ならざるを得なかった背景には、興味深い背景が存在するのである。

とまあ、それを説明するために、松本人志の笑いについて解説したいと思う。そもそも松本人志の笑いの構造は、ヤンキー的であり、またオタク的要素の強いものであり、絶妙なバランスの組み合わせでなりたっているのである。

ヤンキー的な点を上げれば、まずダウンタウンのスタイルの起源は、紳竜の不良漫才が関係している。松本人志いわく、紳竜の漫才には色気があり、それにかっこよさを感じたとのこと。ダウンタウンの漫才が「チンピラの立ち話」と言われる所以はそこにある。

反社会的なキャラクターはご存知のとおり、大衆に迎合することなく、「俺の笑いを理解できないものはセンスが無い」と豪語し、排除することに重きをおく。またお笑い芸人はこうであるべきだと、規律やルールを設けることもヤンキー的な特徴の一つだろう。例えば、「~を絶対しない」と断言することも有名だ。映画監督をしない。ゴルフをしない。など、あげればきりがない。

上記のように、松本人志のカリスマ性があってこそであるが、ファシズム的なやり方に似ている。絶対の服従と、反対者に対する弾圧。またそれが彼を神格化させた要因なのではないだろうか。

松本人志の笑いを肯定し、共感することがステータスだと認識されていた時代もある。一人ごっつのお笑い共通試験は象徴的だが、松本人志が面白いか否か、そこにすべてが委ねられていた。松本人志に認められたい、承認されたい。松本人志は「日本国民の笑いのレベルをあげる」とも語っていた。それが成功したのかどうかわからないが、そのような試みを通して、松本人志の笑いは浸透していったのは確かである。


次いで、松本人志のオタク性について簡単に解説したいと思う。

松本人志の気質はオタク的だと感じているのは、サブカルチャー好きな点があげられる。幼い頃の夢は、漫画家であると語っており、ゲーマーであると自負している。ごっつええ感じのコントでは、着ぐるみを着た独特の世界観のネタが印象的であるが、松本人志が特撮好きであることは有名な話である。

そもそもオタクの定義は明確に定義されていないため、上記だけに限定できないこともあり、今回は単純に「何某かの分野に熱中・没頭している人物」というのも追加しておく。この点に関して言えば、笑いにストイックな点で共感してくれる人もいるのではないだろうか。マニアックな狭い笑いを追求し、一人ごっつの独特の世界観、働くおっさん劇場・人形などの際どい笑い。「頭頭」においては、笑いのない笑いなど、見るものを限定しているとさえ言える。

松本人志が面白いと感じる笑いをとことん追求し、細く狭い道を進んでいるのである。それゆえに松本人志の笑いはシュールで難解だと認識されていると思うが、それは紛れもなく誤解である。松本人志の原風景から成る直感的なイメージを言語化したものが、彼の笑いの根幹をなす部分だと思うが、それを受け取る側は想像力を働かせて、イメージしなければならない。つまり、おもろい絵を思い描かなければならないのだ。一つの解を導くのではなく、シュールを解読するのでもない、ただ想像するだけ。

それができるか否かで、松本人志に対する評価は変わってくるだろう。最悪の場合、ただの意味不明なシュールと勘違いされてしまったりと、とにかくそれをできないものは自動的に排除されることになるのだ。

上記に記したが、視聴者のレベルを引き上げるとは、つまり、笑いのパターンや仕組みを浸透させるだけでなく、イメージすることで笑いに奥行きができる無限の可能性を示そうとしたのである。またこれが難しい作業なのである。相当なテクニックが必要となる。だが、そうと知らずに、松本人志の笑いはシュールであり、それがカッコイイと勘違いした、芸人志願者が、松本信者同様、急増してしまったのである。

実際に、松本人志のような芸風の芸人が増えたのも事実である。僕はそれを二次創作的笑いだと認識している。松本人志のパターンや法則を利用し、そこにそれぞれの原風景から成る笑いを落としこんでいく。たちの悪いことに、それだけでそれっぽく形が出来上がり、それなりのものができてしまったりするのだ。

だが、それが成立するのも、松本人志という存在があり、松本人志の笑いをたくさんの人々が共有しているからだ。その前提があるからこそ、二次創作的笑いであったとしても、それが芸として成立するのである。松本っぽいからおもしろいに違いないと認識されたり、意味不明なシュールな笑いであったとしても、そこに意味があるのではないかと感じられてしまうのだ。

なぜなら、松本人志が笑いの先頭に立ち、その道を突き進んでいくことで、後続の信者芸人たちが希望を持って二次創作的な笑いを創造できたのである。




しかし、それは過去の話で、状況は一変してしまった。なぜならば、笑いの神は死んだのだから。既存の笑いを否定し、独自の世界観を築き上げてきたのだが、それすらも松本人志は否定し始めたのである。

そうなってしまった背景には、テレビの規制が厳しくなったことが関係している。視聴者が何かにつけてクレームを入れることで、テレビで出来る幅が限定されていく。

視聴者がテレビのレベルに合わせていた時代はまだ寛容だったように思う。テレビに憧れを抱き、ライフスタイルの参考にしていた時代もあった。だが、力関係は逆転し、テレビが視聴者のレベルに合わせなくてはならなくなってしまった。

これは最悪。視聴者とは、つまり、大衆のことであり、大衆とは専門性を排除した素人の集まりのことである。つまり、大衆とはバカの集まりとも言える。要するに、松本人志は大衆のレベルに合わせて笑いを作らなければならなくなってしまったのだ。

松本人志の狙いは視聴者のレベルを上げることだったはずだ。しかし、それはどうやら失敗に終わり、最悪の形で伝搬されてしまったと僕は思う。それは、すべり笑いであったり、誰かの失敗を指摘するというツッコミ的な笑いの取り方が浸透したことだ。例えば、舌がもつれた時に「噛んだ」と指摘するのがそれである。これも松本人志がラジオでやり始めたネタである。ボケが増えず、下手くそなツッコミが増える。これが最悪のシナリオだと僕は思っている。

要するに、松本人志に対して信者が幻想を抱けなくなったのではなく、松本人志自身が幻想を抱けなくなったのではないだろうか。

まあ、再帰的になってしまうが、松本信者の僕がこんな文章を書いている時点で「笑いの神は死んだ」のだと思う。

梅雨が終わり、夏が来た。

ぼくにとって、夏は読書の季節であり、暇さえあれば図書館や本屋に出かけることが至福の時。

恋愛小説、ファンタジー、ホラー、SF、純文学、古典など、できるだけ偏らないようにようにしているんだけど、比較的にミステリーを読むことが多い。

ただミステリーといっても一概に言えず、謎を提示するものだけを指すのではなく、多岐にわたって分類できたりする。そして上記のジャンルに含まれていることもある。

とてもややこしいものである。



その中でも、特に気に入っているのは本格ミステリーというジャンルである。

だが問題なのは、この本格ミステリーというものを説明することは非常に難しく、定義できていないといえる。

個人的には綾辻行人のミステリーマップを参考にしているが、その中の定義では、幻想と論理の領域に含まれるものを指すようだ。

小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」や夢野久作の「ドグラ・マグラ」、そして横溝正史の「本陣殺人事件」などがそれにあたる。

彼らが本格ミステリーというジャンルを日本で広めたといえる。

世界初の本格ミステリーは1841年にエドガー・アラン・ポーという作家が「モルグ街の殺人」という作品を世に出している。それも世界初の「密室」というテーマを引っさげて。犯人の意外性においても素晴らしい傑作である。


とまあ、本格ミステリーの説明はこのくらいにして、続いては新本格ミステリーについて解説したいと思う。

てか、本格と新本格って何が違うの?

どっちでもいいじゃん、と思うかもしれないが、これが結構重要なのである。

新本格ミステリーとは綾辻行人や有栖川有栖などなど、本格ミステリーブームを巻き起こした作家の作品を指す。ちょうどバブルが崩壊するか否かの時代である。

新本格ミステリーの立役者は他にもたくさんいて、我孫子武丸、法月綸太郎、歌野晶午、貴志祐介、などなど。彼らのトリックに対する情熱は凄まじさを感じる。

そもそもの発端は、新本格ミステリーブームが再来する数年前に、島田荘司が本格ミステリーの傑作を量産し、それに綾辻行人を筆頭に魅了された。そして、島田荘司が綾辻行人を推薦し、デビューすることになり、その作品が話題を呼び、ブームが到来したのである。

言い換えると、新本格ミステリーは島田荘司なくして語れないのである。彼の「占星術殺人事件」は名作中の名作で、本格ミステリーの到達点なのではないだろうか。

彼に魅了されたことで、数々の新本格ミステリーが生まれたのである。

それでは、新本格ミステリーの特徴を解説しよう。

基本的には本格ミステリーとさほど変わらないが、物理的なトリックよりも、叙述トリックが多いと感じる。映像化不可能な作品も数多くある。

それと、過去の作品を引き合いに出して、本格ミステリーについての解説をしたり、定義付けを作中でしたり、皮肉ったりもしていたりする。

有栖川有栖のシリーズの中に、火村英生という臨床犯罪学者が登場する。彼の考察はとても興味深く、本格ミステリーや本格モノを知る上でとても参考になると思う。

だが、新本格ミステリーの欠点もあり、それは登場人物を描けていないことである。ぼくはそんな風に感じないけど、その点では評判はあまりよくない。

それに本格ミステリーは特殊なものであると割りきって読むのも一つの楽しみ方かもしれない。



とまあ、長々綴ってきましたが、本日はここまで。

てことで、夏はミステリー小説や推理小説について書こうと思います。

以上。

最近、やたらと「タグ付け」という言葉をよく耳にする。

タグ付けとは簡単にいうと目印のことである。

例えば、フェイスブックでは写真をアップロードするとそこに映っている人物を特定するためにタグ付けしたり、ツイッターではハッシュタグがあり特定の話題などを検索するために用いられる。

いわゆる、タグ付けすることで、検索効率をあげたり、容易に特定できたり、差別化できたりするのである。


これはネットだけの話ではなく、日常生活の中でも、僕たちはタグ付けを無意識に行なっていたりする。

言い換えるとレッテル貼りのようなものである。

学校の友達、会社の同僚、身内、知り合いなど、漠然とカテゴリー分けするのではなく、その人物を単純化したり、キャラクター化するのである。

例えば小学校なら、足の速い人とか、サッカー部の人とか、面白い人とか、貧乏な人とか、頭がいい人とか、クラスで一番可愛い子とか、いじめられている人とか、そんな感じで差別化する。

そうすることで、人間は未知なるものへの恐怖から開放され、安心感を得ることができるそうだ。



過去のブログで「公」と「私」について書いたけど、以前は所属するコミュニティ(集落、部落)がその役割を果たしていただろう。

だが時代は移り変わり、個が自立し、キャラクター化していくことが必要と迫られているのである。

そしてそれは芸人にも言えることである。いや、これからの芸人にはとても重要なことで、タグ付けすることが求められ、生き残るには必要になるのだろう。

これまではキャラクター化することが潮流だったといえる。エンタの神様などで、キャラクター芸人がフィーチャーされ、芸人にとって売れるための条件となった。短い時間にどれだけインパクトが残せるかがすべてであった。ただそのぶん消費されやすく、一発屋芸人が生まれやすくなってしまったのである。


だが、これからは違う。

これからの時代はタグ付けすることで、キャラクター化だけでなく、プラスアルファーな何かが求められる時代なのである。

とはいいつつ、以前からアメトーークなどの番組があり、「~芸人」というものは存在した。ジョジョ芸人、熟女芸人、人見知り芸人など。

その中でも家電芸人は「タグ付け芸人」を説明する上で、わかり易い例である。家電が好きな芸人が新しい家電を番組内で紹介することで、視聴者(消費者)から反響があり、売上に貢献するのである。そして家電芸人には家電関連の仕事が増え、ウィンウィンの関係が成立ということである。



そして今回取り上げたい芸人は、炎上芸人でもある南海キャンディーズの山里である。彼は趣味を仕事へとつなげることが長けていて、パイオニアであり、成功者だろう。

彼はいち早くAKBに可能性を見出し、ファンであることを公言した。言うまでもないが、AKBは一時代を築きあげ、そしてAKB関連の仕事は彼のものになった。

現在では、モモノフ(ももいろクローバーZのファン)と公言し、あまちゃんの大ファンだとも語っている。

いやはや恐れ入りますとしか言えない。


仕事を得るためには、芸人であったとしても、芸だけでは通用しない時代になったのである。そのためにはある意味妥協も必要なのかもしれないし、なにもかも芸として引きずり込まなければならないのである。

そのためには犠牲も必要なのである。「芸のためなら女房も捨てる~♪」的な歌もありますが、それを実践している芸人もいる。

何を隠そう明石家さんまである。

離婚タグ、大竹しのぶタグ、いまるタグなど、どぎついタグだらけである。

そのタグを利用し、笑いへと昇華できるのは類まれない才能があってこそだろう。

やっぱりタグは必要なんだよな~。



最初の方にも記したけど、一般人にもタグは必要不可欠なものとなった。

そしてどのタグを選択するかで、その人の人生にも影響してしまう。

てか、気づかぬうちに変なタグを貼られてしまうかもしれない。

いわゆるレッテルというやつです。

そしていじめられちゃうかもね。

それはそれで仕方のないことだけど、有吉弘行のように変なタグ(ヒッチハイク)を付けられてしまい地獄を経験した後、それを乗り越えて大成功する人もいるから、あきらめちゃいけない。

ということで、いろんな人にタグ付けして、楽しく生きていきましょう。

以上。