手蝶
花と蝶の関係は歌にもなり、大昔に森進一が歌っていた。
3番までの花と蝶関連の歌詞を抜粋すれば・・
花が女か 男が蝶か
花が散る時 蝶が死ぬ
花が咲くとき 蝶が飛ぶ
蝶が死ぬとき 花が散る
春を競って あでやかに
どちらも どちらも 命を賭ける
花の命は短いけれど 蝶の命もはかなくて
花が散る時 蝶が死ぬ
そんな恋する 二人になりたい
最初と最後の一行は余分だが・・まあ歌だから仕方ないだろう。
花と蝶の関係しかなければヒットしなかっただろうな。
男も女も同じ人間、熱愛を自然界ではまったく異なる種の花と蝶にたとえればこうなるのだろうが、うまい事言うものだな。
デリカシーも詩的センスもないお野人には到底書けない。
そこまで人間の相思相愛にたとえられた花と蝶の関係。
何かおかしいとは思わないかな。
野人はおかしいと思い、何時頃かは覚えていないが探求の対象になった。
また、江戸時代後期、良寛和尚は次のような漢詩を残した
花無心招蝶 花は蝶を招くに心無く
蝶無心尋花 蝶は花を尋ねるに心無し
花開時蝶来 花開く時 蝶来たり
蝶来時花開 蝶来たる時 花開く
吾亦不知人 吾もまた 人を知らず
人亦不知吾 人もまた 吾を知らず
不知従帝則 知らずとも 帝則に従う
花は蝶を招こうとして咲いているのではなく
蝶に花を訪ねようという心があるのでもない。
花が咲くと蝶が飛んできて、
蝶が飛んでくる時に花が咲いている。
私は他人を知らないし、
他人もまた私のことを知らない。
互いに知らないながら、自然の道理に従って生きている。
これもまたなかなかよい詩、デリカシーのないお野人も感服。
歌は花と蝶の密着した関係を鋭く表現しているし、漢詩は難しいことは抜きにして大らかに自然界と無の境地を説いている。
漢詩の・・
「花は蝶を招くに心無く 蝶は花を尋ねるに心無し」
これもまた深い・・
考えて行動するのではなく「本能に従ってそうしている」
良寛さんはそのように言っているのだ。
歌にしろ、この漢詩にしろ、自然界の完璧な仕組みを示していると考えられないかな。
学問でも当たり前のことなのだが、「そのようになっている」で終わっている。
野人が・・「何でそうなるんだ」と追及しても・・
「そうなっているの」・・でチョンだな。
自然界から物理的仕組みを引き出し、これほどの科学文明を築き上げた人類にしてはややお粗末過ぎないかな。
それとも偶然そうなったのだから仕方ないとあきらめているのか・・
蝶と花、そして地球上の多くの昆虫と植物族の意思疎通があったから成し遂げられたのであり、蝶と花の関係同様に密接な関係は数えきれない程ある。
全て偶然か、神様の努力の成果なのかはっきりさせんとな・・
人間のような優れた脳を持たないのだからそんな精密な打ち合わせなど・・と見下しては失礼ではないか。
彼らは人間のように失敗を繰り返すことなく完璧にやり遂げているのだから。
蜘蛛の巣、ハチの巣、鳥の巣、人間にあんな素晴らしい芸術作品が出来るかな。
彼らの知性を見下すのではなく、彼らと同じ土俵に立たなければ理解出来ないだろう。
野人が、生物学はじめ関係する学問をすべて捨て去ったのはそれが理由であり、鋭い視点のこの歌の作詞家、自然の流れに逆らわずゆったりと生きた良寛さん、どちらも素晴らしい。
野人の心は水流哲学、知性は森羅万象の探求、探求の明確な目的は人間の過ちの習性と環境復元。
教わる人は何処にもいないが、そのほうが大草原の二階建ての大きな家のように見晴らしがよくていいな。
楽しく読めたら クリック を・・