草葉の陰の小宇宙・・意味深な言葉だが、草葉の陰に入りたいわけではない。
足元の小宇宙という言葉があるが、足元には未知の世界が広がっている。
地球に生きれば足元には色んなものがあり、自身を支えてくれている。
今はアスファルトや床や畳が圧倒的だが、あらためて何も感じる人はいない。
当然のようだが、素晴らしいことだとは思わないかな。
支えてくれているから自分の存在があり、生きることが出来るのだ。
動物達と違って外では履物、家ではスリッパを使う人間はその有難さを忘れてしまったように思える。
時には裸足で大地を歩き、地球を感じることも必要だろう。
真夏にアスファルトを裸足で歩けば足裏を火傷する。
最も心地よいのは海岸の砂浜や河原や草むらだろう。
砂浜は海を感じ、河原は川の水を感じ、草むらは大地を感じる。 どれも生命を感じるのだ。
地球上の生命はすべて生命の情報の循環の中で生きている。
多くの間違いが人類に災いをもたらしている。
足元の草むらには生命が詰まっている。
足元の生命の仕組みすら解明出来ない人類。
解明出来ないのは見ようとしないからではないのか。
人は何を見て生きようとしているのだろうか。
好きなことをやって生きるのも自由だが、それで自由に生きられるのだろうか。
人間社会はそのようになっているのか・・
幼少から足元を見続けて生きて来た野人にはそのようには思えない。 人間自身が作ったバブルを追いかけているように思える。
無趣味人間の野人は自由が一番心地よいが、好きなことをして生きたいと思ったことは一度もない。
子供の頃から偉人や、職業や暮らしを手本に、そうなりたいと思ったこともない。
生き方は決まっていたが、バブルに関心はなかった。
昔も今も足元を見続けている。
海も川もよいが、必要なのは草むらだ。
生命の解明に生涯を費やしていると言っても過言ではない。 必要だからやるのであり自分の為でもない。
今は草むらが好きになり始めている。
葉っぱは好んで食べないが、生命の営みが好きなのだ。
この生命の循環が解明出来れば人間は変わるだろう。
すべての生き物が地球で仲良く暮らせるだろう。
飢えることなく、病むことなく、悩み苦しむことなく・・ そんな未来への道を切り開きたい。
このブログを始めたのは2008年の3月7日、その1週間後の記事に「草を知り草を活かす共生農法」があった。 協生ではなく共生と言う言葉を使っている。
農法の名は適当で原人が来るまでは、ピラミッド農法とか野人農法とか物理農法とか言っていた頃だ。
読み直したが、改行もなく愛想のない細かい文字がビッシリ。 本一冊分の農法理論が完成、一時保存の為に無造作に連日5編も載せていた時期だ。
しかし、大地と共に、草むらとともに生きようとする野人の思いが詰まっていた。
思いだけで事は成せない。
確固たる理論とそれを支持する多くの人なしでは世に出ない。
出してくれた多くの人達、読者の皆様に感謝しています。
人は雑草に手を焼き、農業や暮らしは雑草との戦い。
天変地異と同じで制しきれるものではない。
言葉を返せば、歯が立たない程凄いと言うことではないのか。 何故雑草と呼んで見下すのか。
その凄い力を何故謙虚な姿勢で解明しないのか、活かそうとしないのか・・
誕生と消滅を司る表土の持つ大いなる力に歯が立つ生き物など地球にはいない。
草を知り草を活かす共生農法
https://ameblo.jp/muu8/entry-10080155000.html