草を知り草を活かす共生農法 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

野草愛好家はともかく、農業において草は「雑草」と称され目の敵にされている。つまり名前で呼ばれず、ひとくくりにされた一言で片付けられる存在だ。マルチや窒素肥料としても使われるが大半は捨てられる運命にある。また、除草剤をかけられて生存そのものも否定されている。草はそんな余計なものなのだろうか。余計なものなど大地には存在しない。草は微生物と並ぶ土作りの最大の功労者だ。それを虫と鳥がサポートする。微生物はエサがなければ活動出来ない。草も虫も鳥の糞も微生物のエサになり土に戻ってまた草が育つ養分になる。直接土を耕すのは草だ。草と言うより「草の根」が土を耕している。草には一年草と二年草と多年草があり、多年草以外は地上部も根も枯れてしまう。根は土中で微生物に分解されて窒素肥料となり、その空間は通気性をよくしている。つまり耕起と施肥を同時にやっているようなものだ。また表土を安定させ、うねを崩さず、夏は紫外線から微生物を保護し、半日陰を好む野菜には適度な日陰を提供している。多年草や、背丈が高くなり葉が広がる一年草などは遠慮してもらい、後は放っておけば良い。野菜が負けそうなら上の邪魔な部分だけ適当にはねれば良い。マメ科の草は根に窒素を溜めるから大歓迎だ。背丈も高くならないものが多い。

収穫する野菜と同量の草が生えて自動的に畑に戻れば養分のバランスが取りやすく、肥料を持ち込まずに済むからこんな有難いものはない。冬は収穫野菜のわりには草が少ないから、草が繁る夏場は養分補給の季節と考えれば良い。冬場、枯れた一年草の根元を引き抜くと簡単に抜ける。土はふかふかで、指先で簡単に掘れる。草の根が土を耕していることは間違いない。逆に、多年草が占領した土は根がはびこり野菜が入り込む余地がない。草むらや芝生に種をまいてみればわかるが発芽出来る場所はまばらだ。草を知れば、抜く草、放置する草の判別が出来る。どうやっても必ず草は生えてくるものだ。草よりも先に野菜で表土を覆えば草は成長が遅くなり、また草の変わりに山菜や有用植物を増やせばその分手間は減る。草は困ることよりも役に立つことのほうが圧倒的に多い。ピラミッド農法は草を大切にするが放任栽培ではない。草を抜かず放任すればやがて成るようにしかならず野菜は負けてしまう。強い多年草が勢力を増せば畑は占領され、また一から耕さないと野菜の環境は整わない。笹やセイタカアワダチソウが来れば知らん振りも出来ない。趣味の範囲であればどんな形でも自然の恵みをいただく姿勢で構わないのだが、農業として成り立たせ、かつ危機的な自然環境を復元するには人としての知恵を駆使するしかない。それには自然農法と言うより「自然との共生農法」で、かつ近代農法の何倍もの収穫が可能な農業を確立することだろう。草を目の敵にするのでもなく、草に任せるのでもなく、野菜と草の特性を知り、双方のバランスを取りながら最小限の力で最大限の効果を出す物理的な栽培、これが人間の進む方向で、これからの農業のあり方だと思っている。