葉野菜は若いほうが美味しい | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

消費者は野菜のイメージを無意識に決めてしまい、当たり前のように「鮮度悪そうだ」とか「貧相だ・・」とか一般的な常識を購入の判断しているようだ。一様に綺麗な野菜がどれほど不自然か、野菜、植物の本質まで勉強して買い物をする消費者は少なく、自分の感性、特に美的感覚が判断の基準になっている。そして、ホウレンソウもレタスも大根も、長い時間をかけて野菜のサイズや色のイメージが出来上がってしまった。果たして本当にそれが美味しい野菜なのだろうか。

山菜の季節・・山菜はどんな状態を食べるだろう。山菜は若芽を食べるのが当然と言うことは誰もが知っている。大きくなると硬くなり苦くて動物も食べない。木の実や果実は完熟しないと鳥も食べない、これも当たり前だ。葉は若いほど美味しく、実は熟すほど美味しい。それなのに同じ植物の野菜だけ、何故大きくて立派な葉っぱを食べるのだろうか。鹿などの動物も鳥も皆新芽を食べる。人類に近い猿も新芽しか食べない。新芽は美味しくて食べやすいだけでなく生命エネルギーが溢れている。食料と考えれば目方があるほうが得には違いない。果物は流通の仕組みから、完熟前の実を出荷せざるを得ないのは理解出来るが、野菜はまったくその必要がないはずだ。食糧難を乗り越え、健康と味を重視する時代になっても、何故そんな生命力溢れる本来のみずみずしい「野菜」が出回らないのだろうか。魚も、イワシを例に取ってもわかるように、シラス、煮干、イワシと、人はそれぞれの良さを昔から暮らしに取り入れている。大きくなって食べる魚と違い、野菜はそれが本来の「食」の姿ではないだろうか。農家にしてみれば、消費者の嗜好がそちらへ向かったらどれだけ助かるか。大きくするための労力、経費、除草、虫退治を考えたら何倍も楽だ。種をまくだけで、立派にする為の肥料も必要なく、草に負ける前に収穫も出来る。そうして出来た若い野菜は驚くほど甘くて美味しい。余計なことをしないだけ地球環境にも良いはずだ。高齢化した農家も随分助かる。

今は昔と違ってサイズまで揃えている。規格外の野菜はどうなるのだろうか、食糧難の国から見ればもったいない話だ。大きくても美味しく食べられる野菜を生み出したのは人類の知恵で、食糧不足を補った偉業であることには違いない。安くて大きな野菜は大家族の家計を助けている。ただ一人暮らしにとって、あの大根や白菜はデカ過ぎる。重たいし水っぽい、大根おろしにすると半分は水だ。特に若い女性にとって、あのハミ出るような大根を電車で持ち帰るのは恥ずかしいことだろう。いつも冷蔵庫で腐らせてしまい野菜に申し訳ないと思っていた。みかんは、農家でも一番小さなサイズを買って食べている。一つの枝の養分の供給はそれほど変わらない、だから味は小さいほうが濃厚だ。消費者はもっと農作物の一番美味しい時期を知り、そんな野菜を農家に要求して欲しいと思っている。季節外れの野菜が手に入るようになったことは悪くはない。立派な野菜、色艶の綺麗な野菜、美味しい野菜、素朴で健康な野菜、どれも大切で、目的に合わせて選べるようになれば今よりは間違いなく環境は良くなる。それが個人にも出来る些細なことではないだろうか。それに、スーパーに毎日同じものばかりが並んでいるのはあまりにも季節感もセンスもなくて無粋だ。