煩悩とは煩わせ悩ませるから煩悩。
大晦日の除夜の鐘を百八つ突くのは108の煩悩を振り払う為だが、一向に振り払えないので毎年のように鐘がなっている。
小学校低学年の時に1度だけ深夜から年明けにかけて初詣したが、それからは一度も言ったことがなく、年越しも除夜の鐘もお野人とは無縁、大晦日も元旦も同じ一日として過ごしてきた。
年賀状も20年ほど書いたことがない。
煩悩の中でも3大煩悩と呼ばれるのは「欲の心」「怒りの心」「愚痴・ねたみの心」、それらの心が自らを苦しめると言うが、これもお野人とは無縁で、心から怒りが湧いたことや人を羨んだことは一度もないし愚痴も経験がない。
愚痴からは何も生まれず、怒れば自分で自分が怖いから怒っても腹3分で抑えられた。 我慢するのではなく、それ以上怒りが成長しないのだ。
相手の心を思えば当然であり、可哀そうになってしまう。
仏教では人は煩悩の塊であり、元々煩悩で出来ているのだから消す方法はないらしい・・
煩悩は消すことが出来ないが、煩悩ではない苦悩の根元の心をなくせば、煩悩あるがままで絶対の幸福になれると言う。 それを悟りと言うのかどうかそこまで詳しくはないがお野人には無理だな、本能はあっても煩悩なんてまったくないし。
野人物理で考えれば本末転倒のような気もするが、そんな苦行しなくとも何とかなるのではないかな。
煩悩が大好きな人はともかく、嫌な人は単純に煩悩を消す、あるいは激減させる方法を考えた方がよいのではななかろうか。
昔から煩悩なんてものがあったのか・・
石器時代っていったいどんな煩悩なのかな。
人間を悩ませる煩悩は人間社会の理性から生まれたと野人は考えている。
社会生活には当然規則やモラルがなければまとまらず崩壊してしまう。
そこまでは平等だが、努力次第で持つ者持たない者、財産の差が出てくる。
もっともっと金もっと~と上を目指し、下になれば妬みも生まれ、上手く行かなければ怒りも八つ当たりも生まれる。
それは現在まで引き継がれ、世界中で幼児期からお特訓がなされている。
家族、部族単位の気ままな狩猟採取から追われる時代に移行。
人口が増え過ぎた現在、今更昔には戻れず、食べ物以外に欲しいものが山ほど増えればこの仕組みの中で生きるしか術はなくなってしまった。
仏教が広まった時代には既に社会が出来上がっているのだから、煩悩は当然であり消すことが出来ないと判断したのだろうが、果たしてそうなのか。
人間社会の理性とは社会の決まりやルールと考えればよい。
会社員・自営を問わず社会で生きることに変わりない。
人間社会の理性にはもう一つの利性が付きまとう。
これが人間の欲のタネであり分かち合いの心を蝕む。
ここに地球の理と理性を加えればどのようになるのか。
昨日の記事
魂は磨くものではなく、地球の理に逆らわず生きていれば誰でも磨かれる。
理性は磨くものであり、磨こうとしなければ磨かれない。
地球の理、森羅万象の理を正確に理解すれば生命の仕組みも間違えず、食べ物を間違えることもなく病不調に苦しむこともない。
個人差もあるだろうが我欲も消え去ることが多い。
地球の理と人間社会の理の2つの理性、それを間違えなければそれらとは無縁。
魂など磨こうとせずとも必然的に磨かれる。
社会に依存せず一人でも生きて行ける術を身に付ければどちらの世界にも自由に行き来出来、煩悩とも決別出来るだろう。
野人は仏教の悟りとは無縁だが煩悩などない。
地球の理と理性、極めた人はいるのかな。
地球に住めば当然だと思うのだが・・
そのような人はいないし、それを説く学問も書籍もないからこうして書き続けている。
心の苦行をして悟りを開くよりこのほうが楽で、誰でも平等に可能性が開けている。
https://ameblo.jp/muu8/entry-11736790191.html
渦を巻いて山中に吸い込まれる龍雲達
その場所を示し続ける道標の虹玉
神秘十字線
https://ameblo.jp/muu8/entry-12262960491.html
お手・・って?
リンポチェさん
老猫の行方
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